5.


 同じく暗い部屋のこちらは、無骨な石の壁に囲まれている。出入り口兼窓である、丸太の柵がはめ込まれた穴が一つあるだけの小さな部屋だった。しかも、その穴は腰をかがめなければ通れないほど小さい。
 だが通路からの光はかなり強くその部屋に差しこんでいて、ほのかにではあるが室内は隅々まで見える。だからということもあるのか、中に座る人物はまったく不安を感じていなかった。
 むしろ、そこの石床には絨毯が敷いてあり、毛布と、喉を潤すための果実水まで用意されている。以前に自分が放りこまれたことのある独房とは雲泥の差だ……とクリフは思ったものだった。
 しかも、こうなってくると色々な国の牢獄と縁があるらしい自分が可笑しくなってくる。そのうち全世界の牢獄巡りでもしそうだ。
「何か可笑しいですか?」
「いや」
 その柵を閉めにかかるサキエドに言われ、クリフは口元を押さえて咳払いをした。仮にも国王軍を救った英雄が連行されるのに下級兵士では不相応という理由から、親衛隊長のサキエドがクリフを牢に率いたのである。
 同じく連行する者として、左大将アナカダも一緒にいた。ディナティ王の容態は気になるものの、この男クリフォード・ノーマと話をしてみたかったからだった。
 クリフは大人しく牢の出入り口に座って、2人を見あげている。閉められた柵が、クリフの顔に棒状の影を作った。
「今夜、一晩だ」
 アナカダが言い、それをサキエドがクリフに理解できる言葉に直した。
「ラウリー・コマーラが王を治せなければ、王は明日には亡くなるだろう」
 アナカダは言葉を続けたかったが、一度に喋るとサキエドが訳せなくなるので、口を閉じた。難しい言葉も避けなければならない。サキエドがクリフに話して聞かせている間、初老の左大将はぼんやりとロマラール語を憶えなければなと考えた。国交などまだまだ本格化しないだろうが、だが、そのうちロマラールとは親密になる……そんな予感が働いた。
 何の根拠もない予感だ。ひょっとしたらロマラール人の娘を処刑しなければならないというのに。
 アナカダがそんなことを考えてしまったのは、同じく処刑を待つ身にされながらも穏やかにかつ、あっけらかんとしているこの男のせいなのかも知れない。と、アナカダは思いながらクリフを見おろす。
 あの娘が失敗したら、娘をかばった罪としてクリフも処刑されることになる。そのために、クリフは牢に入れられた。皆が見ている前で土下座して娘をかばい、魔法の使用を嘆願したのだ。牢に入れなければ、場が収まらなかった。
「……実を言うと、」
 アナカダが呟いたが、訳しようのない言葉にサキエドがふり返って彼を見あげ、言葉を待った。
「あの娘が王を殺そうとしたのを見て、私はやっぱりと思った。あの娘の兄が、我らネロウェン軍を襲ったというではないか。王の小姓に収まった小僧にしてもそうだ、子供のくせに一筋縄では行かんものを発揮しおる。一体何者だと聞いても、ただの平民であり魔法をかじっているだけの者だという。そのようにお前たちには不可解な要素が多いというのに……お前のせいで、何となく納得してしまう。クリフォード」
 どんどんと紡がれる言葉は、クリフには理解できない。最後に自分の名を呼ばれたことだけが分かって、きょとんとしてしまっただけだ。だが、その無防備な表情がアナカダのセリフにちょうど重なってしまい、サキエドは思わず笑いかけて顔をそむけたのだった。
 アナカダの方は、自分の言葉を分かっていないはずの男が見せる警戒心のかけらもない目に、苛立ちすら感じてしまった。
「愚かな男だ」
 アナカダが小さく吐き捨てた。サキエドはそれも訳さなかった。
「お前があの娘をかばうことに、何の利もなかろう。嘆願するにしても、皆がいなくなってから言えば良かったのだ。あのような場所で……何も考えていないとしか思えん。お前は何を考えているのだ?」
 ようやく伝えられる区切りが来たものの、サキエドはクリフにどう言えば良いか分からず、しばらく言葉を探してさまよった。クリフが、一向に言葉を送ってこないサキエドに対して身を乗り出した。
「どうしたんだ?」
 何やら不都合でもあったのかと心配する顔である。その邪気のない顔を見て、サキエドはふっと表情を和らげた。マシャが以前に「表しかない男」と評したことが思い出された。
「あなたは愚かだと言っています」
 サキエドは思いきり直訳して笑った。クリフは目を丸くしてしまったが、サキエドに釣られたので頬が緩んだ。
「賢く見えるか?」
 自分を指さす。
 するとサキエドはゆっくりと暖かい言葉を吐いた。
「あなたのような人を、私は知っています」
「?」
「人のために死ねる人です」
「止してくれ」
 クリフは身をよじり明後日を見た。影になったクリフの顔が、やけに寂しそうに見えた。クリフは何か言いかけたが、言わずに口をつぐんだ。
 サキエドはそんなクリフをしばらく見つめてから、体を引いた。
「ディナティ王には幸運の女神が守護しています。あなたにも、その幸運があることを祈っています」
「ありがとう」
 ロマラール語をやりとりした2人は、そこで言葉を切った。
「他に尋ねることはありますか?」
 立ち上がり、後ろに立っているアナカダに問う。
「何と?」
 アナカダはサキエドに、自分が発した問いの回答だけを求めた。他に聞くことはないということだ。
 だからサキエドはアナカダを即し、見張り兵らをやり過ごして獄舎を出てから言ったのだった。
「惚れた女には、男は馬鹿になるものだ、と」

          ◇

 起きて。
 ラウリーはそれだけを念じて、憶えたばかりの言葉を唱え続ける。
 王の部屋に入ることを許されたラウリーは、左大将アナカダに借りた本を手に、親衛隊長らに率いられてディナティ王の前に座った。丈の低いベッドなので、ラウリーがぺたんと座りこんでも、ディナティ王の体はラウリーの胸辺りに位置している。着替えもせず髪も乱れたままのラウリーはひどい顔色をしていたが、今はそれよりもディナティの方がひどかった。
 彼は寝室に運ばれてから、一度だけ目覚めた。だが、それは胸からこみあげるものに突き動かされて目が開いてしまったという風だったので、吐血すると、またすぐに気絶してしまった。大量に水を飲んだので、いくぶんか血の色が薄れていた。
 ディナティは長い間ずっと大病を(わずら)った者のように、一気にやつれた。土気色の顔を目の下に刻まれたクマがそう見せるのだろう。胃の逆流に体が疲れ果て、頬もこけている。彼の体はベッドに沈みこみ、微塵も動かない。
「王が死んだら、お前も殺す」
 禿げ頭の大柄な男は聞きとりにくいロマラール語でそう言って、ラウリーを脅した。
 分かっている。
 そして、くつがえせない事実がある以上もし王が助かったとしても、自分は咎を受けて処刑されるかも知れないという、それぐらいにはラウリーもことの重大さを自覚しているつもりだった。
 10の目が、自分を睨んでいる。
 親衛隊長の2人と、王宮医師とかいう中年女性に付き添いの少女、それから側近だという大臣らしき男が一人……。王宮中すべての者がこの部屋を取り囲みそうな勢いだったのを、隊長らや大臣が治めた。そんな騒動の真ん中に立たされたラウリーが受ける視線の痛さは、針のむしろどころではない。
 それだけの人間が一瞬で集まるのは、ディナティの人望と言えるだろう。少なくとも今ここに残る者らが自分に向ける憎しみの目は、仕事や義務ではない。本当に皆、本気でラウリーを憎んでいるのだ。
 本物の“憎しみ”が発する力の、何と痛いことか。
 もちろん先ほどまでだって遊びや格好だけのつもりではなかった。けれど今ラウリーはさらに、「ディナティを救う」ということに真剣に向かいあっていた。自分の手が人を殺すということの恐ろしさと、自分の手が人を救うことの大変さがラウリーの中で交錯し、やもすれば失神しそうだった。自分の言葉がこんなに重責だと思わなかったのだ。
 もう誰のためだとか自分のためだとかいう細かいことは、頭から抜けていた。
 魔法を使うこと自体にも、何の感慨もなかった。
 ただ慎重に言葉を拾い、音に直し、紡いでいくだけだ。
 こんな綴りじゃないかも知れない。この本はインチキかも知れない。こんなに簡単に古代の言葉を、魔法を取得できるわけがないかも知れない。例え言葉が本物でも、それがディナティに効くかどうかも分からない。自分の力が足りないかも知れない。ディナティの力が足りないかも知れない。
 魔法は、ない(・・)力を生むものではない。ラウリーはようやく、そのことが分かりかけていた。
 元々そこにある力を引きだし、変換して発動させるのだ。だから元の力が弱ければ弱い魔法しか生まれない。ディナティの力は今、あまりにも弱っている。そしてラウリー自身も、かつて一緒にいた魔法使いらほどの魔力を持っていない、と自分では思っている。
 だが、それが何だというのか。
 これしかないなら、やるしかないのだ。
 膝を立てて王を見おろしたラウリーは少し微笑み、その姿勢のまま、彼の額に左手を、胸に右手をかざして詠唱を始めた。霧が彼女から放出して2人を包む。その場にいる誰にも見えないものだったが、何となく違う空気が発生したのを皆が感じた。ラウリーには薄く緑色がかった霧が見えるはずだったが、今は見ていなかった。彼女はディナティの眉間の辺りだけを凝視している。その目が開いてくれることを願って。
「どうだ?」
 声を上げたのは、その場にいなかった人間だった。
 部屋の入り口には、廊下側に兵がいる。その兵が入室許可を室内に確認せず通すのは、それ相応の立場にある者だ。室内にいた5人は入室した者に一瞬気付かず、その声に体をこわばらせたのだった。
「アナカダ様。今始まったばかりです」
 大柄な禿げ男が、その体に似合わないほど小さな声で鋭くささやいた。それと同時に全員がアナカダを見咎めた。アナカダは口をつぐんで謝罪の会釈をした。
 仮にも左大将である。軍人として最高峰の役職であり、この部屋にいる、少なくとも4人よりは高い立場にある。だが皆、今は左大将の言葉であるより先に“声”に反応し、嫌悪した。それほど室内には声を出してはいけない空気ができていたのだ。
 物音を許さない空気を発している当の本人は、アナカダの声にすら気付いていない様子でディナティに集中している。皆に背を向けて、窓際に眠るディナティに向かって術を施しているのだが、彼女の背中は自分の後ろに誰も感じていないかのように無防備だった。緊迫していない。彼女の詠唱は、まるで歌うかのようである。
 今、突然に入室したアナカダでも、それが理解できた。
 ラウリーの言葉には力がこもっておらず優しく、それでいて一点だけを見つめており、真剣である。周りを気にしていないのに、誰にも声を出してはいけないと感じさせる。
 アナカダは目を細めた。
 王に毒を盛った娘が、本当に効くのかどうかも分からない怪しい詠唱で体勢をとり繕っている。それどころかその魔法は完全に王の息の根を止めるものかも知れない。そう思うのに、娘の姿を見ていると自分の猜疑心が溶かされていくのが分かる。
 アナカダは音を立てないようにゆっくりと壁際に体を寄せて、その場にあぐらを掻いた。皆もそこへ一列になって座り、紫髪の娘を見守り始めた。いや、共に祈った。いつしか娘の紡ぐその音を、心中で繰り返していた。
 音にしない声で意味の知らない言葉をずっと唱えながら、アナカダは、
「惚れた女か」
 と思った。まっすぐな男にふさわしい一途な娘だと思えたのだ。そうと気付かなければ、冷徹な心のままいられただろうに。
 願わくば奇跡が起こって欲しい。
 そう思うほど──そして、そう思いながらもそれが叶わぬと知っているほど、アナカダは老いた。毒に対して免疫を持つはずの王が伏した毒なのだ。外来ものの、新型の毒に違いない。そうとは気付かずにコップ一杯すべて飲みほしてしまったディナティの体に侵入した悪魔の量は、いかほどのものか。順序立ててそのように考えると、望みも、端から順序よく消えてゆく。王宮医師が同室にいるのに王を娘の手に託したというのが、万策尽きた何よりの証拠でもある。
 魔法などというものに頼らなければならないほど。
 実在も見たことがないし、今も、アナカダの目には何も見えない。それを希望の光と思うには、あまりにも微量だ。アナカダの中に魔法を信じる心が少ないせいでもある。他の者も、ネロウェン人であれば同様に魔法を見たことがない。
 けれど今は娘の声が、皆の気持ちを束ねた。
 細い声で長々と紡ぎ続けられる言葉は、信じるとまで強烈な力を持ってはいない。だが聞く者を落ちつかせる、穏やかな響きをしている。自分の心が、波のない水面のように落ちついて行くのが感じられる声である。掠れても苦しげになっても、娘は変わらず皆を拒み、歌を止めない。
 どんなに夜が更けても。
 それが朝になったとしても。
 ──アナカダが自分の居眠りに気付いたのは、まぶたに鋭い光が刺さったためだった。眠っていたのか気絶していたのか、それともずっと起きていたが日が差さなかっただけだったのか……それすらも分からなくなるほど気の遠くなる夜が過ぎていたのだ。
 アナカダが顔をしかめて目をしばたたかせていると、周囲の皆も同じような仕草をしていた。禿げ隊長のビスチェムと大臣の2人は完全に睡魔に負けていたようで、ひときわ顔が朦朧としている。
 アナカダはすぐにディナティ王を見た。見たと同時に、足音にも気遣わず、よろけながら駆けよっていた。
「ディナティ様」
 待望の朝が来たのだ。
 そして絶望の朝が。
 アナカダが思わず呟いてしまったのは、返事があることを期待したわけではなかった。思わず呟いてしまっただけだった。
 アナカダは王の足元に近寄り、彼の顔色を確かめた。見た瞬間、息を飲んだ。アナカダは恐る恐る、娘に目を移した。一晩中詠唱をしていたはずの彼女の声は、もう聞こえていなかった。
「ラウリー・コマーラ」
 しっかりと呼びかけたが、ラウリーから反応がない。だが彼女は眠っているのでも、気絶しているのでもなかった。彼女はまだ詠唱していたのだ。どこも見ておらず、顔が真っ青になっている。音になっていないが、口はぼそぼそと動き続けていたのだ。そんなになりながらも手は昨日と同じ場所にぴたりと当てられたままだった。どんなに衰弱しても、彼女には魔法を止めるという選択肢がなかったのだ。
 アナカダはもう一度、王を見た。
 今度は本当に期待して、祈りながらディナティの顔を見つめた。
 だが。
「おお……」
 アナカダはうめき、口を押さえた。それから大股でラウリーに近付き、その肩を掴んだ。娘はそれでも顔を上げなかった。
「もう良い。止めろ」
 アナカダの様子に、壁際に並ぶ5人が腰を浮かした。遠目に見えるディナティの安らかな顔が、胸に痛い。
 ビスチェムが相貌を崩してひれ伏した。
「王よ! 王、目覚めて下さい……」
 床に額をこすりつける。大柄な彼が、今は小さくなっていた。女医と付き人の少女も、もうすすり泣いていた。おそらくは昨晩からずっと我慢していたのだろう。我慢して、奇跡を祈っていたのだろう。理性ではもう、とっくに分かっていたことを。
 大臣が「皆にふれを出さねばならぬか」と小さく呟きながら、立ち上がった。ひどく億劫で緩慢な動きだった。まだ動きたくなどない。そう簡単に亡くなったと思えるわけがない。だが国は動くし、民も動く。王の死には、責務が生まれる。
「止めろ、ラウリー」
 アナカダが再度言い、ラウリーの肩を揺らした。それでもラウリーは取り憑かれたかのように詠唱を止めなかった。声はもうまったく出ていなかったが、息の流れや口の動き、視線が、まだ諦めていないことを物語っている。
 アナカダはその姿に悲痛な思いがわき出てしまい、思わず声を荒げた。
「もう良いのだ! 王は……王は」
 それでもアナカダすら、その一言が言えなかった。いや、アナカダだからと言うべきかも知れない。
 アナカダは、王の額から白い手を引きはがした。それと同時に、手の冷たさに驚いた。氷のようである。ラウリーも自分の手を見て驚いたような顔をした。本当に、まったく周囲を見ていなかったのだ。
 気が触れたのだろうか。アナカダは不審に思い、ラウリーを覗きこんだ。もし気が違ってしまったのなら、その方が幸せだろうと思いつつ。何も分からないまま死ぬことができる。こちらも、処刑しやすい。
 だが、その顔を見る前にアナカダは目をさまよわせてしまった。
「……」
 何かが聞こえたのだ。
 空気が変わった。
 ラウリーの魔法を止めさせたせいだ、とアナカダは自分に言い聞かせた。王の周りや部屋の雰囲気が、ふいに明るくなったように感じられた。だが、それは朝日が入ってきたせいだろう。
 そう思いながらもアナカダは、再度ディナティに目をやらずにはいられなかった。そっと、恐ろしいものでも見るかのように目を見開き、じりじりと王の目や口、胸元から腹まで丁寧に目で追った。アナカダが掴んだままだった白い手が、ピクと動いた。はっとしてアナカダが手を放すと、ラウリーは再びディナティの額に手をかざした。
 今度は()めなかった。
 なぜならラウリーの手の下で、少年王のまぶたが動いたからである。いや、動いたように見えたからである。
「静かに」
 アナカダは離れて控えている5人に手を挙げて、口を閉じさせた。5人の、特に泣き崩れていた医者の助手がびくっと肩を竦めたが、アナカダはそれを見ていなかった。王を凝視したままである。
 部屋が凍りついたように黙した。
 紫髪の娘に声はない。
 皆が息を殺して、じっと王を見つめた。
 その沈黙の中に、そっと──。
 遠慮するようにして細く小さく、呼吸の音が流れた。
 最初にその音を聞いたアナカダが、凝視していた目を一層、皿のように見開いた。見開いたその目に、じわりと涙が滲んだ。
 その瞬間アナカダはその場に崩れ、ディナティの足にすり寄るようにして頭を伏せ、祈っていた。
「ディナティ様。……ディナティ様!」
 途端に見守っていた他の者らも、めいめいに崩れた。女性のすすり泣きは感涙に変わった。部屋の空気が柔らかくなった。日が高くなり、部屋が明るくなっていく。光の当たるディナティの顔に、ふんわりと血の気が戻っていった。
 皆が一層、祈りを強くした。
 もっと呪文を続けろ、と。少年王が完全に回復するまで魔法を──と皆が期待した時、その祈りに押しつぶされるようにして、とうとうラウリーが倒れた。
 膝立ちのまま一晩中、まったく動かずに手をかざし続けた彼女が、アナカダの見ている前で力尽き、仰向けに倒れていったのだ。ラウリーは糸が切れたように、ふうわりとのけぞった。半開きになっていた目が閉じていき、固定されていた手も下がったのに、それでも口だけが動いていた。アナカダは慌てて駆けよって手を伸ばし、ラウリーを抱きかかえた。
 チャネン、と女医の名を呼ぶ。
「王の容態を」
「は」
 髪を結い上げた中年の女医が、助手の少女と共に王に駆けよった。入れ違いにアナカダがラウリーを抱きあげて、その場を離れた。
「そのまま牢に放りこむのは忍びない。客室のベッドに寝かせてやれ」
 アナカダはそう言うと、腕の中で眠る女神をビスチェムに預けた。死体になったのかと恐怖するほど冷たい体だったが、息がある。突然役を与えられた禿げ男は、あたふたとしながらも慎重に紫髪の娘を受けとった。ドレスがよじれて、鎖骨が見えている。アナカダがそっと、それを直した。
「沙汰は追ってする」
「かしこまりました」
 極めて感情を抑えたやり取りをすると、アナカダの目はもう左大将のそれに戻っている。すべきことは山ほどあるのだ。
 仕事は、間髪入れずにやってくる。
「アナカダ様」
 部屋を出ようとする彼を待ち伏せていたかのように兵士が声をかけた。
「グールが戻っております」
「そうか」
 平然と答えながら、アナカダの脳裏は激しく回転をする。
 グールが戻った。となればグールの制御も必要だが王は伏せっておられるし、キャナレイだけでは不安が残る。それに王が不在では、フセクシェル家進軍のための大義名分も足らない。象徴が要る。
 そう思いながら回廊を歩くアナカダは、玄関先で出陣を待つキャナレイ以下15人の騎馬隊の元へと足を運んでいた。
「キャナレイ、ロマラール語はできるな?」
「え、ええ少しは。あの、アナカダ様?」
 そう問うたアナカダはキャナレイの不安も聞かずにさっさと彼女を連れて、次の目的地に歩きだす。指揮官を奪われた騎馬隊は取り残され、そんなアナカダの背中をぽかんと見送った。
 そしてアナカダが手をかけた扉は、王宮の離れに建つ獄舎のものだった。


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