6


 夕暮れの中に“シェラ=ベルネ”の透かし彫りのランプがボワリと浮かび上がっている、それに引き寄せられる様にして、ルイサはパブの扉を開けたのだった。
 最初に、茶毛の娘エスティと目が合った。
「ルイサ……様」
「エスティ?」
 様子がおかしい。
 ルイサはぎくりとした。もしや、モニクやコーディのことが、もう噂になったか。いや、昨日の今日で、なる筈がない。しかも、それが理由でルイサに様付けになると言うのも、変である。
 ルイサは、女将を見た。
「マダム」
 女将の表情もまた、いつになく硬いものだったが、決してルイサを畏怖の目で見るものではなかった。彼女は、ルイサがひどく不安気な顔をしている事に、溜め息を吐いた。
「今日、お触れが出されてね。あんたが夫を得るまでは、あんたが領主であると言う物だったよ。……つまり、ルイサ=エヴェン様は、こんな所に来ちゃいけないのさ」
 セタクも言った。貴女が卑しい酒場に出入りしていたことは、事実だ、と。その事実が、笑い者、卑しい者とされる現実がある。
 だが女将の言葉をゆっくりと呑み込んだルイサに、それは、とても不条理な屁理屈に聞こえた。今までだって、分かっていたことではないか。ルイサはいつだって、ルイサ=エヴェンだったではないか。彼女達は、最初からこうなる事を分かっていて、ルイサと親しくしていたと言うのか。
「そんな。お父様には、そんな事お構いなしだったじゃない。何故今になって、そんな事言うの? 私は私よ、何も変わっちゃいないじゃ、」
「違うのよ、もの凄く」
 まくし立てるルイサの口調を、女将が右手で制した。
「あんたは、女なんだから」
 その一言が、胸に刺さった。
 えぐられる様に、痛かった。
 硬い表情の中にも、彼女にはルイサを娘の様に思う心がある事を、ルイサは知っていた。だから、その言葉が決して彼女を馬鹿にしたのではない事も、ルイサは知っていた。今日とて、とりあえずセタクの奸計をしのいだが、いつ再びこの様な事態にならないとも限らないし、第2・第3のセタクが現れる可能性もあるのだ。ルイサには、今だからこそ、本当に胸が痛んでしまう程に女将の言いたい事が分かるのだった。
 だが。
 分かるからこそ――。
「違わないわよ、何も!」
 ルイサは、走り出していた。外にでなく、中に。
「ルイサ?!」
 仰天したエスティや女将も彼女を止められず、ルイサは一番奥の扉――踊り子の衣装室に飛び込み、内から鍵を掛けてしまった。
「ルイサ様!」
 エスティたちの声が、扉越しにくぐもって聞こえて来る。ルイサは名を呼ばれる度に語尾に付く、不要な言葉に顔をしかめた。何を思ってそう呼ぶのかが分かる為に、嫌だった。その時、
「うるさいわねぇ。邪魔よ」
 ふいに側で聞こえた声に、ルイサはハッと振り向いた。
 沢山のドレスの合い間で、金髪の踊り子アディが長い髪を束ねていた。
 様々な色が入り混じる中にあっても、アディの体のラインに膨らんだ赤いドレスは、彼女の金の髪と共に輝いていた。
 涙が出そうになっていたのを必死に堪える目で彼女を見た為に輝いているのかとルイサは思い、擦って、瞳を凝らして見たが、やはり彼女は美しかった。
 この状況下で、しかもおよそ仲良くなどなれる筈がないと思っている女性が、何故今になってルイサの前で、眩しくあるのか。
 ルイサは、目を細めた。
 出て来るまで待つ気になったらしい、扉の向こうの女将たちは、静かになっていた。中にアディがいる事を思い出し、二人の様子に耳をそばだてているのかも知れない。
「何をじっと見てんのよ? いつもみたく、睨み付けないの?」
 照れたらしいアディが、1度顔を振ってから、斜めにルイサを睨み付けた。貴方が綺麗だから見とれた、とは、ルイサは言わなかった。
「そんな元気もないわ」
 それは本音だった。
 たまに1人になりたいと思って森に行けば妙な男に出会うし、今日のコーディの事を泣きたくとも、彼の死を悼める場所が、どこにもないのだ。
 涙を堪える事に、慣れてしまった。
 そのことに、体力の総てを使い果たした気分だった。
 斜めにルイサを見ていたアディが、ふん、と言った。
「だから言ったろ。ここは、あんたみたくお綺麗な方が出入りする所じゃないのさ。踊りが好きか知らないけど、あたし達はこの芸で男を釣るのよ」
 吐き捨てるように、アディは言った。しかし、そんな仕草をしながら、アディはやはり輝いていた。
 ルイサは扉に体を預け、後ろ手を組んだ。
「でもあなたは、後悔してなさそうに見えるわ」
「踊りを観てくれる奴が、いるからね」
「歌を聴いてくれる人も、いるから」
「そうさ。分かったら、そこをどきな。1曲、行って来るからさ」
 そこで彼女は、初めて笑った。
 愛らしい微笑みだった。
 他人の目から見れば、顔の造り自体はルイサの方が整っている。だが今、男達の目を魅き付けるのは、明らかにアディであった。
「歌が始まりゃ、酒場はやかましくなる。その間だけなら、かってに泣きでもすりゃ良いさ」
 そう言ってアディは素早く扉を潜り抜け、ルイサの事を皆に愚痴っていた。大声で。
「何言い出すか分りゃしないし、お客の迷惑だよ。自分で出て来るまで、放っときゃ良いのさ」
「アディ、彼女は領主様になったのよ、そんな言い方……」
「あたしに言わせりゃ、只の小娘だよ」
 その後も何事かを2・3言い争っていた様だったが、すぐに女将の弦の音と、張りの良いアディの声が酒場中に広がった。
 アディの声の伸びに合わせる様にして、ルイサの目から2筋、涙が流れた。
「ありがとう」
 小さく呟き、ルイサはしゃがんで扉にもたれた。
 アディが、ルイサを憎んで嫌っていた訳ではないことに、ルイサはようやっと気付いたのだった。だから彼女はルイサを睨んでいてさえ、憎しみで顔が歪んでいるのではない故に、美しかったのだ。
 エヴェンの名が、いつかルイサと“シェラ=ベルネ”を分かつことを、アディは知っていたのだ。
 彼女の非好意的なルイサに対する今までの仕打ち――それは、彼女なりの、ルイサへの愛情だった。
 そのことに気付いたルイサは、もう、心おきなく1人の只の娘として、父の為に、モニクの為に、コーディの為に……そして自分自身の為に、声を上げて、泣いた。

      ◇

 アディが、撥ねる。
 弦楽器の音が鳴り響く。
 アディの声が掻き消えそうなほど、男達の騒ぎも大きい。かすかにする鈴の音は、彼女のブレスレットに付いた物だ。
 踊りは、絶頂に至った。エスティらも混わり、声を出し踊っているが、それでもアディの魅力には適わない。昼間の顔の時には、特に接客もせず煙草を吹かしている様な粗雑な娘が、一度ドレスを着込むとガラリと印象が変わるのである。
「アディ!」
「アディ!」
 そんな声が、幾つも上がる。
 だが、アディは知っていた。
 自分が、夜だけの女である、と。
 いくら自信を持っていようが所詮水商売である、昼間だろうがどこだろうが、いつだって変わらずに輝いていられる人間に、こんな夜の酒場へなど訪れて欲しくなかった。
 でも、あの子が踊れば、そりゃ1番だろうね。
 アディはそんな事を思いながら、ふと衣装室の方向を見て――立ち止まった。
 歌が止む。
 男達の声が、叫びからどよめきに変わる。
 弦が鳴り止む。
 アディが見詰めるその方向を皆が見ると、そこに、金髪の踊り子がもう1人、立っていた。
「ルイ……」
 言い掛けたエスティの口を、女将が封じた。今、彼女は露出度の大きい白のドレスを着込んで立っていた。装飾は、何もない。足も素足である。ただ彼女は、髪を長く見せるかの様に、頭に金色に光るスカーフを1枚、結んでいた。
 多分、店内の男達の誰も、そこに居る者がルイサ=エヴェンであるとは考え及ばなかっただろう。
 真っ赤な口紅、涙の跡を隠す為のアイライン、そして花の香りの、香水。
 今までの彼女なら、およそしなかったであろう装いに、皆が目を見張った。
「ここにいるのは、ルイサ=エヴェンではないわ」
 全ての人の耳に入る、通る声でルイサは言った。その声に、迷いはなかった。
「踊り子、ミ=ルイサ(只1人のルイサ)よ」
 そういったルイサの顔は、ずっとアディだけを見詰めていた。彼女に、ルイサはそのことが言いたかったのだ。
 アディは目をしばたたかせた。
 だが、解答は早かった。
 彼女は無言で、ルイサに手を差し延べたのである。おいで、と言う意味で。
 その手の動きに合わせて、ブレスレットの鈴がシャラン、と鳴った。
 それが合図だった。
 男達が一斉に声を上げ、机や椅子を動かし、アディとルイサの間に道を作った。幾つかの机が、彼女らの舞台の為に開けられた。ステージ台だけでまともに踊る女達でないことを、彼らは知っていた。
 アディに歩み寄るルイサの体に触れたりする無粋な男は、いなかった。皆が、踊り子と、その内に秘めた騎士エヴェンの片鱗の2つを、同時に見ていた。
 椅子の上に立ったアディが、ふんと鼻で笑ってルイサを見下ろした。
「只の小娘が、思い切ったものね」
「只の小娘だから、こう決めたのよ」
 ルイサは笑った。
 なげやりではなく、いつもの彼女だった。
 だから、アディも笑い返した。
 アディは机に立ち、ルイサに手を差し出した。それを掴みルイサも椅子から机へと登った。
 2人が顔を見合わせ、同時に呼吸をする。女将も諦めた様な安心した様な、複雑な心境で楽器を構えるのだった。
「私達を愛せるのは、100カイン持つ男の中の男だけ!」
 ダン! と二人が足を踏み鳴らした。
 ――その夜、“光の踊り”は、まさしく金の踊り子達によって、一晩中全てを興奮の渦に巻き込んだのだった。

      ◇

 段々と、朝の光の差し始める時間が、遅くなって来た。
 エヴェンの屋敷内を歩く執事の足音が一つ一つ、響いていた。彼は窓の向こうの淡く冷たい光の筋に目を向け、溜め息を吐いた。
 仕える者がいてこその、執事である。主のいない屋敷を守る事など、花咲かぬ枯れ木に水を撒く様なものだ。
 だが、彼は信じていた。
 自分が仕えるべき人間は、堕落も逃亡もしないだろう、と。
 だから彼は正面門を誰かが通る気配を感じた時、迷いもせず玄関の扉を開け、言った。
「お帰りなさいませ、ルイサ様」
「ただいま、バトラー」
 彼はルイサの髪に残る酒気や、彼女から香る花の香りと微かな汗の匂い――それらから、彼女に何があったのかをおおよそ察した。
 しかしルイサの顔は、目は、未だその輝きを失っておらず、むしろ、先日屋敷を出る時の錯乱と意気消沈の影は全く消えていた。
 自分の道が見えた、真っすぐな目だった。
 執事は微笑んだ。
「お風呂になさいますか、紅茶になさいますか」
 ルイサもその言葉に、ふふん、と笑った。
「ハッカの入った紅茶を頂戴。それと、書状の用意を」
「書状、ですか」
「2通よ。王に、私を王宮騎士に迎えていただける様、嘆願書を。もう1通は、セタク=ジュアン殿への詫び状よ。……献上品は、私が後日、直接持って行く事にするわ」
 執事は、目を見開いた。
 いくら冷静になったからとて、一晩で彼女は見違える程、成長した。――よほど王城か酒場で、彼女の心を突き動かす事があったのだろう、と執事は、目を細めるのだった。
「かしこまりました。では、国王様への書状には、報告を1つ付け加えさせて頂くと致しましょう。近々、海向こうの隣国ジャフリナが、貿易拡大の為に使者を送って来ます。しかしその実は、物資の援助を請うもの。去年の不作が改善されず、この冬は厳しいでしょう。国が荒れていますから、取引次第では、かなり優位に立てる筈です。金品だけなら、ジャフリナの貴族連中は、ロマラールより豊かでらっしゃるそうですから」
「ジャフリナが去年からずっと不作? 今年も危ないって……どこから、そんな情報が?」
 目を丸くしながら尋ねるルイサに、執事はさも当然のように言い、
ルイサ様が酒場にいた船人から、お聞きになられたのですよ
 更に彼女の目を丸くさせたのは、言うまでもなかった。
 ――つまり酒場での踊り子は、諜報活動の為の仮の姿なのだ、と言う事にしてしまう気なのである、執事は。
 ルイサは、彼の気配りの良さと大胆さに、言い様のない感謝と勇気が、胸に沸き上がるのを感じた。
 礼を崩さず、紅茶を取りに食堂に入りかけた、その彼を、
「執事」
 ルイサは呼び止め、振り向かせた。
「はい」
「これから、きっと大変になるわ。宜しく頼むわね」
 執事は微笑んで、ロマラール国本来の主従の礼儀で、
「はい」
 返答をした。
 この時には既に、数年後のミ=ルイサの姿は、彼女の脳裏にあった。偽りのスカーフでなく、本物の、絹糸の様に光り輝く髪をうねらせながら、より力強く歌い、踊る様を。
“私を愛せるのは、百カイン持つ男の中の、男だけ”
 満天の星の下で、金のウェーブを織り続ける様を想った。
 春はまだ、遠い。
 だがルイサは、そこに向かって自分がしっかりと歩き始めたことを、感じていた。




                   FIN






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