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ふさがれていた口が自由になると同時に、ユカは目覚めた。
ごぼっと水を吐きだして、激しく咳きこむ。歓声が聞こえてきて、ユカは自分が助かったらしいと気が付いた。ああ、そうだ……溺れたんだった。
記憶が、ゆっくりと鮮明によみがえる。
「今年最後の海だよ、お盆が来たら終わりだよ、プールとはテンションが違うんだよ、肉がたるむ前に目一杯ビキニを着なくて、どーするの!」
友人の剣幕に押されて決行した旅行だったが、来てみればユカの方がワクワクしているぐらいだった。海と空の青さが想像を超えていて、震えが来るほど綺麗だったのだ。
本来の、旅の目的は逆ナンだ。そこらのチープな海じゃあ男なんて引っかからないという偏見と、せっかくのおニューなビキニを披露するんだから、ここまで来ちゃえ〜! という思い切りの良さが手伝って、彼女らは和歌山県の串本までやってきた次第である。引っかける男として、ダイバーが目当てでもある。
本土最南端、日本でもっとも美しいと言われる、サンゴの色が鮮やかな海岸である。海水浴場でもその美しさは充分に出ていて、自分たちもダイバーライセンスが欲しくなるほど素晴らしい海中世界が広がっていた。
砂浜を散歩して男を誘う、なんて当初の目的も忘れて、特にユカは素潜りにのめりこんだ。シュノーケルを着けて、水中眼鏡で海中を見おろす。水泳の腕前はいらなかった。シュノーケルで息ができるのだ、ただ浮いていればいい。
たまに息を止めて、サプンと潜ってみたりする。でも海女じゃないユカは、すぐ浮き上がらないと息がもたないので、浮いている時間の方が長い。背中ばかりが日焼けして、すごいことになるだろう。
日焼け止めクリームを塗りに、時々浜へ戻る。2人できゃあきゃあ言いながら背中を塗りあいっこして、また海へ泳ぎだす。これを3度も繰り返せば、すっかり慣れた作業になった。
恐怖は、そこに潜んでいた。
ユカは海の楽しさと恐ろしさを同時に味わったのだ。
手を伸ばせば届きそうな海底は、割と遠い。すっかり潜っちゃって海面を見上げると、海面がまるで天井に見える。ゆらゆらと光る、綺麗な天井だ。晴れていて穏やかな海でないと、見られない。自然が少しスネただけで、その光景は崩れて消える。
崩れて消えた瞬間。
ほんの少し、波が立ったに過ぎなかった。夕刻が近づいて、引き潮が始まったのだ。海底が揺れて、ユカは引っ張られた。思わず声を出しかけた。海中なのに!
海水が口内を襲った。
息ができない!
当たり前の、でも絶望的な事実だった。シュノーケルの隙間から浸入してくる海水が、容赦なくユカから平静を奪った。視界が泡だらけで何も見えない。目は開いてられるはずなのに、思わずぎゅっと瞑ってしまう。ユカは暴れた。パニックを起こした。空気が欲しい。とにかく海の上へ。上へ! でも上って、どっち?
焦れば焦るほど、身体が動かない。息ができない。足がつかない。立てない。海中世界に取り込まれて、逃げられない。幻想が暗黒に転じる。
すると水飛沫が顔にかかった。上に出たのだ!
ユカは急いで空気を吸った。
「がふっ?!」
ところが海水も一緒に流れ込んできて、喉の奥をふさいだ。欲しかった空気は、肺に届かなかった。シュノーケルをくわえたまま息を吸い込んだので、筒に残っていた海水が一気に流れ込んできたのだ。
イヤ……イヤ!
助けて!
「助けて!」
叫んでいたとは思う。思うが、その自覚はなかった。口を開ければ海水を飲み、手足は重くなる一方で、いっそ泳ぐのをやめた方が色んな意味で楽になれる気がして、でも動くのをやめればまた暗黒の世界に引きずり込まれるのは目に見えていて、それはさすがに恐ろしくて必死に逃げたくて助けて欲しくて怖くて怖くて怖くて怖くて……。
そうして気付いたのが、今だった。
助かったのだという実感がなかった。
だが優しくて低い声が、ユカを現実に戻した。大丈夫? と、ただ一言。その一言で、ユカは唐突に覚醒できた。
人工呼吸。そんなドラマみたいな状況が自分に起こると思わなかったのだ、何をされたのか相手がどんな人なのか自分がどんな状態なのかも全部ひっくるめて恥ずかしくなり、ユカは真っ赤になって咳き込んだ。
沢山の人が自分を囲んでいるらしいのが聞こえる。友人が情けない声でユカと呼んでくれているのも聞こえる。その中にユカちゃんとささやいてくれる声も混じっている。王子様が私の名をゲットしたので、それをそのまま呼んでくれているのだ。
王子様だ。眠るユカを、ディープキスで目覚めさせてくれたのだ。
目覚めたユカは、例え相手が子持ちでも不細工でも惚れちゃいそうな予感を持った。というか、すでに惚れている。すぐ目を開けて顔を見たかった。もったいぶるなんて、もどかしい。かと言って、慌てて目覚めても勿体ない気もした。どっちだよ私。
ユカは、溺れた時よりも心臓がバクバク言ってるように感じながら、そっと目を開けた。
覗きこんでくる人々。
ちょっと赤みがかっている、晴れ渡った青空。
すぐ近くに聞こえている、さっきまでは悪魔のように怖かった、波の音。
私に人工呼吸を施してくれた人。
「目覚めた!」
大丈夫かと、ユカちゃんと言ってくれていた低い声の持ち主が、ユカの頭を支えてくれている以上、この人に間違いないだろう。かたわらにしゃがんでくれている人間は、友人と、この人しかいない。
まさか、こう来ましたか……と思いながら、ユカは再び目を閉じて、ぐったりしたのだった。
「え? あれ? ユカちゃん? 大丈夫? 早く! タンカっ」
監視員なのだろう、たくましい救世主は、ユカを寝かせて心臓マッサージまでしてくれている。思いきり胸を触られているが、どうでもいい。遠くなる意識の中で、ユカはベタなオチを呪った。
さすがにレズは、ちょっと。
fin
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