平成11年8月24日(火) 午前9時30分
私は、はじめて検察庁に行ってきました。
これで、事故の様子が少しでも判る。期待を胸に向かいました。
しかし、期待は裏切られました。
私は終ったあと、検察庁の前で、声を出して泣きました。
これまで、日本の憲法に守られて生きてきた。そのしっぺ返しが来たと
...。
菜摘、ごめんね。
1997年12月に不起訴になってから、門前払いした検察庁にまた行くきっかけは...。
7月に発行された「癒されぬ輪禍」に応募した事で、テレビや新聞の取材を受けたり、
「被害者の会」も設立されたり、北海道警察本部の方々と話しをする機会がもてました。
1999年8月13日(金)には「交通規則」についてお話を聞きに、道警に行きました。
「道警の方は、いつでも聞きに来れますよ。」とは言ってくれましたが、はたして今回の事(手記)が
なければ、私などに会ってくれたのだろうか。
その日、検察も紹介していただきました。私はさっそく検察に、申し込みました。当日は
1ヶ月くらいかかると言われましたが、夕方にはK事務官より電話があり、H副検事が話しを
してくれるとの事でした。あまりの急展開に私は、びっくりしました。道警からの電話は、よほど
インパクトがあったのでしょう。
不起訴の理由は、娘の「飛び出し」でした。
「自転車のサドルが左にずれていて、ハンドルが右方で、籠がつぶれているから、自転車は、
トラックにぶつかって行ったんだ。そうでしょう。」
まくし立てる、検事。
「どこに、ぶつかったのですか?」
調書には、この箇所は書いていない。
「...それは、この辺かな...ドアの後ろあたり...。」
あまりの、馬鹿な言葉に私は、かえす言葉も出ませんでした。
ドアの後ろは、アウトリガーのある所。 一回前からぶつかって、同じ所に後ろからも
ぶつかったのでしょうか?
何とも、不可思議な話しであります。
そんな、そんな曖昧な証拠で「飛び出し」になるなんて...涙が止まらなかった。
ここで、事故が起きたのに、どうして娘と自転車は進行方向と逆のところにいるの?
私は、「ここに、自転車があるからここが、事故の場所ではないですか?」と聞いた。
(自転車は、外灯のところにあった。)
「こんな、50cmしかないところ、どうやって自転車が通れる?」
自転車のハンドルの長さは、53cm...片方が電柱・片方が車道。
本当は通っては危ないけれど、小さい時から自転車に乗っている娘には、造作ない事だろう。
(一輪車も、ローラーブレードも、得意で運動神経が良かった。)
そう考えていると、検事が説明しはじめた。 たしか、
「裁判は公平だから、運動が劣っている人と、優れている人と、その間をとる。」
このような事を、とくとくと説明し始めました。
私が、「こうならば、どうですか?」と少しでも、質問しようものなら、
「法律なんだから、仕方がない!」
「そんな証拠がどこにある? 目撃者はいるのか?」...と、まくし立てる。
おそる、おそる、聞く。
「目撃者は、何人くらいいればいいのですか?」
「うーん、3人...4人...10人くらいかな...。」
「...。」 交通事故で、そんなに目撃者がいるのは、まれではないのか?
今更、どうやって探せというのか? そんなに居たら、苦労しないよ。
検事は、続ける。
「目撃者を連れてきなさい。いくらでも、再審してあげるから。」
結局私の最大の質問は、加害者が菜摘みを「見ている」か、「見ていない」か、
検事の答えは、「加害者は供述でも、曖昧」だった。
実況見分調書は、見ていない。
検察審査会は、見ている。
検察庁の資料では、曖昧。
そして、1999年10月には、見ていたと。
どうして、きちんと調べてくれないのだろうか?
亡くなったものの遺族は、知る方法も・権利もない。
主張する場所も与えてもらえない。
「死人に口無し」だ。
検察庁は、机上の事務処理でしかなかった。
なんで何も知らないんだ...と馬鹿にした様子の検事に腹がたって、
「加害者が、一度も会いに来ない。」と、私は言った。
「それは、会いたくないでしょう。」...確かにそうだけど、
H副検事の言い方は、まったく加害者よりではないか?
この人は血が通っているのかと、疑った。
裁判官もそうだった...
時間がたっているから、忘れて仕方が無いという
言い方をする。
私達遺族の時間は止まっています。それを、加害者に強制してはいけないのかもしれないけれど、
時間が経ったから忘れたと言うのなら、覚えている時に説明してほしかった。
「忘れて仕方が無い」というのは、大変失礼な言葉ではないでしょうか。
3時間あまりの話しに、私は精も根も使い果たし、涙も出尽くした。
喉が渇いた。
検事の机の上の、でっかい湯飲みがうらやましかった。
