和泉式部伝説


 言い伝えのあらまし

 和泉式部についての伝説は、日本の女性に関する民間伝承のうちでも最も多いものの一つで、その分布は、ほとんど全国津々浦々にわたり、その墓所と伝えるものだけでも、京都の誓願寺をはじめとして、全図に15ヶ所を数えるといわれている。
それはひとつには、彼女の数奇な生涯と、それを全国にばらまいて歩いた語り女の仕業なのだろうが、それだけにまた、この地にこういう伝説が、旧くから伝えられた点は、興味深いものがある。

 和泉式部の伝説が、江戸初期からこの地に伝えられていたことは「寺社由来」土生(はぶ)村八幡の項に「阿子根の松原」ということについて、「この八幡社の前の松原を阿子根の松原といって、昔、和泉式部が此の松原で安産されたので、その時分から阿子根の松原と申し伝えている」 ということを、享保13年(1728)11月8日に、この八幡社の神主であった渡辺六郎左衛門から届け出があったことを見てもわかるが、これが天保年中に下ると、著しく脚色され、もう立派な伝説にまとめあげられている。
天保末年、各代官所からの報告をまとめてつくられた「風土注進案」土生浦の項には、「昔、和泉式部の御座所がここにあって、小式部内持をここでお生みになったということである。
今も産湯の井戸、産湯の岩と申し伝えている場所がある」 と記されており、やがて、ここで死んだ彼女の為に、塚がつくられた。 これがこの小丘である。
「和泉式部御塚と申し伝えており、小土生〈おはぶ)付元沖田の中に小丸山があり、中古地下の者が、石塔を立てておいた」
のである。そして地下申伝えという和歌までのせている。
 この和歌をのせていることが、また大変興味をひかれる点で、他の式部伝説に多く和歌がついて回っていることと考え合わせても、かなり用心深くつくりあげられたものといえよう。
 民間の古い言い伝えによると「和泉式部が落ぶれて此所に住いを結んだと、言っている者もあるけれども、そうではなくて、昔から歌人にはよく諸国行脚をした例がすくなくない。
だから式部も名所古蹟を遊覧していた時、ふと此処へ足をとめたものであろう」といって居住は否定しながらも、その来遊は認めている。
式部がここで何年位過したことになるのか、明確なことはわかるはずもないが、注進案には 「中村という所の百姓定吉の庭先きにある2m平方、探さ、5、60cmの池が、小式部内持を生んだ時の産湯の井戸で、その時使った盥の跡が、平たい岩の上に残っていたといい、それを後々まで人が忘れない為に、今の墓の側に移したという、いわゆる産場の岩である」 とも記されているから、万一、式部が死んだのもこの地だということになると、随分永くいたことになる。
又、丘陵の前を流れている小川の岸に、丸葉の柳がはえており、式部はこの柳をもって楊枝をつくり、歯の痛みを治療したと伝えられ、里人は、今にこれで揚枝をつくると、歯の痛みがなおるといってつかっているともいわれる。
式部の墓は、はじめ四方を練塀囲いにして、墓石の高さ3尺、幅1尺ばかりを二重台にし、その上に水晶石の雨覆をいただいていたが、人が盗みとってしまったので、安永年中(1772〜80)に里人が再びこれをつくったという。
 以上が、埴生における、和泉式部伝説のあらましである。

 和泉式部という女性

 和泉式部が、いつ、どこで生まれて、何歳で死んだのか、というようなことについては、正確なことは、全く判らないというほかはない。
 しかし、彼女がどんな性格の女性であり、どんな考え方、生き方をしたか、その行状などのあらましは、彼女の残した日記や、当時の物語などによってかなり詳しいことがわかっている。
中でも、情熱の歌人としての彼女の地位が、平安朝に数ある女流歌人の中で、特異な存在であったことについては、あまねく知られていることで、そのことが、つまりは、あれだけ沢山の伝説を生む原因の一つでもあったわけである。
 和泉式部は、およそ千年位前に、大江雅致を父とし、乎保衡の娘を母として、生まれたといわれる。
廿歳頃、和泉守であった橘道貞と結婚し、二人の間に有名な小式部内侍が生まれたが、その頃から為尊親王とねんごろになり、その為、道貞との間に不和の原因をつくった。所が親王は、一年余りで他界してしまった。
佗しく過していた式部のもとに、こんどは、弟の敦道親王から熱烈な愛情がよせられると、式部はたやすく応じて、この年若い宮との間に、深い情交を結んだのである。
時に式部が25、6歳であったろうか、二人の間の恋愛の発端から、よろこび、かなしみ、もだえを刻明に綴ったのが、あの「和泉式部日記」なのである。
 宮はもともと好色な性格であったが、式部もまた多淫多情で、二人の間の恋愛の経過は、常規を逸したほど激しく、物狂わしく、遂に式部は宮の南院に遷り、公然と愛欲の生活に入ったのである。性生活の乱れに対しては、極めて寛容な時代であったにもかかわらず、二人のこの状態は、さすがに眼にあまるものがあり、宮の正妃は屈辱に堪えかねて去り、道貞も式部を離縁し、父、大江雅致さえも、彼女を勘当したはどであった。
しかし、これはどに、親を棄て世間にそむいて、命をかけた親王とのちぎりも、僅かに五年、敦道親王その人の死によって、幕を閉じた。
今はなき宮を慕う追悼の歌百余首は、哀切を極め、式部が如何にこの若き宮に、愛情をよせていたかも知るにあまりあるものである。
 本能的欲情は、女性である式部にとって、愛欲であったといわれる。
彼女の傍らに男性のいない日は、1日として過しかねたのであろう。
宮の死からわずかに両3年、30を越したばかりの女盛りを、藤原道長の家司で、20も年上の藤原保昌と再婚するまでの間、或はそれ以後、彼女の関係した男性は、6、7名の多きにのぼっている。
しかし内面的に見る時、それらの男性も決して彼女の胸を満たすものではなく、恋愛の幻影を追求しながらも、最初の夫道貞と、敦道親王とによって、かろうじて救われた悲恋の生涯であったのである。
 式部の伝説  悲劇の人物はど伝説の好材料はない。女性だけについてみても、静御前や巴御前、小野小町、松虫などもその例だが、和泉式部のように波乱に富んだ生涯となると、これはまた格別である。
 その誕生の地と伝えるもののみについても、南は九州長崎から、北は岩手に及び、京都を除いて7、8か所が挙げられるが、墓所にいたっては、前述の如く10数ヶ所にのぽっている。
ところが埴生の場合は、墓所であるとともに、小式部を生んだ地というのだから、はなはだ手の混んだ伝説なのである。
 式部の数ある伝説の中で、特に有名なものに「瘡の歌」の話がある。柳田国男「カサヤミの式部」によると、式部がある時「瘡」を患い、種々の医療を施したが効果がなく、最後に日向に下って、法華岳の薬師へ参籠し祈念した。
それでもなお治療の見込みがたたないので、今はこの世の業縁とあきらめ、辞世の歌を残して千尋の岳よりとび下りたが、不思議に助けられ、一人の異様な仙人が現われて
   村雨はただひと時のものぞかし
             おのがみの笠そこにぬげおけ
と詠んだかと思った刹那に、さしもの宿痾は忽然として癒え、喜んで都へ帰った。
後、再びこの地へ下ってきて、鹿野田という村で死んだ。 というのである。
ところが、このことはここではもっぱら史実として扱われていて、墳墓はもとより、式部愛用の琵壱や髪掛柱、式部谷、身投岡等々古跡がいくつもあるのだが、こうまことしやかに取りあげられているのには、それだけの理由がある。
 というのは、この法華岳は、播州書写山の性空上人が錫を留めた地であり、式部は上人の弟子になったという伝えもあるからなのだ。その弟子になったといういきさつは、こうである。
 昔、和泉式部という遊女が、橘保昌(橘道貞と藤原保昌の混名?)と契ってもうけた男児を、産衣の小袖に一首の歌を書き、守刀を添えて五条の橋へ捨てた。町人が拾って育てたその子は、後、出家して道命阿闍梨という名僧となり、18歳の時に、内裏で講義を勤めたことがあった。
 その時、聞き入っていた美しい宮女が忘れられず、道命は柑子売りに身をやつして女のもとに近づき、数え歌で柑子を売ったので、女は下女に尾行させてその宿を知り、自ら訪ねて遂に契りを結んでしまった。
この宮女こそは、実は和泉式部その人であったのである。しかも、守り刀から男の素性がわかり、あまりの浅ましさに、一念発起して書写山に登り、性空上人の弟子になった。
 この話は、室町時代にできた「御伽草子」という本の中の物語りであるが、そのもとは早く「宇治拾遺物語」「古今著聞集」その他にあって、古くから随分有名な話なのである。
 こういう代表的な伝説を初めとして、式部の話は各地に多彩を極めて、応接にいとまのないはどであるが、埴生に根をおろしたいきさつについては、何もわかっていない。ただ、例の宮崎県の法華岳や、佐賀など九州の伝説は、国東半島を通れば、埴生へひとまたぎであることは注意しなければならない。
方言なども、国東と山口県内海沿岸とは、同系統に属するものが多く、彼我の往来がかなり盛んであったことは、想像にかたくないから、式部の伝説が、これらの経路を通って旅をしてきたと考えるのも、あながち不自然ではないはずである。
現に豊浦郡豊田町杢路子には、和泉式部類似の伝説があり、そこから裏日本へ廻って、阿武郡弥富村の見坂には「式部堂」があり、その境内に「むくろし」の木があって、式部がこの地へ来た時に、杖についてきたものを庭に捨てておいたところ、根をおろして今ははなはだ大木になったという民間の話を「風土注進案」にあげているなど、埴生の場合の、柳の下で妻楊枝をつくつた話などと、考え合わされそうである。
さらに湾岸線を上り、鳥取市の湖山が、式部誕生の地といわれているのも、一脈のつながりを感じさせるものであろう。  このように、いろいろの伝説が各地に広がり、次々にその古跡がつくられていったことには、二つの大きな理由が考えられそうである。
一つは、そのような物語、つまり作り話を語って歩きまわった一団があったことと、いま一つは、それらの話をうけ入れ育てる場としての、庚申講の組織が、全国的に網をはって待っていたからである。
柳田国男氏も、式部伝説がこのように多いのは「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくへめぐったからである」と述べているが、彼女らはおそらく、波乱多き式部の生涯を、いやが上にも粉飾し、脚色し、あるいは創造して、聞く者の関心と興味をそそったに違いない。 しかもそれらの話を、喜んでうけ入れ、そだて、伝承してくれた場として、庚申講ほど恰好なものはなかったであろう。
 このように、人と場をえて、史実とは関係なしに、この伝説もまた全国にばらまかれたのである。

 どうして墓がつくられたか
 小埴生の小丘が「式部」の墓でないことは、いまさら繰り返すまでもないことで、前に掲げた「注進案」にも、言い伝えそのものはのせながら、式部の墓などということは、初めから決定を避け、「和泉式部の事跡などということは、大変うたがわしいことである」として否定的解釈をしているが、ではそれが何であったかということになると、全く触れていない。
しかしこれが、一見して古墳であったろうということは、円丘の形状、積み重ねられた石群、産場の岩といわれるものなどから考えても、およそ推定できそうである。
ではいつ頃できたものであろうか。それをはかる確実なきめ手となるようなものは、何一つないまま、この辺で結論を急ごう。
 昔、ここに一つの古墳がつくられたとする。それが後に乱掘され、石片も蓋石も散乱していた。
やがて、この地に和泉式部の伝説が流れついた時、それを裏づけるものとして、この荒れた小丘が結びつき、心ある人によって整理せられ、その上に「和泉式部の墓」として墓碑が建てられるに及んで伝説もまた定着した。 すなわち享保十六年のことである。小式部産場の岩として、蓋石の一枚が利用されたのも当然である。
もともと、式部と何の関係もない古墳であったが、こうして結びつけられると、それはいよいよ飾りたてられ、「注進案」ができた天保の頃には、もう立派な物語りにまで成長したのである。