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参.弥生高砂(やよいたかさご)
その、小屋とも称せられそうに質素な家は、すすきの向こうに建っている。村からは少し離れ、畑も田もない景色の中で、垣根も付けず、すすき野を庭にして、一件ひっそりと建っている。風がすすきを揺らし、日暮れには、焦げ茶の影が長く伸びる。暖かい、母の様な雰囲気をかもし出す、そこが湖野谷家の姉弟が住む家である。 なのに。 それなのに、と書けば、およそご想像頂けよう。 「良い加減にしやがれ、馬鹿姉貴!」 吹けば飛びそうな茅葺き屋根が本当に飛びそうな叫び声は、日常茶飯事であった。 「あっ、馬鹿とは何だい、いつ私がお前さん以下に落ちたってんだい? 仕事一つ、まともに出来ないで」 「俺はちゃんとやってるぞ! 真面目に、いつでも一生懸命、」 「やりすぎて、周りに被害を与えちまうんだろう、お前の場合は!」 「う。でも今回は沙摩姉が悪いんだぞ。何で稼ぎを全部、人に貸しちまうんだよ」 「困ってる人がたまたま、そこにいちゃったんだよ」 「金、絶対帰って来ないぜ」 「月次、頑張って働いてね」 口元を押さえてコロコロと笑う沙摩に、月次の顔が上気した。 「何で俺が! 姉ちゃんを食わす為に、この仕事やってんじゃねぇぞ! 出戻り女!」 地雷を踏んだ。 言った直後に今度は、赤かった顔が一気に青くなった。しかし沙摩の噴火を止める術はない。 「おのれぇ、半人前のくせに、言うてはならん事を口にしおったなあぁ?!」 口は災いの基、と昔の人はよく言った。 この、すすき野を全て灰にしてしまわんとする怒声と轟音が響くと、村人が、ああ今日は退魔さんが帰ってみえてるよ、と噂する。退魔師と言う生業(なりわい)は当時多かったので、さして珍しがられてはいなかったのだ。膨大な退魔料を取らない点が、ウケが良かった。性格も災いして、いつまでも家が小さいままなのも、逆に村人には親しみを持たれていた。 「だって姉ちゃん1人で仕事に行かせると、何かしら銭使っちまって、残らねぇじゃねぇか」 「お前みたく物の怪と一緒に家屋ぶっ壊して、修繕費取られて帰って来る程、間抜けじゃないよ、私は」 「あーっ、言ったな!」 「言ったとも」 人は噂する。 仲の良い姉弟だ、と。 ◇ 天然のボサボサ頭。後ろで束ねているものの、下手に前髪を短く切ってしまった前歴を持つ為これっぽちも収拾が付いておらず、重力を無視してあちこちの毛が跳ねている。 それが結い上げられる日があろうとは思ってもみなかった月次は、不思議な気持ちで姉の晴れ姿を見上げていた。頭のてっぺんから、前も剃らずにだだらに毛を伸ばす月次に、はっきり言って姉を非難する権限はないと思うが。 その月次の方も、今日ばかりは髪結師に頭を整えてもらい、きりりとした、成人男子の面持ちになっていた。この時代の成人は、15歳だ。既に、2年過ぎている。基は悪くないのだから、それなりにすればそれなりになるものだ、と言うのが砂摩の感想だった。 「なかなか、男前じゃないか」 角隠しを付けてもらいながら、沙摩は部屋の隅であぐらを掻く月次に声を掛けた。月次ははすに構え、へっと笑いながら言った。 「その言葉、そのままそっくり返すわ」 「男前?」 沙摩も月次の心境を察した上で、むっとした顔を作ってみせたが、目は笑っている。月次はそれに返答しなかった。 ◇ 事の起こりは、一年前にさかのぼる。 「着物を仕立ててやっておくんなまし」 少し考えればすぐに分かりそうなものだったが、そうして霊の気を鎮めて後、清めの札を当てて印を組んだら、終了だった。薄いわかぎ色の着物は、溶ける様に消えてなくなり、居合わせた者達を感嘆させた。 反物に取り憑いた霊に悩まされていた大旦那は大層喜んだが、沙摩としては素直に笑えない。霊は、大旦那の浮気相手だったのだ。月次が一緒でなくて良かった、と沙摩は直情型月次の激怒の様子を脳裏に浮かべるのであった。 「いや、これで商いも差し障りなく出来ます、有り難うございました」 父親の代わりに店先まで見送りした若旦那が深々とお辞儀し、沙摩を軽く驚かせた。沙摩は慌てて、手を軽く振った。 「面を上げておくんなまし。その様な礼を頂く程の事、何もしておりません」 偉丈夫な青年はすいと背を正して、微笑んだ。その人となり姿形は、娘らを惹き付けるに充分である。呉服問屋の若旦那とくれば、話だって幾らでもある筈だ。沙摩の心に、何故独り者なのだろうと言う素朴な疑問が生まれた。 「これで父も懲りてくれればと思います」 「若旦那さんは、浮気を男の甲斐性と思ってらっしゃらないんで?」 「一生を共にする奥方を悲しくさせるは、甲斐性と申しませんよ」 「お殿様でなくて、よろしゅうございましたね」 沙摩が肩を竦めてふふと笑う様子に若旦那も微笑みで返し、そして、沙摩をじっと見つめて言ったのだった。 「だからこそ奥方には、一生を共に出来る程に聡明で、人の心を分かるおなごを、と思って探しておりました」 「はぁ」 妙に気の抜けた沙摩の返答にもめげず、若旦那は一歩踏み出し、沙摩にかんざしを手渡した。 ◇ かんざしの威力か若旦那の以後の努力か、曲がりなりにも武家の娘と言う肩書きが後押しをして、祝言は滞りなく済んだのだった。大旦那にとっては命の恩人であり、姑とて、夫の浮気相手を撃退してくれた心強い女である。結婚のケの字にも興味のなかった息子が選んだ女なら、と言う事で、新生活においての問題は何もなかったのだった。特には。 「あれまぁ、べっぴんさんが店子(たなこ)に来たのかい?」 「嫁いで参りました、若女将(わかおかみ)でございます。今後もごひいき下さいませ」 きっちりと指先を揃えた丁寧な挨拶でお得意を廻る沙摩に、客の受けは上々だった。 掃除・洗濯・料理の類は今までの生活で鍛えられて来たが、使用人がいる為、気合を入れずとも日々が過ぎて行く。まさにぬるま湯と言える新婚生活に、沙摩はつい、あくびをかみ殺すのだった。 「これ、沙摩。眠うなったなら寝床につかんと、風邪をひくぞ」 後ろから彼女の肩をポンと叩き、若旦那は縁側で月明かりを浴びる沙摩の隣に、あぐらを掻いた。 「吉え門(きちえもん)様」 名で呼ぶ様になったのは半年前からだったが、彼の方は結婚してからようやく、沙摩の事を呼び捨てにする様になった。その誠実さもあって、沙摩は退魔業を捨てる決意をしたのだった。 「お茶なぞ、お持ち致しますか? もしくは、お酒なぞ?」 「いらぬ。お前と座っているだけで良い」 吉え門の言葉に、沙摩は微笑んで座り直した。 「ここの暮らしには、慣れたか?」 「はい。これも、皆様が良くして下さるおかげでございます」 吉え門の満足した笑みを見やった後、沙摩はふと空に目を移してしまった。どうかしたか、と吉え門が体をずらしたが、沙摩は曖昧に笑って首を振った。 見る力もない、全く普通の人間である夫に、気が乱れた、と言ってみても始まらない。反物の一件で経験があるとは言え、あの様なものならば、蚊が飛んだ程度の事件だ。物の怪の存在を説明しても、いたずらに恐怖させるだけである事を、沙摩は熟知していた。 「梅の香がしたかと思いまして」 「成る程」 納得した吉え門が月を仰ぎ、つられた様にして沙摩も天を見た。 「今度、近くの神社にある梅を愛でに参るか」 「それは楽しみでございます事」 合わせて嬉しそうに呟いてみせながら、しかし沙摩の眼光は鋭かった。気が乱れたままなのだ。よほどの妖怪が暴れ、人を殺したと見える。その正体、力加減は護符を8方に置いて遠見をすれば雑作もないのだが、月次にそれが出来たかどうか、沙摩は不安に思った。 「吉え門様。もし、仮に……」 沙摩はそっと、言ってみた。吉え門が向き直り、目を合わせてしまうと言いづらかったが、それでも沙摩は尋ねてみたかった。 「沙摩が3日程、いえ、2日。家を開けたいと申し上げましたら、いかがなさいますか?」 「理由いかんだな」 寛大な吉え門は言ったが、声の音が決して快く思っていない事を、沙摩に感じさせた。 「お前はもう、湖野谷沙摩でのうて、小田原の人間だ。弟の事が気になったのかとは思うが、あやつも1人前の男なれば、お前が気に掛けるは、返って迷惑と言うもの」 見抜かれていた。 沙摩は思わず、頬に手を当てた。図星で顔が赤くなってやしないかと思ったのだ。確かに今の彼女に出来る事は何もないし、してもいけないのだ、と自分に言い聞かせて来た筈だった。だが反面、何かが心の中に引っ掛かった。 きちんと擁護を忘れない吉え門は、 「もう寝るぞ」 と、沙摩の肩をポンと叩いてから笑顔でその場を離れたのだったが、沙摩の心に引っ掛かった何かは、燃焼せずに残ってしまった。 ◇ 「分からん」 感じるどころか、念を飛ばす事さえままならず、月次は8方に置いた札を蹴散らした。沙摩が19の時まだ出来ていなかった技なのだから、今17の月次が出来なくても当たり前なのだが“仕方ない”では済まされない。 未だ依頼になっていないとは言え、天を揺るがす程大荒れをした物の怪である。周囲の人間が出会った惨劇を思うと気になるし、仮に闘う羽目になるなら、相手の力量は知っておきたい。 しかし化け物の居場所すら感知出来ない月次は、舌打ちするしかなかった。気の乱れた方角は分かるのだが、下手に鉢合わせになるのだけは避けたい所だ。例えば手が10本ある様な輩が相手だったら、文字通り手が足りない。しかも月次が唯一まともに使いこなせるのは、刀一本である。一対10。 「考えたくないのう」 「旦那、大変だ!」 すっかり顔馴染みになった飛脚が、慌ててボロ屋の戸をばぁんと勢い良く開けた。ほこりが落ちた。飛脚は顔をしかめて、ぺっぺっと口に入ったほこりを吐き出した。 「旦那、ちったぁ掃除しねぇかい」 「忙しいんでね」 「旦那が忙しくなる程、俺ぁここに依頼を持って来た憶えはねぇぜ」 「ほっとけ」 「おっと、そんな話じゃねぇんだ! 西の山向こうの村がつぶされちまったんだよ!」 丁度、月次が探ろうとしていた方向である。今は翌昼、もう飛脚がこの話を持って来たという事は、そう遠くない村なのだ。月次はますます憂鬱な顔をした。 「助かった村人は気が狂っちまって、蜘蛛だとか何とかわめいておる。旦那向きじゃねぇかと思って、隣村の村長に話をつけたんでぃ」 「おめぇの事だ、ちゃっかり前金貰っちまったんだろうな?」 「次はわしの村じゃ言うて、村長が怯えとったからの」 言って、飛脚が銭を投げて寄越した。月次らの代わりに、その広い情報網から仕事を取って来てくれる手腕は有り難いものだったが、月次はいつも、今一つ腑に落ちないものを感じながら、飛脚からの仕事を受け取るのだった。 しかも今回、10本ではなかったとは言え、 「一対8か」 苦い顔をして、月次は呟いた。 ◇ 沙摩は寝床の中で、ばっと目を開いた。 全身の毛が逆立つ様な悪寒を憶え、思わず寝床から飛び出した沙摩に気付いた吉え門も、目を開けてしまった。 「どうしたのだ?」 だが沙摩は縁側に片膝を突き、ぴくりともせず空を睨んでいる。沙摩にだけ感じられる気の乱れが、昨晩と同様に天を揺るがしていた。 しかも昨日より乱れ方が荒く、しかも近い。この町ではないが、付近の村には違いなかろう程に、“気”が非常に近く感じられる。沙摩は胸を押さえ心を静めようとしたが、焦りが募った。 一旦部屋に入ろうと振り向いてから沙摩は、初めて吉え門を起こしてしまっていた事に気付いた。 「申し訳ございません」 「何か……。感じたか?」 吉え門は沙摩が決して語ろうとしなかった稼業の事を思い起こした。 「何かいたのか?」 「いえ、ここではございませんが」 「では、寝なさい。明日も早い」 ねぎらう様に言い布団に入り直す吉え門に体を向けて、沙摩は正座をした。手を突く。 「吉え門様」 夫は感情のこもらない顔で、沙摩を見た。 「2日、頂戴出来ませんでしょうか」 「ならん」 即答だった。 「では、一日」 「駄目だ」 沙摩は顎を引いた。昨日心をくすぶらせた何かが、胸の内によみがえった。退魔業が死に関わる程危険である事を、吉え門は知らない筈である。仮に知った上で言っているなら、何故、冷たい目をして話す必要があろうものか。未だ祝言から、一月と経っていないのだ。 吉え門は言った。 「お前はもう足を洗ったのだ。行く事、まかりならん」 息を止めた。 胸の中のくすぶりが、形を成した。 沙摩は夫と思っていた男を、凝視した。 吉え門の顔は再び、慈愛の相になった。冷たい目は、ほんの一時でしかなかった。 しかし。 ほんの一時、ほんの一言が、沙摩に心を悟らせた。 砂摩はすいと立ち上がり部屋に入ったが、寝床にはつかなかった。 「沙摩や?」 押入を開け、お茶箱を取り出す。嫁入りの際に持って来た、数少ない荷物である。桐で組まれた半畳ほどの広さを持つお茶箱の蓋には、焼き印が入っている。3角紋だ。 旅路向きの軽装に着替える沙摩に、吉え門はもはや何も言わなかった。 部屋を出る前に沙摩は正座して、膝の前にかんざしを置き、しゃんと背筋を伸ばして、深く礼をした。 ◇ 嫁入りの時に稼業を捨てるのだと覚悟した沙摩は、手ぶらである。小田原の家に起こる程度の霊現象ならば、媒体を使わずとも何とかなる。わざわざ札を使うのは用心の為と、後は言わば形式だ。 沙摩は“気”を感じる方向に疾走しながら、苦笑した。 もし小田原の反物を素手で清めていたら、それでも吉え門は結婚してくれただろうか、と思ったのだ。それを気に掛けた事もあって、退魔業を捨てる気になった筈だった。また簡単に戻ってしまった自分に、沙摩は更に苦い笑みを洩らした。 例え、やくざな仕事と思われていても。 一人の死体、一体の傷付いた魂を目の当たりにするたび。 「う」 沙摩は足を止め、村の一角に倒れている男らしき肉塊に、思わず口を押さえた。普通に、人間に倒された死体ではない。更に村の奥へ走って行くと、2・3人分の死骸が転がっていた。何度見たとても、見慣れない光景だ。未だ生暖かい肉に、既に息はない。 全滅か、と思った時、誰かの呻く声が砂摩の耳に入った。すすり泣く声も聞こえる。思いの外、助かっているらしい。沙摩が再び“気”を辿ると、そこに月次のものがあった。喜びと怒りが、彼女の胸を熱くした。 “気”を探る事は忘れないまま、沙摩は息の残る村人の様子を確認して行った。先ずは無事そうだと判断した彼女は闇にひそみ、月次の後を追った。 村から妖怪を引き離したまでは良かったが、苦戦を強いられている様である。 手の平ほどの蜘蛛が大量にうごめくよりは、人の大きさがあったって一匹の方がまだマシだと自分に言い聞かせながら月次は走っていた。だが蜘蛛の足先が刀同様に鋭い為、やはり一対8の不利には違いない。 人の言葉や姑息な技を持たない分、大蜘蛛の動きは速く、力も強い。しかも元々細々とした所にひそむ生き物である。月次は相手の動きを鈍らせようと、林に飛び込んだ自分の浅はかさを呪った。おかげで、腹に気を溜める余裕が持てない。 気が溜まらぬ原因はこれもあるかな、と月次は腹の少し上を押さえた。血が手の平を染めた。月次は顔をしかめながらも走り、追って来ている筈の大蜘蛛を振り返った。 「あり?」 大蜘蛛の姿がない。上を見たが、いる気配は感じられない。月次は周囲をうかがった。 「そこか!」 月次は懐から小柄を取り出し、投げた。しかし慣れぬ小柄投げに勢いはなく、茂みからガサリとそれを避ける音がして、月次は舌打ちした。が、その直後音を立てた者がばっと飛び出し、月次に襲いかかったのだ! 「この、お馬鹿ーっ!! 」 ハリセンなら、なお似合ったであろう。 気持ち良く頭を張り飛ばされた月次は、小田原の家で安寧な暮らしをしているとばかり思っていた姉の存在に驚きを隠せなかった。目を丸くして、見慣れぬ髪型と見慣れた格好をした沙摩を指さす。開いた口は何かを言いたげにパクパクと動いたが、月次は声を出せなかった。油で整えたその髪は乱れ、息も上がってしまっている。しかしふんぞり返って腰に手を当てるいでたちは相変わらずで、何故か月次は心が落ち着いて行くのを感じた。 「“気”位、すっと読める様にならないかい! 無駄に人死に出しやがったあげく、手こずってるなんて!」 「間に合わなかったんだよ!」 「間に合え!」 漫才の様な口論を止めた2人は、同時にその場を飛び退いた。この時代には存在しなかったが、もしあったなら、それを“地雷”と思ったに違いない。土の塊が、波が砕ける様にはじけ飛んだ。土にまみれた巨大な蜘蛛が這い出て、触手をひくひくと動かしていた。 「土蜘蛛!」 沙摩が短く叫び、月次は歯がみした。すぐ地を蹴り、飛び上がった月次が土蜘蛛に向かって剣を振り下ろした。その勢い、力は先程までの彼になかったものである。 月次の刀が蜘蛛の足を一本、切り落とした。 着地した直後、荒れる蜘蛛の振り回す足から身をよじって逃げる。沙摩が月次を呼ぶ声には、それから気付いた。 「何かちょうだい!」 「沙摩姉、手ぶらかよ」 「当たり前だろ!」 だが足を切られた怒りに暴れる土蜘蛛は、月次に突進して行く。無意識に月次は沙摩がいる方向と反対に逃げてしまった。大蜘蛛は沙摩に背を向けた。 大蜘蛛が月次にのしかかった。 月次は刀の先を左手で支え、蜘蛛の足をくい止めた。しかし力比べの状態になってしまい、蜘蛛をはね除けられない。蜘蛛も4本の足を突っ張って月次への一撃に力を込めている為身動き出来ないでいたが、少し力をずらせば足の一本位、何とかなる筈である。蜘蛛がそれにまだ気付かない程度の知能であったのが、救いだった。 とは言え、月次の方が圧倒的に不利である。忘れておけば良かったのに傷の事を思い出した途端、腹が焼ける様な痛みにうずきだした。 焦点がずれて来た。 「爆!」 沙摩が念を発した。 蜘蛛の背に、砂ぼこりが立った。 しかし、それだけであった。素手では限度があるのだ。だが大蜘蛛の注意を逸らすには、充分であった。もう一体の小うるさい敵に気付いた蜘蛛が、そちらを見た。 その額に。 とん、と小柄が突き立ったのだ。 「封じられませい!」 小柄から起こる浄化の光が、土蜘蛛を苦しめた。蜘蛛が叫び声を上げた。巨体に似合わない甲高い、空気をこすり合わせた様な声だった。 月次が剣を構え直し、振り下ろした。 「言向けやわす!」 大蜘蛛の首と胴を分散し、刀は更に胴の真ん中へと突き刺さった。月次は叫んだ。“力”の全てを蜘蛛に叩きつけんとする程、喉を枯らして叫んだ。叫び声は、言葉になっていなかった。 ◇ 大蜘蛛の姿が消え去ったその後に、ゴミ屑の様に小さな黒い蜘蛛の死骸を見付けた沙摩は、そっとそれに土をかけ、手を合わせた。 仰向けになり、さらしを巻き付けた腹を押さえて休む弟のかたわらに沙摩はしゃがみ、大丈夫かい、と声を掛けた。 「手ぶらじゃなかったのかよ」 素直に有り難うと言えない辺りがまた、月次らしい。沙摩は、気にしなかった。代わりに不敵そうに、ふふと笑ってみせた。 「さっきあんたが、蜘蛛と私を間違えて放って寄越したヤツさ」 月次は脱力した。そう言えば先程、小柄を投げた。尊敬の念は表に出さず、月次は憮然として言った。 「小田原の家、良いのかよ。こんなんに、首突っ込んでよ」 「首を突っ込んでるんじゃなくて、足が抜けないんだよ」 溜息混じり遠くを見て、沙摩は言った。明日の、いや、もう今日である。東の空が薄明るい。今日からの小田原家、吉え門との事を思うと確かに苦いものが口に広がるが、何故か心は、どこか軽かった。 「頼りないのが一人じゃあ、湖野谷の名も地に落ちるからねぇ」 月次はうるせぇとか何とか呟きながら立ち上がり、刀を鞘に納めた。 「ガキ扱いするなよ」 「ガキじゃなくなったら、そうするさ」 ぶすくれて歩き出す月次の背からはしかし、彼の秘かな安堵と喜びが感じられた気がして、沙摩は笑みを洩らした。 晴れ晴れとした笑みだった。 FIN 後書き index |