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- (1) 旧「キャバレー香港」駐車場
- 職安裏にありました。デカデカと「香港駐車場」と書いてありましたが、どうして消さなかったのかが不思議です。キャバレー香港といいますと、高校の時の先生で「香港の電気工事をやった」先生、「香港に入り浸りで離婚させられた」先生がいらっしゃいまして、思い出深い建物でした。この近くに万代貨物駅跡地があります。近くまで寄って見るのを忘れたので何とも言えませんが、ここに貨物駅があった事を知らないと、どうして日本通運新潟支店が万代にあるのか、新潟運輸のトラックは三社神社で御祓を受けるのかが分かりませんよね。
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- (2) 信濃川堤防方向から旧新潟駅方面を見る(旧駅前通)
- 信濃川沿いの万代貨物線廃線跡は自転車専用道になっておりました。信濃川堤防沿いから水島町に曲がる場所がどこになるのか、はっきりと確認できませんでした。
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- (3) 貨物線跡側よりNTTドコモを見る(右側は八千代橋)
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- (4) 貨物線跡側より南万代小を見る(校舎の手前は新潟交通の車庫)
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気象台の前にポンプ場がありますが、ここは駅南に流れていたドブ川(古しなの川という名前が付いていた)の終点ということを初めて知りました。南万代小のプールは、この川の真上にあったことも知りませんでした。
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- (5) 鳥屋野街道との交差点(越後線との合流方向を見る)
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- (6) 貨物線跡上(越後線との合流点方向を見る)
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小学校の頃、どうしてこんな広い道があるのか理解できませんでした。天神尾踏切近辺は当時と道がだいぶ変わっておりました。
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- (7) 天神尾踏切と貨物線跡の合流地点
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今は踏切からダイレクトに貨物線跡の道に入られますが、昔は民家がありまして、一本線路寄りの道が鳥屋野街道につながっていました。ちなみに、この写真の手前側にNAMARAの事務局があります。
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- (8) 越後線との分岐点方向を見る
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- (9) 越後線との分岐点
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貨物線の分岐点の天神尾側(トーア跡地)に住んでいたのですが、反対側から見たのは初めてでした。目の前にある信号機が「分岐点」を感じさせます。
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- (10) 貨物線跡上(八千代橋方向を見る)
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- (11) 弁天公園(旧新潟駅前)にある「公衆電話発祥の地」石碑
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旧千葉駅みたいに「ここに新潟駅ありき」の石碑があってもいいと思うのですが、何もありません。そんな物が何も無いのが新潟の特徴ですけど。その代わり、公園内にあった電話ボックスの脇に「公衆電話発祥の地」とありました。新潟の公衆電話発祥の地なのでしょう。
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- 電話ボックス(脇に『公衆電話発祥の地』石碑がある)
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電話ボックスも当時の物のレプリカのようですが、手入れは良くないようです。
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- (12) 弁天公園方向から越後線との合流方向を見る(旧新潟駅〜万代貨物線連絡線)
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弁天公園〜新潟マンションの通りも以前は線路でした。新潟駅から白山への貨物線(今の越後線)につながっておりました。(今でも合流点は越後線から確認できる)
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- (13) 旧新潟駅前から信濃川堤防方向を見る。(2)の写真の撮影地点方向を撮る。
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万代シティと伊勢丹の間の通りは旧駅前通りです。(これがわからないと、どうして新潟交通の本社が万代にあるのかわからない)弁天公園前にある食堂「福ちゃん」は当時からあった食堂です。その隣の空き地には交通公社がありました。(これがわからないとどうして万代シティにJTBがあるのかわからない)確かマンサード屋根の特徴ある建物でした。福ちゃんの向かいには篠田旅館がありましたが(2000年春取り壊し)、ここは「駅前旅館」だったわけですね。
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- (14) 東映ホテル前の通りの看板(旧『新潟駅前通』の表示)
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東映ホテルは新潟で初めてのシティホテルだったそうです。もともとの建物は今の駐車場のところにありましたが、新潟地震で新潟空港同様沈んでしまっていました。今のホテルの場所にはボウリング場(新潟東映ボウル)がありました。当時、東映の社長であった大川博氏が新潟出身であった縁で、新潟にホテルを建設したのでしょう。
東映ホテルの脇を通り、万代町通りに行きましたが、街路灯に「旧『駅前通り』」という表示がありました。
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- (15) 万代町通りから旧信越線沼垂方向を見る(旧小島橋)
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万代町通りから旧信越線を歩きました。ここもまっすぐな道路になっています。東大通からそんなに離れていないのに、非常に静かな町内です。線路があった時は、非常にうるさかったのでしょう。SL全盛で煙もいっぱい出ていたでしょうし。
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- (16) 三社神社石柱ならびに由緒書
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入り口にすぐ「流作場開祖安倍玄的」の子孫の方の名前がありました。浅草の三社神社は観音様を発見した兄弟と観音様を祀ろうと提案した庄屋さんが祀られていますが、新潟の三社神社は個人が祀られているわけではないのは知りませんでした。
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- (17) 東港線との合流地点(玄的カーブの始点)。現在は消防署が建っている。
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東港線とぶつかる場所は消防署になっていました。位置関係からすると、越乃華酒造はカーブの内側に位置するようです。ということは、信越線廃止後に東港線が拡幅されたと思われます。
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- (18) 玄的カーブの途中。沼垂駅方向を見る。向こうの建物は明鏡高校。
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以前は旧沼垂駅から出たところの線路敷が土手になっておりまして、廃線跡であることがはっきりとわかったのですが、明鏡高校建設も関係するのか、目立たなくなっております。しかしながら、玄的カーブの跡は今も空き地になっているので、カーブの状況から廃線跡であることは理解できます。
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- (19) 竜が島・国道113号線。
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ましゅうさんのリクエストで東港線踏切(かつて新潟で唯一の第1種乙踏切があった)があったところを見ました。線路跡は竜ヶ島郵便局(道路の向こうにある平屋建ての建物)になっておりました。
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- (20) 玄的カーブ。向こうが沼垂駅跡。
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- (21) 玄的カーブ。沼垂駅跡より万代方面を見る。向こうの高架道路は東港線バイパス。
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- (22) 沼垂駅跡にあるごみステーションの看板(旧町名の『芳原町』が書いてある)
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ここは昔「芳原町」といいまして、ごみステーションの看板にその名残がありました。ここでも我々の行動を怪訝に思ったおじいちゃんが家の玄関から我々を監視しておりました。駅前広場はあまり広くないように見受けられました。
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- (23) バス道路より沼垂駅跡方向を見る。
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駅前の商店に「バス乗車券」の看板を見つけました。看板の色は銀バスの帯と同じ青色。昔はバス停もこの色でした。(ツーマンは青、ワンマンはうす緑、臨時バス停は薄茶色という区分)
沼垂十字路近辺も昔はにぎやかな商店街だったのですが、さびれておりました。時間も止まっております。明石通り沿いはまだにぎやかなのですが。
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- (24) 沼垂古町通(左)
(25) 民家に残る「古町二丁目」の琺瑯看板。決して新潟の古町ではなく、沼垂の古町。(右)
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沼垂古町はきれいに道路が整備されたのですが、それ以外何も無い(^_^;)。依田みなみさんの発見された「古町二丁目」のホーロー看板も見てきました。本当に「古町二丁目」としか書いていないんですね。新潟と沼垂は違う、ということを目の当たりに感じました。
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- (26) 電柱に「玄的支線」の表示。沼垂古町でDaaさんが発見。
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92年春に、旧沼垂駅近辺を歩いたことがあり、どのような状況かある程度認識していたのですが、割合その当時の様子が残っていたので安心いたしました。市中心部から少し離れているが故に再開発が進まなかったのが幸いしたのではないかと思います。今後、万代島再開発の関連でだいぶ様変わりしてしまうのではないかと思います。
沼垂白山神社は新潟に生まれ、山木戸にも幼児時代2年ほどいたのに、今まで一度も立ち寄ったことがありませんでした。なかなか趣のある御社であったのは今回の収穫でもありました。それに引き換え、沼垂の商店街は新潟駅と万代シティに近過ぎるために寂れてしまったのは残念でした。繁華街から1キロも離れていないのに時間が止まった状態なのには驚かされます。市街地の開発が新潟地震以後、市の西部に偏っているというのも原因でしょうか。
沼垂を過ぎ、山の下の方まで行くと郊外店があったりして、にぎやかな街になっております。本当に沼垂はエアポケット状態にあります。まだまだこのような状態は続くと思いますので、これの発言群を見た皆様も一度沼垂探検にでかけられることをお勧めいたします。