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深夜トボトボと帰路につく加奈子は、時折泣きそうな顔をしてふり返ると、また思いなおして前を向き、足を早めた。 ビル街は静まり返っており、ヤバげな雰囲気をかもし出している。ちらりと通るネズミが一層、加奈子を弱気にさせた。いつもならそのような時間に通るべくもない道なのだが、今日に限って残業の嵐の上、皆先に帰ってしまったという悲惨な状況が揃い、今に至る。 「誰もいないわね」 自分を奮い立たせる為にわざと声に出して、加奈子はもう一度キッと後ろを見て、自分の臆病をふり払った。 そして前を向いた時……。 「ばあ!」 「きゃああ!」 お約束な感じ。 ひそんでいた男はしかし、加奈子が想像した変○とはちょっと違う○態であった。きちんとマントとモーニングを着込みシルクハットまでかぶった彼の姿は怪人○面相を思わせる。小説のそれよりは10歳以上お年を召した風で、腹周りも日本のオヤジな感じだったが。 髭の形も、○面相とは違った。 「お嬢さん、夜の1人歩きは危ないよ。自分で自分の身を守れるかね?」 ちょび髭をした紳士は、そう言いながらなぜかマジックペンを取り出した。突然出会った変な男に気が動転し、誰も通らない夜のビル街に空しい悲鳴を響かせるだけの加奈子に、走って逃げる気力はない。 「変な人物に狙われぬよう、威厳を持つのだ!」 良く分からない持論を残して紳士が去って行った後には――油性マジックでちょび髭を描き込まれて呆然とする加奈子が残った。 ◇ 3日休んでひたすら顔を洗い続け、ようやく薄れて来たそれを加奈子は、見舞いに来た同僚に思いっきり笑われた。 「もうちょっと洗いまくってファンデーション塗れば、何とかごまかせると思うんだけど……」 加奈子は笑う同僚を叱咤する元気もなく、しょぼんと言った。さすがに反論も出て来ないとそれ以上笑う訳にも行かない。美佐はげふんげふんと咳払いをして、顔を整えた。 「最近よく出没してるらしいよ。強い弱いの別まくなしに、出会った人は皆やられてるみたい」 「力があっても駄目なの?」 こくりと頷くそれを見て、加奈子は背筋がゾッとした。髭を描くだけの人間じゃなかったら、と想像してしまったのだ。加奈子は泣きそうな顔をして、両手で頬を包んだ。 「許せないわね、怪人ちょび髭男!」 ぐっと拳を握り締めバックに炎しょって立ち上がった美佐に、加奈子が怪訝な顔を向けた。 「そんな名前なの? 男」 「今、あたしが勝手に付けた」 ちびまる子ちゃん風縦線を目の横にくっきりと描き、加奈子はため息をついた。友人の不幸に怒りを燃やしているように見えるが、美佐は楽しくてしょうがないのだ。 「仇は取るわよ、加奈子!」 「や。別に髭描かれただけだし、何も盗られてないし……」 「甘い!」 ビシッと指を差されて、加奈子の言葉尻がすぼんで行った。 「甘いわよ! 有給、あと何日残ってるか計算した?! 次に描かれたら、悠長に洗い流してる訳に行かないのよ! ちょび髭が消えないまま出勤しなきゃいけないのよ!」 たたみ込まれる様に反論されては既に口論の気力もない加奈子としては、頷くしかない。 それを見て美佐は大丈夫! とドンと自分の胸を叩いて見せたのだった。 「力以外のとこで戦えば良いのよ」 「た、戦うの?!」 「……良いわよ、あんたに戦えとは言わないから」 ずざざざざっと引いた加奈子の素早さを見て、内心秘かに『そのスピードは充分行けるわよ』と思う美佐であった。 ◇ コツンコツン、と夜の街角に足音が響く。 確かにこんな所を1人で歩くのは嫌な感じよねぇ、と美佐はごちた。友人の弔い合戦(死んでない)を名目に街に臨んでみたものの、ハイヒールにミニスカートでは走りづらくて仕方がない。 「スーパーガールみたいな格好、1度で良いからしてみたいわよねー」 美佐は真面目な顔で呟いて腕を組み、立ち止まった。立ち止まったその時、耳をピクリと動かし、口をニヤリと横に広げ、美佐はまた低く呟いた。 「来た」 途端。 「ばあ!」 「うるああ!」 思いがけず気合の入った叫び声を聞いてしまい、ひるんだのは紳士の方だった。いや、紳士の格好をしたちょび髭のオヤジだった。すかさず美佐は叫んだ。 「出たな、怪人ちょび髭男!」 「それは私のことか?!」 「私って言うな、似合わないなぁ」 「いやいや紳士たる者、言葉遣いはきちっとすべきもの。お嬢さんも女性ならば“言うな”と言う言い方は止めたまえ」 「あら失礼」 口元を押さえて少ししなを作りホホホと笑う美佐だったが、 「違ーう!! 怪人ちょび髭男! 勝負よ!」 紳士の鼻先に人差し指を突き立て、一方の手は腰に当てられた。ちょび男は内心「ちょび髭男とは良いネーミングぢゃないか」と気に入っていたが“勝負”の言葉に反応し、それどころではなくなった。 すちゃっと取りだしたのは、無論マジックペンである。男はマントをばさりと払った。 「私に勝負を申し込むとは、良い度胸だ。お嬢さん、覚悟は良いかな?」 「望む所よ」 勝負は一瞬にかかっていた(というか相談してもいないのに2人の間で勝負の方法が決まっているのがちょっと不思議だが、まぁそんなもんだろう(どんなもんですか?)) とにかく、一瞬だった。 「行くぞ!」 ちょび男が早や叫んで跳躍し、ペンが目前に迫った。美佐はスピードで勝負をかけようと思った自分の浅はかさを呪った。力以外の所も強いではないか、ちょび髭男。腹が出てるくせにっ。 そして彼が離れた時には、美佐の鼻の下にくっきりとほとんど真四角な髭が描かれていた。ふわりとマントを広げて静かに着地したちょび男の口元に、笑みが浮かんだ。ちょび髭の下の微笑み。何とも形容しがたいものがある。 「勝った」 小さく呟いて勝利宣言をすると、ちょび男は彼女を残して格好良く去ろうとした。だがしかし。 ふっふっふと不敵に笑う声に気付き振り向けば、美佐はおもむろにおしぼりを取り出して、顔を、特に鼻の下を丁寧に拭いてみせたのだ。ちょび男の顔は驚愕に変わった。 慌てて手元を見る。 いつの間にっ! 良い子の水性ペンシルを握り締める自分の手を信じられない面持ちで眺めるちょび男に、美佐はハイヒールを脱ぎ、スカートの裾を少し上げ、 「しかーも鼻の下だけ念入りにコンシーラーとファンデーションで厚塗りしたからね。跡も残ってないわよん♪」 言うなり走り出した。美佐は、すり替えたちょび男の油性ペンを手に突進したのだった。 しゅぱんっ、と2つの影が暗闇のビル街に交差した。 「仇は討たせてもらったわ!」 またいそいそとヒールを履き、丁寧にペンのキャップもして男に放り返すと、美佐は満足の笑みを浮かべ去った。 打ちひしがれたちょび男は、ただの髭男と化していた。 びしゅーと描かれた、ちょび髭に重なる1本の太い線は、しばらく消えそうにない……。 fin
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