■ 旧山陽町の伝説 ■


寝太郎伝説

和泉式部伝説

安倍貞任伝説

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 寝太郎伝説
寝太郎キャラクター
寝太郎人形(井口 方夫さん作)

「過去の事実」

 中世から近世初頭にかけて、「厚狭川を高位に堰止め、千町ヶ原に縦横に構築した水路に水を導入し、また、水門を分けて余分な水はもとの本流にかえす」という大工事が実現されました。
これは二、三の個人の力でできるものではなく、膨大な資金と労力を要するものです。
一体いつ誰によって築かれたか公的な記録にも発見できず、直接遺構、遺物についての年代測定も不可能な現状からすると、決め手になるものがありません。
しかし、そこから恩恵を受けてきたことは事実で、今も現実に堰・水路・美田が存在しています。

「事実から伝説へ」

 厚狭の寝太郎物語の原型と言える記述が天保13年(1841年)の「風土注進案にあります。
『中古大内氏領有の頃、賎の男で生業を事とせず、いつも寝てばかりいるので、世人から「寝太郎」と呼ばれていた異翁であり、彼は沓村に大きな堰を造って厚狭川の流れを引き、千町ヶ原を開いて美田となした』
この話に「父親が庄屋であること」や「三年と三月寝て暮らしたこと」あるいは、「佐渡金山の話」など次々と脚色されて厚狭の寝太郎伝説が形成されていきました。
 「厚狭の寝太郎」は、現在、伝説上の人物とされています。
しかし、このように現実に行われた偉業に基づいた伝説ですから、江戸時代より現在に至るまで、生き写しのような像(円応寺所蔵の彩色をほどこした23cmの木像)に刻まれたり、権現に祀られて祠(寝太郎神社)ができたり、昭和30年、寝太郎奉賛会が設立され、4月5日には祭祀が催され、春の寝太郎祭りとして人々に信奉され、親しまれ続けています。

寝太郎像

寝太郎像
 駅前に堂々と建つ寝太郎像は昭和46年に建立されました。
作者は米林勝治金沢大学教授で、芸術性の高い銅像として評価されています。
また全国的にみても銅像のある駅は珍しいということです

寝太郎公園

 厚狭川の両岸に沿って、寝太郎伝説に因んだ公園が設置されています。 「千石船の公園」 「わらじの公園」 「桶の公園」、「砂金の公園」の4つがあり、中心になる寝太郎公園・ゆめ広場では、毎年6月にホタルまつりが開催されています。


 『厚狭の三年寝太郎』話はこちら

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和泉式部肖像画 和泉式部伝説

 山陽本線の「埴生」駅を下ると間もなく、左手の視界に海がとびこんでくる。その直下のたんばの中に、こんもり一むらの小丘がやや細長い形でよこたわっている。この小丘こそ古くから「和泉式部の墓」と伝えられて、多くの伝説に包まれた一角なのである。  墳ははば南北に細長い丘状をなし、南側傾斜面の草むらを分けて上ると、丘上に一段高く盛土され、石段を構えた一基の墓があって、傘石を覆い、その仏石の正面に「尊霊和泉式部御墓」左右に「享保十六年戌」「奉寄進当邑中」と刻まれている。そこからものの10mも離れた丘上平地の南端には、横98m、縦117m、厚さ17mの沓ぬぎ石に似た平盤な石があり、式部の娘、小式部内持が産湯をつかった石と伝えられている。
「山陽町史」から抜粋した和泉式部伝説のお話はこちら

和泉式部の墓

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安倍貞任肖像画 安倍貞任伝説

 前九年の役(1052〜62)で、衣川関を捨てて敗走する安倍貞任を源義家が矢をつがえながらしばし呼び止め「衣のたてはほころびにけり」と歌いかけると、貞任は振り返り「年をへし、糸の乱れのくるしさに」とその上の句をつけたので、義家は矢を納めたという有名な話があります。

貞任はその後さらに来たに走り、厨川の柵にたてこもって抵抗し、ここで戦死しました。

この貞任の塚がどうして山陽町にできたかわかりませんが、二段の台石の上に墓標が立てられ、この墓の西南約50mの山麓墓地に墓がもう一基あります。
「山陽町史」から抜粋した安倍貞任伝説のお話はこちら

 

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