3.


 15歳の少女は叫び声をあげて、逆手に持った槍を滅茶苦茶に振りまわしながら、ゴーナを走らせた。彼女の必死の心が分かるのか、ゴーナも駆ける足をゆるめない。その長い体毛には、冬と思えないほど大量の汗がびっしりとついていたが、ゴーナは疲れを感じていないかのように、いななく。
 ゴーナに乗る彼女も薄着に皮当て一枚といういでたちだったが、体からは湯気が立ちのぼっていた。彼女の腹に黒いグールがぴったりと張りつき、こちらも彼女の心が分かるのか、彼女の雄叫びと一緒になって吼えている。それらの声にたじろぐ者は誰もいないが、それは自分のためのものだ。



「どけーっ!」
 彼女、マシャが槍を一閃させる。それにぶつかった者が上体をよろめかせ、その間にゴーナを跳躍させて、そいつを飛びこえる。ジェナルム人の集団は、よろめくことはあっても、ひるみはしない。
 叫ばないジェナルム軍の代わりに、ネロウェン軍の全員が大声を張りあげていた。もう敵味方が入り乱れており、隊長らもシハムも、戦渦のど真ん中にいた。ゴーナも多くが潰され殺され、皆が徒歩で戦っていた。戦隊も何もない狂気に包まれた進軍の中央にいる黒髪の大将を捕らえなければ、彼らは止まらない。そのことに皆が気づいていた。
「大将を狙え!」
 丘の上に立った少年王が、叫んでいた。弓を持っている者は弓を射た。だが届かない。
 弓兵はためらった。敵大将の周囲には女子供が見えるからだ。その背後には女の姿も見える。誰かが、あれは王妃ではないかと言った。躊躇した兵の顔色が変わる。それをすかさず、ディナティ王が殴りつけて気絶させた。かたわらにいた別の兵が縄を持ってきて、その兵を縛った。正気を失ってしまった兵が起きた時に、仲間を襲わないようにだ。
 最初は前線までシハムが突っこみ、彼らの統率を乱そうとした。だが元々、統率などないのだ、乱れようがない。まっすぐ進むしか脳がない彼らを取り囲む戦術に切りかえ、かろうじて互角になった。
 なるだけ気絶させて武器を取りあげ、それでも動きを止めない彼らに当て身を食らわせた。
 しかし──。
 死者が増える。
 圧倒的に不利な数の差は、嫌でも敗北感を色濃くする。
 戦闘能力の違いに怯えてくれれば良いものを、彼らはそんなことなどお構いなしに迫ってくる。
 逃げない敵。
 それがどんなに怖いものか、右大将シハムは体全体で感じていた。戦って疲れて汗びっしょりになっているのに、体の芯が凍っているのだ。気を抜くとその冷たいものに全身を乗っ取られそうで、彼は喉が枯れてもなお叫び、大将として鬼と化して敵を、斬った。
 もはや勝負を記す戦争ではなかった。
 死なないために剣を振るだけだった。
 だが、さらに。
 それほどに足掻くネロウェン軍を、絶望に叩き落とす……必死の(てい)を打ち崩す事態が訪れたのだ。
 それは、北の森からやってきた。
 一瞬きょとんとしてしまうほどの光景が。
「ジェナルム兵だ!」
 誰かが叫んだ。
「ネロウェン兵もいるぞ!」
 悲鳴に近い叫声だった。
 黒かった。
 今度こそ間違いなく、朝日に光る荒野がすべて能面で埋めつくされたのだ。
 平民が寄りそう、烏合の衆ではない。歩き方からして違う、訓練された者の動き。同じ速度で、揃ってまっすぐに歩く彼らの足踏みによって、森がうなり、揺れた。
 そしてジェナルムの民と合流──。
 ここに来て、はかなく抵抗し続けるディナティ軍は、完全に神に見捨てられたのだ。ある意味では、それは当然の結果なのかも知れない。ディナティは神にはむかったのだから。
 遅れて到着したジェナルムの援軍は、すべてジェナルム北部に駐留していたはずの者たちだ。ディナティには、そこに混じる指揮官の顔によってそれが判断できた。味方だった者が白い顔をして、味方を襲いに戻ってきたのだ、などと。
 ディナティはめまいを起こしかけて、慌てて自分を奮いたたせた。
 一瞬、脳裏に“絶望”という言葉が走ったが、追いはらった。
 いっそのこと自失してオルセイの操り人形になるというのも楽だなという甘美な誘いが頭をもたげた。そのうち、こちらの手勢も尽きるだろう。それは死を指す。
 そう思ってからディナティは目を見開き、集団の中に見える馬上の総大将を睨んだ。
「まだ負けぬ! 絶望するな、心を失うは死ぬと同じだ!」
 ディナティは周囲の配下に呼びかけ、剣を振りあげた。片手で扱える歪曲した薄い刃が、キラリと輝いた。一点の曇りもなかった王の剣もまた、すでに血に濡れていた。
 人形と化した集団の向かう先がどこなのか。ディナティを王として認識して襲っているとは思えない。ここでディナティらが全滅したとしても、進軍は止まないだろう。死んでいるように見えるとて、彼らも生きている。生きて動き続け──いつまで生きているものか。そしていつしか彼らは全世界を……。
 それは誇大妄想に思えたが、そう思わせられるだけのものを彼らは持っている。むしろディナティのそれは、確信に近い危惧だった。
 黒く染まった平原の中央に立つ総大将の、顔が見える。
 オルセイでない表情をした、オルセイの顔が。
 荒野に立つ彼は、屍に取り囲まれて微笑んでいた。すっかり顔を出した太陽が、彼の頭輪(サークル)を光らせる。むしろ清々しくすら見える顔が、あまりにも状況にそぐわず異常だった。彼は悠然と、ディナティに向かって丘の上へとゴーナを進めていた。その周囲で起こっているのは、阿鼻叫喚をともなわない地獄絵図である。
 ディナティは唇を噛み、涙のように、一筋の血を流した。
 あんな男には、屈しない。
 そしてディナティはそのオルセイの側に、同じく屈しないでいる少女を見たのだった。
「マシャ」
 まっすぐこちらに向かって歩いてくるオルセイに対して、マシャは側面から近寄り、槍を振りかぶっていた。声のない群れの向こうで、少女が渾身の力を込めて叫んでいるのが、ディナティの耳にまで届いてきた。
 まるでその形相までもが見えるような、雄々しい叫びが。
「やああぁっ!」
 マシャは手綱を放して足でしっかりとゴーナを挟み、両手で槍を振りかぶった。
 だがマシャの槍は、まだ剣先を向いていない。このように別人だというのに、そこまでの踏ん切りがつかなかったのだ。
 血のように赤く光沢のないマントが、オルセイの背になびいている。黒に金をあしらった豪奢な服、金のサークル。装飾の施された長剣。どれもオルセイらしくない。らしくないそれらのものが、今のオルセイには似合っている。それをさらに、およそこの戦場にそぐわない妖艶な美女が引き立てる。死人のような群れを引きつれる大将が見せる、生の笑み。
 マシャは槍を女に向けた。
「オルセイを返せ、このババァ!」
 しかし、槍はあっさり止められてしまった。虫を払うかのような無造作なオルセイの剣が、マシャの一閃を叩き落とした。
 彼のマントに隠れた女が、少し笑った。笑ったが、その時マシャはこの女の目もやはり死んでいることに気が付いた。ほとんど直感で思った。
 この女が原因ではない。
「……違う」
 呟いた時に、マシャはゴーナの動きを止めてしまった。途端に狂人がむらがった。ゴーナが傷つけられて、いなないた。前足を高くあげられ、マシャは手綱で堪えようとしたが無理だった。ふり落とされたグール“オルセイ”は地面に叩きつけられそうになったが、直前で反転して着地した。しかしマシャの方は、したたかに背を打ちつけた。その間にもオルセイは、まるでマシャのことを気にせずに丘に向かっていた。オルセイの後ろを、ぞろぞろと人がついていく。
 だがマシャに気づいたその連中が、向きを変えて斧を振りかざしてきた。
「うわっ」
 慌てて体をひねり、刃先から逃れる。だがそこにも次の者が待ち受けていて、マシャは絶体絶命に陥った。マシャは転がりながら身を縮め、目をぎゅっと閉じた。自分の周りに人が押しよせるのが感じられた。
 やられる!
「マシャ!」
 騎馬隊の誰かだろう、男性の声がした。マシャの頭上に叫声と打ちあいの声が押しよせたので、マシャはあたふたと身を転がし、その場から抜けた。駆けつけた誰かが、マシャに襲いかかる敵の刃を止めてくれたのだ。ゆっくり安堵している暇はなく、すぐに身を起こして槍を握りなおした。
「助かったっ」
 自分を助けてくれた者の姿を探す。
 マシャは思わず立ちつくし、槍を落としそうになった。あまりにもあり得ない人物が、そこにいたのだ。
 その者は顔面に太陽の光を受けて、美しい金髪を燦然と輝かせていた。
「止まるな、マシャ!」
 先ほどと同じ声の主がマシャの側で、棍棒を振りまわしてマシャを守っていた。マシャはその人物を知っていた。かれこれ5年間も、ずっと彼はマシャを補佐してきたのだ。
 ほんのわずか会っていなかっただけなのに、この上なく懐かしく思えた。今、戦況は最悪なのに、勝利すら感じられそうな頼もしさがあった。長い金の髪を乱して敵をうち払う彼女の戦いは、まるで、そこが舞台であるかのように舞い踊って見えた。力強い、戦いの舞。彼女の力では敵を一刀両断することはできなかったが、彼女がよろめかせたジェナルム人を、周囲の男たちが気絶させていく。無駄のない連携プレイだった。先陣を切る彼女を、常に2人以上の男が両脇から守り、支えている。その数はおよそ50か。西側から攻めあがってきたネロウェンの騎馬隊が彼女らに合流して、活気づいていた。
 ルイサ、と叫ぼうとして、マシャの喉が詰まった。
 マシャの側に立って戦う大男が、マシャの背中をバンと叩いた。
「動け! 死ぬぞ」
「ギム」
 その名を呼ぶことすら、何日ぶりだろうと思った。呼んだ瞬間、マシャの中に“ピニッツ”副船長としての心が奮いたった。バッと見すえたマシャの目が、激しく動くルイサの視線と交わった。
「間に合ったわね」
「どうしてここに?」
「話は後よ。あれ(・・)を追いましょう」
 言ってルイサは手近な者をなぎ払い、ルイサとマシャに背中を見せて歩いていくオルセイに向かって走った。マシャも一緒に追う。
「気を付けて、ルイサ! 気を抜くと、オルセイの狂信者になっちゃうよっ」
「大丈夫」
 ルイサがふり返り、凄絶な笑みを見せた。不敵な、何者にも屈しない戦いの女神と呼べる姿があった。風が彼女の髪を空に広げ、金の髪が光を吸って汗を散らし、宝石のように輝いた。
「この私以外の者に服従する男なんて、“ピニッツ”にはいないわ!」
 周囲の男たちが一斉に雄叫びを上げた。ますます動きは鋭敏になり、次々とジェナルムの平民を打ち伏していく。まったくこの人には敵わないな、とマシャは内心で声をあげて笑った。
 だがそんな笑いを口に出すのは、お預けだ。
 この地獄を止めなければならない。
 前を行く2人乗りのゴーナを見あげると、何とグール“オルセイ”がオルセイに追いつき、吼えかかっているではないか。オルセイの周りを囲む狂人の群れに隠れて見えにくかったが、間違いない。
「“オルセイ”!」
 マシャがグールを呼んだつもりのその声に、馬上のオルセイがゆっくりとふり向いた。煩雑な戯れ事が残っていたかと言わんばかりの剣呑な目に、マシャはまるで自分が虫けらになった気がした。オルセイのあの目は、マシャらを人間として見ていない。ただの障害物なのだ、今のマシャは。
 怒りが一気に湧いてきて、マシャも、オルセイに吼えかかった。それと同時にグールが飛びかかり、オルセイが乗るゴーナの耳にかじりついた。オルセイは小賢しい動物を払いのけようとしたが、その前にグールは飛びおり、今度は後ろの女性に飛びかかった。オルセイが腕をぶんと振る。グールは、その腕にしがみついた。
「でかした!」
 追いついたマシャがルイサらに守られながら、右側面からオルセイと女を、槍の柄で思いきりひっぱたいた。女は、声もなく転がりおちて気絶した。
「こしゃくな」
 怒りに満ちた、オルセイの声。
 このように暗く低い声など、聞いたことがない。
 オルセイはその一言を発してゴーナから落ちたが、マシャのように無様な格好にはならず、マントを広げてふわりと降りたった。まだ左腕にかじりついたままのグール“オルセイ”の首根っこを掴み、オルセイは自分の腕からそれを引きはがした。袖が破れ、血が流れた。
「オルセイ!!」
 悲鳴を上げる。どちらを呼んだものかは、自分でも分かっていない。おそらく両方だ。
 槍を握りなおして、グールを掴んで立っているオルセイに飛びかかろうとした時──。
「マシャぁっ!」
 布を引き裂くようなルイサの悲鳴が(とどろ)いた。
 え? と思ってふり向きかけたが、その前にマシャの動きは止まってしまった。
 あまりに突然の、意外な衝撃がマシャを襲った。それが何なのか、分からないほどに。
 熱い。
 いや違う、“痛い”だ。
 背中だ。
 背中を斬られた。
 戦う者の背中を斬るなんて、そんな非常識な、あ、いや、こいつら常識なんてないんだっけ、でも……などと、意味のない毒舌が脳裏を駆けめぐった。斬られてふり向いたのは、ほとんど反射だった。
 後ろに立つ者を見る。
 マシャの心に苦笑が湧き、思わず呟いていた。
「勘弁してよ」
 あんた、そんなに弱い奴だったのかい、サキエド隊長?
 ジェナルムの平民らと同じ顔をして立つ彼は、マシャの背に自分の剣を振りおろしていた。やけに切れ味の良い剣は、綺麗に斜めにマシャの背に入っているようだった。衝撃が走った後には、どこかシクシクとした、かゆみのような痛みが熱を帯びて湧きおこった。その痛みは、あまりに現実的でなかった。
 その彼の後ろに、死んだと思っていた男、目の錯覚かと思っていた兵士トニマンが見えた。マシャは彼を一目見ただけで、サキエドがオルセイに負けた(・・・)理由が分かった。
 能面のサキエドに、怒りの形相も凄まじくルイサが飛びかかっている。重なりあう剣と剣がキラリと光った。マシャは、ルイサったらそんな怖い顔したらせっかくの美人が台無しじゃん、と明後日なことを考えた。
 そうした、それらを考えた時間もやはり、一瞬だったに違いない。
 その一瞬の間に。
 マシャは、また同じ痛みを味わった。
 体の側面、横腹の辺りに。
 自然に手がそこを押さえていた。
 ぬるりとした、あまり味わったことのない感触が手の平に広がった。
 グール“オルセイ”が吼えていた。
 サキエドは、ルイサと剣を重ねたところだ。
 第2刀は別の者の剣である。
 そう──オルセイ。
 マシャはググと首を動かして、前を見た。
 オルセイは、変わらず薄い笑みを浮かべていた。
 どこかで誰かが、自分の名を呼んでくれている。
 大きい声も小さい声も、いくつも、いくつも……。ディナティの声もあるみたいだなぁなどと、マシャはぼんやり考えた。皆の声がシュプレヒコールに聞こえて、何だか少し気分が良い。
“オルセイ”の吼える声がギャンという悲鳴に変わり、静かになった。はっとしたが、それがどこなのか、もう見えない。視界が暗く、地面が近い。
 あれ? とマシャは思った。
 地面が近い。
 その途端、頬に衝撃が走った。脳天に抜けるような激痛が走った。うつ伏せに、顔から落ちたのだ。ちょっと止めてよねなどと、普段なら考えないようなセリフを思いついた。顔は女の命なんだからさ。
 視界が効かない。
 皆の声が遠い。
 ねぇ、オルセイ。
 あんたに会ったら、文句をいっぱい言ってやるって思ってたのにさ。あたしを置いていくなんて舐めた真似してくれるじゃないのさ、この馬鹿、って。“ピニッツ”で世話してやった分が全然返ってないんだよ、逃がすもんか。子グールだけ押しつけて自分は自由の身だなんて、良い根性してるじゃないのさ。
 いくらでも出てくる。
 調子良く、調子良く。
 今どんどんとあふれ出しているのは、言葉じゃなくて血だなんてね。冗談にしては、ちょっときつい。
 シャレにならない最期だなんて、あたしの柄じゃない。
 マシャは地面に顔を伏せたまま、一生懸命、笑おうとしていた。いや喋ろうとしていたのかも知れない。頬の筋肉がひくひくと動く。いや勝手に動いているだけなのかも知れない。
 脇腹を押さえた格好で、突っ伏して倒れたマシャの上で、多くの激しい死闘が繰り広げられていた。が、今のマシャには、どこか遠い酣戦(かんせん)に聞こえた。
 寒いな、とマシャは思った。
 背中が寒い。斬られたから服が切れて肌が出て、汗が乾いて風が吹いて……だから、寒いのだ。
 少し眠ったら、良くなるかな。
 マシャの虚ろな半開きの目は、もうまぶたを閉じる力もない。
 まだ、やりたいことは沢山あるから。
 死ぬわけに行かないから、少し眠ろう。そう思った。
 ルイサが戦っている。
“ピニッツ”がそこにいる。
 あたしの“ピニッツ”。
 ディナティも戦ってるみたい。
 多分、シハムもすぐそこだ。
 ごめんね、ちょっと休ませてね。
 ほんの少し、寝かせてね……。
「死ぬな! マシャ!!」
 ほとんど耳元のような近さに、男の声が飛びこんできた。


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