闇月龍
  弐.睦月淡雪(むつきあわゆき)


 「幽幻(ゆうげん)様ー!」
 浮かれた甲高い明るい声に、幽幻の口が若干への字に曲がった。勢い良く開いた戸からは春の様な笑顔をたたえた少女が飛び込んで来たが、同時に冷たく吹きすさぶ風も小さな家の中を一周した。囲炉裏(いろり)の炎が揺れた。
 湿気を含んだ風に、雨か雪が降るかも知れんと言う思いを抱き、幽幻は囲炉裏端に杯を置いて顔を向けた。
出奈(いずな)、笠とみのは持って来たか? 帰りには降るかも知れんぞ」
「そしたらここに泊めて下さい」
 すかさずニッコリと笑って返す数え7つになったばかりの小さな娘に、幽幻は天井を仰いだ。すぐ戸を閉めて上がって来る様子に幽幻は、
「また1人で来たのか? 母者と一緒に来いと言うたであろう」
 と言ってみたが、まるで堪えていない。勝ち気そうな大きな瞳をキラキラさせて出奈(いずな)と呼ばれた娘は、栗色の髪を横にふわりと振っただけだった。
咲夜(さくや)殿はいつも1人で行ったり来たり。幽幻様と寝泊まりもなさっておられるじゃないですかぁ」
 語尾を伸ばし気味にする拗ねた様な言い方と上目遣いの目は、幽幻への愛情に溢れている。いつもこの目に、心を溶かしてしまう。幽幻の小さな溜息は微笑みの影に隠れた。
「咲夜は仕事だからだよ。弟子だからだ。それにお前は未だ子供だから、1人でうろうろする訳に行かないんだよ」
 出奈はそれには答えず、
「幽幻様、ちょっとお酒の匂いがします。飲むなら、うちに遊びに来てくれれば良いのに」
「正月に挨拶に行ったろう? そうそう厄介にもなれんよ」
 幽幻がまた(ます)を手に取ると良いタイミングで出奈が徳利(とっくり)を手にし、そこに透明な液体を注いだ。
「咲夜殿は未だ、里帰りですか?」
「ぼちぼちこっちに来ると思うがな」
「そうですか」
 来なくて良いと思ってるのか、逆に待っているのか。真意が分かりかねて幽幻は少女の顔色を覗いてみたが、感情は読めなかった。
 すぐにくるりと表情を明るくし、出奈は背に抱えていた白菜をゴトンと置くとすぐ食事を作りますからと言いだした。
「冬はじきに日も暮れる。お使いは有り難いが、飯まで作ってもらう訳には行かんよ。母者が心配するだろうから、帰りなさい」
 以前お前のせいだと怒られた事のある幽幻は姉のふんぞり返った姿を思い出して、苦笑してしまった。沙摩(さま)が迎えに来てくれるのを待とうかと言う気の失せた幽幻は立ち上がり、
美味(うま)そうな白菜をくれた礼に飴なぞ、途中で買う事にしよう。そこまで送って行くから。な?」
 不満そうな顔をした少女を、即したのだった。

          ◇

「それは丁度良かった。どう食したものかと思っておりました」
 咲夜が持参した茹で蟹は白菜と共に程良く煮え、2人の腹の中に収まった。もう1件の湖野谷家でも同じ様に調理され食された訳だが、幽幻は咲夜が来て以来なるだけ近付かない様にしている。出奈に振り回されるのをなるだけ見せたくないからだろう、と咲夜は以前沙摩(さま)に聞かされた事があるので、あまりその件には触れない様にしているのだが、
「笑い事ではない」
 憮然とした幽幻の顔を見るとやはり、少し吹き出してしまう。
「あれは時には、災難だ。仕事にまで付いて来たいと駄々をこねよるからのう」
 言いながらしかし、どこかそれを楽しんでいる様な表情がまた面白くて、咲夜は口元を押さえるのだった。
 3日後の道中でもそれを思い出してまた笑ってしまい、幽幻に怪訝な顔をされる事になった。いやいやと手を振って、咲夜は出奈の事を言った。実際に駄々をこねる様を目にして、可笑しかったのだと。幽幻は苦虫を噛みつぶした顔をして、歩きながら腕を組んだ。
「誰に似たのかとは言いとうないが、姉は娘に甘いからのう」
「幽幻殿を信頼しておられるからでしょう。(はた)から見てましたら、よう分かります」
 くすりと微笑み体を揺らすと、艶のある黒髪が光った。陽の光が多少なりとも冷たくなった風を和らげてくれていた。これが今から仕事でないならどんなに良い午後か、と幽幻はつい思ってしまい、胸の内を暗くしたのだった。
 咲夜もすぐその胸中に気付き、若干足取りを重くした。
 これから相まみえるに違いない物の怪が、妖狐かも知れないと聞いた為だった。出奈の父、沙摩の夫朧郎(おぼろう)が昔朧狐(おぼろぎつね)だったと最初聞かされて数日は、さすがに顔がこわばってしまったものだった。だが普通に暮らす親子の様子からそれを感じさせる匂いは全くない。むしろ人以上に人らしいと思える営みに、咲夜は羨ましさすら感じた。そう口に出して言った事はないが。
 咲夜は自分の身の上を、幽幻らに話していない。だが彼らも当たり前の様に聞かないでいてくれているので、甘えたまま今に至っている。
 霜か雪かの区別が付かない程薄く白みがかった田のあぜ道を歩く彼らを迎えてくれる者は、未だない。パラパラと建つ家並みを見ながら咲夜は、
此度(こたび)の退魔、咲夜にお任せ頂けませんか?」
 思い出したかの様に、なるだけ普通に言ったつもりだった。幽幻の胸中を気づかって言ったとあれば、咲夜なら情けをかけられている様な気になってしまい、立腹する所である。
 だが、そう思った時点で。
 いや思っていなかったとしても、台詞自体が既にそう言う意味に取れる事に、咲夜は言ってから気付いた。幽幻の顔が面持ちを変え、咲夜は後悔した。
「相手が妖狐かも知れぬ故、俺にはやりづらかろうと?」
 大人気ないと思ったが、言ってしまった。幽幻にも後悔が沸いた。咲夜の顔から目を逸らした。咲夜はそれを否定すべく言ってみたのだが、
「いえ、力も付いて参りましたので、1度やってみたいと思い……」
 火に油を注ぐ様なものだなと途中で思えて、止めた。申し訳なさそうな色が咲夜の目に浮かび、幽幻の心を複雑にさせた。済まないと言い損なって思考の止まってしまった彼を、足だけが別物の様にのろのろと前に運んだ。
 周りの家より少し風情の違う、すっきりと整った家が折良く目に付いた。目的の家である。
「お前にやってもらうか否かは、話を聞いてから考えるとしよう」
 どちらからともなく、安堵の溜息が洩れた。

          ◇

 もう、5合目まで登っただろうか。
 村で起こった事でなく山の中だと聞かされた時幽幻は、正直帰りたくなってしまった。ただでさえ冬の退魔は大変だと言うのに、山となると更に困難さが増す。
 だが来てしまった以上帰る訳にも行かず、咲夜が見ている手前もあって断れず、幽幻は顔に苦みを帯びさせつつ山に望んだのだった。
 山の空気は里のそれより厳しい。聞かされていた山小屋が見つかり、日が落ちた事もあって2人は足を止めた。みのに体をくるんでいても、厚手の着物を重ね着しても冬の神は容赦なく体力を奪って行く。風が少ないのがせめてもの救いだったが、ちらちらと降って来たものに急かされた。小屋の軒下に入り、確認する様に背の薪を負いなおして、幽幻は戸に手をかけた。
 手を止めた。
「幽幻殿?」
 背中にかかる咲夜の問いを制して、幽幻は先客の様子を探ろうとした。峠越えをする者が使う小屋である、先客がいたとて不思議ではない。だが。
 幽幻は目を細めた。
 戸に少しでも隙間があれば見えるだろうに、意外としっかりした造りの木の戸は光を漏らさず、中の者がどういった状態なのかを知らせない。
 すっかり日が落ち闇が押し迫ったが、空から舞い落ちる雪が薄く光り、完全な漆黒とはなっていない。
 中の者は幽幻らに気付いているのかいないのか、動じる気配がない。いかんせん自分達の存在も気付かれているだろうと思い、幽幻は意を決する事にした。
 戸を開ける音は重く響き、中の人間の肩を小さく震わせた。
 わずかな火を体全体でくるむ様にして幽幻らに背を向ける、男の顔は分からない。ふいとこちらを向いた様だったが、判断には至らなかった。
「済まない。我らも泊まりたい」
「儂の小屋ではない」
 ぶっきらぼうかと思った男の声は案外と慈愛を含んでおり、暗に火の側へ来いと言っていた。ただの人間としての気しか感じられない様に思えたのだが、幽幻は用心し戸を閉めると、男の左側に距離を測りつつ近づいた。右手で火の世話をしていたからだ。
 だが後ろにいた咲夜が男の右側に回り込み、男の顔をちらりと覗き見ようとした為幽幻はぎょっとし、思わず声を上げそうになってしまった。止めようとしたが、遅かった。
 男が咲夜に向けて顔を上げ――、
「叔父貴?!」
「父上?!」
 我を忘れて2人が叫んでしまった瞬間、男の手は咲夜の首をがっしりと掴んでいた。
「?!」
 あっと言う間の出来事に(ふところ)の札を取る事も出来ずに幽幻は立ち尽くすしかなかった。力を加減しているらしく咲夜の首を折られてはいなかったが、息が細かった。
 彼女を人質に取られた為もあったが、幽幻の驚愕の理由は男の顔にあった。
 咲夜を捕らえたまま暖かな笑みをたたえた男は、
刀斎(とうさい)……叔父貴……?」
 幽幻の知る者の顔だったのである。既に死んだ者の。
 もうかれこれ、7年と半年になる筈だった。
 しかし忘れる訳がない恩ある親代わりの様な男は――幽幻が殺した。
 だが怪訝なのは咲夜の言葉だった。彼女が刀斎の娘である筈がないのだ。少なくとも、幽幻が知る限りでは。
「手を離せ」
「刀と交換じゃ。体から外せ」
 ぐいと引き寄せ左腕でしっかりと咲夜を捕らえた男の右手は、変わらず彼女の首を締め上げている。失神しかかっているのか術をかけられたのか、咲夜の目は虚ろに男に向けられており、幽幻の存在を忘れているかの様だった。
「咲夜!」
 呼んだが、返答がない。
 男はぴたりと幽幻の手元から目を離さず、一挙手一投足を見張っている。彼女を盾にして逃げるのでないと言う事は、幽幻を殺す気でいるのだ。良い(すべ)の見つからぬまま、幽幻はのろのろと背に負った薪を降ろしにかかった。
 刀斎を殺した時。
 彼が物の怪に憑かれていると分かった時、逃げられない様に幽幻らは刀斎がいる家の周囲に結界を張ったものだった。だが叔父貴のみを救う事は出来ず、物の怪を、叔父貴ごと殺した。幽幻が。
 その事を思い出し幽幻は、薪を降ろしながら苦笑した。
 何故今回はそうしなかったのだろうか、と。
 用心しているつもりだったが不用心だった自分の愚かさに自嘲の笑みを浮かべ、
「何が可笑しい」
 男が、若干顔を歪めた。刀斎の顔を。
 その男の顔が更に歪み、刀斎の造りが崩れた。
 男の手が、ゆるんでいた。
 ゆるんだその手に。
 咲夜が、小柄を打ち立てていた。
「女ぁ!」
「咲夜!」
 人間だった男の顔が尖り、目を吊り上げ色を変えつつ口を開き、咲夜に襲いかかった。危うく鋭い牙の犠牲になりかかった彼女を、走り込んだ幽幻が男から引き剥がした。すかさず抜いた剣を男に突き立てる。男の喉元に刺さり男は、いや狐は、にごった悲鳴を上げた。
 足に力が入らないらしい咲夜は体勢を崩した。抱き留めていられなかった幽幻の左手が咲夜から離れ、そのままよろよろと彼女は床に落ちた。目は変わらず虚ろだった。とっさの行動は、本能に近い動きだったのだろう。
 ばさりと大きな尻尾を何本もひるがえし完全に狐の姿になったそれは、幽幻の右肩に噛み付いた。飛んだ血はどちらのものだったか。だが妖狐の反撃は、それで終わりだった。
言向(ことむ)(やわ)す」
 肩だった事が幸いし、食らい付いて来たそれを抱え、空いた手で剣を引き抜き、もう1度深く刺したのだ。人の大きさ程もあった妖狐の体が、悲鳴と共に薄らいで行った。

          ◇

「有り難うございました」
 幽幻の肩を手当てしながら、うつむいたままの咲夜が呟いた。暗い顔だった。自分の失態を恥ずかしく思っているのだろう。何について礼を言ったのかが分かりかねて、幽幻は黙ったまま左手で薪を1本、囲炉裏に放り込んだ。
「首を掴まれた時、咲夜は幽幻殿に見捨てられても仕方がないと覚悟を決めました」
 それを見捨てず助けてくれたので有り難うと言う事らしい、と思ったら溜息混じりの笑みが洩れた。笑った途端に右肩に痛みが走った。骨にひびが入っている様なので、と咲夜が肩を固定した。
 失態は、幽幻の方こそ失態だったのだ、用心が足りなかった。
 結局は危機を脱したのも咲夜が自分で成した事である。幽幻は自分の方こそ済まなかった、と素直に頭を下げた。
「判断の力が、鈍っておった」
「それは私とて同じ事」
 咲夜が迂闊に男の右側に近寄った事を、幽幻は責めなかった。咲夜がもし1人で退魔にここに来ていたなら、そんな油断をしただろうかと思った為である。幽幻にも同じ事が言えた。2人でいる事の安心が、逆に油断になってはしないか、と。
 やはり自分は弟子として常に1歩退いていなければならないのだと、咲夜は痛感していた。
 夜が深くなるにつれ、外に降る雪も粒を増した様だった。風のざわめきが徐々に雪に吸い込まれ、静寂な気配が森を包んでいた。
 その静寂に耐えかねて先程幽幻が疑問に思った件を口にしたのは、咲夜の方だった。
「幽幻殿には、あやつが叔父貴殿の顔に見えていたのですね」
「弱みにつけ込み、惑わされた」
 そうしてひるんだ人間を、喰らう。妖狐の手だった。咲夜の言葉が、男の顔を2人に違うものに見せていた事を幽幻に確信させた。幻だったのだ。
 ふと咲夜にとって父親がどういう存在なのかを、聞きたくなった。茹で蟹など持参出来るのも、なまなかな家の出ではかなり無理がある、高級品である。海が近い家なのだろう事も憶測出来る。
 父親の姿にひるむ、とはどういう事なのか。
 そこまで考えてから、幽幻は内心自分を叱咤した。聞いてどうなるものでもないのだ。
 同じ事を考えていたらしい咲夜と目が合うと、彼女の方が先に視線を逸らした。情報通かと思われた彼女もさすがに、幽幻と刀斎の関係や死の原因までは知らないらしい。語ろうかとも思ったが、自分が咲夜の生い立ちを聞きたがって話し出した様に思われても返って迷惑になろうと幽幻は深読みし、口を開かなかった。
 このまま彼女を手元に置き続けても、良い結果にならないかも知れない。
 幽幻はふと、そんな事を思った。
 ならば何故最初に弟子となる事を許したのか。
 未だその答えは、具体的に言葉にならないでいた。いや、言葉にしたくないのかも知れない。
 手当を終えた咲夜に礼と、
「寝ると良い。退魔は終わった」
 そんな言葉をかけ、幽幻は体を少しずらして彼女を視界から追い出した。彼女の表情が変わった様だったが、見なかった。
 雪は静かに、山を白くしつつあった。







                                     FIN



    後書き
  index