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番外編.師走白夜(しわすびゃくや)
流れる水の勢いはゆるく、思いの外笹はゆっくりと運ばれている。澄んだ水が星の輝きを受けて、ちらちらと光っていた。川より大きな河が空にかかっているのを、少女は口を開けて眺めた。 「咲夜様」 その少女の隣りに来て、老婆が微笑んだ。頭に手を置かれ、肩にきっちりと揃えられた彼女の髪が、少しくしゃりと崩れた。 老婆の微笑みに合わせて頷き、咲夜は川に背を向けた。彼女の手を握ってから、一度だけ振り向いて川に目を落とすと、たどたどしい墨の字で“赤子が無事産まれます様に”と書かれた短冊が笹の葉と共に水面下に沈んで行く所だった。 ◇ ふと思い出した過去の記憶は、墓を前にした咲夜の心を締め付けた。何年参っても何度祈っても気持ちは晴れず、思い出す事は総て暗く彼女の胸に突き刺さる。 本来なら、ここに入るべきは自分であった筈だ。 彼女はいつもそう思いつつ、墓を後にする。屋敷に戻っても閑散とした雰囲気が充満していて、墓の前で座っている時と変わりない。ただいまと言えば出迎えてくれる者もいるにはいるが、わざわざ出て来させるのも申し訳ない老婆が1人だ。彼女は黙って上がった。 中の部屋に進むと、咲き誇る桜を見ながらぼんやりと座る壮年の女性の斜め後ろに、咲夜は座った。女性は咲夜が墓参りに出掛ける前から――それこそ縁側に、朝からずっと座ったまま、床につくまで庭を眺め続けている。毎日、毎日。雨でも、晴れでも。彼女には、関係ないのだ。 その女性が頭を動かし、咲夜の姿を目の中に捕らえて笑った。咲夜は髪を一束にくくり上げ顔を汚し、男装をしている。なのにそんな娘の格好に何の疑問もない柔らかな笑みをたたえる母親の顔に、彼女は泣きたい気持ちをこらえて笑い返すしかなかった。 「お帰り、一郎太。真っ黒になって。お絹に洗ってもらって来なさいな」 母親の目に、自分の姿は男としてしか映っていないのだ。墓前に立つよりも冷たいものを感じつつ、しかし完全に彼女の前から消えてしまう事も出来ずに今に至る。 そうですねと咲夜は言い、逃げる様にその場から離れた。嬉しそうに一郎太と名を出す母の顔が直視出来なかった。その名の少年は、咲夜が殺した様なものだったからだ。今はもう、この世にいない。 「咲夜様」 台所で働いていた老婆が手を止めて振り向いた。10年前にはまだしゃんとしていた腰もすっかり曲がってしまい、炊事も辛いのではなかろうかと思える程だったのだが、 「いつも済まないね。後は私がやるよ」 「いいえ、いいえ。咲夜様にやらせる訳には参りません。絹の仕事でございます」 と、今日もまた決して譲ろうとしないのだった。咲夜としては方々を旅したり、ついこの間までは弟子として住み込みで働いたりもしていたので炊事や洗濯にはすっかり慣れていたのだが、この老婆の中では咲夜はまだまだ幼子のままらしかった。 「では、これを。何かの足しに」 老婆は、いつも普通に女性が稼ぐのでは考えられない様な金額を包んで持ち帰って来る彼女に、顔を歪めた。 「不憫な顔をしてくれるな」 「男まさりな格好をなさって、ご結婚もなさらずに退魔などと言う恐ろしい生業 苦笑するしかなかった。 「婚礼の事は言うてくれるな、叶わぬ事じゃ。此度 「本当でございますか?」 咲夜は頷いた。若干の翳りがあった。 「私には過ぎた生業だったと痛感したし、どの様に頑張ってもそれで父上や一郎太が戻って来る訳でもないしな」 昨年の初夏、しばらく戻らないと言って家を出たこの10ヶ月に何があったのだろうと老婆は思ったが、それを今の彼女には聞けなかった。あまりにも憂いのある顔をしていたから。 「咲夜様が家にいて下さる事の方が、仕送りして下さるよりも嬉しゅうございます。今までの咲夜様のお働きと屋敷に残る金銀で女3人位、充分食べて行けます。露様も、咲夜様が始終お側にお見えになられれば徐々に良うなられましょう」 老婆は咲夜を気づかってそう言うと、突然パンと手を打って、さぁ支度支度と声に出した。 「そうと聞きましたら、お祝いせねば。腕によりをかけますじゃ」 絹が自分の腰に手をかけ持ち上げる様によいしょと反転しまた炊事に戻ったので、咲夜もその場を離れる事にしたのだが、 「ああ、そうそう」 と、呼び止められた。 「そんな格好をしておられるから、露様が間違えておられるんです。ちゃんと顔を綺麗になさって、1番良いお着物にお召し替え下さい」 夕食までの間しばらく、悩むはめに陥った。 ◇ 確かに髪をくくり上げ男装なぞしているので、気の触れた母が余計勘違いを起こしている可能性はある。だが5年前父親と弟がなくなってしばらくは、咲夜とて普通に女性 仮に着替えて、それを思い出させてどうするのだと言う自問自答もあった。愛する者達の死を忘れ傷付かないで済んでいる母親に、記憶と言う古傷を開かせて役に立つ事はなにもない。自分が“一郎太”のまま彼女に接し続ければ良い事だった。 なのに。 咲夜は“咲夜”として母親の前に立ちたくなった。 もう影が長く伸び空が赤かったが、変わらず咲き乱れる桜を前に縁側に腰を降ろしたまま、彼女は動かない。斜め後ろに、咲夜は座った。 「母様」 顔の墨を落とし淡い山吹色に紫の絞り模様が映える着物に着替えた咲夜は、高鳴る胸を抑えて母親が振り向く様を見守った。どんな表情をして欲しくて、何と言葉をかけて欲しくて見守ったのか、自分の心は分からなかった。多分変わらず一郎太と呼ばれていたら、寂しかっただろうとは思う。しかし、この様な反応を望んでいた訳でもない事は、胸いっぱいに広がった後悔の念が告げてくれた。 母親は頭を抱え、恐怖の顔で、 「ああああああ!!」 奇声を発したのだ。 そしてうつぶせに丸くなってしまった母親に、咲夜はどうして良いか分からなくなってしまった。抱き上げるどころか触る事すら出来ず呆然と咲夜は座り込んだままでいた。 どうしましたか、と足音をたてて走って来た絹に振り向き、やっと咲夜は我を取り戻して立ち上がった。 一瞬躊躇した老婆だったが立ち上がった咲夜の姿とうずくまる露に交互に目を移し事態を把握すると、慌ててその場に平伏 「申し訳ございません、申し訳ございません」 と咲夜に対して連呼した。 「お絹のせいじゃないよ。着替えて来るから、母様を頼む」 咲夜は老婆に笑いかけようとしたが、思いの外胸が痛くて上手く笑う事が出来ず、すぐに顔をそむけたのだった。 平伏す老婆の横を通り過ぎて、部屋を出ようとする。普段ならここで彼女に面を上げてもらう位の余裕は持ち合わせているのだが、この時ばかりは無理だった。 だがこの事も直後、咲夜の中で後悔の対象となってしまったのだった。老婆の、喉をつぶした様な叫び声を、背中越しに聞いた為に。 その瞬間は、何の声か分からなくて振り向いた。 振り向いてから、絹が叫んだのだと言う事が分かった。 分かったが。 振り向いて、そこにある光景に咲夜はふと、ああ夢だと思ってしまった。 崩れ落ちる老婆が血にまみれ、ボロ雑巾の様に床に落ちた。母親が手を離したからである。うずくまっていた筈の彼女がいつの間にか絹のかたわらに立ち、にやりと笑っているのだ。笑った口から流れる赤い血が夕焼けと妙に合っていた。その後ろで咲き乱れた桜の花びらが、ぶわりと舞った。 そのにやりと笑った口が、名を呼んだ。 「咲夜」 体内に電気が走った様な衝撃を憶えた。それをも見透かした様に母親の顔をした女は更に笑った。何度でも呼んであげるよ、と彼女は言った。露の声で。 「愛し子の事を忘れちまうなんて、ひどい母親だねぇ」 「お前は、母様じゃない」 やっと声を絞り出したが震えていた。咲夜は気付いて、頬をぬぐった。だが涙は止まらなかった。 「お前は母様じゃない」 もう一度言い懐に手を伸ばしかけたが、いかんせん今の彼女は丸腰だった。よもや物の怪に会うと思っていなかったので、護符の1枚とて忍ばせていない。太刀が2本、部屋の上座に飾ってあるものの、彼女との間合いを考えると難しい距離である。 だが難しいからと言って、諦めは出来ない。咲夜は走った。 走ったがいつもはすんなり動ける男の着物に慣れた足が引っ掛かってしまい、上手く走れなかった為、刀に辿り着く前に女に追い付かれてしまった。咲夜の目の前で、女が笑った。 「おやおや、私を殺す気かい」 女の爪が胸元を切り裂き、咲夜は思わず声を出した。腕を掴もうとする手を必死でふりほどく。夢中で彼女を突き飛ばすと咲夜は、縁側から庭に飛び出した。隣の部屋に置いた退魔の道具を取りに行こうと考えたのだ。 だがそんな事を女が許す筈もなかった。 くすくすと笑いながら彼女は咲夜の髪を一房握り彼女の足を止めると、あっと言う間に桜の木の下に組み伏せてしまった。うつ伏せに倒され、背中に乗って来た女は等身大の岩の様に重かった。圧倒的に、力に差がある。何とか顔を動かすと、捕らえたネズミをもてあそぶ猫の様な、嬉しそうな顔をした彼女と目が合った。 一瞬、咲夜は。 母親の手にかかって死ぬのも良いかも知れない、と思った。 物の怪に憑かれた弟と父親が2人、この桜の木の下で果てた様に。 今度は自分が果てるのだ。 桜の花びらが、自分の上に降り注いでくれるだろう。 あの時、雪が2人の上に降り注いだ様に。 「咲夜様!」 脱力した咲夜の耳に、絹の叫び声が入って来た。母親の背中越しに、血みどろの老婆が這いつくばりつつも刀を差しだしているのを、咲夜は見た。 咲夜は歯を食いしばり、何とか手を動かすと、印を組んだ。 「消 彼女の頭に食らい付こうとしていた女の顔に向かって術を放った。悲鳴を上げた女の体が、軽くなった。その隙に彼女の下から転がり出ると咲夜は、老婆の握る刀に手を伸ばした。 女の爪が背中を襲った。一瞬ひるんだが、刀を掴んだ。かつて父親が弟の体から物の怪を追い出そうと試みて振るった刀だった。弟から物の怪は追い出せなかった。 知識を蓄えた咲夜に分かる事は、母親もまた同様だと言う事だ。少なくとも今の彼女の力では母親を元に戻せはしない。だが彼女が師とあおった男でも戻せるかどうかは怪しいし、何より既にそんな暇はない。 罪滅ぼしのつもりでなった生業が、母親を退魔する為に使う事になろうとは。 そう思うと苦笑しか出て来ない。 だが彼女を野放しにしたとても、元に戻る訳ではない憑かれた女が次の食糧を求めてさまようだけだ。せめて、そんなおぞましい状況を断ち切る力が身に付いている事を良しと思うしかなかろう。 咲夜は背に貼り付いて来た女に向かって逆手に刀を持ち、心中では印を唱えつつ、口には違う言葉を乗せた。 「言向 ◇ そんな母親の後を追えなかったのは、今際 自分の上にと思った桜の花びらは、母親の血を隠す様に幾重にも彼女に向かって舞い降りていた。結局最期まで彼女が彼女の意志で咲夜の名を呼ぶ事はなかった。そうなってから、初めて自分の心が分かったのだ。 「誰よりも何よりも一番大事に、とまでは言いません。でも私と言う存在に、気付いて欲しかった」 語り終わった咲夜が降り積もる雪を眺めながらポツリと言った言葉は、幽幻 乳母をも同時に失い完全な1人を味わった彼女の心中を考えると、彼女と一緒にいられないと判断した自分の感情が恥ずかしくなるほどだった。 少なくとも幽幻には、幽幻の力を理解してくれている者達がいる。幸せな事だ。 更なる幸せは、彼女もまたそんな1人になってくれた事だ。幽幻は黙って彼女の肩を抱いた。 雪が静かに平野に光を落としていた。 夜だが、ぼんやりと明るかった。 そんな雪の光景は咲夜に、父親と弟の死を思い出させる。 彼らの上に積もる雪。 そこに新たな思い出が加わってしまった。母親の上に積もる花びらの光景が。 いつか自分もそこに行くから、と咲夜は心の中で家族に呼びかける。だがそれは、今ではない。 咲夜は肩に置かれた幽幻の手に、自分の手を重ねた。 死ななかったのは、もう一度顔が見たかった為。 退魔師を続けたのは、少しでも強くなって行ける様に。 咲夜はそれを口に出さず、ただ目を閉じて少し微笑んだのだった。 FIN 後書き index |