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参.如月寒風(きさらぎかんぷう)
咲夜の顔には、相変わらず墨が付いている。洗い落とすたびに、新しくわざと塗りつけるのである。そんな時の咲夜の顔つきは少し怖い、と出奈 「怖い?」 「きつい顔してる」 岩場に肘を突いて横目で出奈は咲夜を見る。7つの幼子 「これ、きちんと肩まで浸からないと。風邪を引くよ」 「熱いもん。もう出ようよ」 「まだまだ、芯まで暖まらないと」 そう言うと咲夜は出たがっている出奈を引っ張り、また温泉の中に浸けた。きゃあきゃあと暴れながらもそれが喜びの裏返しである事が分かるので、咲夜もわざと意地悪く押さえ込んで笑った。 川端に湧き出る温泉は草葉と岩に囲まれて、冷たい風を和らげている。今は人も動物もおらず静かで、だからこの様に騒げた。2人が騒いでいるので誰も入って来ない、とも言えるかも知れないが。 「幽幻 「そう言う訳には行かないよ」 咲夜は苦笑した。 長い間彼女に馴染まなかった出奈だったのだが、最近咲夜の事を気にしだしたらしいと勘良く察した母親が、咲夜に娘の世話を頼む様になって1月がたつ。ただ子守を押し付けているだけと言う話もあるかも知れないが。 「上がったら、幽幻様の所に遊びに行く」 「村に着く頃には夕方だよ。明日おいで」 「じゃあ泊まる。お仕事が入っちゃうかも知れないもん」 「ふくれない、ふくれない。可愛い顔が台無しだよ。お仕事は未だ入らないよ、肩が癒えてない」 「どうして墨、塗るの?」 突然話題をねじ曲げられ、咲夜は一瞬言葉を詰まらせた。顔の事を言わなければ良かったと後悔したが、やはり湯を出たら塗るつもりだったのだ、同じ事である。困ったが、しかし咲夜はどうしてかなと場を濁しただけで終わらせた。 「自分の顔が好きじゃないの?」 咲夜が微笑んだ。出奈は口をつぐんだ。寂しさの感じられる笑みだった。 墨など塗らずに、髪も降ろして結って綺麗にすれば、幽幻の気も咲夜に行くかも知れないのに、と言う考え方をした自分の心を、出奈は不思議に思った。以前はそれが嫌で、咲夜の存在も疎ましかった筈なのだ。 なのに近頃出奈の愛すべき伯父・幽幻とその弟子となっている咲夜の様子がどうもぎこちなくおかしいと勘づいた時、出奈は喜べなかったのだった。本来なら喜ぶべき所なのに。 「じゃあ約束だよ。明日、遊びに行くからね」 出奈は咲夜の手を取り、半ば強引に指切りをさせた。 だがやはり、咲夜の笑みは寂しそうだった。 ◇ 何となく予測は出来ていた。 出来ていたが、当たっても嬉しくも何ともない予測だった。出奈は子供である事を最大限まで利用し、咲夜をなじり、幽幻に当たった。 「行く! 一緒に行くぅ!!」 涙で顔をぐしゃぐしゃにしてまで主張するのは、既に幽幻と共に遊びたかったからと言うより、自分の思い通りに事が運ばない為の苛立ちからだった。 事前に聞かされていれば咲夜も昨日のうちに出奈をやんわり諭しておいたのだが、自分も“仕事は未だ入らない”と言ってしまった手前、ばつが悪かった。ひたすら出奈に謝るしかない。 「こうしてる間にも、恐ろしい妖怪が人を食べてしまうんだ。助けなきゃいけないんだよ」 幽幻も困り果てた調子で言い出奈をなだめるのだが、 「出奈も妖怪、やっつける! 幽幻様のお手伝い、する!」 と言って引かない。 いつにも増してしつこく食らい付いて来るのうと肩を竦める幽幻は、咲夜に溜息を洩らした。咲夜は咲夜で、先に教えておいてくれていれば、と言う恨みの目で幽幻を見てしまったのだが、後のまつりである。 気付いた母親が彼女を迎えに来てくれたのが救いで、 「出奈。また帰って来たら、遊んでもらったら良いだろう?」 駄々をこねる娘を引っ張り、困っていた2人を安堵させた。 「お前さんが来てから特に、嬉しいみたいで、我が儘が過ぎて。済まないねぇ」 「いえ、そんな」 咲夜は沙摩 「肩が癒えてないんでしょう?」 幾分か落ち着いた出奈の潤んだ瞳が、幽幻と咲夜を交互に見た。 「もう殆ど治った」 腕を回して見せて痛みをこらえて、幽幻は笑いかけた。しゃがみ出奈と同じ目線で、 「帰って来たら土産を持って出奈に会いに行くからな。約束する」 と言って、ようやく彼女を頷かせたのだった。 「咲夜、お願いね。幽幻様をお手伝いしてね」 咲夜はしがみついてそんな事を願い出て来る幼子に、曖昧に笑うしか出来ない自分を不甲斐なく思った。 ◇ 真っ黒にしか見えていなかった里の外れの林が、ポウと白く、小さく光った。 それを目撃する人間はいない。家の中に皆、ひそんでいるのだ。 「あの人は、どこだい?」 小さな光が人の形を成し始めると、林がざわざわと鳴り出した。風が出て来たのだ。人の形が女だと分かり始める頃、風は里に向かった。女の髪が白く長く、さらりと流れると、里に舞う風が更に荒れた。 「お前様……」 歌う様な声で女が里の家に向かって歩き出す。彼女を取り巻く様に雪が舞った。雪の白さに負けないくらい、女は肌も髪も着物も全て、白い。闇から浮き出た白い女は美しい切れ長の目をさまよわせ、自分の行き先を探った。 また女が、切なく呟いた。 「お前様……」 泣いているのかの震える声を、皆が聞かない様にして声を殺して朝を待っているのだと言う事を、この女は知らない。ただ自分の愛しい男の姿を探してさまようだけである。 だがもう、男の顔は、記憶にない。 わずかに光が漏れる家がそうかと思いそっと戸を開けさせてもらうと、阿鼻叫喚し逃げまどう人々がいるだけだったり、硬直し動けない者がいるだけだったりするのだ。それでも時折、そうかと思える男がいる時がある。何度か通わせてくれる者もいるのだ。――けれどいつしか、いなくなった。 女は気付かない。自分が、人の生気を吸っている事に。 だが今度は違う。男は自分を待ってくれているのだ。添い遂げようとしてくれているのだ。今度こそ、自分が昔から想って来た彼 今日とて男の家はかすかな隙間を作り、女を迎える為の暖かな光をそこから闇夜に浮かべている。ここがお前の居場所だと手招きされている様に感じ、女は笑みをたずさえ、愛しい男の顔を見る為にそこを開け――悲鳴にならない悲鳴を上げた。 女に触れた札がひらひらと焦げて落ちた。 「言向 そこへ追い打ちに幽幻が切り払おうとした。失敗だった事に気付くのは左手を振り切ってからだった。右手が未だ思う様に使えない為、左で刀を操ったのだ。それが遅れとなった。 ふわりと浮き上がった雪の女はしかし、 「あの人は、」 と、逃げるより何よりも、彼の人の姿を探してうろたえ、目をさまよわせていた。 外の闇から中へと咲夜が飛び込み戸を閉めた音に、女ははっとした。 「いかん!」 雪女 「うわ?!」 美しい若い女の姿だった雪女の顔が、吊り上がった。咲夜は痛みに半身を押さえて呻いた。そこに更に女が覆い被さろうとした為、幽幻は思わず素手で女の襟首を掴んでしまい、右手を凍傷で怪我した。女が泣き顔で振り向いた。 「あの人はどこだい?!」 一旦吊り上がった女の顔がまた崩れ、涙がはらはらと雪になって女を飾った。生気を吸われていた男は別の家に非難している。非難していた。筈だった。 「お花! お花!」 戸板に貼り付いたままだった咲夜が真っ先にその叫び声と戸を叩く音に気付いた。気をそがれた幽幻の一閃がまたも女を仕留めぞこない、女も、気付いた。 「お前様!」 戸口に寄ろうとする女の肩を幽幻が斬った。しかし女は未だ死なない。血が舞い、女が床に崩れた。生身の人間を斬った様な感触が幽幻の手に伝わった。しかしなおも打ち降ろす幽幻の剣先から女は、身を転がして逃げた。 雪女に触れれば死ぬであろう事を覚悟しつつも動かなかった咲夜だったが、 「頼む、一目で良い! 開けてくれ! 頼む! お花!」 堅固な力に、負けた。 戸が開いた。 咲夜が勢いに倒れ、頬の痩けた男の体が戸口に露わになった。札が外れた。 「お前様ぁ!」 幼子の様にあどけない顔に涙を散らして、白い女が男にしがみついた。男もまた、それを両の腕でしっかりと抱き留めた。 落ちた札を拾い半身の痛みをこらえて咲夜がそこに飛び込もうとした。必死の形相を見た幽幻は、 「咲夜!!」 力を、解放した。 ◇ まるで、真っ昼間になった。 パンと空に立ち上 土間にへたり込んで、あまりの眩しさに堅く目をつむってしまった咲夜がしかめ面で何とか細く目を開けた時、前に立った者を――咲夜は、人でないと思ってしまった。 確かによく見知った男の顔をしてはいたが、体中を輝かせ咲夜の知らない目をして立っている者を、本能的に咲夜は怖いと思った。その者が咲夜の後ろに向かって右手をかざし、 「言向 雪女 「駄目だぁ、殺さないでくれ! 頼む」 光の男が動きを止めた。雪の女をかばって身を呈した骨の様な男が叫んだのだ。未だ生きていたのかと言う思いと、未だかばい立てするのかと言う思いは、感嘆なのか驚愕なのか咲夜本人にも分からなかった。 「可哀想な女なんだ。俺の命なんかくれてやるんだ。殺さないでくれぇ」 息も絶え絶えになりながらも男は包むように女に被さり、凍えて赤く腫れ上がった顔を涙で汚しながら光る男に訴えた。幽幻だった男の表情は変わらない。 彼は左手に持った刀の存在を忘れている様だった。 彼の刀は、彼の力は、人間を斬らない。 だが、今かざしているのは右手だった。男の上にかざした手が、恐ろしいものに見えた。そこには、殺意があった。 「幽幻!!」 咲夜が悲鳴の様な叫び声を上げた。 それだけはいけない気がした。 手がぴたりと止まり龍の光が薄れ、幽幻の目が、咲夜を見た。 何かひどく怯えている様な恐れている様な、それでいて怒りを内に溜めている様な、何とも形容のし難い、だが咲夜が知る幽幻がそこにいて、気付くと彼女は手を差し伸べていた。 思い切り彼を抱き締めたい、抱き留めたい衝動にかられた。 だがどちらも動かず、動けずに2人の真ん中に――男が、落ちた。 奇妙に軽い音がして、少し埃を立ててトサリと男が死に、幽幻は我に返って白い女に向かって刀を構えて、踏み込んだ。 だが。 「……何だ」 低く小さく、溜息混じりに呟き、幽幻は刀を背に納めた。 辺りはまた完全に闇になり、何事もなかったかの様に家の中で囲炉裏 男を預かってくれていた家人もおそらく恐れての事だろう、来る気配がない。日が出るまでは誰も近寄って来ないだろう。 淡い暖かい光がちらちらと、そんな哀れな男と白い女だったものを照らした。ただの雪の塊と化した物の怪は、少しづつ風にさらわれて行った。龍の光で女は既に、息絶えていたのだ。 「雪女 春を見る事のない女が、憧れを持って名乗ったのだろうか。 塊を見てそう思い、初めて咲夜も気が抜けて、左の肩から腰の辺に走る痛みを思い出し、戸に背をもたげて息を突いた。ひどそうではなかったがやはり気になり、そっと襟を引っ張って傷を覗き見ようとしたが、暗くて分からなかった。 「大丈夫か?」 はっと顔を上げると、幽幻が男の骸 「薬がある。今のうちに塗っておけば、ひどくならない筈だ」 塗り薬の入った蛤 「俺は向こうを向いている。やられた所、全部に塗れ」 と言い添えた。 互いが互いに背を向ける時間がやけに長く感じられた。普段なら咲夜の方が何かと声をかけてくれるのだが、今の彼女の口は重かった。その思案が感じられて幽幻の方が、 「助けられなんだ」 と男の事を、切り出した。 それは咲夜を責めてなどおらず自嘲的ですらあったのだが、しかし彼女の胸をちくりと刺した。いくら力負けしたからと言っても、戸が開けられてしまい男を入れてしまったのは咲夜の責任だった。 力だけではない。 咲夜は、情に負けたのだと自分を分析していた。 だから気がゆるみ力負けし、結果、男を死なせてしまった。 そう思う咲夜が「それでも彼は幸せだったんですよ」とは、到底言えない。いくら男が女の為に死ぬ事を幸せと思っていたのだとしても、納得し切れなかった。 幽幻もまたそんな男の事や自分の暴走した力についてなど考えていたのだが、やはり黙ったまま返答のない咲夜の様子を背で受け、話題を変える事にした。かねてから彼をさいなみ、今回ようやく口に乗せる事を決心した言葉だった。 咲夜、と呼び掛け1呼吸置いてから、幽幻は言った。 「郷 ◇ 幽幻の言葉は、咲夜から一瞬何もかもを奪い去った。 言動どころか、思考も感情もなくなり息をする事も忘れた様に数秒かたまったままの彼女に、幽幻はそれ以上何も言わなかった。 いつ言われるかと、恐れていた言葉だった。弟子以上になり得ない圧倒的な力の差は、もう随分前から――いや、弟子入りを頼んだ時既に、分かっていただろう事だった。 だから、何故とは聞かなかった。 ようやく沸いてきた感情は、全く相反して咲夜を襲った。 安堵と、悲しみ。 どちらの感情も、自分で理解出来た。何故ほっとしたのか。何故悲しいのか。 だから、従った。 最後まで、泣きはしなかった。 最後まで、そのきびすを返せなかった。どちらが? どちらもだ。 実に淡々と2人は、互いの健闘を祈る言葉を口に乗せる。 「先ずは、傷を癒せよ」 「幽幻殿も。――お達者で」 「俺はいつでも達者だ」 軽口を叩いてみせ場を和ませようとした幽幻の気遣いが、返って咲夜の気を重くした。だが何とか笑みを作ると、今まで有り難うございましたと彼女は言った。幽幻は彼女に退魔師を辞めろとも続けろとも言わなかった。 すすき野が雪に埋まる平野を咲夜は後にして振り向かず、幽幻はポツリと建つ小さな家屋にもぐり込む。 咲夜の顔には、変わらず墨が付いていた。 幽幻は、初めて出奈との約束を破った。 FIN 後書き index |