4章〜甲板にて〜

 吸い込まれそうな藍色の水面がなめらかにうねり、裏がえって白いしぶきを飛ばす。弾けると、また収まって藍色に溶け込み鎮まっていく、その波の固まりを後方へと見やる。
 波しぶきを生み出す船の進行は、順調だ。
 出航までの道のりは、父王の許しを得て即日に……とは行かなかった。それでも、かなり早く旅立てた方だったとは思う。
 サーレは波を見ながら先日までの日々を思い出し、顔を上げて目前に広がる水平線とを見比べ、ほうと安堵のため息をつく。王都の乱雑さが夢であったかのように、海は整然と、青と白の世界を作り上げている。
 いや、この景色とて夢のようだ。頭上をすかんと突き抜けている空の、なんと気持ちの良いことか。船を押し流してくれる海のうねりは生き物にも似ていて、見ているサーレを飽きさせない。波の音、はためく帆の音も、空の青さによく似合っている。
 海から女神が消えたなどという噂があるとは、信じられない気分になる。
 と、思い出した瞬間、甲板を滑るブラシとモップの音に、ちょっと現実へと引き戻された。
「おいこら、働けよ」
「うわ!?」
 かかとを蹴られて滑りかけ、サーレは慌てて船縁にしがみついた。背後から近寄られようとも、声だけで誰かは分かる。というよりも子供じみた、こうした悪戯をする男をサーレは他に知らない。
「危ないだろう、私を落とす気かっ」
「落とす気なら持ち上げて、放り投げている」
 やりかねん。肩を落として、降参の諸手を挙げる。シーユはいつもの笑みを見せて、ほらとモップをサーレに差し出している。もしや交代の時間かと思い影を見ると、さもあらん、マストの影が船長室の扉の左を過ぎているところだった。
 モップを受け取ると、手ぶらになったシーユは嬉しそうに両手を振るではないか。どうやら彼には重労働だったと見える。苦笑して「だから、お前はしなくていいと言ったのに」とねぎらうと、バカにされたとでも思ったのか、彼はそれこそ子供のように、ぶんむくれた。
「バカ言え、大将のお前みずからが甲板磨きだなんて言い出した以上、私だってせぬわけに行かないじゃないか。この船では働かざるもの食うべからずだと知らしめねばならぬ。だろう?」
 ん? と顎を上げられて、鼻白む。食うべからずの発言は、昨夜の出航前にサーレが言ったものだ。ただでさえ足らない船員を怠惰にさせてはいかんと、指揮を執るべき立場ながら自分自身も働くと提案をした。
 むろん、直属の部下からは反対されたのだが、そう言っていられない状況になれば頼らざるを得ない。うやむやのうちにサーレは帆を張り見張りを勤め、甲板を磨く権利を獲得したのであった。
 何しろ甲板など、出航してからは常に磨いていなければならない過酷な作業である。板が乾いたり、ヒビが入らないようにしなければならない。立ちっぱなしの磨きっぱなしで腰が痛くなるし、日に焼けて肌もひりつく。
 船員となった彼らが、寄せ集めの小隊に愛想を尽かして船を下りる、などと言い出さないようにしなければならない。
「王子!」
 どこから沸いて出たのか、サーレが働くことに反対し続けている男が甲板に出現した。初老の風貌だが、体つきは精悍だ。背はサーレたちより低いのに、胸を張ると大きく見える。
「船長室にいらっしゃらないと思ったら、また甲板磨きなどを! シーユもです。あなたが王子を止めねばならぬ立場でしょう」
 むしろ仕事しろとハッパをかけたクチなので、聞かれていなくて幸運だったと言わざるを得ない。シーユは面倒な男が来たなと影で呟いてから「ならば、お前が止めてくれ」と丸投げした。
 投げられたボールは大きい。止められるなら、とっくに止めている。できるわけがない反論に詰まり言葉を飲み込んだ初老の男は、わずかに頭を下げた。
 プライド高い騎士団長にしては、上出来の謝罪である。サーレは「気遣いは無用だ」と彼ワシャルに苦笑した。
「お前を漁に連れたことがないから意外かも知れないが、私は海に慣れている。それに船長は私ではないのだ、船長室に閉じこもっているわけには行かない」
「ですが王子」
「それと、ここではサーレと呼ぶように告げたはずだ」
「納得が行きません」
「行かずとも、従ってもらわねば困る」
 頑固さも、ここまで来ると一流だ。王族にたてつける人間は結構いるものだったな、などとサーレは内心で笑いをかみ殺す。敬愛してくれるのは嬉しいが、それゆえに融通が利かなくて厄介だ。
「ここの者たちにとって、つい最近まで私はただのサーレだった。身分を明かしたからといって、いきなり王子面など、もってのほかだ」
 漁に出ていた頃サーレは愛称のみを用い、どこぞの商人の息子がお忍びで海に来ている、という設定を使っていた。出航前の夜更けに現れ、帰港したら消える。穫った魚は、家族が食べる分をだけ頂いて行きますと言い、3尾がせいぜいだ。大抵は下町の者に分け与えて帰宅したが、ディーヌの屋敷に持ち帰った時は、魚臭さをまき散らさないように、まず厨房へと忍び込んだものだった。
 最初は、漁は坊ちゃんの遊びじゃねぇと怒鳴られて、なかなか船にも乗せてもらえなかったものだった。自分の船だが、組合に貸し付けて名義を隠してもらっていたのだ。サーレが王子であると知っていて船に乗せていた男は、一人しかいない。
「それはそうと、船長室にはハイカロがいたか?」
「正規の船長殿ですか? いいえ、どなたも」
 ワシャルが応え、髭を撫でる。整えた逆三角の髭、頬の張っている鋭利な顔からは、彼の冷酷で真面目な表面しか見えてこない。だが付き合えば、これほど熱く頼れる存在もない。
 むしろ熱すぎて困るのだ、などと従兄殿は、よくこぼす。
「じゃあ私が探してくるよ。きっと、あの船長なら船底にでもいるのだろう。甲板に来いと伝えてくる」
「いえ、それなら私が」
 と、ワシャルがシーユの腕を掴む。シーユは食われる直前の小動物さながらの情けない顔をした。
「捜索して参ります。シーユ、あなたは身体をほぐす運動を。後で剣の稽古をいたしますぞ」
「船旅でまで、やるのかよ」
 小声ながらも、聞こえないわけがない距離だ。掴まれた腕に、力が込められた。
「船旅だから、やるのです。じきに実戦ですぞ」
「それは覚悟している」
 最愛の一番弟子が顔つきを変えてくれたので、ワシャルは満足して手を放した。
 昨夜こっそりと出航して走り続け、朝食も終えた今、船は沖へと出ている。ギウンディがいつ出てくるかも知れない緊張感は、すでに漂っている。
 小さくはない帆船だが、いかんせん人手が足りていない。下手な人材をかき集めてくるよりは、よほど少数精鋭としてまとまったとサーレは思っているのだが、同じ思いを皆が抱いてくれているとは限らない。
 必要最低限の20人にすら、満たなかったのだ。サーレの親衛隊から5人、シーユと恩師のワシャルに、その部下2人。船長を勤めてくれているハイカロと、彼と懇意にしている漁業組合の面子が4人。
 本来ならば来てくれることになっていた船員が、急遽断ってきたのである。いくら王子の頼みといえども、ギウンディに食われるよりは絞首刑の方がマシだと言い切られて、諦めた。
 海女神の加護すら得られぬらしい、という噂のせいだ。
 戦争に出ることができる帆船なので、非常時には500人もの人数が乗り込める。足の踏み場がなくなるが、そもそも余計な装飾など省いてある船なので支障はない。帆だけでは速度が足りないので漕ぎ手も乗せられるようになっている。船底での寝泊まりが可能になっている。
 実際に500人を乗せてみたのは演習でしかないし、船底の寝泊まりも試験的に2泊ほどをこなしてみただけなのだが。
 船室は3つに分かれていて、今は一つの部屋にだけ、10のハンモックが吊してある。船長、サーレ、シーユは船長室で寝泊まりをし、足りない数は、交代制だ。個人の荷物をハンモック周辺に占拠させないためでもある。散らかるのは、紛失騒動の元になる。
 500人乗れる船内に15人しかおらず、しかも整然としているとなると、どうしても寂しくなる。
「おや。笛か?」
 話を逸らすように、シーユが呟く。甲板の反対側で、誰かが吹いているらしい。
 休憩時間の使い方は皆、様々だ。身体の鍛錬をする者、絵を描く者、笛を吹く者。弦楽器まで持ち込んでいる者もいる。甲板磨きの陽気な歌に合わせて、音楽が鳴り響く。
 寂しさと、化け物への畏怖を振り払うかのように。
「私も剣ばかりでなく、竪琴を持ってくるべきであった」
 音楽を聴きながら、シーユがぼやく。彼の才は、さすがご婦人を虜にする技には長けているだけあって、なかなかのものだ。歌を歌わせても、さまになる。サーレにはない技能である。
「無事に帰還した際に、ぜひまた聞かせてくれ」
 サーレがねぎらい、シーユが苦笑し、ワシャルが「今は不要ですからな」と余計な口を挟み、船底へと降りるべく歩き出す。だが、ほぼ同時に、ワシャルの足を止める声が上がった。
「おら、さっさと上がれ!」
 ドスの利いた、サーレにとっては耳に馴染んでいる者の声だ。けれど彼がそのように声を上げることは、滅多にない。
「ハイカロ、船長?」
 敬称を付け足しつつ、いぶかしむ。船長の声は船室から甲板に上がる梯子から、上がっていた。皆が梯子のかかっている穴を見やる。
 顔を出したのは船長でなく、船員の誰でもない、小汚い娘だった。


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