転落 8.


 急に不安が、ガルダンを襲った。
 ガルダンが暗殺に失敗したと知った司教が、何をする気なのか。逃亡でも計るつもりか、それとも知らぬふりをし続けるのか。その時、サーリャはどうなるのか。
 偶然、司教の養っている孤児の娘が、幼なじみの騎士と出会う。その騎士はファバムの部下で。偶然、司教はファバムを消したがっていて。
「……馬鹿な!」
 早駆けながら、ガルダンは舌打ちした。偶然も3つ続けば必然である。
 なぜもっと深く考えなかったのか、自分を叱咤してみてももう遅い。
 本当にそれらがただの偶然だったとしても、今日の出来事は仕組まれたことだ。ガルダンの仕業に見せかけてファバムを殺してしまいたかったのだろうが、正確なところのその意図は分からない。
 しかしファバムらが犯人を捕らえることが出来なければ、あの騎士の言う通り、ガルダンが申し開きをすることになるだろう。その時にガルダンがサーリャと……“奴隷”と会っていたという事実は、不利でしかない。
 今もこうしてサーリャの元に走る自分を、誰かが見ているのだとしたら。
 そう思っても引き返す気にはなれず、一層馬の足を早めるのだった。彼女にまで影響が及ばなければ良いが、もしも司教が「口封じにサーリャを消してしまおう」などという決断を取ったとしたら。そう思うと身が震えた。
 ガルダンは、いつもなら躊躇していた孤児院の扉を、この時ばかりは音を立てるのも構わず荒々しく開けたのだった。
「サーリャ!」
 異人の騎士が発する怒声に、子供が怯えを露わにして逃げまどった。自分の図体や格好が子供たちを怖がらせるものであることを思い出し口をつぐんだが、ガルダンはふと自分の幼い頃と比較して違和感を覚えた。
 大きな男が――例えバルドナット人であってもクグライバル人でも――自分のそばに来た時に、このように怯えた記憶がガルダンにはないのだ。怯えれば危機が回避出来るかと言えば、そんな環境ではなかったから。彼らは逃げれば、孤児院が守ってくれるのだ。母親のように。
 母親代わりであるサーリャが、子供たちと入れ違いに姿を現した。廊下を走って行った子供は一様に部屋へと引っ込み、不思議な静寂が生まれた。肩の上で艶のある黒髪を揺らしてゆったりと近づいてくるサーリャに、焦燥の色はない。
「サーリャ」
「ガルダン?」
 目を丸くして、口に手を当ててサーリャは驚いていた。ガルダンが大声を上げる所を初めて見たのだ。
 彼女がきょとんとしている様子に、他意は見られない。司教は彼女に何も言っていないらしいと思い、ガルダンは若干胸を撫で下ろして彼女の黒い瞳を覗き込んだ。
「入って」
「サーリャ。……司教様は、外出なのかい?」
「?」
 司教の名を急に出すガルダンにサーリャは目をくるりとさせたが、すぐに、
「司教様は滅多にこちらにいらっしゃらないわ」
 と微笑んだ。
 それを聞いて安堵の表情を浮かべたガルダンを怪訝に眺める、そんなサーリャの手が自分の腕を掴んでいるのを、ガルダンは逆にそっと握り返した。
「殺せない」
「え?」
「俺には、ファバム様を殺すなんて出来ない」
 ガルダンの手の中に収まるサーリャの小さな手には、何の力も入っていなかった。その先には呆然とした顔。ガルダンの言った言葉の意味が理解出来ないという風情だったが……徐々にその表情が、歪んだ。
「出来なかったんだ」
 眉をひそめて目を伏せるガルダンの手を、もう片方の手も使ってサーリャが包み込むように持ち上げた。
「それで、逃げて来たの?」
「いや。謹慎になった。俺が謁見中なのを見計らったように侵入して来た奴らがいて、そいつらが誰の差し金で送り込まれたのかが分かるまでは、城に出て来るなと言われたんだ」
「まぁ」
 侵入者という言葉に反応するにしては弱い驚き方で、サーリャは驚いた。
 だがその後、ぐっとガルダンの手を握る力を強くした彼女の力は、ガルダンを驚かせた。思い詰めたような表情の中に、うるんだ彼女の瞳があった。
「サーリャ?」
「ガルダン、私と一緒に逃げましょう!」
 唐突な申し出に、言葉も出ない。サーリャはすがるように、重ねた手を自分の胸に当てた。せきを切ったように言葉と涙が彼女からあふれ出た。
「騎士なんて何になるの? お城にいても良いことなんてないじゃない。あなたいつも浮かない顔をしていたじゃない! 別の国に行きましょう。私を連れて逃げてよ! あなたなら、出来るわ」
 突然髪を振り乱す彼女に、ガルダンはうろたえた。が、奇しくもファバムの暗殺をほのめかした時と同じ言葉が彼女から漏れたことで、ガルダンの中のどこかが冷めた。サーリャがガルダンの本当の力を信じている訳ではないという気がしたのだ。彼女はただ、目の前にあるチャンスを掴もうとしているだけだと。
「出来ないよ」
 サーリャの声が大きくなるのと対称的に、ガルダンの声は小さくなって行った。そんな2人のやり取りを、部屋の隅から子供たちがうかがっていた。いつも優しく、母であると思っていた女性が声を上げる様子を、彼らは初めて聞いたのだ。
 1人の子供が怒気に当てられて泣きそうになった時、ぽんとその頭を撫でる手があって、子供たちは少し落ち着いた。
「司教様」
 今度は歓喜によって声を上げそうになった子供たちを、
「しーっ」
 彼は口に人差し指を当てて、笑ってみせた。ガルダンの馬の存在に気付いて、司教は裏口から入って来たのだ。
 それはすべて部屋の中のやり取りであり、ガルダンたちは気づきもしていない。司教が部屋の扉に耳をつけて彼らの言葉を聞き取ろうとするその顔は、子供たちに見えずに幸いだっただろう。でなくば、また子供たちは「司教様の顔が怖い」と泣いていたかも知れないから。
 廊下の2人からは、
「どうして出来ないの? 私のことがどうでも良いの? ファバム様の方が大事なの?」
 そんな風にまくし立てるサーリャの声しか、まだ聞こえなかった。ガルダンはそんな彼女の剣幕に押され、また不思議な思いに捕らわれもしていて言葉が出なかったのだ。
「そういう訳じゃない」
 やっと言葉をつむいだ。
「じゃあどういう訳なの?」
 ガルダンは、彼女の剣幕にたじろぎながらも、ようやく本当の彼女を見た気がしていた。
 利己的な彼女。
 必死になる彼女。
 髪を乱して。
 生きることにどん欲で。
 そんな彼女が、今度は笑みへと顔を歪めるのも、ガルダンは黙って見つめていた。
「そう……しょせん、あなたの利用価値もここまでなのね」
 泣き崩れて歪んだ笑みからこぼれ出た彼女の言葉を理解するのに、ほうけてしまったガルダンはたっぷり5秒を要した。要して、それでも言葉が出なかった。
 どう返答をして良いか、分からなかったのだ。
「分からないって顔ね。これ以上あなたが私に何も出来ない、何もしてくれないんだったら、もう会う意味がないってことよ」
 その時になってサーリャは自分がガルダンの手を握っていることに気付いたようにそれを見て、ふりほどいた。代わりにその手で自分の両肩を抱き、ガルダンから後じさる。
 何も出来ない、何もしてくれない。
 彼女にとってのこの2週間は、そうだったのか? とガルダンはサーリャを見つめながら思った。
 そんな具体的な取引がないと、一緒にいる意味はないのだろうか?
 ただパブで会って酒を飲み、話に花を咲かせて。
 それだけで充分だと思っていたのに。
 そう思うガルダンの胸に、サーリャの言葉は槍だった。
「どうせあなただって、いつか私を抱くつもりで会ってたんでしょう。だったらその位働いてくれるのが、当然じゃない!」
 その言葉は。
 急に態度を豹変させた彼女のその言葉の裏側に、どれほどの思いと葛藤がひそんでいるのかを、ガルダンは知らない。知らないが、今突然思いついただけの言葉ではないのだろう予想はついた。
 予想がついたからこそ、2人の思いが実はまったくかみ合っていなかったのだということにも、気付いてしまった。
 吐き捨てるように叫んで、くるりと反転して逃げようとするサーリャを、ガルダンは3歩走って捕まえた。今別れる訳には行かない、と思ったのだ。いや、言葉として“思う”よりも先に、体が動いていた。
「離して!」
「抱かない!」
 ガルダンは彼女の腕だけを掴んだまま、叫んだ。暴れる彼女を抱きしめて押さえたかったが、ここで抱いてはいけないと思ったのである。不用意な態度、不用意な言葉が、それ以上の理解しようとする吸引力をなくさせるケースはいくらだってある。ガルダンはその失敗を今まで何度も繰り返したのだ。臆病にもなった。だから、ここで失敗する訳に行かなかった。臆病になる訳にも行かなかった。
 自分が関わりたいと思った相手と充分な意思伝達もせずうやむやに収めてしまう、そんな心地悪さはもうまっぴらだと思った。
「そんなつもりで、それが目的で会ってた訳じゃない。触られたくもないなら、この手も離す。けれど、まだ逃げないで。もう少し、話をさせて欲しいんだ」
「何の話をするって言うの? もう関係ないのよ」
 サーリャはなおも掴まれた自分の腕を引っ張り、逃げようとする。そんなサーリャの言葉が終わるか終わらないかの時に、
「関係ある!」
 とガルダンは、きっぱりと言った。
「俺はサーリャが好きだ」
 少しだけ、サーリャが大人しくなった。
「正直に言うと、抱きたいと思ったこともある。でもそれは好きだからだし、サーリャが嫌なら絶対しない、しちゃいけないことだから。それが目的で君と会ってた、会いたかった訳じゃない」
 ガルダンは一言一句を区切るように、自分に言い聞かせるように慎重に口に乗せた。人に自分の言葉を理解して欲しいのだったら、わめくように喋っても伝わらないと悟ったのだ。
 大人しくなったサーリャの口元から、ふん、と小さく息のような笑い声が洩れた。
「会って2週間で、私の何が分かるって言うの? 昔の私とは違うのよ。……何人もの男の慰み者になってるって聞いても、あなたはまだ私を、昔の清純なお姉さんとして見ることが出来る訳?」
 そう言うとサーリャはまた、ガルダンの手をふりほどこうとした。
 しかしガルダンはその手を、離さなかった。離せなかった。それも、予想しないことではなかったからだ。
 ガルダンには計り知れない、色々な苦労があったのだろうサーリャ。女であることが、女であると言うだけで、受ける差別もある。クグライバル人であることが奴隷であるという事実を作ってしまった社会によって、優越感の為だけの差別が生じる。その2つを合わせ持つ彼女が、何もされない訳がない。
「どうして私はクグライバル人なんだろう、って思ったわ。あなたが羨ましかった。いいえ、憎かった。お坊っちゃんに生まれついて、黒くない髪の毛で。いくら馬小屋に引きずり落とされたって言ってもね、あなたが領主の息子だから、皆遠巻きにしてさほど苛められずに済んだのよ」
 子供時代。
 誰の仲間にもしてもらえなかった孤独さをよく覚えているガルダンの脳裏に、当時の様子はありありと思い浮かべられる。それは違うと言いたかったが、確かにサーリャからして見れば大した苛めではなかったのかも知れないのだ。
「私が火傷を負った時も、あなたが一緒だったから助けてもらえたんだわ。でなけりゃ今頃、死んでたでしょうね。いいえ、死んでた方が良かったかも知れない。でも領主はあなたがいなくなった後も、私を生かした。奥様が怖かったから私を抱くのは2回で断念したけどね、稼ぐ為に生かされたわ! 胸のここが焼けただれてるのが妙にそそるってんでね、よく売れたわ、私」
「……!!」
 自嘲の笑みを浮かべる彼女の口を自分の肩に押し当てて、ガルダンは思わず彼女を抱きしめていた。泣きたくなった。頼むからそれ以上喋るなと言いたくて、声に出来なくて、黙って抱きしめてしまった。サーリャはガルダンの腕の中で、怯えた子犬のように縮こまった。
 やっと見えた小さな彼女の存在を知って、ガルダンもまた気付いたのだった。
 自分も、サーリャを見ていなかったのだと言うことを。
 長年の夢が現実になったことに舞い上がり、大きくなった彼女の姿に見とれ“今”に酔いしれるあまりに“それまで”をおざなりにしていたのだ。サーリャもそれには気付いていたのだろう。ガルダンを利用する目的もあっただろうが、互いに互いの心の底を気遣うことがなかったから、浅い関係でしかなかった。
「離して」
 身をよじった彼女の抵抗に力はなかった。ガルダンは力を緩めた。
 うつむく彼女を悲痛な思いで見下ろしながらガルダンは、一瞬本当に彼女を連れてどこか遠くに逃げてしまうのも良いかも知れないと考えた。しかしそれは単なる「逃亡」であり、すべてに、自分自身にさえ負けることを意味している気がして、動けなかった。動けないまま、ポツリと呟いた。
「でもサーリャは子供の頃、俺をかばってくれたし、助けてくれた」
 その優しいサーリャも、きっと本物だったのだ。顔を上げた彼女がまた自嘲的な、少し軽蔑するような笑みを作って、
「坊ちゃんのあなたを利用する為よ」
 と言っても、何となくそれはただの強がりに見えた。
「今回もそうよ、偶然出会ったんなんかじゃないわ。あなたが騎士になったことも知ってたし、ファバム様を何とか殺す方法や、でなくばあなたに罪を着せる方法は、全部仕組まれたことよ。あなたは最初から、踊らされていただけなの」
「おや、そこまで言ってしまったか」
 ガルダンはサーリャに言われた内容のショックより、聞き慣れない第3者の声に驚いた。
 サーリャが言ったことの方は、話の流れでこれも予想がついたからだ。どちらかと言えば、それを告白するサーリャの心境を考えて、胸が苦しかった。自分で自分を追い込もうとするかのような口振りに、いかに彼女が今まで勝ち気なふりをし続けなければならなかったかを思い知らされて。
 そんな2人のやり取りを、司教の1言が一蹴した。
 かたわらに孤児院中で一番小さな女の子を2人、従えて。
 部屋の扉が開けられた音にも気付かなかった2人は、身を固くした。特にサーリャは司教がいないと思って話していたので、火を噴いたように顔を真っ赤にしていた。父親とも言える彼に聞かれたくなかった話も、多数含まれていたに違いない。
 だが司教はそんなサーリャとまったく反対に涼しい顔をして、しかしガルダンに近づきはせず、部屋から出たそのままの位置で話し出した。
「まぁボーン卿相手では、すぐに知られる所じゃろうからのう。せいぜい親子で首の心配をするが良い」
 にこやかな笑みを崩さないまま――ガルダンにはその顔が作り物に見える気がした――司教は少女たちの肩に手を添えて、
「サーリャ。こちらに来なさい」
 と言った。
「ガルダン。例えば今君が私を殺したいと思っても、それは何の解決にもならんよ。君は“司教殺し”として断罪されるだけじゃ。それどころかこの子たちがどうなるのか、そこまでよく考えなさい。今後おかしな動きをしても同様じゃ。……サーリャ。今まで通り、わしを信じてついて来なさい」
 そう言って司教が肩を掴む少女は、ガルダンが何か不審な動きをすれば犠牲にするつもりで傍らに据えた「人質」だった。そのことに気付いたサーリャはガルダンを振り返りもせず、
「帰って。2度と会わないわ」
 と怒気を含めて吐き捨て、彼のそばを離れた。
 今のガルダンには、それ以上一歩も前に進めない。ガルダンもまた、司教が傍らに少女を控えさせた意味が分かったのだ。少女は何も知らず何も聞かされておらず、無邪気に司教を見上げている。自分たちの母親たるサーリャが元の笑顔を持って戻って来たので、ガルダンのことを「サーリャを泣かせた悪者」と思っている。
 そんな少女らからは、情け容赦のない「帰れ!」コールが飛び出した。
 帰るしかない。
 ガルダンは反転した。最後にサーリャに当てて、言葉を残して。
「俺は死なない」
 だから待っていてくれ、と言う意味として、サーリャに贈った。多分彼女は、ガルダンがどうにかなるまでは切り札として殺されることはないだろう。いや今のやり取りだけだと、司教がサーリャを殺そうとするかどうかも分からなかったが、しかし取り敢えず司教は自分の保身の為に「サーリャ」と言う盾を持っていたいはずだ。
 サーリャからも司教からも、何も返答はなかった。
 そのままガルダンは大股に孤児院を出て、馬に飛び乗った。
 結局彼女は、ガルダンに肝心な言葉は言わなかった。自分は彼女に思いを打ち明けたが、彼女はそれに返してくれなかった。嫌いだとは言われなかったが、逆もなかった。
 嫌われているのかも知れない。
 けれど、明らかにどす黒い陰謀を胸に秘めた司教の元で、今まで通りの暮らしが出来ると、果たして彼女は思っているのか?
 この一連の出来事にひそむ裏を、かきださなければならない。
 生きて、生き抜いて、必ずサーリャと再会したい。
 初めて「死にたくない」と思った。





   next

   back

   index