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7.
ネロウェン軍に世話になってから、十数日が経った昼間のことだった。
街道を北に歩く軍が昼の休憩で止まっていた時、オルセイは自分用にあてがってもらった馬車の中に寝そべっていた。もちろん人を乗せるためだけの豪勢な乗り物などではなく、平らな板張りの簡素な馬車だ。だが幌がかかっているだけマシだろう。日陰になっていて涼しい。荷物も沢山積んである。彼が背をもたせかけているのは、干し肉の詰まった皮袋だった。
そこへマシャが、怒った顔で飛び込んで来たのだ。オルセイはぎょっとした。マシャは荒々しく馬車の幌を開け、オルセイの側に投げだされていた毛布を広げて頭からかぶると、皮袋の上に寝転がり、丸まってしまった。
馬車の中にはオルセイしかいないし、今は御者も休憩中で不在だが、外には、すぐそこにまで沢山の兵らが座っている。そんなに目立つ行動をしては、彼らが何かと思うことだろう。
「マシャ?」
オルセイが声をかけてみたが、マシャは無言だった。
いつもはオルセイの乗る馬車に、マシャもゴーナを並べて歩いている。だが今日は、昼前にマシャが右大将シハムに呼ばれて不在だった。王とシハムは先頭近くに立って軍を率いている。オルセイの馬車は列の真ん中辺りだ。
どうやらマシャは、そこで何らかの役割を与えられていたらしい。ので、マシャの怒りの原因はその時のものなのだろうという想像はつく。だが何があったのかはまったく検討がつかない。
「マシャ!」
と、少々おかしな発音で名を呼び、馬車の幌を開けたのは、髭面のシハムだった。彼を見るとオルセイはいつも、何となく黒船“ピニッツ”にいた大男ギムに似てるよなぁなどと思ってしまう。いや、ギムよりもこの男の方が年上だし、威厳や威圧感も彼の方があるのだが。
名を呼んだ後に彼が続けて話す言葉は、もう理解不能だ。
それに対してマシャがまったく応えないので、弱り切ったシハムとオルセイは顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
オルセイはマシャを残して馬車を降り、シハムに、何があったのかを尋ねるジェスチャーを繰り返した。オルセイの体はほぼ治っていた。今はこの軍をいつ離れようかと機会をうかがっている状態なのだ。ディナティがもっと嵩高(な王だったなら、離れやすかっただろう。
それとも、そう思える何かが起こったのか。
オルセイは馬車を指さし、首を傾げて見せた。憶えた言葉で使えるのは一つだけだ。
「何があった?」
オルセイの問いにシハムが口を開きかけて閉じ、オルセイに付いてくるよう合図した。兵らの手前、言えないのだろう。シハムは厳格な表情のまま、休憩中で食事などしている彼らを避けて、先頭へ歩いた。
地面に絨毯を敷いた上に、ディナティは座っている。ディナティを囲むようにして数人の兵がひざまずいているが、その正面には、およそ軍人らしくない、軍隊の中では見なかったと思える男が王にひれ伏していた。
男の後ろには、ネロウェン軍のものとは違う馬車があった。幌の色も違うし、二人の若い男女が御者席に座っていたが、あか抜けた華やかな格好をしている。ひれ伏した中年男性は顔を上げてオルセイを見ると、
「新しい通訳の方ですか?」
と言ってパアッと明るくなった。その言葉はロマラール語だった。
マシャが必要とされたわけは、これで分かった。
だが彼女の怒りの理由が不明だ。
「いえ、俺は違います。あの……マシャが、さっきの子が何か失礼なことを?」
オルセイの言葉に、男はいいえと首を振った。
男は、自分はヤフリナの商人だと言った。元々はロマラールと商売をしていたのだが、貿易が途切れると聞いたために早々に見切りを付けて、ネロウェン国に来たのだそうだ。ネロウェン語はカタコトである。だが軍隊が来ていると聞いてチャンスと思い、何とかあってもらい、マシャを介して謁見していたということなのだ。
「雇った私の通訳を連れてきてはいけないと言われました。まさか国王様直々の軍隊だとは知りませんでしたので……このことは他言無用と言われました」
なるほど、言われてみればネロウェン軍が町に入ることは殆どないし、物資の補充も極力抑えている。王のねぐらだというのに、宿の部屋も簡素だった。そう取り立てて隠している風ではないので、町に混乱をきたさないための配慮だろう。
そしてこの謁見の最中に、問題は発生したのだという。
この時にこの商人、マシャが女だと気付いたのを口に出してしまったのだ。
それに対してマシャが珍しく、詰まってしまったらしい。何しろ彼は片言のネロウェン語で、冗談のつもりで「王の愛人か?」と聞いたらしいので。これにはさすがにマシャだけでなく、王も右大将も仰天してしまった。
しかも、その後がまた最悪である。
大慌てで否定するマシャに、右大将シハムが何やら言ったらしいのだ。その内容はオルセイの想像でしかないのだが、シハムはマシャに「そういうことにしておけ」とか何とか言ったものと思われる。もしくは「本当に伽役(になれ」ぐらい言ったのかも知れない。商人曰く、シハムがマシャに言ったことがきっかけで彼女が激怒し、その場を立ち去った、ということなので。
「大将様、顎を思いきり殴られましてね……拳で」
商人がこそっとオルセイに耳打ちした。シハムの顎は、確かに髭が邪魔をしてちょうど見えにくかったが、よくよく見ると、左顎辺りがうっすらと赤いのが分かる。仮にも一国のお偉いサンに向かって、とんでもないことをしでかす娘だ。分からないでもないが。シハムも自分が悪いと思ったから、ああしてマシャの後を追いかけてきたのだろうから、まぁ問題はないだろう。
ディナティ王が商人らに、短く「去れ」という意味の言葉を発した。オルセイもこのくらいは分かる。
その声音は暗かった。交渉も決裂らしい。商人がオルセイに、情けない声で「取りなして下さい」と泣きついたが、オルセイは首を振った。
満足に話せない、通訳になってやれないということもあるが、この男の迂闊な発言がマシャを傷つけディナティを不機嫌にしたことを思うと、大きな罪ではないとはいえ、弁護してやる気になれなかった。悪気のない罪もある。
オルセイも下がるように言われ、ほどなく一行は動き出した。その頃にはマシャは自分のゴーナを操って、何ごともなかった顔をしていた。近寄りがたい空気を発していること以外は。
変わりなく進軍し、変わりなく夜を迎えた。
ディナティが素顔に戻るのは、建てられたテントに入ってからだ。すっかり日が落ちて眠る直前にならないと、少年はわずかな憂情(すら吐露できない。
「マシャは?」
テントには、ディナティとオルセイしかいなかった。オルセイが首を振る。
「後で行く」
本当は「探して来る」と言いたかったのだが、知っている言葉ではこれが精一杯だ。ディナティはロマラール語を使っており、オルセイはネロウェン語で返した。
少し笑う。
近頃はマシャを介さず、2人で会話しようとすることが多かった。ディナティとしては直接オルセイと話がしたいのだろう。見たところ同じ年代の、気軽に話せる者が彼にはいない。戦の前のささやかなくつろぎとして、オルセイらの存在はディナティにとって清涼剤になっているようだ。オルセイらが魔法を使えないらしいことはバレつつあったが、それは逆にオルセイらを危険視する目を和らげていた。ただの使いの旅人、という立場が確定したのだ。
だからこそシハムがマシャに、王の側にいろというようなことを言ったとしても、無理のない話だったが。
「知らなかった」
「女だと?」
ディナティが頷く。
知らなかったというよりは、知ろうとも思わなかったというのが本音だろうなとオルセイは思った。マシャの立ち居振るまいが上手いので、誰もマシャを見咎めない。商人がそれを女だと分かったのは、ロマラール人を見慣れているためだろう。
こちらの人間は皆、彫りが深くまつげが長い。マシャも目がぱっちりしていてまつげも長いが、年齢より幼い男の子としか見られなかった。何せ色気もないし。
ディナティは、
「危険だ」
と呟いてから、言葉の不足をどう補ったものかと悩んだ末、
「オルセイ、去れ」
申し訳なさそうに言った。今イチ意味が分からない。
だがディナティがもう一言付け加えたので、何となく納得した。
「女は危険だ」
「うん。理解した」
戦争だから危険、という意味もあろうが、男しかいない集団の中に女を一人放りこむというのは、例えそれが10代の少女であっても色ごとの相手にしか見えないだろう。
“ピニッツ”の連中は、あたしを押し倒したり触ったりしないから。
そう言った、マシャ。
できれば同じ目に遭わせたくなどない。しかしそれは、ここを去ったらなくなる危険なのかと自問すると、そうではない、と答が出る。もし今回のようにオルセイの手に負えない人数に襲われて、その中でマシャが女だと知られた場合……しかも相手が軍でなく無法者なら?
オルセイの心中に、ある決意が浮かんだ。
「頼みたい。男の、頼みだ」
そうして少し会話をした後、オルセイはテントを出た。マシャを連れてくる、と言って。
目立たないようにしていても、異国人の動向には皆が気を配っている。マシャの居場所はほどなく知れた。キャラバンから少し離れて影になっている木の根元に、マシャは縮こまっていた。マント一枚だけを体に巻きつけ、そんな寒さで眠れるわけがないのに目を閉じて、オルセイを見ようとしない。足音と気配で、気付いているはずだろうに。
「マシャ」
「今日は野宿する」
目を開いた彼女が、硬い声で吐き捨てた。どうしたものかと困ってしまう。
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