1.紫髪の娘
1(発端)
光が一片もない闇というのが、どういうものなのか。
瞳を閉じても光はまぶたの薄い皮を通り越して人の目を刺す。月のない夜でさえ星がまたたき、物の輪郭を浮かび上がらせる。雲が空を覆いつくしても、その雲を照らしだす微かな光が、なおもどこかに存在する。
人の世に、光が差さぬ時はない。
どのように暗黒の日々が訪れようとも。
生と死がその役割を分かつ日がないように。
だがその役割を壊し、真の無、真の闇を呼び起こそうとでもするような呪詛をつむぎあげる者がいる。その者は擬似的に作りあげた闇に身を置き、人間でないかのような声で、誰も知らない言葉をささやき続ける。
それは狭い空間のようで、彼女の声は辺りに響いていた。響いて──だが、普通の者ならそれが聞こえても人の声だとは認識しなさそうなほどに消え入りそうに、存在感のない、音。言うなれば人の胸に神の声が聞こえたに等しい、幻聴にしか聞こえない声だ。
神、などという天上のものに例えるべき声ではなかったが。
性別不詳に聞こえる声だが、よくよく聞き続けるとそれが老婆のものであると分かる。何も見えない、何も聞こえない空間の中に彼女の声だけが響き続けるその儀式は、もう何時間続いたものか、声音からは想像できなかった。彼女の口調に疲れは感じられない。
だが、単調に響いていた、その声が。
突然、割れた。
「おおお!」
彼女がどんな表情をしたのかも──いや、そもそも、その部屋に彼女が存在しているのかどうかも分からないのだが、おそらく彼女は今、驚愕と歓喜に包まれたのだと想像できる、そんな叫びだった。
その後すぐに衣ずれの音がして、その空間に光が訪れた。
老婆が扉を開いたのだ。
扉──ということは、そこは部屋だったのである。光の差しこんだその部屋には何もなかった。石畳と石の壁に覆われているだけの、椅子や机さえ存在しない部屋だった。開かれた扉は重く厚い石の扉だった。どう見ても老婆の細腕で開くようには見えない扉だったが、それは引きずる音を響かせながら室内に光を入れた。
扉が開いたそこには、一人の少女が立っていた。
何も言わずに老婆の正面にじっと立つ少女には、何の表情もない。老婆の叫びが聞こえたのか、扉が開いたのが見えているのか、それすらも定かでない。何も映していない目で彼女は老婆を見あげた。
見あげたと言っても、少女とほとんど背の変わらない小さな老婆は、全身を黒いマントで覆い隠している。顔は見えず、まして表情も読み取れない。
だが彼女は明らかに“喜び”だと分かる声を出して、少女に告げたのだった。
「今、ダナ神がご降臨あそばされた」
◇
死の吹雪だった。
身を切るような寒さという表現があるが、それは切るというより、身を引きさかれるような寒さだった。雪がまるで石つぶてのように、バチバチと彼らの顔や体を傷付けていた。踊り狂い猛威を振るう雪は、とどまるところを知らない。
真っ白い世界の中を2人の男が歩いていく。
周囲には人気どころか、民家の影さえ見当たらない。あるわけがない。このように深い山の奥で。
全身を打ちつけられて、彼らの足はもはや前に進まず、その場にさえ立っているのがやっとという状態だった。ただでさえ足場が悪く切り立った山でこのような雪にまみれながら、歩けるものではない。
動けない彼らの体は、半分以上が雪に埋まってしまっている。体だけでなく顔にも雪が氷になって、こびりついている。
フードの中に舞い込んでくる雪が、前髪やまゆげ、髭や産毛までもを凍らせている。2人の男は、一人は初老かと思われる顔つきだったが、一人はまだ青年の目をしている。しかし、もう何日剃っていないものか、彼らの口まわりにはびっしりと無精髭が生えていた。
それほどに、この山に居続けているのだ。
終わらない吹雪の中を。
「……!」
青年の少し前を行く男が何かを叫んだように聞こえたが、強い風と音が声をさらって行って、青年の耳にまで届かなかった。
彼は男に近づこうとしたが、もうすっかり雪が足を重くしていて、なかなか一歩が踏みだせない。四苦八苦していると、男の方が一歩下がってふり向いてくれた。ふり向いた時に体勢が崩れ、倒れそうになったところを彼が支えた。それこそ死にものぐるいで精一杯、男を抱きとめた。
「父さん!」
彼は叫んだ。
叫んだとたんに口の中に雪が入ってきて、彼は慌ててうつむいた。口を閉じ、溶けた雪を飲みくだす。胃が水を感じて盛大に鳴った。しかし空腹を訴えられても、彼を満たしてくれる食材は、もうない。
馬鹿なとわめきたかったが、そんな体力も惜しかった。今は立っているだけで精一杯の力しかない。膝が笑っているのと全身がかじかんでいるのとで、まっすぐも立っていられないのだ。
長期を予期した、テントも持っての山行だった。だが風が激しすぎる上に、風よけして仮眠を取れる場所もない。樹が林立し岩がデコボコとしているのに、隠れられないのだ。不思議としか言いようがなかった。
自分たちは山に慣れている。何泊だってするし、危険な岩も登れる。その自分たちが遭難するなんてありえなかった。いや、ありえるかもとは、思った。この山が普通でないことは知っていたから。
己の力を過信していたのだ。
入ったが最後生きて戻る者がいないという、この『魔の山』の噂を体で感じることになってしまった。
「クリフ! わしを置いて行け……」
「父さん!」
どうやら彼も一歩下がるその動きが最後の力だったらしい。
父親の体から力が抜け、ふいに重みを増した。顔にかかる雪が増した。目が閉じられ、上まぶたと下のまつげがピシッとくっついた。体温がなくなっているのだ。
「父さん、駄目だ! 起きろよ!」
クリフと呼ばれた青年は懸命に叫び、父親の顔をはたいた。
そうしている間にも容赦なく雪は、2人の腰を埋めていく。動かねば、埋まってしまう。分かってはいたが、クリフもまた足に力が入らなかった。
彼は畜生と思いつつ、歯を食いしばった。悔しさで食いしばったのだったが、歯の根があっていなくて、彼は忌々しげに自分の頬を叩いた。だが叩いた感覚すらもなかった。
普通に登れば3日ていどで着く高さの山なのだ。それが一週間さまよい歩いても、山頂すら見えない。
通常、山で方向が分からなくなった場合、降りるのでなく上に登る。下方は東西南北どこに降りるか分からないが、山頂は一つである。空を見ても方角が掴めない時の、山の常識だ。てっぺんまで行けば、景色はひらけるのだから。
だがいつまでも景色はひらけてこず、ひょっとすると同じところを廻っているのではないかという錯覚にすら陥る。そう思って目印にひもを木の枝に結びつけてみたり、木の皮をはがしておいたりしたのだが、それも2度と見ない。まったく新しいところを迷い続けているのだ。
もう、戻ることもできない。
多分この雪は止まないのだろうな、とクリフは漠然と感じていた。きっと自分たちは、踏みこんではならない領域にまで入りこみ、そして拒まれているのだ。
「魔道士(よ!」
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