判 決 を 読 む
最近出されたいろんな判決に関して、批判したり、自分なりに考えた問題提起をするコーナーです(最終更新2000年3月9日)。
草加事件(民事)の最高裁判決を読む(最高裁判所第1小法廷2月7日判決)
草加事件とは、埼玉県草加市の残土置き場で、1985年7月に、中学3年生の女子生徒が遺体で発見された事件のことで、その後、14歳から15歳(当時)の少年5人が殺人などの疑いで逮捕され、浦和家庭裁判所での少年審判では、少年たちは非行事実を否認したが、非行事実を認定し、少年たち五人を少年院送致処分とし、その後、抗告を経て、右処分は1989年7月に最高裁で確定していた。
その後、被害者の両親が、1989年1月に、少年たちの親に対して、少年たちの監督責任者の注意義務違反を理由として損害賠償請求の民事訴訟を提起していた。第1審の浦和地方裁判所は1993年3月に、少年たちの捜査段階における自白の信用性を否定して、非行事実を認めた少年審判とは逆の「無罪」の結論を出し、被害者の両親の請求を退けた。第2審である東京高等裁判所は、1994年11月に、第1審の判断を覆して「有罪」とする判決を言い渡していたため、最高裁に上告されていた。
最高裁判所第1小法廷判決は、少年たちの自白は、客観的証拠の裏付けに乏しく、自白内容には変遷が見られ、一部に虚偽供述が含まれていることから、そのような自白の信用性は慎重に判断されなければならないと述べて、自白を裏付ける客観的証拠の有無や、自白と客観的証拠との整合性や、自白の変遷などについて詳細に検討した上で、「少年らの自白にはいわゆる秘密の暴露があるわけではなく、自白を裏付ける客観的証拠もほとんど見られず、かえって自白が真実を述べたものであればあってしかるべきと思われる証拠が発見されていない上、一部とはいえ捜査官の誤導による可能性の高い明らかな虚偽の部分が含まれ、しかも犯行事実の中核的な部分について変遷が見られるという幾多の問題点があるのに、漫然とその信用性を肯定した原審の判断過程には経験則に反する違法がある」と述べて、東京高裁の判決を破棄して差し戻した。
草加事件は、少年(刑事)事件としては、非行事実がある、すなわち、(成人事件であれば)有罪であると判断されて確定していた事件であるが、被害者の遺族が民事裁判を起こしたことから、その民事裁判の場を、事実上「再審」として機能させることを認めることができるかどうかが問題となっていた事件である。
今回の最高裁判決は、上告を申し立てていた元少年たちにとっては、自分たちの「冤罪」が最高裁判所において認められたという点で、長年の苦労が実ったと評価することができるだろう。
そして、何よりも、今回の最高裁判決は、少年(刑事)事件の最終結論と民事裁判の最終結論が異なっても良い、特に、少年(刑事)事件で「有罪」と判断された事件について、民事事件で「無罪」と判断されることを認めたが、それは、民事裁判の場を、少年(刑事)事件の「再審」として機能させることを最高裁判所が承認したという点で画期的な意味があると考えられる。
すなわち、従来、刑事事件と民事事件は一応別であると考えられていたが、民事事件よりも刑事事件の方が厳格な証明が要求されていることから、刑事事件における裁判所の判断の方が厳格な事実認定に基づくものであると考えられてきていた。
ところが、今回の最高裁判決では、この点を逆転させ、少年(刑事)事件における裁判所の判断を、民事事件の裁判の中で覆すことを認めたのである。
しかし、他方で、この判決の内容を見て危惧する点もある。最高裁判決の判断によると、それは、少年事件の審判を担当していた家庭裁判所が事実認定を誤り、少年たちの「冤罪」を正しく判断することができなかったことを意味する。
それは、まさに少年審判における家庭裁判所の事実認定能力がないことを裏付けているのではないかという考えに繋がりやすい。そして、現に、現在国会に上程されている少年法改正案は、まさに現在の家庭裁判所の事実認定能力に欠陥があるという認識に基づいて提案されているのである。
つまり、今回の最高裁判決は、少なくとも、草加事件について、家庭裁判所など少年(刑事)事件における少年審判の事実認定が誤っていたことを示したという意味で、まさに現在国会に上程されている少年法改正を後押ししてしまう可能性がある。
早速、2月8日付け読売新聞朝刊の「よみうり寸評」は、「最高裁が裁判のやり直しを命じた「草加事件」は、もともとの少年審判の事実認定の弱さをあらわにしたものだ。それは、少年審判の仕組みの欠陥のあらわれでもある」、「少年審判の仕組みを直さないと、『草加事件』の悲劇はまた起きるだろう。少年法改正の長年のもたつきには、もううんざりだ。」と述べており、まさにこの危惧を現実のものとしている。
しかし、草加事件の少年(刑事)事件としての問題は、具体的な事件処理における裁判官の能力や予断・偏見の問題であって、それを「制度」の問題であるかのように責任転嫁するのは問題である。また、たまたま被害者の遺族が民事裁判を起こしたことによって、その民事裁判の場が「再審」の機能を果たすことを認めるということは、被害者の遺族が民事裁判を起こすかどうかという偶然によって「再審」が受けられたり、受けられないという結果が異なることになり、それはいかにも不公平とも考えられるが、これは少年事件における「再審」制度があまりにも間口が限定されて制限されているという再審「制度」の欠陥の故に起きる問題なのである。
ところで、上告をしていた元少年たちは、最高裁判所に対して、「破棄差し戻し」ではなく、「破棄自判」を求めていた。それは、東京高裁に差し戻されてしまうとさらに長い時間がかかることが予想されるからだ、草加事件は発生から既に約一五年もの長い時間が経過しており、差し戻された結果、事件の決着が着くまでには更に何年もかかる可能性があり、最高裁判所において、もう少し異なった決着が付けられなかったか疑問が残る。
いずれにしても、今回の草加事件についての最高裁判決を少年法改正に結びつけようという動きに対する警戒が必要である。
(2000年3月5日記)
*この記事は、2000年2月8日に「雑記帳」に書いた記事を元に2月24日に救援連絡センターの機関紙「救援」3月号のために執筆した原稿に一部加筆訂正したものである。
(参考サイト)
判決文自体は、最高裁判所のホームページの「最近の最高裁判決」に掲載されている。
なお、荒木伸怡教授(立教大学)のページに最高裁判決に対する的確なコメントが掲載されている。
http://www.rikkyo.ne.jp/univ/araki/naraki/shirase/soukaindex.htm
「新潮45」少年の実名・顔写真掲載報道訴訟の控訴審判決を読む
1998年1月に大阪府堺市で起きた連続殺傷事件について、新潮社発行の「新潮45」1998年3月号の「ルポルタージュ『幼稚園児』虐殺犯人の起臥」と題する記事が掲載、被疑少年のことを実名・顔写真を掲載し報道した。
この記事につき、その少年が原告となって、少年法61条に基づく「実名で報道されない権利」を侵害したとして、雑誌の発行者である新潮社と記事執筆者に対する損害賠償と謝罪広告を求める訴訟の控訴審判決が、2月28日に大阪高等裁判所で言い渡された。
この事件の第1審の大阪地方裁判所は、1999年6月9日に、新潮社と執筆者に対して金250万円の支払いを命じる判決をしていた(判決文は、田島泰彦・新倉修編『少年事件報道と法−表現の自由と少年の人権』189頁以下に掲載されている)。
これに対して、大阪高等裁判所は、第1審の大阪地裁の判決を取り消し、原告の請求を棄却する判決を言い渡した。
この判決は、まず、実名報道につき、「人格権ないしプライバシーの侵害とは別に、みだりに実名を公開されない人格的利益が法的保護に値する利益として認められるのは、その報道の対象となる当該個人について、社会生活上特別保護されるべき事情がある場合に限られるのであって、そうでない限り、実名報道は違法性のない行為として認容される」と判断し、原則として、実名報道を正当化した。
その上で、少年法61条につき、「少年の健全育成を図るという少年法の目的を達成するという公益目的と少年の社会復帰を容易にし、特別予防の実効性を確保するという刑事政策的配慮に根拠を置く規定であると解すべきである」とし、それ故に、「同条が少年時に罪を犯した少年に対し実名で報道されない権利を付与していると解することはできない」と述べ、少年法61条が罰則を規定していないのは、社会の自主規制に委ねたものであると述べている。
(参考)少年法第61条(記事等の掲載の禁止)
家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。
そして、本件事件は社会的に正当な関心事であり、「少なくとも、凶悪重大な事件において、現行犯逮捕されたような場合には、実名報道も正当として是認される」とし、「本件犯罪事実は…極めて凶悪重大な事犯であり、被控訴人が右犯罪事実について現行犯逮捕されていることと、被控訴人とは何の因縁もないにもかかわらず無惨にも殺傷された被害者側の心情をも考慮すれば、実名報道をしたことが直ちに被控訴人に対する権利侵害とはならない」と述べている。
さらに、「…新聞やテレビ等のマスコミに連日報道されており、口コミで伝えられることも多いと思われるから、少年の居住する地域住民にとっては、本件記事が出る前から被控訴人の実名や本件犯罪事実を知悉している」し、「地域住民以外の一般市民は、本件記事によって被控訴人の実名を知ったと思われるが、仮にそうであるとしても、被控訴人を知らない一般市民が被控訴人の実名を永遠に記憶しているとも思えないし、仮に一部の市民が被控訴人の名前を記憶していたとしても、そのことによって直ちに被控訴人の更生が妨げられることになるとは考え難い」と述べ、「そもそも、本件のように重大な犯罪を犯した被控訴人が社会に復帰した場合に、いかなる生き方をしようとしているのか不明である上、その生き方が真に被控訴人の更生に繋がるものとしても、その場合に本件記事に実名が記載されたことが何ゆえにその更生の妨げになるかについては、被控訴人は何ら主張立証していない」から、そのことをもって損害賠償請求の根拠とすることはできないと判断した。
この裁判は、少年事件において、少年の実名・顔写真を報道された場合に、報道側がプライバシー侵害などの不法行為の責任を負うかどうかについての初めての裁判である。それ故に、少年側の言い分を認めた大阪地裁の第1審判決が出されており、それを受けて、初めての高裁レベルでの判断である。
新潮社と執筆者に対する少年側の請求を棄却した大阪高裁判決について、マスコミ各社は、「新潮社逆転勝訴」と表現して報道した。しかし、「逆転勝訴」は書き手側から見た評価である。少年側から見れば「逆転敗訴」と表現されるべきものである。しかし、マスコミは、同じ「書き手」としてこの判決を捉えたために「逆転勝訴」と表現したのであろう。これはマスコミが、あくまでも「書き手」の立場に立っていることをよく示している。
まず、私は、この判決に対して、共同通信社の取材を受けて、以下のようなコメントを出しているので、参考までに紹介しておこう。
「訴訟では少年の匿名報道を定めた少年法61条と表現の自由をめぐる論争になったようだ。確かに一審は61条に権利としての性質を認めすぎている感もあり、控訴審判決はその反動もあったのだろうが、具体的な記事の内容から判断すべきだ。問題のルポ自体は悪い記事ではないと思うが、実名や写真がなくてもまったく支障のない内容。あえて実名などを出したことに、センセーショナリズムや商業主義が見て取れる。少年は成人に比べ、社会復帰を重視し手厚く保護する考え方が法で規定されていることからも、成人とは違う基準で名誉毀損を考える余地があると思う。」
(この最後の部分は「名誉毀損」よりも「プライバシー」の方が正確である。)
今回の大阪高裁判決については、実名や顔写真を報道することが、「社会の正当な関心事」になる場合がありうると述べている点に最大の違和感を感じる。
この点につき、大阪高裁判決は、「犯罪報道における被疑者等の特定は、犯罪ニュースの基本的要素であって犯罪事実と並んで重要な関心事である」と述べている。しかし、一般読者にとって、どこの誰かは果たしてそんなに重要な「関心事」なのだろうか。
かつて、日高六郎氏は、犯罪報道について、「本人にとっては死活の重大事で、彼と無関係の一般読者にとっては、十秒間の好奇心を満足させるだけのニュースをなぜ報じるのか」と述べたと言われており、浅野健一氏は、加害者の実名は「5秒間の興味の対象」と述べている(浅野健一『犯罪報道の犯罪』講談社文庫版147頁、同『犯罪報道と警察』三一新書74頁)。
被疑者と関係のない大部分の市民にとっては、被疑者の氏名は一種の「記号」でしかなく、何の意味もない。そのような実名や顔写真が「社会の正当な関心事」の対象となるというのはどうしても理解しがたい。
先に引用したコメントでも述べたが、「新潮45」のルポルタージュの内容それ自体は、少年の実名や顔写真を必然とするものではない。実は、この点は、大阪高裁判決も認めているのである。すなわち、「本件記事において、実名によって被控訴人と特定する表現がなかったとしても、その記事内容の価値に変化が生じるものとは思われず、控訴人が本件記事のあとがきで述べるように、本件記事の本質が隠されてしまうものとも考えられない」と。
そうであるならば、実名や顔写真を掲載することは「社会の正当な関心事」はないと考えるのが筋であるように思われる。しかし、大阪高裁判決は正反対の結論を導いてしまっている。
それは、大阪高裁が、実名で報道されることによって、その本人だけでなく、その親族も含めて、どれだけ大変な報道被害を受けるのか、ということに対する認識が極めて不足していることが起因しているように思われる。それは、例えば、大阪高裁判決が、地域住民はマスコミ報道や「口コミ」で被疑者が誰かを知るし、地域住民以外の読者については、実名報道されても「永遠に」記憶しているものではないなどと述べている点にそれがよく現れている。
さらに、被害者感情にも言及して実名報道を正当化しようとしている点に至っては全く筋違いの理屈とか思えない。これは、被害者のためにマスコミによる「社会的制裁」(法的な制裁ではないという意味では私的制裁=リンチにほかならない)を認めようとする考え方であり、極めて危険な考え方と思う。
もっとも、少年について、「実名報道されない利益ないし権利」があるという少年側の主張が大阪高裁を説得できなかったことは確かである。そういう意味では、この種の問題について初め提起した裁判であるということもあって、少年側の理論武装が不十分であったのかもしれない。
私としては、少年法61条だけに根拠を求めることには限界があると思う。大阪高裁判決が述べている点は必ずしもありえない解釈ではないし、むしろ従来の解釈の流れに沿っていると言える。
ただ、大阪高裁判決が、少年法61条が自主規制に委ねているから、法的規制をすべきではないと述べている点については、実際には自主規制が全く実効的でない現状からすれ(報道評議会などの自主的なメディア責任制度ができていない現状において、という意味である)、自主規制による保護など画餅に過ぎないという点の認識が不足していると思われる。
もっとも、最近では、少年法61条のように、少年事件につき、一律・全面的な報道禁止を規定しているのは憲法違反であるという主張すらなされるに至っている(松井茂記「少年事件と報道の自由」民商法雑誌120号2号189頁以下)。新潮社もこの裁判では、少年法61条が憲法違反であるという主張を全面的に展開していた。大阪高裁は、少年側の主張を退けて、新潮社側の主張を容れたことから、少年法61条が憲法違反か否かの判断は示されずに終わったが、この事件が最高裁に上告されれば、その点の初めての判断がなされることになるかもしれない。
上告する場合には。少年について実名報道することが、どのような被害を現実にもたらすのか、どのように少年の更生の妨げになるのかについて、より突っ込んだ議論が必要になるかもしれない。
さらに、成人の場合に、実名報道をされない利益ないし権利が認められるのか、それは成人と少年の場合とで異なるのか、などについて、より議論が深められることを期待するとともに、この大阪高裁判決が確定しないで上告され、よりよい判決が出されることを期待したい。
(2000年3月3日記)
<参考サイト>(3月9日追加)
大住良太さんの「メディアの辺境地帯」に詳しい判決批判が掲載されており、参考になります。
☆「新潮45」少年の実名・顔写真掲載記事訴訟・控訴審判決は憲法違反だ(2000.3.6)
http://www.aurora.dti.ne.jp/~osumi/hrmedia/shonen.html