厚狭駅の歴史

歴史

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■歴史■

 山陽線の開通
 明治5年に新橋・横浜間の鉄道が開通して以来、輸送機関としての鉄道の重要性は次第に高まり、官設・民営によって鉄道網が広がっていった。神戸・赤間関間の鉄道敷設も民営の山陽鉄道会社によって進められ、明治25年(1892)7月に三原まで開通した。
ついで、糸崎・広島間、広島・徳山間、徳山・三田尻間と線路を延長し、33年(1900)12月3日に三田尻・厚狭間の開通をみるに至った。
 厚狭・馬関(赤間関の正式駅名)間26マイルが開通したのは明治34年(1901)5月25日で、同時に神戸・赤間関間が全通した。
厚狭と馬関関には埴生・小月・長府・一の宮・幡生の各駅がもうけられ、27日から営業運転を開始した。
神戸・馬関間は急行列車で12時間40分、区間運転として、三田尻初馬関行の普通列車3本、広島発馬関行、馬関初三田尻行、馬関発徳山行、馬関発柳井津行、馬関発広島行の普通列車各1本が運転された。

 大嶺線の開通
 鉄道は旅客と貨物輸送を業務とするが、一旦戦時となると、軍事物資の輸送にその機能を最大限に発揮した。
 明治37年(1904)に日露戦争が始まると、現在の美祢市の大嶺炭鉱から生産される無煙炭は海軍艦船の燃料として重視され、海軍省徳山燃料廠への石炭輸送が急務となった。海軍当局はさっそく炭鉱の所在地麦川から厚狭に至る鉄道の建設を山陽鉄道に命令し、38年6月30日を完工期限と決めて敷設工事にとりかかった。
しかし、工事は厚狭川に沿って敷設を進めたこともあって、途中四郎ヶ原・才ヶ峠などのトンネルと鉄橋10カ所を架設して工事が完了したのは8月末日であった。
 大嶺線と山陽線の中継駅となった厚狭駅の機能はこれによってますます高まり、大嶺線の開業に先立ち助役1人、機関士・運転士・駅夫など40余名が増員された。
 なお鉄道は明治39年(1906)12月の鉄道国有法によって国に買収された。
その後、厚狭駅〜仙崎駅間の美祢線開通により、大嶺線は南大嶺駅〜大嶺駅のみとなった。(その大嶺線も'98年4月に廃線)

 
鉄道の開通と近海航路
 鉄道の開通は、従来の交通体系に大きな変化をもたらした。特に近海航路の打撃ははなはだしかった。
明治17年以降、小野田と赤間関とを結ぶ小野田丸が埴生浦に寄航し、赤間関への渡航の便宜をはかっていたが、鉄道開通の頃には馬間を基点に、上りは埴生・小野田・新川・小郡・西浦、下りは若松・小倉に至る航路が開けていた。このうち山陽線の開通によって、上り航路の乗客が減少した。ところが39年になると、下関〜小野田間の航路を停止していた関門汽船が再び営業を開始し、埴生浦へも寄港した。同汽船は鉄道も開通していたこともあって、対抗策として低運賃をうちだし、加えて埴生では駅が市街地域から離れていったこともあって船便を利用することが多く、鉄道の利用客が減少するほどであった。
 大正に入ると、鉄道の利用客も厚狭駅で19万から20万余、埴生駅で5万余人を数え、その数も次第に増加していった。
同時に貨物取扱量も増加し、厚狭駅は大嶺線との中継駅ということもあって、埴生駅をしのぐ取扱量であった。

 戦後の鉄道整備
 昭和25年に国鉄が美祢線運転の基地設置を計画し、正明市機関区厚狭支区を昇格させるか、あるいは宇部市伊能に機関区を新設するかの両案を立てていることを知った厚狭町は、7月の議会でその誘致を決めて運動を展開した。
美祢線の貨物は美祢から宇部興産へ送る鉱物資材が最も多かったため、機関車の出発・帰着を考えて居能新設の線が強かったが、30年12月に、町議会は厚狭支区拡張のための土地約660坪を民間から買収して国鉄へ寄付することに決め、それが決定的な理由になって国鉄は厚狭支区の機関区昇格を決定した。32年から拡張工事を始D51めて、33年9月に完了、34年4月に厚狭機関区へ昇格して美祢線運転の基地になった。
 機関区の拡張工事が始まった32年の7月から、美祢線にディーゼルカーが走るようになり、煤煙を出す蒸気機関車(SL)が次第に姿を消し始めた。そうして48年2月に蒸気機関車はすべて廃止されることになり、当時の全国的なSLブームにこたえて、2月25日に「さよなら運転」をした。
その4月末、完成間近の殿町児童公園に町が国鉄から借りた蒸気機関車(D51)が据えられた。

※厚狭機関区の外れに残るSL転車台だけが当時の名残りを残している。

 35年5月には山陽線電化の一端として厚狭・宇部間が電化され、翌36年6月には久留米まで電化されて電車が走るようになり、山陽線から蒸気機関車が姿を消した。そうして43年10月には厚狭・宇部間が3線化された。これは美祢から宇部の工場へ原料石を運ぶ貨物列車のため両駅間の運転ダイヤが特に混雑するので、それを緩和するために41年8月から3線化の工事が始まったのである。
 さらに、46年6月から山陽新幹線設置工事の町内部分が福田で始められた。49年10月から試運転が続けられ50年3月には営業が開始されて、厚狭盆地のほぼ中央を列車が走り抜けるようになった。

 このように鉄道は相次ぐ整備が続けられたが、しかし皮肉なことにその間に自動車がめざましく普及していき、年々利用客が減少している。

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■現在■

 平成11年にJR山陽新幹線『厚狭駅』が開業したが、当初目標の利用者数の確保ができず、また駅周辺の開発も思うように進んでいないため、現状では旧山陽町の財政圧迫の原因でしかない。


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