闇月龍
  壱.卯月鬼(うづきおに)


 うららか、と言う言葉が、計らずとも出て来てしまう、うららかな春の日。微かにそよぐ風に、ひらり、と上品な花びらが流れた。
 花びらは、艶やかな黒髪に惹かれる様に留まった。最初、彼女は気付かなかった。下克上の動乱の世に似合いすぎる、強さにあふれた瞳は美しく、桜の花びらを自分の髪に見付けた時に洩れた笑みが、更なる美を誘った。
 少し低い、なめらかな声だった。
「風流だね」
「左様け」
 少しハスキーな、とぼけた声だった。
 女は素っ気なく団子をむさぼる男の後頭部をペシンと叩いた。たおやかな仕草の割に、かなりの音がして、男は前にのめった。
「ってぇ。何すんだよ」
 ざんばら髪は日に焼けバサバサで、茶色に近い。それを後ろで束ねている。ずいぶんと不精者の様で、うっすらと髭も見える。が、茶毛の間に見える目には、幼さが残るものの、彼の隣りに座る女よりも意志の強い光がたたえられていた。
 年の頃は19かはたち、女の方が20代半ばと言った所か。
「いい年こいて、花見に団子かい。え? こんな峠の茶屋でこんなに見事な桜を愛でられて、幸いと思わないかい?」
「花より団子」
「・・・お前さん程、そのありきたりな言葉が似合う男もいないね」
「沙摩(さま)姉こそ、その気の毒な花びら、取ってやったら?」
 男が女の――沙摩の髪にからんだ1辺の花びらを、団子の串で指した。取りながら、沙摩が怪訝な顔をした。
「気の毒?」
「そう、沙摩姉ちゃんの髪なんぞに付いちまって気のど・・・あう」
「弟の分際で言いたい事言うんじゃないよ、月次(つきじ)
 手加減なしで、弟は姉に殴られた。
「姉の分際は、弟を殴り放題にして、良いってか?」
「うん」
 静かに、しかし自信に満ち溢れた返答である。月次は反論もする気をなくし、空に向かって溜め息を吐いた。団子をすっかり食べ終わり、名残惜しそうに串だけを口にくわえ、もてあそぶ。
「しかしつまらんな。何かこう、ぱっとする事はないんかね」
「今その、ぱっとする仕事に向かってる所じゃないか」
「あぁ、かったるいのう」
 どっちだい、と呆れたその言葉を、沙摩は口にしなかった。近付いてくる足音と叫び声に気を取られたのである。沙摩は、月次に笑いかけた。
「ぱっとした事が、向こうからやって来た様だねぇ」
「いや、俺としてはべっぴんさんに来て欲しい所なんだけど・・・よっしゃ!」
 姿の見えてきた一行を目にして、月次は串をプッと吹き出し、勢いを付けて立ち上がった。
 男が3人程。若い娘を追っている。御約束な感じ。娘はさらりとした長い黒髪を風になびかせ、何かを思い詰めている面持ちで山道を駆けていた。待てい、と定番の叫びを上げつつその後を追う男らは、役人の様な格好をしていた。
 彼らに気付いた娘を背にかばい、月次は役人に不敵な笑みを向けた。
「ここはべっぴん以外、通行料が要るんだぜ」
「私ならタダ」
 沙摩の呟きを、月次は敢えて無視した。
「貴様、かばいだてしよるか! 容赦せぬぞ!」
 闘争本能むき出しの役人に、月次、思わず、
「お、いいねぇ」
 と言ってしまった。更に役人達が顔を赤くした。走って来た為、息も荒い。
 そう言えば、と沙摩は思った。月次の背で、不思議そうに、不安そうに成り行きを見る、娘。息が上がっていないのだ。
「駄目です、逃げて!」
 娘が叫んだ。月次の肩を揺らす。ちょっと良い気持ちになりながら、月次は肩越しに娘を見て、
「でももう、けんか売っちゃったし」
 と、役人を指さした。猪の様に、屈強そうな男が彼に突進して来ていた。月次はそっと娘を下がらせると、正面の男の横っ面を張り倒し、7尺飛ばした。
「遠慮なく行こうじゃない?」
 そう言う間に、もう1人。次の瞬時に3人目の腹を殴れば、もう終了であった。急所を打たれ、足に来た役人風の男らは呻くばかりで立ち上がれなかった。
「あかん、こいつら、弱すぎる」
「お前さん、手ぇ抜いたね? 何で気絶させないんだよ」
 沙摩は困った顔をして弟の茶目っ気に溜め息を突いた。娘は一連の出来事と、そんな2人の様子を、呆気に取られて見ていたのだが、男達の呻きの響きが変わったのを聞いて、青ざめた。
「駄目! 駄目です、逃げて下さい!」
「へ?」
 2人は不可思議な顔で、娘を見た。娘は男達を凝視していた。両手を頬に当てて、おろおろとしている。2人は、視線を男達に向けた。沙摩が事の異常に気付き、立ち上がった。
「うわ」
 思いがけず嫌なモノを見付けてしまった時の調子で、月次が声を上げた。沙摩は袂に手を入れた。月次も背の刀に、手を伸ばした。
「お願い・・・。かなわないわ」
「だが、あんたなら何とかなるかい?」
 そう言って月次が指をさす、かつて人間だった男達は完全に1つの肉の塊になりつつあった。3人分の目鼻口、3人分の手足が適当に付いている。衣服など着れるべくもなく、沙摩は顔をしかめた。
「上様にたてつく奴等・・・容赦ならぬ」
 その声は何重もの音となって、月次らの耳にいやらしくまとわりついた。普通の人間なら気絶しても不思議ない。現に先の乱闘で、何事かと顔を出した茶屋の主人は、既に戸口に倒れている。それを見て、勘定払わんでもばれないな、と考えるのは月次位のものであろう。
 化け物が、ずずと動いた。沙摩が小柄(こづか)を手にし、月次も刀を抜いた。何事かを呟いている。2人の詠唱に、化け物がぎくりとした。
「覚悟せい!」
 化け物が、その塊に似合わぬ俊敏さで2人に襲いかかった。
 娘が小さな悲鳴を上げたが、2人は臆せず同時に、
「封じられませい!」
「言向けやわす!」
 塊に、刀を突き立てた。
 それで終わりだった。電気の様な光がバチッと走った様に見えるその現象を、ごく普通の人間は見る事が出来ない。肉の塊が発する白い煙も、普通は見えない。だが、娘の目は煙を追って、空を仰いでいた。
 じわりじわりと、塊が3人の人間になっていく。沙摩と月次の刀が、男らからはずれ、落ちた。男らは気絶しており、刀傷がどこにもない。当たり前の様に2人は、それを拾い上げた。
「さて」
 沙摩が娘に向き直った。男らには、もう目もくれない。彼らが何も憶えていないだろう事、娘が少なからずは何かを話してくれるであろう事を、沙摩は悟っていた。

          ◇

「逃したか」
 はっ、とかしこまる紋付き袴の家臣が頭を畳にこすりつける相手は、天守閣から城下を見下ろした。厳しい目が、白い眉の下で細められている。鼻の下に豊かにたくわえられた白髭に隠れて、口元が密かに笑いを洩らした。
「良い」
「は?」
「捨て置け。所詮おなご、桜に気がふれたのじゃ」
「は。しかし・・・。いや。今年も見事に咲きましてございますな」
 深い皺を作りくっくと笑う初老の城主に怪訝な顔をしながらも、家臣は上がってしまった頭を再び畳に落とした。
 城の庭から桜の香が、城主の鼻にまで届きそうな、見事な満開である。淡い薄紅色に良く映える女の風情を、城主は脳裏に思い起こし、一瞬遠い目をした。
 だが彼はすぐに、先程から気付いていたある気配に向かって“気”を飛ばした。
 見えない攻防。
 彼の頬に、深紅の筋が斜めに走った。傷は浅く、血が流れ出るには至らなかった。
「今宵、夜営を増やせ。襲撃に備えろ」
「は」
 とかしこまり、承諾した様な家臣の表情はしかし、合点が行かない様子である。城主は彼を一瞥し、再び城下の桜に目を落とした。
「ネズミがひそむ」
 城主は髭の下、唇を歪めた。こしゃくなネズミの技に苛立ちを感じた筈の彼の口元が、何故か笑っている様にも見えた。

      ◇

 沙摩がギクリと目を見開いた。
「沙摩姉!」
 月次がすかさず剣を振る。が、力は、沙摩に命中した。
「うわっ」
 バチッと音が走り、彼女の右腕がはねた。袖が焦げた様にちぢれて、肘の下が2寸程パックリと切れた。左手で押さえたその指の間から、血が流れる。沙摩は畳の上、右手を突いて足を崩した。彼女の8方に置かれた札の1枚が完全に焼け焦げていた。
 そばで正座して様子を見守っていた先の娘が、血相を変えて部屋を飛び出した。
「沙摩姉、ごめん」
「何がだい?」
「防ぎきれなかった」
 沙摩は平然と、笑みさえ浮かべて自分の右腕が血を流す様を見た。
「ま、死んでたら、ちょっと地の底まで恨むだろうけど。お陰さんで、生きてるしね」
 『ちょっと地の底まで恨む』所に妙にリアリティがあった為、月次は沙摩が生きている事にほっとした。
 剣を戻し、座り直した頃、娘が薬箱を持って戻って来た。その後ろを、太った中年の男が着物の裾をまくり、ドタドタと入って来た。
「大丈夫でございますか?!」
 男は畳に点々と落ちる血の跡に若干顔色を変え、すぐに女中に雑巾を用意させた。胡座を掻く月次は、聞こえない様に鼻で笑った。
「すまないね、那与伎(なよぎ)さん」
 那与伎、と呼ばれた先の娘は、沙摩の腕を治療しに掛かっている。その手付きは、慣れていた。沙摩は娘に腕を預けたまま、中年の男に向き直った。
「町長さん。百鬼夜行の正体は、やっぱりお殿さんだね。那与伎さんの言った通りだ」
「ご城主様が」
 町長である中年の男の顔が、青くなった。
 人柱を立てよ、と幾夜かに1度、奇声を発して町をうろつく、人ならぬ連中の姿を、目にした者はいない。見た者は翌朝、死体となっている為である。こっそりと戸口の障子に穴を開けて見ようとしたらしい者は、玄関の中、屈んだ状態で凍り付く様に死んだ。声だけなのだ。その声は、およそ想像し得る限りのおぞましい人外の生き物を脳裏に思い起こさせ、どんな姿を見る以上の恐怖を人々に植え付けるのだ。耐えられなくなった町民が狂って“彼ら”の前に立ちはだかった、と言う噂もある程だった。
 そして“彼ら”が通った後には、必ず白羽の矢が1本。若い娘が居る家に立ち、娘は、どんなにしてもいつの間にかいなくなり、2度と帰って来ないのだ。
「これで5人でございます。皆、気も休まらず、眠る事もままなりません。湖野谷様には是非とも、根源を絶ち切って頂きたく・・・」
 そう言って平伏す町長にもまた、うら若い娘が2人程いた。その災厄が我が身にもふりかかる恐れのあるが故の行動なのだろう、と思う故に、月次の態度は冷たかった。しかし沙摩は、苦笑混じりにそんなもんさと言ったものだった。
 包帯を結び終えた那与伎に沙摩は礼を言い、右腕を動かしてみた。じわりと痺れの様な痛みが走るものの、今迄通りの動きは出来そうである。
「本物のご城主様は・・・」
 顎を震えさせながら、町長が言った。
「そりゃ分からないね。だが今の城主が人外の物なのは、間違いない」
 那与伎が眉をひそめて、畳を見た。

      ◇

 兄を軟禁され、連れ戻す為に城に侵入したのだと言う那与伎の説明を、沙摩は、にわかには信じ難かった。
 白く抜ける様な肌と大きな潤んだ瞳を持つ那与伎の体は、華奢だ。出会った時、彼女は息も着物も乱れていなかった。いくら城で物の怪に出会った為免疫が付いたと言っても、では、何故、その物の怪らから逃げおおせる事が出来たのかと言う問題が出る。
 だがそれを信じる事にし、那与伎の願いを承諾したのは月次だった。
「出会え、出会えー!」
 城の庭を走る雑兵が叫び、わらわらと1群が侵入者の捜索に当たる。が、その頃には既に侵入者は城の中であった。
 闇にひそみ彼らは、天守閣目指して走った。那与伎の兄を捜す手間より、大元を片付ける方が先決なのだ。
「気になるね」
 疾走しながら、沙摩が呟いた。月次は聞こえない振りをした。それを知っているので、沙摩も構わずに続けた。
「昼間の術と言い、今迄の輩とはちょいと訳が違いそうだ。あの那与伎さんには、もう少し話を聞く必要があったんじゃないかね」
「疑ってるのか?」
 月次が言った。
「惚れたかい?」
 沙摩が返す。鋭い突っ込みに月次は再び、黙った。
 軽業師の様に城の柱を駆け上って行く彼らを見付ける事は困難で、不運にも見付けてしまった兵らはその場で意識を奪われていた為、外の喧噪に比べ、2人の周りは驚くほど静かだった。
 静かなその空間に、月次の観念した溜息が淀んだ。
「例えば罠にせよ、俺はあの目を信じた。1度うんと言ってしまったんだ。今更、引けない」
「ま、それにあの子がいてもいなくても、私らの仕事は1つさね」
 にやと笑った沙摩の言葉に、月次は苦虫を噛みつぶした様な顔をした。

      ◇

 城主はまるで、待ちかねた客を迎え入れるかの様な笑みで、2人の侵入者を手招きした。最上階は砂摩らの思っていたよりも広く、40畳、いや50畳か?などと思いつつ、砂摩は周りに気を配った。
 誰もおらず、城下に騒がしく聞こえていた足軽・侍らの声も途絶えた。この城主の振りをした者が彼らを操る事を止めたのだと見て間違いないだろう。それだけ、本気でかかるつもりでいると言う事だ。沙摩は袂から小柄を取り出した。月次も、背の剣を抜いた。
「人界を荒らす人ならぬ者。何の企てのあってかは知らぬが、ぬしを言向(ことむ)けやわす」
「ほっほ」
 月次の口上に対し、城主が面白そうに袖で口を押さえた。が、その目はもはや笑っていない。
「言向けやわす、とは。思い上がったものだ」
“言向けやわす”とは“成敗する”の意味に当たる。その昔ヤマトタケルが荒ぶる神々(物の怪の類)を封じる際に用いられていた言葉だった(※古事記より)。
「問答無用!」
 月次が走った。上段から振り下ろされた剣を、城主は左腕をひょいと上げ、肘で受けた。
 金属音。
 すかさず彼の右肩に、沙摩の小柄が食い込んだ。ざっくりと着物を裂き、脇の上、間接の内側に小柄はストンと入った。沙摩は印を組んだ。
 だが。
「こしゃくな事をしおる」
 ハエでも追い払う様に月次の剣を払った彼の左腕は生身で、しかも血も、切り傷ひとつすら付いていなかった。小柄も然り。彼は無雑作にそれを引き抜き、沙摩に向かって放り投げた。
 ひょいと。
 なのに。
「うわ」
 小柄は尋常でない速さで、沙摩の眉間に迫った。慌てて避けたが、頬をかすって行った。奇しくも、昼間城主の頬に付けたと同じ箇所が赤く染まった。沙摩は舌打ちした。彼らが“力”を込めた刃先が全く相手に届かないと言う事は、今までなかった。霊をも切るから、退魔師なのだ。
 飛び退いた月次は、沙摩が無事な事を確認してから、首にかかる髪を払い、城主に化けていた男に、ヘッと笑って見せた。
「お殿さんに化けるモンよりは、恐れ多くないと思うがね」
 半ば変化の解けた城主の下から覗く人外の者の素顔は、意外にも若い男の様相であった。口髭がなくなり、髪が黒くなり、顔の輪郭も変化しつつある。
 沙摩が先程投げた小柄を拾いつつそれを見て首をすくめた。
「変化の下の変化かい? そうでないなら随分良い・・・」
 男だねぇ、まで言えずに沙摩は息を呑んだ。月次も軽口を叩けなかった。
 気付いて一気に変化を解いた男は、那与伎だったのだ。いや、正確には違う。さらりと腰まで真っ直ぐに流れる漆黒の髪、抜ける様に白い肌とすっきりした顎のライン。体躯が違わなければ、彼女と見まごうばかりである。違うのは、目だった。鋭く長い目から発する憎しみの光が、彼を那与伎でないと知らしめる。
 さすがの砂摩の顔にも、表情が浮かんだ。月次はもっと分かり易く、歯がみしていた。その目に哀しみが浮かんだ。男は冷笑した。
「2人の退魔師とはの。あやつも良い贄(にえ)を寄越してくれたものじゃ」
「嘘だ!」
「月次!」
 再び走り込んで振り下ろす月次の剣を、またもや彼は生身の腕で受け止めた。またしても金属音が響き、剣の刃がこぼれた。
「頑丈なこった」
「ぬしらに、わしは切れぬ」
「どうかね」
 男の真横で、沙摩の声がした。彼女は男が月次の剣を受けている間に左へ回り込み、彼の背に符を貼った。そのまま飛び退き男の一撃をかわすと、沙摩は一回転して身を起こした。一連の動きに隙を見付けた月次が再び、剣を振った。
 2人の叫びがだぶった。
「封じられませい!」
「言向けやわす!」
 男の背で札が弾け飛ぶのと、月次の剣が男の腹を突いたのは、ほぼ同時だった。確かな手応えに、月次の気がゆるんだ。通常であれば、これで相手の姿も気もかき消える。柱に手をついて立ち上がった沙摩は、成り行きに悲鳴を上げた。
「月次!」
「効かぬわ」
「ちょっと待て、うわ!」
 いささか間の抜けた叫びにも臆せず男は身をひねり、素手で月次を殴りつけたのだった。刺さった刀を物ともせず、やはり血も流れていない。月次の体が畳を滑った。男がそれを追いつつ体から剣を引き抜くと、月次に向けて振り下ろした。
 彼らの間を、沙摩の小柄が飛んでいった。
「ありゃ」
「姉ちゃん!」
 だが空を切っただけの砂摩の援護は一応の足止めにはなったらしく、速度の鈍った刃先を、月次は剣客よろしく白刃取りにした。腕をひねり刀を取り戻そうとしたが、男の力は意外なほど強く、刃が動かない。
「贄はおとなしゅうしておれ」
「うるせえ!」
 男の言葉にカッとし足を振り上げたが、月次の蹴りは男に届かなかった。流麗な動きで一歩退いた男が、左手の平を月次にかざした。沙摩は嫌な予感がして、再度札を持って走ったが、間に合わなかった。
「憑かれませい」
 ドン、と衝撃が走った。
 瞬時の出来事であった。
 やばい、と思った時には、月次の体は空を飛んでいた。物でもなく、実体のない光の塊がまともに月次の胸を突き、吹っ飛んだのだった。
 障子を破って飛んだ彼を支えるものは、何もなかった。手摺りをも越えてしまった彼は、城下に広がる桜の群に自分が近づくのを感じた。狂気に近い沙摩の叫び声が聞こえた気がした。呑気にも、しまった旬のウド、未だ食ってねぇやとも一瞬思った。思った時に男の言葉が憑鬼の術である事の気付いたが、がむしゃらにも跳ね返したらしく、体内に鬼の宿った気配がなかったので、ホッとした。ホッとした事に自嘲の笑みを浮かべながら、月次は落ちた。
 落下が止まった事に気付くのも、やはり瞬時の出来事であった。

      ◇

 月次の腕を掴み、引っ張り上げた者の姿を、誰もがにわかには信じ難かった。空(くう)を飛ぶ術(すべ)と言い、大の男1人を引っ張る力と言い、いくら彼女が人外の者かも知れぬと言われても、到底似合わぬ仕草である。天守閣に降り立つ姿もまた、繊細であった。
 その顔は月明かりにふわりと輝いた。潤んだ瞳と可憐な口元が、夜桜より尚映える。彼女は泣きそうになりながら月次にごめんなさい、と言った。真意は、分かりかねた。
「おのれ、那与伎! 邪魔立てしおるか!」
 声を震わせる男の様子に、沙摩は彼の怒りと狼狽を見て取った。
「薙(なぎ)。もう、およしなさい」
 那与伎の声が、悲しみに揺れた。静かな呼び掛けとはうらはらに、2人の間に殺気が高まった。
 手摺りの際に沙摩はすいと近づき、月次に耳打ちした。
「大丈夫かい?」
「ああ。何とかな」
「憑かれちゃない様だね」
「・・・心配はそこかい」
 月次は目を細め、眉間にしわを寄せた。そんな月次を無視して那与伎を見ると、何と彼女は薙と呼んだ男に向かって走り出すではないか。
「那与伎さん!」
 2人の声が重なった。一瞬ゆらりと空気が薄紅色に揺れた。
「乱舞」
 静かな言葉だった。
 歌う様な華やかな声に惹かれたかのごとく、無数の花びらが宙を舞った。それは生き物の様にうねり、薙と那与伎を取り巻いた。
 2人が揉み合った。
「姉ちゃん、札くれ!」
 沙摩は月次に1枚手渡し、自分も小柄を手に駆け寄った。
「おのれ、離せ! 離さぬか!」
 薙が手にした月次の刀に食らい付き、那与伎はそれを取り戻さんとしていたのだ。薙が怒りの形相もあらわにしつつ、那与伎に向けて手をかざした。
「憑かれませい!」
 衝撃。だが間に合った月次によってそれは遮られ、彼が手に持っていた札が四散した。そこに沙摩が走り込み、薙の手に小柄を打ち立てた。
「うお!」
 きっと彼は、やはり痛みも感じていなかったに違いないのだが、驚きの為声を上げてしまったらしく、手元がおろそかになってしまった。
「月次様!」
 力一杯剣を引っ張った那与伎が、それを月次に放った。もう片方の手は薙を掴んだまま離さず、花びらもまた、那与伎の言葉通りに彼女の周囲を舞い続けている。
 月次はぎょっとした。
 沙摩の小柄が傷付けた男の手から、煙が出ていたのだ。実体を持たない物の怪は血を流す事がなく、代わりに煙となって浄化して行くのである。もしくは、札に封ぜられるかのどちらかだ。沙摩の技が効いたと言う事になる。
 だが、何たる事であろうか。
 月次が驚いた事は、そこだけではなかった。傷付けられていない筈の那与伎の手元もまた、薙と全く同じ箇所から煙を噴いていたのだ。
 驚愕の表情を見せる月次の心中に気付いた那与伎が、華やかな笑みを浮かべて見せた。
「早う。私と一緒に、お斬り下さいませ」
「止めんか! 離せ!」
 薙のもだえが、見えぬ力に抑え込まれている様だった。それが那与伎の“力”であるとはすぐに理解出来たが、今のままでは納得が行かない。月次は躊躇した。
「おのれ!」
「あっ!」
 剣を構える前に、薙が那与伎を突き飛ばした。力負けしたのだ。桜の花びらが、しなしなと床に落ちた。
「憑かれませい!」
 今度は、間に合わなかった。
 衝撃が那与伎を突き、月次が差し伸べた手も間に合わず、天守閣の外に放り出されたのだ。
 だが薙もまた、同じく吹き飛ばされた。沙摩によって。
「爆!」
 彼の背に回り込んだ沙摩が印を組んでいたのだ。那与伎と同じ軌跡で、薙の体も手摺りを越えた。それを那与伎は見た。
 中空で彼の背を目にした那与伎は、薙の腕を捕らえ、一塊りになった。戻ろうとして手を伸ばす彼を那与伎が阻止し、2人は落下を始めた。だが人外の物たるは、地に落ちた位で死に至るべくもない。落ちるだけでは無駄なのだ。那与伎は天守閣にいる月次に、懇願の目を向けた。
 月次も先の一件で、おおよその検討は付いていた。あの2人が、1体の物であると言う事を。
 迷っている暇は、なかった。
「月次!」
 叱咤するかの、沙摩の声。月次は、飛んだ。
 疑問は沢山あった。
 何故2人が“2人”になったのか。
 目的は何だったのか。
 本当に那与伎は、月次らを贄とし薙の元に向かわせたのか。
 何故最初に、彼女が追われていたのか。
 切りがない、無駄な疑問であった。
 兄を救ってくれと言った那与伎。
 そして、自分と一緒に斬れ、と言う。
 今、懇願する彼女の目だけが、月次の真実なのだ。
 地面が迫っていた。
 月次は剣を構えた。
 那与伎が微笑んだ。鮮やかな笑みだった。
 対照的に、薙の顔が歪んだ。
「言向けやわす!」
 桜が散った。

      ◇

 からん、と妙に軽い音と共に地に落ちたのは、1振りの刀だった。後には何もなかった。薄紅の風に溶け入る様に、2人の姿は消えた。剣は月明かりに冴え冴えと輝いた。
 月次は自分の刀がボロボロに刃こぼれしたのをしばし眺め、おもむろにその剣を拾い上げた。恐ろしい程に良い作である事が、目利きの薄い月次にすら分かる品だった。程なくして沙摩も降りて来て、全てが終わった事を知った。
「月次、その刀。何か分かるかい?」
「多分な」
 沙摩は愉快気な顔をした。ほお、と言いた気である。
「草薙の剣だろ」
「当たり」
 沙摩が腕を組み、月を見上げた。良い月だった。丸く、煌々と桜の散り際を照らしている。那与伎の潤んだ瞳を思い出させる夜だ。
「それ、お前さんがお使いよ。薙の思う世直しとは、少し違うかも知れないけれど。お社(やしろ)に安置されるよりは本望だろうさ」
「そんな事言ってたのか?」
「憶測」
 沙摩は微笑んだ。
「草薙の剣は、竜の尻尾から出現したんだ。元の鞘に納まったと思っちゃどうだい?」
「まあ、俺はまだ尻尾だけみたいなもんだけどな」
 自嘲気味に月次は言いつつも、その剣の柄に封印の札を巻き付けた。いずれきちんと紋を彫り込む事になる。刃こぼれした自分の刀や、札にも書いてある、3つ鱗の家紋を。龍神の印だ。
 月次はいたわる様に、剣を背に納めた。
「強い味方が出来たじゃないか」
「だと良いがねぇ」
 どこからか、兵士らの呻く声が聞こえて来た。2人は慌てて城を離れる事にした。本物の城主が何処かは別問題であり、2人はそこまで責任を負わない。
 走り出した月次の背で、刀がカシャンと鳴った。
「あー。那与伎さんだけ時々現れて、添い寝してくれるって事ぁ、ねぇよなぁ」
「阿呆」
 名残惜しむかの様な風が木々を揺らし、桜の花びらがぶわりと舞った。




                                     FIN



    後書き
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