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弐.文月不知火(ふづきしらぬい) 「だあああ!!」 あられもない格好で背から水面に落ちた少年を、娘は思い切り気持ち良く笑い飛ばした。 「あはははは! だらしがないねぇ」 新月に薄く雲のかかる空の下、しかも陸の遠い海の上では、視界も効かない。柱付きの船で、提灯が幾つか吊されているのが、せめてもの救いだった。 ずぶ濡れになった弟が船のヘリに手を掛け、上ろうとするのを、沙摩が船の重心に立って補助した。 若干14歳のこの時、月次は未だ霊を封じた事がなく、今回が初仕事であった。きちんと出来るのか以前に、波の揺れだけであえなく海に埋没してしまう弟を、沙摩は不安気に眺めた。 「姉ちゃんも、もう19なんだから。人並みの結婚させとくれよ」 「仕事はちゃんと出来るよ」 ふくれ面を作って返事する月次だったが、一瞬“沙摩姉の旦那になるヤツ、いるのか?”と言いかけた台詞をぐっと飲み込んだのは、正解だったろう。子供の頃から霊を呼んでしまい、しかも見えているのに対処出来ずよく泣いていた月次を守り、その力を調教したのは沙摩である。 沙摩は事ある毎に自分より月次の方が“力”が強いのだからと言うのだが、月次には今ひとつ納得出来なかった。どう考えても姉の方が運動神経があり、器用に物の怪・悪霊の類を浄化したり封じてしまうからである。 懐の手拭いもすっかり濡れてしまったのを絞って、月次は頭を拭った。沙摩が櫂(かい)を操り、更に沖へと漕ぎ出す。湖で娯楽に使う用に小さなイカ釣り船に、2人以外誰も同行者はいなかった。 「不知火(しらぬい)が出ますのじゃ」 そう言って漁村の者は、湖野谷の退魔師を呼んだのだった。 「時季外れだわ、まだ梅雨が明けたばかりなのに」 沙摩の問いに、村長の顔が恐怖に歪んだ。 「そうですじゃ。その不知火は、人をさろうて行きまする」 沖に出れば間違いなく帰って来れない為、夜のイカ釣り主であるこの漁村では、仕事が出来ずに困っていたのだった。昼の漁だけで獲れるものは知れており、それも最近は、魚ですらも減ったと言うのだから、始末が悪い。 そんな訳で、退魔師である2人が沖に出る事になったのだが、この2人では怪しいと思われたのか、船は貸してくれても、漕いでやろうと言う者は現れなかった。 「皆、冷たいよな。一人位、付き合ってくれても良いのに」 「そんなもんさ。月次、お前さん口ばっかりでなく、漕ぐの代わっとくれよ」 目を細めて、沙摩は月次を見下ろした。櫂から手を離し、一歩踏み出した所で、彼女は止まった。 「おいでなすったよ」 水平線から、小さな光がポツリポツリと発生した。よく見える様、沙摩は提灯の明かりを、半分消した。真っ黒な海の上に、人魂の様なゆらゆらとした光が、浮かんでいた。 どんどんと増えるそれが、徐々に大きくなる。近付いて来ているのだ。不知火などと可愛らしい代物でない事を、既に2人共が承知していた。本来不知火とは、盆過ぎに見える現象である。近付いてなども、来るべくもない。 月次は船の先端に腰を下ろし、印を組んだ。覚え込まされた不可思議な言葉を口にする。自分の腹に気が溜まっていくのを、月次は感じた。体温が少し上がった様な気がした。 近付く不知火。 人魂と言ってしまって、良かった。 それらの光がうなる様な声を発しているのを、2人は聞いた。ゆらりと輝く光が、人の形を成していた。友引霊か? と沙摩は思った。 「ほれ。さっさとしないと、捕まっちまうよ」 いらん事を言うな、と内心愚痴りつつ、月次は更に声を高めた。だがもっと高まらねければいけない筈の体内の気が、上がらないのだ。月次は焦った。焦ると余計に気が散ってしまう。月次は不安な面持ちになりつつ印を唱えながら、ちらりと霊の群れを見た。複数の声が響く、それらの光は、徐々に顔の輪郭まで見えつつある。その顔が苦し気に見えた気がした為、月次はふと声を途切らせた。 「月次?」 「違う……」 呟いて、月次は振り返った。 「姉ちゃん、違う! あれは、」 「ちょっと待って、月次、もう、」 一気に速さを増した、人型の群れが彼らの目前に迫った。 「間に合わな……!!」 沙摩の読みは、更に甘かった。仕事をし損なう訳に行かない、と、代わりに沙摩が印を組んだのだが、真っ直ぐ突っ込んで来ると思った彼らが、海の水を押し上げたのだ。獣が吠える様な低い波音が轟き、嵐の様に荒れた水面で月次らの乗った小船が踊った。 提灯が揺れ、更に半数程が明かりを消してしまった中で、重い物が水に落ちる音がした。 「しまった!」 鋭く沙摩は叫んだが、月次の方は叫ぶ余裕さえなく、再度海に潜る羽目になったのだった。 「月次!」 だが暗い水面に体を乗り出す沙摩も、決して危機を逃れた訳ではない。はっとして振り向いた彼女の頭上から側面から、包み込む様にして無数の光の人型が押し寄せて来ていたのだ。 ◇ 急いで海の上に出ようともがく月次の足を、何かが引っ張った。 「!」 思わず口から、泡を吐き出してしまい、慌てて口を手で押さえ、足元を見た。足首を掴んだ物の、その姿に月次は、息を吸えるものなら吸いたくなった。 「何じゃ」 つまらなさそうに言う少ししわがれた声は、全く普通に発せられていた。海の中というのに、である。月次は未だ護符を使いこなす力を持っていなかった為、手ぶらだ。薄ぼんやりと青白く輝く、醜悪な顔をした小鬼を蹴飛ばすか否か、月次は悩んだ。 月次の心境を察したのか顔色を読んだのか、小鬼の格好をした妖怪は耳まで裂ける程にニタリと笑った。 「坊主は小そうて好かんき、安心せい。もっと小さければ、身も柔らかろうがのう」 月次は、この妖怪が黒幕だと悟った。 押し寄せる霊達が苦し気に見えた時、月次は気付いたのだ。 彼らは恨み辛みによりこの世に留まった訳でなく、何かによって繋がれていた霊だったのだ。何も知らぬ人間を海に引き込み、小鬼の糧とする為の。 「食うならば、おなごの方が良いわい、のう」 言ったと同時に妖怪は月次を引っ張り、海底に沈めようとした。何が安心せいだ! と思った瞬間に足を離され、月次は体勢を崩した。その隙に妖怪は水中と思えぬ速さで、海面に出てしまった。 月次の気が、遠くなりかけた。 『姉ちゃん!』 叫べるものなら、叫びたかった。 ◇ 船の手すりにひょいと上がった小鬼は、霊によって自失しているであろう娘の、後ろ姿を発見した。大きな人魂の様な光が沙摩の体に埋もれて行っていた。体内に無理矢理入り込んだ霊の思念が人を狂わせ、精神を壊し、身動き出来なくさせるのが狙いらしい。 「お前ら、もう良えで」 小鬼は醜い笑みに歪んだ口から、ダラダラとよだれを流した。年頃の娘など、滅多に食えるものではない。気持ち良く、おとなしい沙摩の頭に食らい付こうとする妖怪の口が、自分の頭2つ分程まで開いた。生暖かい空気が漏れた。 妖怪は、ふと気付いた。 娘を取り巻く空気の流れが、違うのだ。霊のせいでない事は、今迄何度もこの行為を繰り返して来た小鬼が1番分かっている。小鬼は、砂摩の横顔を見て、ぎょっとした。 泣いている。 そして彼女は呟いたのだ。 「可哀想に」 と。 妖怪は今迄直面した事のない、娘の異常な行動にわななき、一歩退いた。 娘が、右手を天にかざした。動ける筈がないのに、である。 小鬼は直感的に恐怖と危険を感じ、身を伏せた。 「清められませい!」 「うおっ?!」 辺り一面が輝いたのは、果たして気のせいだったのか否か。だがその光をしっかりと見た者もいた。船から離れてしまい、方々を見回していた月次の、良い目印になった。 慌てて泳ぎ出す月次に、沙摩は未だ気付いていない。 夢から醒めた様な顔に涙を浮かべて振り向いた彼女の周りには、もう哀れな霊はいなかった。いるのは、醜い顔をして慌てふためく妖怪一体だけである。 彼女は罪のない霊を地に留めて操り、弟を殺した(と彼女は思った)非道な妖怪を、憎しみを込めて睨み付けた。 「お前だけは、許さない」 立ち上がる沙摩の“力”に圧倒された小鬼は縮こまり、体を震わせるばかりだった。ご勘弁を、とか何とか呟いていた。その言葉や態度に、沙摩は一瞬躊躇した。 「沙摩姉!」 思いがけず近くでした月次の声に砂摩は驚き、顔をそちらに向けた。 「月次?!」 弟が無事であった事の安堵が、沙摩の心に湧き起こった。 小鬼が、ニタリと笑った。 その時。 月次は凍り付いた。 目の前で、何が起こったのか、理解し難かった。 薄暗い提灯の下、砂摩に小鬼が躍りかかった。 船底が露わになり、2人の姿が向こう側に消えた。 提灯の灯が、全て消えた。 勢いの良い、波の音。船が転倒したらしい。 かすかな月明かりに、水しぶきがチラリと光った。 波が月次に襲いかかった。 口を開けていた彼は、辛い物を飲んだ。 飲んだ時、事態もやっと呑み込んだ。月次は慌てて泳いだ。 「さ、沙摩姉!」 月次はギクリとした。 船の腹が水面に浮かぶその上にひょっこりと顔を出したのは、月次が望む方ではなかった。 嬉しそうに、小さな妖怪は、よっこらしょとばかりに、ひっくり返った船の上に何かを引きずり上げた。足まで全部は乗り切らずに上半身だけしか見えなかったが、小鬼の青白く輝く身体に照らし出されて、それが沙摩だと分かるに難はなかった。月次は、目を見開いた。 「姉ちゃん!」 「……う」 動きは見られなかったが、小さく聞こえた声は、間違いなく沙摩のものである。肩を食われたらしく、左肩が赤いのが、ぼんやりと分かった。 「まだ生きておるか」 完全に優勢になった妖怪の表情から、先程の哀れな様子はみじんも見られない。それどころか、小鬼は勝ち誇った様な悠々たる笑顔で、沙摩の左袖を破りにかかるでないか。 「あぐ!」 たまらず、沙摩の口から呻きが上がった。 月次の顎が、怒りで震えた。 「何、すぐ童(わっぱ)も、同じ所に送ってやるきに」 小鬼の口が、大きく開いた。 嫌だ、と月次は思った。 「……き……」 月次、と言おうとしたに違いない、沙摩の小さな声。 流れ出る、赤い血。 嫌だ。 姉ちゃん。 嫌だ。 いやだ! 月次の中で、何かが一線を越えた。 「いやだああああ!!! 」 バッ! と。 光が生まれた。 月次の体が、白く発光した。 「ひっ?!」 小鬼が叫んだ。 小鬼の放つ光とは全く異質な、輝かしく神々しい、太陽にも似た光だった。 光が柱となって、天に伸びる。 柱の先には、龍がいた。 龍が、口を開く。 轟き。 月次の叫びと、龍の咆吼(ほうこう)が、重なった。 天に響き渡り、海を揺るがした。 そのさざ波の、上に。 月次は、立った。 海の上に。 まるで地上の様に。 一連の出来事に目を丸くするばかりだった小鬼は、その時ようやく自分が目にしたものが何なのかに気付いた。気付いた瞬間、既に彼は死を悟った。しかし、逃げずにはいられなかった。 何、相手はただの小童じゃ、と自分に言い聞かせようとした。無駄なあがきである事を、百も承知で。 「くそっ」 何とか足を奮い立たせ、小鬼は月次に背を向けた。 だが。 音もなく、すっと自分の背後に立った者の姿を、小鬼はとうとう見る事が出来なかった。 蛇に睨まれるどころの騒ぎではない。 神に睨まれた小悪党では、身動き出来よう訳がないのだ。小鬼の体が、ガマの油よろしく汗ばんだ。もう、口も半開きのまま、動かない。 月次は妖怪の背に手をかざし、何の感慨もなく込めずに言った。 「言向けやわす」 断末魔も上げられず、まるで何もいなかったかの様に、妖怪が消えた。 ◇ 「月次……」 沙摩の弱々しい呼び掛けに、我に返った月次は船に降り立ち、彼女のそばにしゃがんだ。彼の体から起こった光は既に消えていたが、東の空が白んでいて、2人は互いの顔を伺う事が出来た。 「姉ちゃん、大丈夫か?!」 船が揺れる。丸みのある船底の上に溜まった沙摩の血が、至る方向にゆらゆらと流れた。月次は泣きそうな顔をしながら、それを見た。 「ああ、大丈夫さ。それより、凄いねぇ。月次。龍神だなんてさ……」 「あ。……俺は……」 「湖野谷の家紋は、3つ鱗……」 沙摩は困惑した表情の弟の頬に、右手をそっと当てた。体を起こす事は出来なかったが、彼女は月次の方に精一杯顔を向けた。 「3つの鱗とは、昔、北条様に龍神様が与えたもの。筒の神、竜神の霊力を司る印さ」 「姉ちゃん、あまり喋ると……」 月次は沙摩の手を握った。それを沙摩も、ぐっと握り返した。 「大丈夫、月次は自分の力に負けないよ」 月次は、目を見開いた。思いがけず強大な力が自分の中にある事を知って戸惑い、かつ、自分の思い通りにならなかった事を不安に思った月次の心を、沙摩は全て見通していたのだ。 月次は肩をストンと落として、安堵の笑みを洩らした。 「もっと修行は、必要だけど、」 「平気だよ」 一生懸命語りかけてくれる沙摩の言葉を遮って、月次は力強く頷いて見せた。その笑みに満足して、沙摩も眩しげに目を細めて微笑んだ。 日の出が、海と2人を明るく照らした。 FIN 後書き index |