映画を通して文化と法律を観る
法律と何らか関係のあるテーマの映画を観た感想を書き綴るコーナーです(最終更新2001年2月20日)。
ボーイズ・ドント・クライ
(監督・キンバリー・ピアース、主演ヒラリー・スワンク、1999年、アメリカ映画)
性同一性障害のために、本来は男性であるはずなのに女性の肉体を持った青年が、ある女性に恋をするが、やがて女性があることが周囲に分かってしまったことから、保守的な地域のため、みんなから「化け物」扱いされ、最後には悲劇的な結末を迎えてしまうという実話を映画化した作品である。
1993年、アメリカのネブラスカ州のある田舎町から、主人公である20歳のブランドン(ヒラリー・スワンク)は、ジーンズとカウボーイ・ハットという少年のようないでたちで、フォールズ・シティに向かった。
フォールズ・シティでは、不良仲間たちと知り合い、男性として仲間に受け入れられた。そして、その中にいたラナという女性と恋に落ちた。
ところが、ブランドンは、以前に車を盗んだ容疑で裁判所に召還され際に、女性用の留置場に入れられる。面会に来たラナには、自分が性同一性障害であることを打ち明けた。ラナはそのことを理解してくれ、それでも2人の愛に変わりがないことを確認しあった。
ところが、一緒にいた不良仲間たちが、ブランドンが女性があったことを知るや、化け物扱い、変態扱いするようになり、ブランドンが女性であることを思い知らせるために彼をレイプしたりもする。
ブランドンとラナは、その街から「駆け落ち」をして逃げだそうとするが、レイプ犯として取調べを受けるがすぐに釈放された不良仲間たちに見つかり、最後は銃で撃たれて2人とも殺されてしまうのだ。
性同一性障害という言葉は、比較的最近になってよく見るようになったが、かなり以前から実際にはあったようだ。しかし、それを表に出て言えるようになったのはごく最近のことらしい(日本でも、吉永みち子『性同一性障害』集英社新書が出るなど、かなり一般人にも理解が広まりつつあるようである)。
この映画では、アメリカでも特に保守的な地域で、性同一性障害ということによって差別される1人の人間の姿を描いている。
しかも、そういう彼を差別するのは、やはり社会の底辺層で貧しく生き、むしろ社会的弱者として差別されている者たちだという点である。社会から差別されている者が、他方では、やはり社会から差別される者を差別してしまうという皮肉な構造である。この作品が、一見救いようがないという印象を与えるのは、この部分であった。
しかし、彼は、当初は自分が性同一性障害であることを人に知られまいと必死に隠そうとしていたのに対して、途中から、自分が性同一性障害であることをむしろ積極的に明らかにして正々堂々と生きていきたいと考えるようになる。その結果、最後には最悪の結果を迎えてしまうが、性同一性障害を持って生きるということが、殺されてしまう程、社会の中で差別され、排除されているという現実の重さを痛感させられた。そのような現実の中でも、自分が性同一性障害であることをカミングアウトし、気高く生きていこうとするブランドンの意思の一貫性が、映画を見た後に、ある種の爽快感というか、将来への希望を感じさせてくれた。
いずれにしても、私たちに対して、問題提起をする衝撃的な作品であることは確かである。
(2001年2月20日記)
ザ・ハリケーン
(監督・ノーマン・ジェイソン、主演・デンゼル・ワシントン、1999年、アメリカ映画、ギャガ・ヒューマックス、東宝東和共同配給)
無実のチャンピオン・ボクサーが、冤罪の殺人事件で終身刑を宣告され、最終的に再審が認められて釈放されるまでに30年かかったという実話を映画化した作品である。
黒人ルービン・カーター(そのあだ名がハリケーンという。それが映画のタイトルにもなっている)が、ウェルター級のチャンピオンになって3年後、彼の故郷の街の酒場で3人の男女が殺されるという事件が発生。黒人に対する強い偏見を持つ刑事が、彼を逮捕して陪審裁判にかけ、殺人で有罪判決を受け終身刑を宣告された。
刑務所に送られた後も囚人服の着用を拒み、房内で自伝を執筆して出版したところ、大きな反響があり、ボブ・ディランやモハメッド・アリなどが釈放運動に立ち上がって世論を盛り上げた。しかし、その後、彼の再審請求は却下されて絶望の淵に立たされる。やがて支援者も雲散霧消し、妻とも離婚して、外部との連絡を一切絶って、何も考えずに「生ける屍」のような生活を送るようになった。
そのころ、レズラ・マーティンという黒人の少年が、古本市で、偶然にカーターの自伝を発見し、その本を読んで強く心を打たれた少年は、カーターと文通を始めるようになる。やがて、少年は刑務所でカーターと面会し、冤罪を晴らすことを誓うようになる。レズラを引き取っていたカナダ人グループも、カーターの冤罪を晴らすことに協力してくれることになり、もう一度事件を追っていく内に、証拠が改ざんされたり、捏造されていることが発見される。
カーターは、次の再審を最後にしようと、最後の賭けに出る。有罪を出した州の裁判所では公正な裁判は望めないと考えて、いきなり連邦裁判所に再審請求をし、改ざん、捏造の証拠を提出する。そして、その再審が認められて、30年間もの間投獄されていたカーターは奇跡の生還を果たすというストーリーである。
この映画では、刑事裁判においては先進国と思われているアメリカでも冤罪があること、そしてその冤罪を晴らすために、実に30年もの時間を使わなければならなかったという事件が存在したということを教えてくれる。
しかも、その冤罪の根っこには、刑事による黒人差別による偏見があり、そのために、証拠の改ざんや捏造までされて、1人の無実の黒人が罪に陥れられたという事実がある。
この映画はその意味では、決して日本とは何の関係もない話ではないのだ。日本でも、黒人差別ほどではないにせよ、これまでの冤罪事件では、全て社会的な弱者がターゲットにされてきた。部落出身者や精神障害者や、ちゃんとした定職に就いていない者など、社会から差別されている社会的弱者が常に冤罪の場合のターゲットになっているのである。そして、日本でも、死刑判決が再審によって無罪になった事件では、同じくらいの気が遠くなる程の時間と膨大なエネルギーを使って、ようやく無罪になっているのである。だから、この「ハリケーン」という映画も、決して他人事ではないのである。
また、この映画では、カーターが、黒人少年であるレズラとの出会いによって、一度は完全にあきらめていた再審を、もう1度だけ挑戦しようと決意し、それに向かって必死に闘う姿が丁寧に描かれている。この映画の中で感動的であると感じたのは、まさにこの部分であった。
人生における誰かとの出会いが、その人生を変えてしまうような運命的な出会いというのは、誰にでもある。この映画では、この2人の出会いと絆が、2人の人生をそれぞれに大きく転換していくことを描いている。
日本人から見ると、州裁判所と連邦裁判所との関係や、証拠の提出の問題など(映画の終盤では、それが重要な要素をなしているのであるが)の知識がないために、ストーリーが少し判りづらい点があることは確かではある。しかし、そういう点を抜きにしても、実話であるという本作品の素晴らしさは十分に伝わってくる。
この映画は、法廷もののように見えて、実は人間ドラマであり、不屈の精神を貫いたカーターという人間の人生を描いた壮大な作品であり、私たちが学ぶ点は多い。
(2001年2月20日記)
エリン・ブロコビッチ
(監督・スティーブン・ソダーバーグ、主演・ジュリア・ロバーツ、2000年、コロンビア映画・ユニバーサル映画)
元ミス・ウィチタだったが、離婚歴2回、3人の子持ちで、無学で無職の女性であるエリン・ブロコビッチが主人公の物語である。
主人公は、自分の交通事故をきっかけに知り合った弁護士事務所に無理矢理就職させてもらうが、その事務所が扱っている案件をきっかけに、ある地域の住民が六価クロムによる水質汚染による病気に冒されていることを知る。主人公が、その地域にある工場が六価クロムを排出していることを調査し、やがて、住民たちをまとめて、その工場を持っている大企業に対して損害賠償を請求する。
主人公は、最終的には600人以上の原告団を集め、丁寧に事情聴取をして、住民の信頼を勝ち取っていく。そして、引退間際だった弁護士の尻を叩いて、大企業と戦い、調停によって最終的に3億3300万ドルという全米史上最高の和解金を勝ち取る。その過程を通して、主人公は、何よりも、自分が住民から尊敬を受け、社会的に認められたという精神的な喜びを得たという実話に基づくストーリーである。
公害訴訟をテーマにしているという点では、「シビル・アクション」と非常に似ている。やはり、現在のアメリカでは環境問題が大きな課題になっているということなのだろうか。
この映画では、どん底にいた女性が、やりがいのある仕事に関わるようになって、徐々に自分らしさを取り戻していく再生の過程が丁寧に描かれている。映画は全体的に淡々と描かれており、派手さはない。ただ、主人公のジュリア・ロバーツが、ここ最近の映画とは別人のようであり、この映画の本当の主人公になりきって演じているのが印象的だった。
また、この映画では、弁護士のことが、どちらかというと批判的に描かれている。主人公が勤務する事務所の弁護士も、「弁護士というのは絶対に謝らない人種なのか」と主人公と言われたり、大企業相手の公害訴訟を手がけるのを敬遠して早く引退して老後を過ごしたいと言うシーンが出てくる。この辺りは思わず、実際の弁護士もそうだろうと思わず納得させられてしまうシーンである。アメリカでは、おそらく、弁護士というのはそのように見られているのだろう。
ただ、この弁護士も、主人公にせっつかれて、徐々に頑張らずにいられなくなり、大企業相手の訴訟を提起し、さらに、長期化する陪審裁判ではなくて調停をすることを住民に説得するなどする面に活躍する。主人公と非常にいいコンビとして頑張るようになるのである(実際にも、現在も、このコンビで7件の訴訟を手がけているという)。
それにしても、やはり、この映画は、訴訟ものの映画というよりは、女性の再生の映画というべきだろう。そして、映画では、主人公のパートナーとして、彼女に代わって、家事や育児をやる男性が登場して、彼女の仕事のことを理解し、サポートする。この辺りもいかにもアメリカ映画らしい。とにかく、見終わった後爽快感のある映画である。
(2000年6月11日記)
インサイダー
(監督マイケル・マン、主演・アル・パチーノ、1999年、タッチストーン・ピクチャーズandスパイグラス・エンタテインメント)
現在上映中のアル・パチーノ主演の話題作である。アメリカ三大ネットワークの一つのCBSの人気報道番組「60ミニッツ」が舞台となる実話を映画化した作品である。
「60ミニッツ」のプロデューサーである主人公の下に、匿名の書類が届けられた。それは、タバコ会社の極秘資料であった。その書類の意味を話せる専門家を探したところ、全米3位の売上げを誇るタバコ会社の副社長だったが最近解雇されたばかりの人物に行き当たった。その人物は会社との秘密保持契約に縛られてなかなか話そうとしないが、プロデューサーは何とか内部告発をさせて、「60ミニッツ」のインタビューに応じるように説得する。
ところが、その直後から、会社から秘密保持契約をさらに広範囲に変更する書類にサインを求められ、元副社長が喋ろうとすることに対して、会社から圧力がかかる。また、何者かによって家族に対して脅迫がなされる。そのような中で、元副社長は、タバコ会社を訴えている原告側の証人として裁判所で証言し、「60ミニッツ」のインタビューにも応じた。
ところが、その番組の放送に対して、CBS上層部から圧力がかかる。この番組を放送することは、副社長の秘密保持契約の違反に関与したとして高額の損害賠償請求の訴訟を起こされる危険があるというのだ。そして、CBSは、副社長が実名でインタビューに出ていた部分を大幅にカットし、匿名で声も変えて放送した。
主人公のプロデューサーは、自分自身が内部告発者となり、ニューヨーク・タイムズにCBSが圧力に屈して放送しなかったという情報を暴露し、それがニューヨーク・タイムズ紙が1面トップで取り上げ、社説でもCBSを批判する。それがきっかけとなって、CBSは結局、元副社長のインタビューをそのまま放送することになる。しかし、情報提供者を裏切ったプロデューサーは、情報提供者との信頼関係を今後築くことはできなくなったとして、自らCBSを辞めて去っていくという所でこの映画は終わる。
この映画が凄いのはほとんど全てが実話であるという点と、企業名などが全て実名で登場するという点だ。
この映画のテーマは、情報提供者とのマスコミとの間の「情報源秘匿」や信頼関係という点と、企業における表現の自由という点である。
この映画の主人公は、自分はこれまで情報提供者との信頼関係を一度も裏切ったことはないと自負し、情報提供者と密に連絡を取り合い、一定の距離を置きながら、情報提供者を不安にしないように最大限に努力している。この映画の中では、このプロデューサーと情報提供者との人間関係が丁寧に描かれている。ある意味では「男の友情」のように感じる面も感じる程であるが、メディアが真実を報道しようとする際に、その情報提供者との信頼関係を築くことの大切さを教えてくれる。
それと、この映画では、企業であるCBSが、内部告発に基づいた番組を放送することを躊躇し、結局、肝心の内部告発のインタビューを削除して放送したという点については、CBSも一種の営利企業である以上、別の大企業から訴訟を起こされるリスクを考えざるを得ないという面と、そういう大企業の問題を告発すべきであるという表現の自由の本来の機能を果たすべき使命との間で常に衝突が起きることは避けられないだろう。
しかし、その場合に、リスクだけを考えていたら、結局、大企業の不正を暴くことなど絶対にできないことになるだろう。
映画の中で、番組を放送することのリスクについて、「真実を放送すれば、それだけ相手の損害が大きくなるから、放送することは危険である」という企業の上層部の見解が語られる部分がある。この「真実であればある程」相手の損害が大きくなる、ということはある意味では当然であるが、真実であるからこそ放送されるべきなのであり、それによって発生する「損害」などは、元々、不正がなされていることが隠蔽されていたことによって維持されていた架空の信頼なのであって、そんなものを「損害」として賠償する義務などないはずなのである。
この映画では、勇気をもって内部告発する元副社長と、職を賭してニューヨーク・タイムズ紙に「内部告発」するプロデューサーが登場する。いずれも、社会正義のために、自らに降りかかる危険を覚悟の上で行動する。そして、CBSが放送を中止したことを批判するニューヨーク・タイムズ紙がこれを応援する。これらを見ると、アメリカは、本当に、社会正義とか民主主義が根付いている健全な国だなと改めて痛感させられる。
日本ではこの映画で語られたような事はまず起きることはないだろうと思われる。自らの家族を犠牲にしてまで内部告発する勇気のある人はほとんどいなし、外圧に屈して放送ができないことを外部に「内部告発」する勇気のあるプロデューサーもいないだろう。日本では、当たり障りないように無難に生きることが「美徳」であると信じ込まされているからである。
しかし、本当の社会正義や民主主義というのは、そんなに安全にしていて得られるようなものではないのだ。危険を冒して挑戦しなければ獲得できないし、維持もできないのである。この映画はそのことを教えてくれるのだ。
(2000年6月11日記)
破線のマリス
(監督・井坂聡、主演・黒木瞳、1999年、「破線のマリス」製作委員会)
1997年に江戸川乱歩賞を受賞した野沢尚の『破線のマリス』を映画化した作品である。本作の脚本も野沢氏が担当しているので、原作に非常に忠実に映画化されているという印象である。
細かいストーリーは省略するが、テレビ番組の編集現場において、「悪意」(マリス)が介在することによって、誤った報道(誤報)がなされて、報道被害を生む危険性があることを訴える映画であり、フィクションではあるが、テレビ業界の内幕を暴く内部告発物ということができるだろう。
江戸川乱歩賞受賞作品はフジテレビに独占的に映画権があるが、その内容からフジテレビが映画権を放棄し、その他の民法テレビ局の全てが、製作協力することを断ったといういわくつきの作品である。
ただ、原作・脚本を担当した野沢尚は、映画のパンフレットの中で、次のように述べている点は無視できない。
「この原作小説が出版された時、『テレビ界の内部告発小説』とよく言われた。それは間違っている。私に告発したい相手がいるとしたら、それはテレビの作り手ではなく、視聴者の方だ。報道被害をはじめとするテレビから垂れ流しにされる情報を、視聴者は、あまりにも無感覚で受け止めてきた。過剰な映像処理や劇的な音付けに簡単に騙されてしまう。大衆心理の操作など、この物語のヒロインのように、指先一つの映像編集で可能なのだ。だからテレビの情報を信じてはいけない。疑ってかかれ。(後略)」
まさに、この映画が本当に伝えたかったことはこのことだろう。私たちは、日頃テレビを見る中で、あまりにもテレビが垂れ流す情報をそのまま受け取ってはいないだろうか。誰かが犯人ではないかという方向で流されるワイドショーを無自覚に受け取り、「やっぱりあいつが犯人なんだろうな」と何の疑問も持たずにいるという現実。
この映画でも、最後の方で、主人公が、「視聴率を上げる番組を作ればいいんでしょう」と叫ぶシーンがある。
テレビが、視聴率を上げるということと、真実を伝えることが違うことであるということが何時の間にかはき違えられていく。段々、視聴率を上げることが「目的」化していき、演出が過剰となり、その中で「真実」が歪められていく。この映画は、その危険性を私たちに訴えているのである。
テレビ制作者の側は、テレビが何でも伝えられることができる万能のものであるような錯覚に陥っている。それとともに、視聴者の側も、テレビが何でも全て真実を伝えているような錯覚に陥っている。その相乗効果の中で、誤報が生まれ、報道被害が生まれているのだ。
この映画を見終わって、自分が視聴者として、あまりにも無自覚に生きてきたことを痛感させられる。まさに「テレビを疑え」である。
(2000年6月11日記)
シビル・アクション
(監督・スティーブン・ザイリア、主演・ジョン・トラボルタ。1999年、米UIP)
この映画は全米のベストセラー小説が映画化されたものらしいが、実話に基づいたストーリーである。
ストーリーは、若くてかなり金儲けをしていると思われる小さな法律事務所を経営している青年弁護士が、環境汚染をした工場を経営する企業を相手にする民事訴訟を依頼を受け、多額のお金をつぎこんで戦っているうちに、事務所の経費を使い果たして、最後は破産までしてしまい、その裁判は和解で終わらせてしまうことになるという話で、かなり暗い話ではある。ただ、非常に共感できる部分が多かった。
この映画では、弁護士という職業について、依頼人に同情するなとか、裁判で真実を明らかにすることなんかありえないとか、その職業に就いている者から見ればそうだなと思う「教訓」が随所で語られる。そして、弁護士は、あくまでも「仕事」と割り切って、経済的にペイするかどうかだけを考えて、合理的にうまくやっていくべきものだという弁護士としての「理想像」が語られる。
しかし、主人公の弁護士は、環境汚染の犠牲になった子供たちとその親たちの気持ちにうたれて、その環境汚染が被告の企業によって引き起こされたという真実を明らかにしようとし、そのために私財を投げうち、最後は破産までしてしまい、一緒に事務所を経営していた友人たちも去っていく。それでも、被告の企業が環境汚染をしたことを突き止め、環境保全庁を動かして、最終的には被告企業は工場閉鎖に追いやるのである。自分が全財産を失ってでも、正義の実現のために自分の信念を貫くことの素晴らしさを教えてくれる。どこまでも金の世の中で、一服の清涼剤のようなこういうストーリーがちゃんと評価されるというところが、民主主義が成熟しているアメリカだと感じさせられた。
なお、映画のタイトルのcivil actionとは、「民事訴訟」の意味である(田中英夫編集代表『英米法辞典』146頁)。映画の中では、アメリカの民事訴訟のシーン(デポジションという法廷外の弁護士事務所などで宣誓の上、証人の供述を得る手続や法廷における審理、裁判官室での訴訟代理人とのやりとり)などが多く出てくるが、日本語訳が若干分かりにくいことと、何の説明もないことから少し分かりにくいのが残念である。
(2000年2月13日記)