安倍貞任伝説

 松ヶ瀬に「安倍貞任の墓」と伝えるものがある。
貞任は前九年の役で、弟宗任とともに源義家に征められ、衣川で敗れた。貞任はその後さらに北に走り、弟とともに厨川の柵にたてこもって抵抗し、ここで戦死した。時に康平五年(一〇六二)九月十七日であった。

 この貞任の塚がどうしてこの処にできたかわからないが、享保のころにはそんな伝説があったとみえて、鴨庄村境目書には「さだとう山」という名称がでてくる。
また「風土注進案」に「松ヵ瀬村に古い墓があり、安倍貞任の旧跡ということで、その村を貞任村と申伝えている」とある。
 この墓は、同地松ヶ瀬バス停付近の山麓がつき出た所にあり、高さ1.22m、幅0.4m、厚さ0.29m、表に
「安陪貞任塚 平康五壬寅天 中冬下九日卒」
と刻られ、二段の台石の上に立っている。
 康平の年号を平康と間違ったり、月日を11月29日としていることなど、誤り伝えたものであろうが、この墓の建てられた正確な時代はもとより不明である。
ただ、天保の頃にはすでにあったことは「注進案」の記載から知ることができる。安部家の伝承によると、昔安部家に宝物があったが、百姓がもっておるべきものではないので、他へ移したとか、また焼けたとか伝えているということで、今はないけれども、貞任の霊を祀って、今日でも安部家では11月5日ごろこの墓の前でお祭りをしているということである。
 貞任についての関心は、この地ではかなり深いものであったのであろうか、この墓の西南約50mの山麓墓地に「貞任総本家奥築」と比較的新しく刻まれた墓がもう一墓ある。
仏石の高さ1.1m、幅0.64mで、台石二重に重ねた上に立っている。
左下隅に「阿部朝臣」、裏側にも同じく「阿部朝臣」とある。
貞任の総本家という意味もよくわからないが、伝説への裏づけがこうした形で作られていく過程を示しているものかもしれない。
 ここで憶測をたくましくすると、地形やここに集められている石塊群などからみて、これは古墳だったのではないかと思われるのである。
 つまりある時期にこの古墳は発掘され、出土品はどこかに保管された。その後いつのころか、貞任の伝説がこの地に着き、庚申待ちなどに語られ、やがて墓がつくられるまでに普及したとは考えられないだろうか、という訳である。
 貞任の墓があるからには、宗任の墓もありそうなもので、果たせるかな、近くの福正寺部落に、宗任の墓と言い伝えの宝篋印答の身部の混こうした古墓が、山手の墓地にある。
この墓に至る道を宗任坂といい、その下の畑地を今に宗任屋敷とよんでいる。
この墓地は宗藤氏の先祖の墓地であるとのことだが、昔は金の神輿があり、子供がかついで歩いていたという。
 宗任は厨川で敗れた時に降伏し、康平七年には伊予へ流刑されたといわれており、伝説がどういう経路をとって入ったかわからない。
 思うに貞任の墓と称するものが先につくられ、その関連において宗任が考え出され、いつの時代か墓に名残りをとどめたものに違いない。