生年月日 1969.1.27
生まれ 長野
住まい 千葉県船橋市
身長 171cm
体重 68kg(夏)〜75kg(冬)
視力 左右1.5 遠くまで見える
牛
弱冠6才にして仔牛と散歩に出かけ、たのはいいのだがいきなり仔牛が走り出し、手綱を持ったままうつ伏せで10m引きずられたという伝説を持つ。以来牛には頭が上がらない。「愛用(会社のだけど)のPCは当然Gateway。もちろん宮沢章夫氏の『牛への道』も愛読してます」と語る31才。
コンピュータ
1.Macintosh LC630:68040@33MHz/20MB/500MB
最初に買ったマシン
2.デスクトップPC:K6-2-300/64MB/12GB/
Windows98とLinuxの両方を入れており、
Linux時はファイルサーバとして活躍(samba & netatalk)
WindowsデータをMacのSCSIからZipドライブに保存できるので重宝している
3.Vaio C1-XE:mobileP2-233/64MB/8GB
主に寝室用。
楽器
・エレクトリックギター:よく知らないが、ブライアン・メイ・モデル。
・アコースティックギター:ヤマハのマークがある。会社の先輩からの貰い物。
・アコーディオン:小さくてベースが8個しかない。
・ブルースハープ:CとGの2個。
・キーボード:そういえば、知り合いに貸したまま戻ってきてない。
・好きな食べもの:なんでも。強いて言えばじゃがいも
・好きな動物:うし
・気の合う動物:ねこ
・音楽:CDが約700枚。洋楽6に対し邦楽1といったところ。
・暇は:なるべくつぶさない
・読書:井上靖、宮沢章夫、町田康、中島らも
・スポーツ:格闘技系、自転車(ロード)
・昔とった杵柄:水泳(平泳ぎ)、スキー(クロカン)
足首の傷
左足首に24針、右足首に7針の縫い目がある。
左足のは中学生のころのもの。当時は結構脚が早く学校対抗の陸上大会にかり出され800mにでたのだが、所詮は柔道部員。スタートの時にみごと足首をスパイクされた。脱げたスパイクシューズを履き直した時に血が出ていることには気付いたのだがそれほど痛くなかったのでとりあえずゴールまで走った。走ったのだが、スタートの遅れはいかんともしがたく、大きく遅れ最下位でゴール。あー、やだなー、温かい拍手だ やめときゃ良かったとか思ってゴールした後、足首を見るとすごい流血。拍手の原因はこれだったようだ。
そのまま病院に直行し、縫合を受けた。なんだか麻酔が効いてなくて一針一針がすごく痛かったのだが、麻酔はしない方が治りがはやいと思いこんでいたので、けなげにも耐えた。注射が嫌いになったのはそれ以来だという説もある。
右足の傷は、会社に入って寮に引っ越してその秋、地域の運動会に参加したときのもの。その運動会の最後を飾る障害物リレーで私はアンカーだったのだが、両足を米袋に入れてピョンピョン跳ねる変な種目で見事1人を抜いて一着でゴールした。したのだが、さらに劇的なことに、ゴールの瞬間右足を挫いた。転倒した私をみて周りは演出なのかと思ったらしいのだが、それどころではなかった。
最初医者に行ったときにはとりあえず湿布しただけの処置だったのだが、1週間ほどして腫れが引くと痛みはとれたものの関節がぐらぐらするので再度診察を受けたたところ、靭帯が断裂していると言うので手術。手術は下半身だけの麻酔で行ったのだが、このときもなんだか麻酔が効いていなくて、「脚しびれてますね?」という医師の問いに「ええ」と答えたものの、そのあといきなりメスを入れられたのにはびびった。しびれてはいたもののまだ感覚はばっちりあったので、まさか始めるとは思わなかった。骨に靱帯を縫いつけ始めると気が遠くなるほどの痛さだったので、看護婦さんに訴えると医師は「え?痛い?これは?じゃあこれは?」といって傷口を刺激する。どうやらわかってもらえたらしく追加の麻酔をされ、後半は眠りの中で手術は完了した。あれは恐かった。頭髪が抜け始めたのはこのときの恐怖が原因だという説もある。
スキンヘッド
ロックと若年性脱毛症の問題は深刻である。それは、どんなシリアスなメッセージも、クールなフレーズも無効にしてしまうほどの恐ろしさである。しかし、この問題に立ち向かう90年的アクチュアリティを持った方法論がR.E.M.のマイケル・スタイプによって提示・実践された。すなわち、スキンヘッドである。かつて右翼的暴力主義の象徴であったスキンヘッドを解放し市民権を与えた功績は偉大であると言えよう。私がfrf'99以来スキンヘッドなのも、そのマイケル・スタイプに対するリスペクトであると言えよう。でもそれはただの言い訳と言えよう。

アディダス野郎、渾身の右ミドルキック。1994年筆者25才の頃会社の体育館にて。
格闘技への道
目覚めたのは11才のとき、テレビでブルース・リーの映画を観たのがきっかけ。ブルース・リーの動きがあまりにも強烈で、ああなるにはどうしたらいいか子供ながらに考えた結果、まずはバク転の練習を始めたものだった。バク転が人生にとって何か重要なことの様に思えたのだ。ばかばかしい話ではあるのだが、それでも後にレスリング的な体の動きにおいて後方への恐怖感を感じずにすんだことはバク転の効果の一つだと思うし、「レスラーはマット上では何でも出来るスーパーマンでなければならない」というカール・ゴッチ先生の教えに通じるものがあったとも思う。こじつければ。
中学では柔道部にはいったのは、『1・2の三四郎』の影響が大きかった。このころからワールドプロレスリングを見始めたこともあり、猪木イズム丸出し、身長2mの雪だるまをこしらえ、アンドレと名付け、ドロップキックの練習をしていたのもこの頃(私の故郷は長野県飯山市という雪深いところ)。大会でも独学のわりには結構強かった。バックドロップで県大会まで行った。
高校へは行かず、新日本プロレスの門を叩くか中国に渡り仙人を目指すか(笑)するつもりだった私は、そのことを担任に相談したところ、担任から「身長が足りない」という致命的な指摘をうけ、結局、国立長野高専に進んだ。高専の同じクラスで「井上靖の『北の海』に触発され高専柔道を学ぶために高専に来た」という面白いやつがいて、一緒に道場を見に行ったが、高専柔道の高専は旧制中学のことで彼の入学した高専には、高専柔道が無いことが判明した。かわいそうなので、一緒に柔道部に入部した。
高専でも基本的には指導者のいない部だったので、自己流の練習をしていたのだが、その『北の海』君が中学できちんとした柔道を習っていたやつだったので、本来の柔道の寝技というものを教わることが出来たのはありがたかった。それでもふつうの柔道ではちゃんとした指導者がいる他校にかなうわけ無いと思っていたので、当時まだあまり情報が無かったソ連の格闘技「サンボ」やレスリングの技術を図書館などで研究し(飛びつき十字固めを実際に試合で極めたのは、高校生レベルでは私が日本初なのではないかと密かに思っていたりする)、あとはひたすらフィジカルトレーニングで「マット上のスーパーマン」になろうと努力した。朝1時間、昼1時間、放課後4時間、さらに必要ない授業はさぼって練習。授業に出ても技の研究。今考えるとこの時期の練習量は我ながらすごかったなと思う。
この頃でも、キックやパンチといった打撃の練習は続けていた。高専は特殊な学校であるため、インターハイに出られないということでいじけていたという面も否定できないが、「総合格闘技としての柔道」というものに意識的であったのも確かだ。私の柔道は結果的に高専までで、結局三段になった。
高専を卒業したら私の行く道は決まっていた。三件茶屋のスーパータイガージム。問題は、どうやって東京へ行く口実を作るかだった。「格闘技の道に進みたいのでなるべく暇そうな仕事がしたいのですが...」進路指導の席で正直に言うと、先生は学生が一番ひまだろうということで、進学を勧めてくれた。学校では練習しかしてなかったと見せかけて、実はちゃっかり成績もトップだったので、農工大工学部の推薦をもらえた(高専からは同じ国立の大学の3年へ編入する道が開けているのだ)。編入学の試験は面接だった。面接が始まって面接官の最初の質問。「推薦理由がふるってますね。"古今東西の格闘技に精通し・・・" ですか」。わお!寝耳に水。「大学に入っても続けるつもりですか?」「学業に支障は無いですか?」まさか本心を言うわけにも行かずしどろもどろ。いやー焦った。けど合格できたのは奇跡としか言いようがない。
こうして20才でスーパータイガージムに入門、晴れてシューティング(修斗)の修行開始。なんだかんだいって、きちんとした格闘技の指導を受けるのはこれが初めてだったので、毎日が充実していた。ジムの選手もプロボクシングとか空手とかレスリング出身の人など多彩で、楽しかった。そして入門した年の夏、初めて開催された修斗アマチュア大会で優勝。おお華々しい幕開け!と思ったのもつかのま、実はこれが私の格闘技生活の終わりの始まりでもあったのだ...。
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