継続 7.


 誰かがたたずんでいる。
 それがファリィであると気付いてから、ガルダンは思った。ファリィって誰だっけ?
 霧がかかったかのように真っ白なような、光が一筋もないかのように真っ黒な世界は、本当に今自分の目で見えているものなのかどうか、疑わしかった。目、と思ってから、ガルダンは気付く。俺は、どこだ(・・ ・・・)
 青いほどに白いその女性が、自分を見た。気がした。
 そして思い出した。
 ファリィはボーンの妻であり、3年も前に死んだ女である。
 ガルダンは彼女のことを、少し好きだった。
 彼女が正気であったなら――自分に笑いかけ話しかけてくれたならば、母親のように慕うことも出来ただろうに。人形のような彼女は、ある意味で、本当の人形だった。
 自分が死んだんだということを分からずに、彼女は死んだ。自分の夫の顔も分からないまま、狂ったまま彼女は死んだ。
 そんな死に方は嫌だな、と思ったものだった。
 ファリィが可哀想だな、と思ったものだった。
 自分だったら、自分が死ぬ時も分かっていたい。
 自分の人生の終わりを、見つめたい。
 あ、今が、そうなのか。
 ふいにガルダンはおかしくなって、微笑んでしまった。今、自分はファリィと同じところにいるではないか。そして彼女と違って、自分がガルダンであると知っていることに、少し安堵した。
 なぜ、彼女のことを可哀想だと思ったのか。
 自分の凄惨な死に様と違って、彼女は苦しむことなく静かに死ねた。それは一見、幸せな死に方である。
 だが。
 彼女には、記憶がないのだ。
 1分1秒たりとも漏れることなく完璧な“自分の記憶”は、自分だけのものである。死ぬ時は、体1つなのだ。死の際に、生まれた時と違って持って来れるものは、1つだけ。生涯かけて築き上げて来た“自分の記憶”だけだ。自分が自分であることだけなのである。ファリィは、そんな大事な“自分”を自分が思い出してやることなく死んだのである。
 ガルダンはファリィに手を伸ばした。いや、伸ばしたつもりだった。自分の手がどこにあるのかも、分かっていない。しかし意識の上では、伸ばしたのである。
 柔らかな、綺麗な笑みだった。
 微笑んで立ったまま、しかしファリィはガルダンに手を差し出さない。
「ガルダン」
 と、彼女が言ったような気がした。
 その姿が遠ざかったような気がした。
 彼女が、頷いたような気がした。
 彼女は、思い出している?
 その笑みが、合点の笑みに見えた。
 現実に生きていた頃の彼女がすっかりなくしていた記憶は、死後、心の底からよみがえったのだろうか?
 そんな考えが浮かんだ。それは、そうであって欲しいと願うガルダンの、勝手な想像だったのかも知れない。しかし最後に見せたファリィの笑顔は、そんな笑顔であったかのように思えた。
 名を呼ばれたその声は、どこか懐かしくガルダンの耳に響いた。
「ガルダン」
 聞いたことのある声である。
 そう思ってからふと、ガルダンは自分がファリィの声などちゃんと聞いた記憶がないことに、気付いた。そんなに遠い昔ではない。しかし昔から知っている声。
 視界がふっと暗転した。
 いや今までもずっと暗闇だったはずになのだが、もっと自分に近いところに闇が移って来たかのような、そんな感覚だった。
「ガルダン!」
 はっきりと聞こえた。
 生の声である。
 間違いなく、自分を呼んでいる。その声を、自分は聞いている。自分の耳で。自分の耳が、ここにあるのだ。自分の目が、ここにあるのだ。自分の体が、ここにあるのだ!
 ガルダンは、瞼を押し上げた。
 一気に大量の光が目に入って来て、びっくりして目を閉じた。顔をしかめる。しかめてから、思った。ちゃんと自分がある(・・・・・・・・・)
 そして光を少しずつ受け入れる。
 薄く目を開け、徐々に押し広げる。
 天井が見えた。
 くいと目を動かしてみると、自分の鼻先が見えた。もう少し動かしてみると、そこに涙に濡れた瞳が見えた。瞳の持ち主は黒い目をした女性であり、彼女を、ガルダンは知っていた。
「ガルダン」
 その声を、ガルダンは知っていた。
 喉に力を込め、彼女の名を呼ぼうとする。ひゅうと息が洩れた。
「……サー……」
 名前の全てが音にならなかったが、彼女には分かったらしい。サーリャはしっかりと頷いて見せたのだった。
 それからぼんやりと、ガルダンはその天井がマハ家の自分の部屋の景色であることを思い出した。少し左に顔を向ければ、眩しい光はそこにある窓からさんさんと入って来ているものだった。
「2日間、眠っていたのよ」
 それを聞いてガルダンは、ああサーリャの時より全然短いな、と思った。かつての場面と今の状況が、全く同じであることに気が付いたのである。違うのは、あの時はサーリャが寝ていて、自分がそれを看病していた側だったことだ。きっと彼女も、ずっと自分のそばにつきっきりだったのだろうな、とガルダンは思った。
 そして自分がなぜ寝ているのかの理由に思い当たり、手を動かして横腹を探ったのだった。のろのろと手を動かす。その手を、可憐な指先がふわりと包み込んだ。
「大丈夫よ。傷はふさがったし、安静にしていれば、骨も元通りになるって」
 肋骨も折っていたのか。
 確かに、大きく深く呼吸をすると、少し胸の辺りの感覚がおかしな気がした。ガルダンは握ってくれたサーリャの手を、握り返した。
「君は……大丈夫なのかい?」
「あの後すぐに、ボーン様が助けてくれたの」
 ああそうか、とガルダンは安堵した。気を失う間際に聞こえた気がしたボーンの声は、本物だったのだ。ではトマジも無事だったのだろう。
「王子様もご一緒だったわ」
「ファバム様が?」
 ガルダンの驚きに、サーリャはちょっと肩を竦めて笑って見せた。
「司教様が話して聞かせてくれたより、とても素敵な方だったわ」
 それを聞いてガルダンも笑う。思い立ち、すぐ笑みを消した。
「……ルガイヤは?」
「死んだわ」
 聞くまでもない質問だったし、言うまでもない答えだった。
 ガルダンは間違いなく彼の胸に、剣を貫通させたのだ。それで、生きている訳がない。だがはっきりとしたサーリャの返答に、ガルダンは少し苦いものを感じたのだった。
 出来れば生かしたまま、罪の全てを背負わせたかった。そう思ったのである。その為の潜入だったはずなのだから。
 ガルダンの表情に影がよぎったのを見て、サーリャが心配げに覗き込んで来た。大丈夫だと言う代わりに、ガルダンは微笑んだ。
「ガルダン。……どうも、ありがとう。本当に……」
 言葉が胸に詰まり、また目から涙が溢れて来た。そのサーリャの涙を、ガルダンはもう片方の手を伸ばし、ぬぐった。
 ぬぐったその手を、彼女の頬に添える。
 そのガルダンの手に、サーリャも自分のもう片方の手を重ねた。
 彼女がかがみ込み、瞳をゆっくり閉じて行く。ガルダンも少し顎を上げて、目を伏せた。
 重なり、しばらく離れなかった。





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