【山陽オートの歴史】


■開場までの経過■
 昭和26年に開業した柳井オートは、業績の不振と度重なる台風の被害のため、復旧の見通しが立たず、ついに昭和32年になって休止することになった。
当時財政状態が悪く財政の立て直しにつとめていた山陽町に、この柳井オートの移転の話がもちあがり、議会は誘致を議決した。

 しかしレース場の設置をめぐって賛成と反対の両論が渦をまき、あわや白紙撤回かと思われたが、関係者の血のにじむような努力と、オート事業が町財政と地元の観光開発に大きく貢献するであろうという地元町民の深い理解が大きな力となって、全国で第6番目のオートレース場として昭和40年4月にその産声を上げた。

■開場から今日までの経過■
 山陽本線埴生駅から徒歩で3分、16万平方メートルの広大な敷地に5億4,000万円の巨費を投じて建設されたオートレース場は、当時は西日本一と言われるほど豪華なスタンドであった。 特に一般ファン席が一人椅子であったことは画期的なものであった。

 昭和40年4月10日監督官庁をはじめ各関係者、そして地元町民期待のうちに開場式典が挙行された。
この日は初めてオートレースを見ようと集まったファンがスタンドにあふれ、式典終了後の全選手によるパレードに大歓声があがった。

 以来、「山陽オート」の歴史が始まり、幾多の試練、好不況の波を乗り越え、その間全日本オートレース選手会山陽支部の設立、山口県小型自動車競争会の設立、施設会社より施設所有権の購入、競争車の新型エンジン「セア」一斉乗り替え等の変遷を経て、また、投票及び払い戻し業務の機械化、電話投票業務の開始、種々施設の改善を実施し、今日に至る。

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