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五.五月まほろば(さつきまほろば)
板の間に足を降ろすと、まだひやりとする。だがその後、じわりと広がる温もりが、春の訪れを感じさせていた。風も東向きに変わった。空気が優しい。じきに、熱気を帯びた日差しに変わっていくだろう。 足の裏に感じる春の到来は、じわじわと彼の中にある女性を思い起こさせた。 彼はそれを振り切る様に座り込み、その部屋の戸に向かって頭を下げた。 「お屋形様。湖野谷幽幻でございます」 「うむ」 重みのある声を合図に、1呼吸置いてから彼は障子をするりと開けた。顔は見ない。頭を下げたままである。 「さすがは名のある退魔師、あざやかであった。礼を申そう。面を上げよ」 「は」 床にこすりつける様に平伏していた、湖野谷幽幻と名乗った男が、姿勢を正した。若干長い前髪の間から見える強い意志を帯びた目は、昔より落ち着きと翳 「思いもよらぬ大立ち回りに見せたおぬしの刀さばきも、そこいらの侍より見事なものであった。聞けば、先祖は室町の武将であったとか」 「遠い昔の話でございます。今は、ただの退魔師なれば」 自嘲気味に薄笑いを浮かべた幽幻の言葉に、すかさず男は言った。 「どうじゃ、わしに仕える気はないか? 今度の戦で手柄を立てれば、すぐに千石の主 普通ならば到底考えられない様な数字を示した武家の男は、彼が手に入ると思ったのであろう、その笑みには余裕があり、半ば見下す様な目をしていた。だが男は、決してその領地が不可能ではないだけの裁量を備えている。 しかし、幽幻は丁寧に断りの口上を延べ、男の顔を赤くさせたのだった。 「おのれごとき退魔師が1生かかっても得られぬ地位と領土を約束しようと言うに、何故にこれを拒むか?」 声を荒げた男に、彼は容赦のない鋭い視線を浴びせた。 「ごとき、とは笑止。その退魔師に泣きつかねば悪霊1人追い払えぬ御方にこれを愚弄されるは、不本意と言うもの。お望みとあらば、此度の霊をば再び呼び戻しましょうぞ」 こうして、平民の立場を取りながらも侍に頭を下げさせる存在、退魔師は、戦国の世に数多く存在し、その中でも湖野谷と言う男は名を馳せていたのだった。 「時に。湖野谷と言えば“湖野谷姉弟”じゃと伺い知っておったが、それはぬしの事ではないのか?」 頭を低くして聞いた男の問いに、それまで冷徹にあしらっていた幽幻の態度が、少し淀んだ。若干歪んだ顔が何を意味するものだったのかは、男には分かりかねた。 「今は、私1人でございます」 何もなかったかの様に平伏し、幽幻は退室を願い出た。 既に字 ◇ 不思議な光景だった。 さざめく子供達の笑い声。 金の稲穂の中で遊ぶ一群が、秋の光を吸って輝いている。 その中央で子供達に囲まれ、暖かい笑みをたたえる青年。 前を剃らずに伸ばした髪を後ろでくくっている様子は、月次と似ている。しかしその髪は柔らかそうに、さらさらと風にもてあそばれていた。繊細な輪郭と日本の人間でないような淡い栗色の髪が、稲穂によく合っていた。 人間でない様な。 月次らには、分かるのだ。 彼が妖怪だと言う事が。 しかし周りの子供達は、明らかに人の子である。 何の屈託もない笑顔が溢れる、淡い金の光景を、1枚の良質な水墨画を観るかの様に、月次は目を細めて眺めた。 「つきじ兄ちゃん」 群れに混じった子供らから、声が上がる。お前も入って来い、と言うのだ。既にその群に入り青年と共に子供らと遊んでいた沙摩 青年には、子供を喰らおうとする食い気や殺気が微塵も感じられなかった。むしろ人より優しい慈愛の目と慈悲の心で、子供に接しているのだ。普通なら、驚きでしかない。 子供らの勧誘に負けた月次も途方に暮れた顔をしながら輪に入り、空が赤く染まるまで遊んだ、それが不思議な妖怪朧郎 ◇ 生ける者全ての死をつかさどる世界の混沌が形を成すのが、妖怪だ。現実に存在する形を使う。人に恨みを持たず人の形を成し、人の中で暮らしたいと言った朧郎と言う男は、もしやの時に月次らに退治してもらう為にこの村を選んだのだと言った。 彼は自分が人を喰らう物の怪であると、自覚しているのだ。 喰らった事はまだない、と言う彼は湖野谷の家に住み着き、村の寺へ奉公に出る毎日を過ごした。 「まぁ、まだ神社じゃないだけ納得さね」 茶をすすりながら、沙摩が口の端を歪めて笑った事がある。 幻を扱う狐の妖怪は、朧狐 だが村人は名の由来も知らず、ただの好青年だと見ている。まさか妖怪が寺の敷居をまたげるとも思わないので、疑う者は誰もいない。飄々として見える割には子供達も彼によくなつき、寺の奉公人と言うよりは子守役と言った方が適当な程だった。村人には言わぬ方が良かろう、と言う和尚の言葉に甘え、こうして妙な妖怪は月次らの心配をよそに村にとけ込んだ。 ある日なぞは、縁側で月見をした。 そよぐすすきに、朧郎の憂いた横顔がよく似合った。 雪が降った日は子供らも総出でかまくらをこしらえ、汁粉を作ったりなぞもした。 雪見酒をたしなみつつ、 「狐は冬眠しないのかよ?」 と冗談で聞いた月次に、朧郎もにやりと笑って見せ、 「この様に美味い酒があるのに、冬眠なんぞしとれんさ」 と言ったりもしたものだった。 月次らの留守を預かり、次の仕事の依頼を聞いておいてくれたりもした。人界で害を成す物の怪の報を聞くたびに暗い顔をする彼の心情を推し量ると月次はいつも、不思議な気分にかられたものだった。人間と共存したがる朧郎の存在が、退魔を行う月次らの心を、和ませてくれた。 「お前は、変な妖怪だよなぁ」 少し酒が入ると、口癖の様に月次は言ったので、朧郎はそのたびに、 「またその話か」 と苦笑した。 「世の中の妖怪が全部、お前みたいなのになったらなぁ」 「そうしたら食いっぱぐれだぞ」 冗談ぽく朧郎は言い、杯を傾けた。そこにちょんと酒を入れてやりながら、 「違う生業 沙摩が言うのだった。 「退魔師なんぞ、要らなくなるならそれに越した事ぁないよ」 過去を見ながら沙摩は言い、酒の肴を口に運んだ。彼女もまた、3人で飲む酒を心地よく感じており、朧郎に気を許している様だった。 その様なまほろばとも言えよう幻想の日々が長く続かない事を、予感の上で。 ◇ 今日も良い天気じゃ、と思いつつ川辺で洗濯する朧郎は、昨日から1人で湖野谷家の留守を預かっていた。 沙摩がいくらせずとも良いからと言っても聞かない朧郎は、すっかり掃除や洗濯の要領を得てしまった。冷たく流れる水に沙摩の手が痛むのを忍びなく思ったからだ、とは口に出さない。出さないが、このところ湖野谷の姉弟と言葉を交わさずともその心の分かる時があり、それが朧郎は秘かに嬉しかった。本当に人間になった様な、湖野谷の家族になった様な気になれるのだ。 月次の事がまるで相棒か、兄か弟の様な。 砂摩の事が姉か妹の様な……まるで夫婦の様な。 そこまで考えてしまうと、せっかく明るかった自分の気持ちが沈んでしまう為、朧郎は今が良しと考え直し、叶わぬ想いを抑えるのだった。 所詮、人間でないのだ。 そしてそれを思い知る羽目になるのは、その直後だった。 最初は、月次らが戻ったのかと思ったのだ。 鼻のきく朧郎は、家が薄ら見えた時点でその匂いに気付いた。ずいぶん豪勢だなととっさに思える、肉を煮込む香りに、朧郎は鼻孔の奥より更に奥底をくすぐられた気がした。 少し彼らの匂いとはいつもと違う気がしたが、旅の後だからだろうかと考えた。 早かったな、と言おうとした彼はその戸を半分開けた所で、動きを止めた。 もし等身大の鏡があったなら、朧郎は自分かと思ったに違いなかった。 よく見れば目つきが違い、しかも女ではないか、と思い――。 ――そう思った時、彼女の正体を理解した。 彼女は妖艶な紅い唇を、引いた。 「捜したよ。朧郎と名乗ってるのかい」 「……伊綱 人の形を成した時分かれた片割れの名は、波が寄せる様に朧郎の脳裏に浮かんだ。彼女は朧郎と全く同じ顔をしていながらも、全く別人の目を持っていた。 彼女は囲炉裏端にしなを作って座り、器に肉の煮込みを盛った。 「ウサギが捕れてね。狐にはぴったりだろう?」 しかし何故か、いくら優しげに笑ってくれていても、自分そっくりな筈の伊綱に朧郎は嫌悪感を憶えた。お食べ、と差し出された肉の香りは朧郎の食欲を誘ったが、素直に手を差し出す気になれなかった。 彼女が自分を捜していたのは、きっと元に戻る為なのだ。人の形を成すと性が出来、力が分散する。幻でなく人に成りたいのだと思った想いを持つ朧郎は、元になど戻りたくなかった。残忍に人を殺す妖狐になど。 朧郎は自分でも驚く程に低い声で、 「去れ」 と言った。 もう少しすれば、月次らが戻る。彼らにこの様子を見せたくなかった。 「何故わしを捜した? 互いの欲望を満たし生きるに、支障はなかろう」 「それがあるのさ」 伊綱はゆるりと構え、笑いながら鍋をかき混ぜた。 朧郎の背に、どんと誰かがぶつかった。低く叫んだそれは男のもので、一瞬朧郎は月次が戻ったのかと思い、息を突いて慌てて振り返った。 が。 幸か不幸か、玄関をくぐって来た男は、村の者だった。 赤く上気した顔の中で双眸に燃える憎悪の炎が朧郎を射抜き、そしてその奥にいる女に向けられた。朧郎は慣れ親しんだ筈の村人の目が全く異質なものを見る目に変わってしまった事を悟った。 「和尚が、死んだ」 その言葉に、朧郎は目を見開いて伊綱を振り返った。寺には、子供もいた筈だ。何をした、と問うまでもなく、伊綱の笑みに朧郎は身を硬くした。 「定期的に人を喰らわないと、そうでなくとも低くなっちまった力が、もっと衰えちまうんでねぇ」 伊綱は朧郎に向けて、鍋の中から煮込まれた子供の首を持ち上げて見せた。 ◇ 帰り道に残る桜の舞は、2人にある者を思い出させた。もう一昨年の話になるのか、と月次が呟き草薙の剣を気に掛けた時、沙摩はふと思った。 この草薙の剣が変化した際、男と女に分かれ、女はとても優しい妖怪であった。 ただ妖怪と化するだけならば、苦労はなかったろう。 人の心が、彼らを2分した。 草薙の剣は、人に成りたがった。 人に成りたがっている、朧郎。 「姉ちゃん?」 桜を見上げて足を止めた沙摩を、月次がひょいと振り返った。口に手を当てる沙摩の悲しげな顔が、いつも以上に“女”を感じさせ、月次は眉をひそめた。 気付かないふりを、して来た。 気付くと幻想が終わってしまう。 しかし最初に出会った時から、妙な胸騒ぎがあった。だから、家で寝泊まりをさせていたのだ。最初は。 薄紅色の風が胸騒ぎを駆り立てる様に、ざあっと舞った。 いつからだったろう。 ほのかな花の香りが、彼の髪にふわりと移った時だったろうか。 白く光る雪に、眩しそうに目を細めた時だっただろうか。 「沙摩姉! どうしたんだよ!」 がしと肩を掴まれ揺さぶられ、そこでやっと沙摩はほうけた顔で月次を見ている自分の頬に、涙がつたっていた事に気付いた。 涙の熱が、胸を締め付けた。締め付ける胸の苦しみが、更に涙を絞り出す。気付いてしまった自分の浅はかな思慮に、沙摩は眉間にしわを寄せた。 「朧郎の事か?」 月次が肩から手を離し溜息をついた為、若干我に返った。 「朧郎は……妖怪だ」 当たり前の、しかし目をつぶり続けていたかった事実を、沙摩は呟いた。そこには2通りの意味が隠されている。そのどちらもを、月次は悟っている。 妖怪なのだから、危険なのだ。 妖怪なのだから、添い遂げられない。 「……ああ。妖怪だ」 何故自分が諦めた様な顔をしているのかが滑稽で、月次は苦笑してしまった。 きっと、最初からだったのだ。 金の稲穂が、ゆるやかに朧郎を包んでいた、あの時に既に。 最初から沙摩は彼に惹かれ、朧郎は、姉に惹かれていた。そして朧郎の物の怪らしからぬ人柄が、どこか危険だと予感していたのも、全て――。最初からだったのだ。 沙摩だけではない。月次も黙認していたのだ。今に始まった事では、ない。 「朧郎がやばい妖怪かも知れないってのは、俺も分かってた。もし何ぞ起こっていたなら、そりゃ俺の罪だ。……今まで何ともなかったんだ。帰ってから、考えようや」 姉にさとす様な言い方をしているのは、自分に言い聞かせる為でもあった。何故か急に姉が遠い存在になってしまったかの様に感じたのを、気のせいだと思いたがっている自分がやはり滑稽だった。 月次の言葉にしゃんと自分を戻した沙摩が、いつもの目をして月次に相対した。 「その時ゃ、2人共罪人 そして2人は罪人になった。 ◇ きっと急な出来事ではあったが、急ではなかった。 最初に会った時気付いていれば、もしくは情けを掛けなければ、回避出来た事件だった筈なのだ。 もうこのあばら屋から、血の匂いは取れない。 月次はそんな事を思いつつ、力なく月次の胸ぐらを掴み揺さぶる村人の叫び声を、どこか遠くで聞いた。見慣れた筈の小さな家が玄関から囲炉裏から、数人の人間が出す大量の血に赤黒く染まった様子を、現実のものでないかの様に眺めた。 どうして。 どうして。 どうして。 男の嘆きが、女のすすり泣きが、彼ら2人の体中に内外問わず突き刺さった。 全ての責任と全ての罪が2人にあると、村人は口を揃えて責め立てた。責める。いや、責めても子供や村人、和尚も戻って来ない。妖狐がその魂を吸い取った。やり場のない怒りを、とにかく具体的に湖野谷姉弟相手に吐き出したいだけなのだ。 姉弟はしばらくなされるがままになり、殴られ、蹴られ、平手を食らい、村人の気が収まるまでじっと立ち尽くした。月次が沙摩をかばった仕草すら、村人の更なる怒りを呼び、拳 「済まない」 月次が低く呟き、沙摩がかくんとその場に膝を突いた。手を揃え深々と頭を下げる、初めて見る沙摩の行動に、村人はようやく2人の表情をじっと見たのだった。 2人共言い訳をせず、村人達の怒りを黙って受け入れてくれたのだ。俺らも知らなかった、などとは口が裂けても言わない。退魔師である自分達の責任だと認めている。 1人が、殴りかかろうとしていた別の男の腕を持った。 「……わしはその場に居合わせた。もう少しで女の手に掛かって死ぬかとした時に、朧郎が止めてくれた……。他にも何人かは、助かった。死んだ者らも、助けようとしてくれたんだ。……2人はしばらく揉み合ってから、山に向けて飛ぶみたいに走ってった」 皆がシンとした。血の匂いが黙りこくった皆の鼻をついた。何人かが、うつむいた。 「よく、おっしゃって下さった。有り難うございます」 砂摩が背を正した。頬に痣が出来ても、髪が乱れていても、土間に正座する姿にあっても彼女は凛とし、真っ直ぐに皆を見渡した。その目に、怒りに狂っていた村人は恥を感じ、視線を外した。 「弔いは、済まないが帰ってからさせてくれ」 月次は死体の1人ずつに手を合わせてから、村人らをそっと押しのけ、外に出た。沙摩も手を合わせてから髪を束ね直し、たすきがけをして月次の後ろについた。 「沙摩姉は、待っててくれ。手を出しにくかろう」 「お馬鹿」 沙摩はいつもの調子で、月次の後頭部をペシンと叩いた。叩かれてから月次は、姉の仕草が自分の頭をなでてくれているに等しい動作である事に気付いた。 「だからこそ、行かなきゃいけないのさ」 何とも声を掛けられないでいる、涙で顔を汚した村人達に一礼をして、2人は朧郎が消え去ったと言う山に向かった。 ◇ 全く“気”を隠さずにのたうち回る狐の姿を、2人は何の苦もなく見付けてしまった。まさしく「見付けてしまった」と言う表現がぴったりな見付け方だった。その様子を目にしてから月次は、やはり心の何処かで彼の失踪を願っていた事に気付き、後ろめたい気持ちを感じた。 疑問に思ったのは、完全体に戻ったらしい妖狐が、何故苦しがっているのかだった。 こちらに気付いた狐が逃げようとした所を、沙摩が小柄を投げた。 「爆!」 複合技だった。小柄が爆発したかの様にドン、と煙を上げ、狐に悲鳴を上げさせた。その沙摩の動きに、ためらいはない。すかさず4方に護符を巻き、妖狐の足を止めた。 「朧郎……いや、朧狐。ぬしを、言向けやわす」 悲痛な申告をし、月次は刀を抜いた。その動きが緩慢な事に、沙摩から叱咤の声が上がった。背を押される様にして半ば目をつむり、月次は妖狐に剣を振った。 手は、抜かなかった。 一閃で、妖狐は塵に帰る筈だった。 だが、月次の刀は空を切った。 「何?!」 月次も、いや沙摩もまた、自分の目を疑った。 札が強い“力”に圧され、悲鳴の様な音を立てて破れた。 「もう、戻れないとはね」 完全に1つの人格として個体を持ってしまった女型が舌打ちをしながらふわりと飛んだ。朧郎の顔で。 “力”を女に吸われたのであろうか、朧郎は青い顔をして狐がいた場所にうずくまっていた。 「朧郎!」 「月次、こっちだよ!」 逃げようとした女の背に沙摩が小柄を打ち立て、地に引きずり降ろした。女の力も尋常ではなかったが、沙摩の“力”もまた、怒りにより増大されていた。 煮込まれた子供。殺された村人。無惨な虐殺の爪痕。 そしてそれよりもなお、悲しみを含んだやるせない怒りが、沙摩を突き動かしていた。 そして月次を。 言葉にならない叫びを上げながら、月次は女に斬りかかった。だが2体に分かれた妖怪は、1体のみに斬りつけた所で、何の手応えもない。女は妖艶な笑みと共に、2本の刃先からするりと逃げた。逃げて、そのまま去ってしまうのかと思われた女はすかさず身をひるがえし、月次に向かって手を振った。爪が月次の胸に傷を付けた。 「うわ」 月次は退き、その手を刀で止めた。女を朧郎の元に引っ張っていかなければ退魔出来ない事実に、月次は苦い顔をした。それがためらわれる事を、女は熟知している。それでも自分からは朧郎の元に寄ろうとしない女は、彼と反対の方向に飛んだ。 「逃がさん!」 苦し紛れに投げた札だったが、それは女の膝に引っ掛かり、若干彼女の動きを止めた。沙摩が押さえてくれれば、朧郎と共に斬るのは、何とか出来るだろう。そう思った時だった。姉が倒れている事に気付いたのは。 「砂摩姉!」 「“力”をちょいと貰ってね。でなきゃ、分裂するのも大変だったからねぇ」 女がくすと笑い、袖で口元を押さえた。彼らは、いや女は“力”が足らない分を月次らの“力”で補う為に待っていたのだ。完全に元に戻れずのたうち回る自分の姿を殊更2人に見せつけたのも、その為だったのだ。 月次は唇をかんだ。 唇から、血が流れた。 「月次」 聞き慣れた柔らかな、朧郎の声。情けなくもある声の色が、優しい朧郎のままである事を月次に感じさせ、余計彼の胸を痛めた。 名を呼んだと同時に朧郎は女にしがみついていた。どこからか、桜の花びらが飛んだ。月次の脳裏に、同じ動作をした妖怪らの姿が思い浮かび、朧郎達と重複した。草薙の、分かれた優しい妖怪がやはり片割れを取り押さえた、あの風景。そして言う言葉もやはり、同じだ。 「早く! 月次、斬れ!」 「お斬り」 沙摩の声が、重なった。 上体を起こした砂摩と朧郎の視線が絡み合い、2人が笑みを洩らした。互いの気持ちを熟知した、悲しい合点の笑みだった。 「朧郎を殺すのかい?!」 女の顔が歪んだ。朧郎に似ている筈の女妖怪の顔が、不思議な程、似て見えなかった。 女の叫びを、月次は朧郎の笑みと共に両断した。 ◇ イザナギの命とイザナミの命は、一対の神である。 2人が1本の柱を廻った時、新たな命が生まれた。 順番を間違っただけで、荒ぶる神と成した。 イザナミすらも、怪と成した。 心荒ぶれば、怪と成すのだ。 荒ぶる神とは、物の怪を言う。 そして神の子は、国と成し、人と成した。 すなわち。 生けるものすべて。 全ては、同じ元の命なのだ。 ◇ 塵と成す筈だった妖狐らの身体が、ぐらりと月次に傾いた。 どろりとした血が草薙の刀を染め、月次の体に飛び散った。 「朧郎」 受け止めた彼の身体を、月次は姉に譲った。ぺたんと座り込んだ沙摩は肩に、朧郎の頭を乗せた。女の身体は地に落ち、そこに血溜まりを作った。 作ったが、女の方からはゆるやかに煙が立ち上っていた。斬られた妖怪が発する、普通は見えぬ浄化の煙である。彼らは、間違いなく妖怪なのだ。 なのに人を斬った様な手応えと生々しい臭いが、月次の心を暗くした。物の怪すらも「生き物」なのだと思わせる。 女の身体が空気に溶け出して来て、やっと月次は安堵して姉に目を移し――ぎょっとした。 「姉ちゃん!」 “力”が沙摩から朧郎へと流れているのが、月次には見えたのだ。 女に吸われた直後だし、死人を生き返らせようとしている行為だ。しかも生き返るものが果たして“何”になるのかも分からない。下手をすれば、もう1戦しなければいけなくなるかも知れないし、最悪の場合、沙摩の命がなくなる。 月次は沙摩の腕を引っ張り、朧郎から離そうとした。しかし沙摩は動かず、月次に振り返って笑って見せたのだ。 「例え100歳まで生きられたって、後の73年を後悔しながら暮らしたくないのさ」 動きを止めた弟の手をそっと外し、沙摩は朧郎を抱きかかえて目を閉じた。口元に浮かんだ微笑みが、月次を落胆させた。 止められない。 止められないなら、と、月次は姉の肩を抱き締めた。月次とて初めての試みである。人に“力”を送った事などない。だが目の前で、姉を見殺しにする冷徹さは、持ち合わせていない。 月次は体に宿る龍神に呼び掛けた。 そして内心で、姉に呼び掛けた。 きっと生まれてこのかた1度も言った事のない言葉だったし、口に出してなぞはこの先も言わないだろう。だがいつも、ちょっとした時にすんなりとそれが言えないでいる自分が嫌だった。嫌だったが、言ってしまうと嘘っぽく、軽々しくなりそうで、口に出せなかった。 ありがとう、と。 育ててくれた礼を。 面倒を看てくれた礼を。 助けてくれた礼を。 叱咤してくれた。 元気づけてくれた。 見ていてくれた。 愛してくれた。 その沙摩の見つめる相手が完全に変わった事は、月次の胸を空しくし、締め付けた。初めて感じた“寂しさ”だったが、同時に、何処か嬉しく感じている自分が不思議だった。 ◇ 頬に赤みが差し、うっすらと目を開けた朧郎の目が、月次の知る目と全く変わっていなかった事に、先ず月次は安堵した。これは一体、と問うた弱々しい声が、更に月次の心を明るくした。光の風景にいた朧郎が、そのまま帰って来たのだ。 女の姿は既になく、朧郎のみが存在していた。 朧郎は自分の頭が愛する女の胸にある事を、ようやく悟った。その女、沙摩を月次が更に支えている。彼女の顔に血の気は全くなく、朧郎はぎくりとした。慌ててその胸の音に耳を澄ませた。 「月次……」 「大丈夫だ」 月次は朧郎に微笑んで見せた。弱いが、沙摩の命はつながれた。朧郎はその時になって、自分の嗅覚、聴覚が落ちている事に気付いた。体も重い。彼がもし人間の感じている5感の具合や重みを知っていたなら、まるで人間の様だと思ったに違いない。 「でも沙摩姉から、もう霊力が感じられない」 月次は言い、身を起こした朧郎の胸に、沙摩を押し付けた。 「お前ぇはもう、村に来ない方が良いからな。姉ちゃん、頼むわ」 けろりと笑うと月次は立ち上がり、村への道のりを歩き始めた。その足取りは確かだったが、月次の顔色も悪かった事に気付いて朧郎は彼を呼んだ。 だが月次は振り返らず、ひょいと片手を挙げただけだった。 ◇ その後、彼らには会っていない。 噂で朧郎らの名を聞く事もなかったので、取り敢えず月次は安堵していた。月次自身も村人の弔いを済ませてからは、全く村に行っていなかった。 なのに。 虫の報せとでも言うのだろうか。 襲名して後の、幽幻となった月次がふとすすき野に足を寄せたのは、全くの気まぐれだった。 命日になると親の墓に見ず知らずの花が挙げられていたのを、思い出した為かも知れない。妖狐に命を奪われた村の人間達の命日が心に浮かび、幽幻の足を村に向かわせたのである。 幽幻は自分の家をあらためる前に、寺に林立させた墓を訪れた。村人の手によるものだろう、墓石は苔むしてもおらず、春の日に照らされて柔らかく輝いていた。 1体ずつ丁寧に手を合わせてから、幽幻は時季はずれで閑散としているすすき野を抜けて、あばら屋に向かった。 古巣の玄関をくぐる。 綺麗だった。 かの虐殺を思い起こさせる色や臭いは、何も残っていなかった。人が住んでいる気配こそなかったが、埃も積もっておらず、どこか整然としている。何もなかったかの様に、家は幽幻を迎えていた。 「村の人が、掃除してくれてたんだってさ」 少し低い、なめらかな声。 振り返らずとも分かる声の主に、幽幻は立ち尽くした。 足元をとことこと歩いて来た少女が、彼の膝にまとわりついた。 「おじちゃん」 日溜まりの様な笑顔と、勝ち気な目をした少女の両親は、想像するに及ばない。幽幻の胸が喜びに詰まった。彼は少女を抱き上げ、お兄ちゃんと呼ばせろ、と言う為に振り返った。 fin
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