頂点 6.


 思わず、早くエルアルバ国と開戦になれば良い、と物騒なことを考えてしまった。
 そうすれば、身内の幼稚なゴタゴタをしている場合ではなくなる。相変わらずの雑用同然な仕事に浸るガルダンは、そんなことを思いながら、今日はファバムの馬の背を洗っていた。
 普通馬屋の番人にさせるかもしくは、奴隷が行うに近い下働きだ。無論それを命じたのは、ファバムである。
 朝だろうが夜だろうが構わず呼びつけられもするし、何もせずそこに立っていろと言われることすらある。あの朝の遠乗りの時、もっと自分ははっきり意志表示をするべきだったと何度後悔したことか。
 のみならずガルダンは、隊の中でまで妙な疎外感を受けるようになってしまっていた。
 踏んだり蹴ったりな状態である。
 戦争になってしまえば、今の状況から抜け出せる。ガルダンがそんなことを思ったとしても、無理はなかろう。
 そう思っている時に限って、街はまだまだ平和なものなのだが。
「いらっしゃい、いらっしゃい!」
 威勢の良い声が、あちこちから聞こえる。
 仕事を終えたガルダンが、徒歩ですり抜けて行く市場内にももう、1日の終わりを告げる夕日の赤い光が降りて来ていると言うのに、昼間と変わらない活気と喧噪が辺りを渦巻いている。
 この街の様子をファバムにも見せたいものだとガルダンは思ったが、その願いが叶うのは、到底遠い未来である。
 ファバムの新人いびりに関して、薄々分かったことがある。
 試されている気配があるのだ。
 ガルダンだけ手応えが皆と違うのか、その為に彼1人、随分と丁寧に扱われているのだ。と言う見解の出来る。
 心当たりは、ないでもない。
 最初に出会った時手合わせをした、これだけではない根拠だ。確かにガルダンだけ目を付けられても仕方がないだろうと言える事柄が、1つだけある。
 負ける演技を、しないのだ。
 多分これだろうな、とガルダンは気付いている。それでも練習試合で、皆がいかにも全力で戦ったフリをして王子に負けるようにしている中、ガルダンはそれをしようとしない。だから仲間内にも冷たくあしらわれているのだ。
 ガルダンは、自分からは絶対に剣を振らない。それは一貫している。だからいつも引き分けで終わるのだが、ガルダンは本当はファバムに剣を教えたかった。だが指導したくても王子の性格では聞き入れられないだろうし、誰も教えようとしていない。王子の剣の指導をした唯一の彼の側近が死んでしまったので、ファバムは本当の自分の力の程度を知らないままだ。悪い言い方をすれば、皆に適当にあしらわれているのだ。専用の指南役を持っていないファバムは3日に1度は自分たちと対戦するのだが、これでは上達などしようはずがない。
 何となくそれが不愉快で、何とかしたいと思い、でも何とも出来なくて、今に至るのだった。
 ボンヤリと考えながら歩くガルダンの耳に、
「コルチェ?」
 小さな呟きが聞こえた気がした。
 それは、あまりにか細い声だった。
 雑踏に紛れて消えてしまっても、おかしくないほどに。
 それは、あまりに突然で。
 え? と言おうとしたそれすらも、驚きの為、声にならない。
 気付くとガルダンは、振り返っていた。
「気を付けろ!」
 ドンと野太い声がぶつかって、通り過ぎる。ガルダンは大通りのど真ん中に、立ち尽くしたのだ。足が吸い付いたように動かない。
 振り向いてみても声の主が見つけられなかったので、彼はせわしなく周りを見回した。通常のガルダンからすれば、別人ではないかと思われるほどの狼狽ぶりである。
 どこだ?
 ガルダンは声のした方向を懸命に思い出し、ぐるぐると四方に目を凝らした。
 見回しながら、心のどこかは冷静に「自分の煮詰まった、愚かな頭が生んだ幻聴だ」とも思った。
 しかし。
 人垣をすいと避けて、ガルダンに向けて歩いて来る影がいた。ガルダンは群に混ざっていても、よほど背の高い集団が近くにいなければ、安易に見つけ得るだけの身長を持っている。少女の方は、ガルダンの胸ほどまでしか背がないのではないかと言う小柄さで、加えて、華奢だった。
 いや、彼女は充分女性になっていた。
 首まで覆う、胸の膨らみすら分かりにくいような服を着ていたが、きゅっと絞った腰や淡い紅色の唇が、男性を惹きつける。少し勝ち気に輝く黒い瞳がそのままで、思わずガルダンは目をこすってしまった。
 昔は肩ほどまでで切り揃えられていた髪が、胸の辺りにまで伸びている。黒々とした艶も、相変わらずだ。
 だがそんな彼女もまた、自分の見ているものが信じられないと言った顔で、ガルダンを見上げていた。手を口に当て、瞳を大きく見開いている。
「……本当に……?」
 それはこちらが言いたいくらいだ。とガルダンは思った。
 だが大きくなったサーリャと言うものを、自分は知らない。なのに、目の前にいる、彼女は間違いない、サーリャなのだ。ガルダンは何度も自問した。
 そして改めて、やはり2人共が、互いの成長した姿を見間違えることがなかったと思い、目を細めたのだった。
 人目があろうと関係なかった。
 ガルダンの手は無意識に、サーリャの手を取っていた。引き寄せて抱き締めることに、何の躊躇もない。何も考えていなかった。
 だからサーリャの拒む力が感じられた時、ガルダンは目が覚めたような思いがしたのだった。
「あ……」
 ガルダンは自分の手を離した。はっとしたサーリャが、今度は逆にガルダンの腕を持った。
「コルチェ? コルチェよね? 違うのよ、間違えてないのよ、私はサーリャよ。でも、でも……あなたがあんまり立派になってて……。私は異国の女だから……」
 異国の者は、どこまで行っても市民にはなれないし、奴隷の扱いである。ガルダンの格好はもはや、誰がどう見ても立派な騎士だ。筋肉もつき日焼けし、昔のひ弱な「コルチェ」をそこに見出せる人間は、サーリャ以外にいない。釣り合わないと言いたいらしいことを悟ったガルダンは、歯がゆさを覚えた。
 奴隷など、変だ。
 こんな法律は、変だ。
 クグライバル国から強制的に連れて来られたり、売られて来たり。
 そう考えていたガルダンの顔は、相当険しいものになっていたらしい。不安そうに覗き込んで来るサーリャに気付いて、ガルダンは表情を緩めた。
「済まなかった、強く握ってしまって。……どこかでゆっくり話せないのかな? まさか会えるなんて……」
 我ながら陳腐な言葉しか出ないものだ、と後悔したが、サーリャは嬉しそうに肩を竦めて笑った。
「私たちクグライバル人でも受け入れてくれるパブがあるわ」
 そう言って足取りも軽く、サーリャは歩き出す。そうしていれば全く普通の娘だ、火傷の跡など想像出来ない。クグライバル人独自の黒髪と黒い瞳は、変えようもないが……。
 パブと聞いてガルダンは、不思議な感じがした。サーリャが酒を飲むところが想像出来なかったからだ。だが考えてみれば、自分だって酒を飲むようになっていた。





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