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伍.霜月時雨(しもつきしぐれ)・後編
2日では肩の傷が癒える筈もなかったが、それが限界だった。せめて夜目の効かない夕刻・夜を避けるのが精一杯だった。この日の朝の空気は清らかとは言えず、太陽も厚い雲に隠れてしまっていた。 どよりとした重く湿った風には雨の匂いが感じられた。幽幻はいっそ降るなら降れと思いつつ刀を構えた。傷には響くが、力が出るからである。だがいつ降るのか分からない雨を待ってはいられない。幽幻と咲夜の2人は大木の前に立ち、気合を入れた。 「行きますよ」 咲夜 そこに、 「言向 すかさず幽幻が飛び上がり首を落とそうとした。大百足が本調子になる前を狙ったものだったのだが、先日1度目覚めてしまっているそれの動きは機敏だった。ギインと言う鋭い音と共に彼の剣先は跳ね返されてしまった。牙を剥きだして来たのだ。 刃こぼれしたかと思ったが、そこは曲がりなりにも神剣らしく傷1つ付いていなかった。構え直し、もう1度幽幻は飛び上がった。百足が鳴いた。 足を手の様に器用に操り、大百足が彼を払い落とした。払われながらも何とか刀を振り、幽幻は百足に一撃を浴びせた。足が2本、落ちた。 「キシャアア!」 地面に背をしたたかに打ち付けてうめく彼に、百足の怒りの声が響いた。ああ完全に起きてやがるなぁ、と呑気な考えが脳裏をよぎった。 「爆 百足の背でドンと言う音がして、若干の煙が立ち上った。咲夜である。昔幽幻の姉がよく使っていた技だったので、一瞬幽幻は目前の状況を忘れて動きを止めてしまった。いつの間にか、使える様になっていたとは。 だが大百足が技の主に気を取られている事に気付いて、幽幻は慌てて立ち上がった。大百足の反転はつまり、咲夜の身の危険である。打った背と治りきらない肩が、彼の足を遅らせた。ぽつりぽつりと顔に水滴が当たりはじめた。 大百足の足は意外と早く、少ししか離れていなかった咲夜のすぐ目前に迫って来た。途中3本程彼女は小柄を放ったが、軽い音がして跳ね返っただけだった。飛びすさり、百足の攻撃を避けた。 「言向 今度こそ苦悶の叫びを上げた物の怪の様子に、咲夜ははっとした。 幽幻の1撃が、ようやく大百足の胴にめり込んだのだ。鏡によって力を増したらしいと思い、幽幻の表情の方が気になって咲夜は、体を伸ばして彼を見ようとしてしまった。だがそれが良くなかった。 「あ!」 苦しみに暴れた百足の足が、彼女を突き飛ばしたのである。幽幻も突き飛ばされかけたが、百足の背に刀を突き立てて、耐えた。咲夜は木に打ち付けられてから、地に落ちた。 「咲夜!」 「無事です!」 咲夜はすぐに叫んだ。心配をかけたくなかった事と、幽幻が未だ幽幻のままでいる事に安堵したのが、彼女に気力を与えた。 が。次の瞬間。 思いがけない者の出現に咲夜の目が見開かれ、幽幻の気を削いだ。 「出奈 和尚に押さえてもらっていた筈の出奈が、こらえきれなくなって来てしまったのだ。彼女の前で、自分を殺して欲しいなどと言う話をするのでなかった、と幽幻は後悔したが、後の祭りである。 幽幻は大百足の背にまたがる形になり次の一撃を繰り出すべく刀を引き抜いたのだが、 「シャア!」 引き抜かれた痛みに百足が再度暴れた。掴む部分を失った幽幻は、濡れた百足の背に滑って勢い良く振り落とされてしまった。何とか受け身の姿勢を取って地に転がりすぐに身を起こしたが、百足の目には幽幻の姿は入っておらず、咲夜に向かって突き進んでいた。 「咲夜!」 「咲夜殿!」 自分に向かって走って来る幼子と大百足の間合いをどうしたものか悩んでしまって動きを止めた咲夜の頭上に、百足が口を広げた。小柄を手にしたが申し訳程度である。そんな彼女を、出奈が押し飛ばした。 幽幻は走ったが、間に合わなかった。 咲夜は、一瞬何が起こったのか、理解しかねた。 2人の目の前で。 出奈は両手を前に突きだした格好のまま、荒れる百足の影に隠れた。 ひどく時間がゆっくり進んでいる様な気がした。 悲鳴は聞こえなかった。 嫌な音がした。 何の音かの想像もしたくない程に、くぐもった生々しい音。 百足が身をよじった。 その場所に出奈はいなかった。 幽幻は叫んだ。 何を叫んだのか、自分でももう分からなかった。 ◇ 降り出した雨はすぐに広がり、総てをまんべんなく濡らした。季節外れの雷の音が龍の咆吼であると知る者は、当然いない。そこにいる者達以外は。 急に暗くなった空の中に、1本の光の柱がそびえた。先端に大百足の首をがっしりとくわえている。 出奈の後を追って走って来た和尚らはその場にへたり込み、手を合わせるしか出来なかった。声も出ない。百足などよりも更に恐ろしく、そして崇高なものを見てしまったのだから。 そんな和尚に一瞬気を取られたが、百足の叫び声が降って来た為、咲夜は天を仰いだ。 光の柱は龍の形を成してうねり、百足の胴体に巻き付いていた。 百足がまた鳴いた。 空の中で、それの首がちょいと動いた様に見えて、咲夜は目をこらした。尋常でない方向に曲がってしまっている様だ。目が見えた。白く濁っていた。もう声はなかった。 断末魔の叫びだったのだ。 大百足の姿が薄らいで行くと共に、龍の姿も消えて行った。 咲夜はそのまましばらく目をこらして、光の中にちらりと見える影に気を配っていたのだが、やがてそれは咲夜らのいる所にまで降りて来た。血に汚れた出奈を横抱きにした幽幻だった。 その身は輝き、人でない空気をまとっていた。咲夜は立ち上がり、彼を見守った。和尚らは顔を上げる事すら出来ずにうずくまり、手を合わせたままだ。そんな和尚にちらと目をやってから、前に立つ咲夜に視線を戻した幽幻の目は正気だった。 「大丈夫だ」 地に足を着けると同時に光を失った幽幻はそのまま膝を折り地に伏しかけて、体を反転させた。出奈をつぶす訳には行かない。 咲夜が駆け寄って上体を起こそうとしたが青ざめた幽幻の目はもう閉じてしまっていて、開かなかった。息を呑んで彼の首に手を当てると、脈があった。気を失っただけだった。 “大丈夫”の意味が分かりかねて彼と出奈をしげしげと眺めていると、やがて小さなうめきと共に出奈が目を覚ましたのだった。喰われた跡はどこにもなかった。 彼女が無事な事と、幽幻が幽幻のままである事の両方を言いたかったのだなと思い、咲夜は息を突いた。 ◇ 闇の中なのか、光の中か――。 人でない何かと話をした気がしたが、目が覚めた時には記憶になかった。自分がうめいた声に気付いて、幽幻は顔をしかめて目を開いた。 雫がぽたぽたと枝葉から落ちるのが最初に目に映った。その向こうに広がる空模様は変わらず雲で覆われていたが、もう降ってはいなかった。どこからか光が射しているのか、明るい。 自分が横たわる場所を把握しようと目をさまよわせると、頭上にはにかんだ笑みをする咲夜の顔があった。 「気付かれましたか」 「俺は……」 身を起こしかけて、肩と言わず背と言わず全身に激痛が走り、また幽幻は脱力した。 「未だ、寝ていらして下さい。数刻とて経っておりません」 それからやっと、自分の頭が彼女の膝の上にある事に気付いたのだった。その咲夜は、大木に背を預けている。未だ戦ったその場所のままなのだ。下手に彼を動かせなかった為だった。 大木は、ただの大木になっていた。静かに立っている。幽幻は自分が大百足を倒した事を思い出した。 話そうと力 「出奈は」 「無事です。傷1つありませんでしたよ。今、幽幻殿の手当の準備を取りに寺に戻っております」 そう言いながら咲夜は、寺に戻る時に彼女が言った言葉を思い出して少し笑った。 「?」 「出奈が、自分の膝では小さすぎて幽幻殿の頭を乗せられないから、と」 だから膝枕の役は咲夜殿に任せたからと言って走り去る出奈の姿が容易に想像出来て、幽幻も笑ってしまった。彼女なりに気を使った訳である。単に1度ならず2度までも足を引っ張ってしまい、幽幻に相対するのが怖かっただけかも知れないが。 咲夜は、おもむろに懐から手拭いを取り出した。 「私は、今まで女でいたくなかった」 雨に湿った手拭いは、少しずつ彼女の顔から墨を取り除いた。それと同時に表情が更に和らいで行くかに見えて、幽幻は彼女の顔から目が離せなかった。 最後に髪をしばっていた紐を解くと黒髪が流れ、露を含んで光った。彼女の肩から背にかかった髪が風に一房踊り、幽幻の額を撫でた。吊り上がっていた目尻がふわりと垂れて、咲夜の顔が女になった。 「弟がいましたが、物の怪に憑かれ――父はそんな弟を元に戻そうとして失敗し――2人共、死にました」 遠くに目を移して咲夜は言った。 「やっと出来た男子 後はもう聞かずとも想像出来た。物の怪憑きの出た家の娘など誰も欲しがらないから結婚も出来ないし、していたとしても、普通は帰されてしまう。何より自分が2人を死なせたと言う後悔の念があった為、退魔師になろうと思ったのだろう。 「けれど咲夜は、女でしかありませんでした」 呟く様に、しかしはっきりと言い、咲夜は幽幻に目を落とした。幽幻が伸ばした指先が頬に触れると一瞬逃げたい衝動にかられたが、次には心地良いものになっていた。 「お主が女で、良かった」 咲夜は微笑んだ。 「だが俺こそ、この様なものだ」 頬を触る彼の手を両手で包み込んで、咲夜は頷いた。 「“いざ”と言う時、心の臓を一突きにして差し上げます」 「えらい事を頼んでしまった」 2人は弾かれた様に笑ったが、握り合った手は離さなかった。冷えた互いの手に、徐々に温もりが広がった。 雨上がりの空にはくっきりと虹がかかっていた。それをくぐりぬけて幼子が走って来る。光が射し込み、大木が2人を隠すかの様に影を作った。 FIN 後書き index |