進出 2.


 国境近くの峠で盗みを働く奴らがいるらしいのだ、とボーンは言った。その国境がエルアルバとの境であり、下手をすれば戦争だと言う話だった。
 その付近を治める領主が援軍を求め、王都がそれに応じたらしい。王の側近がこれの援軍に当たるので、そこで大きな働きをすれば目に止まり、昇進が早くなるのではないかと言うのが、ボーンの見解だった。
「そこまで、どの位かかるのでしょう?」
「歩きなら1ヶ月だが……。多分、馬だろう。人数によるが、上手く行けば1週間で着く」
 だがその後の討伐が2日やそこらですんなりと収まる訳がない。良くて1ヶ月、悪ければ半年仕事だな、とガルダンは考えた。
 それが為に、一度顔を見ておこうと思った。
 最近、体の調子が良くないと聞いていた為もあった。
 ファリィのことである。
 頻繁ではなかったが、それでもちょくちょく顔を見せていれば、少しは慣れてくれるのか、若干だが反応してくれるようになっていた。ボーンの妻だから、と言うご機嫌取りのつもりはない。彼女が哀れな病人だからと言う訳でもなかった。いや。それは少しあったかも知れない。自分の存在が、彼女の気を落ち着け安らかにさせているらしいと知った時からガルダンは、ここに来ることにあまり抵抗がなくなったからだ。
 丁度良く晴れたので、当たり前のようにボーンと共に別荘を訪れた。
 天気も精神状態と関係があるらしく、雨の日の彼女は荒れるのだ。本当はそういう時にこそ役に立ちたかったが、彼女に取ってボーンやガルダンはすぐ“よそ者”になるのだ。通常でも、少し気を抜くとすぐ忘れられてしまう。
 ところが、今日は態度が違った。
 扉を開けていつもの光景を見ると、何と最初から待っていたかのように戸口に顔を向け、あまつさえ微笑んでいる彼女がいたのである。
 考えてみればファリィの笑顔と言うものを、ガルダンは初めて見たはずだったのだが、そのことに気付かないほどに彼女は自然に笑っていた。作り物でなく、心の底からに見える。彼女の周囲を取り巻く柔らかな空気は変わらず光を含んでおり、今日は、彼女の口元も綺麗だった。
 思わずボーンは、
「正気に……?」
 と言いながら、1歩踏み出した。
 だが彼女はそれだけでもうビクリと怯えを露わにし、口を歪めて縮んでしまったので、ボーンは失意を隠せず、溜め息を洩らしてしまったのだった。何年も前にとっくに諦めていたはずだったのに、ほんの少し兆しが見えただけで浮かれてしまう自分が情けなかった。
 ボーンのそんな様子にガルダンは、手だけを慎重に大きくゆっくりと広げてみた。自分たちが安全なことを示そうとしたのだ。足は絶対に動かさない。ボーンも足を引っ込め、静かに待った。信頼を取り戻す為に。
 彼女の立ち直りは早かった。さほど驚いていた訳でもなかったらしい。彼女はすぐに思い出してくれたらしく、笑顔になった。
 それでもゆっくりと2人は足を進め、彼女に視点を合わせて膝を突いた。窓際を指定席とするベッドの上の彼女は一層逆光になり、キラキラと輝いた。初めてガルダンは、
「女神だ」
 と思った。今まで彼女のことをそのように思ったことはなかったのだが。
 彼女が正気に戻り社交界に復帰したならば、どんなに光り輝くだろうか、と思った。ボーンのたくましい腕に支えられ、あどけなく妖精のように舞い踊る彼女を、今なら苦もなく想像出来た。いいや、踊らなくても良い。踊れなくても良い。ただ座っているだけで、こんなに神々しい。これが本来の彼女なのだ。ボーンが一生支えると誓った女性なのだ。
「今日は、ご飯を食べたかい?」
 いつもと同じ調子で、ボーンが聞いた。まだ治った訳ではないのだ。ガルダンは内心、落胆した。
 ファリィは「あぁ」と言う少しとぼけた返事をしながら、しかし、はっきりと治ったかのような錯覚をボーンに与えた。微笑みながら手を伸ばし、自分の側にしゃがんでくれている彼の頬に触れたのだ。これにはボーンもこらえきれず、目をむいてしまった。
 それを見た彼女はさらに、口元の笑みをくっきりとさせた。怯えは全くない。ボーンの目に涙が溢れ、流れかけていた。だがそれすらもこらえ、彼女の手を取りたくなる衝動を抑え、ボーンは石に徹した。
 彼らが安全な生き物であると察したのか、それとも本当にその時だけ一瞬元に戻ったのか。何ともう片方の手も、彼女はガルダンに伸ばした。ガルダンもなされるがままに、じっとした。彼女が触りやすいよう、わずかに顔を動かしただけだ。彼女の自愛の笑みを、不思議な気持ちで見守った。
 手が頬に触れる。
 彼女の手は思っていたより冷たく、だが思っていたより柔らかかった。部屋の雰囲気そのままの手だ、と思った。召し使いが行ったのだろう爪は綺麗に切られていて、ガルダンの頬に当たらなかった。
 ガルダンが幼い頃の母親の面影を彼女と重ねて見てしまうのも、無理はなかろう。思わず母様と呟きそうになってしまったから、初めてガルダンは気付いたのだった。なぜ自分がファリィを苦手でなくなったのか。なぜ落ち着くような気分になれたのか。
 ああ、そうか。
 ファリィのこともまた、自分は守りたいと考えるようになっていたのだ。役に立ちたいと思うようになっていたのだ。大事な1人になっていたのだ。何も与えずとも。何も与えられずとも。
 いいや、与え与えられる関係は、確かにあった。ガルダンは彼女から安らぎをもらい、ファリィはガルダンから、平穏を感じていたはずだった。ボーンとは違う存在として認められた時、それは確かな喜びだった。
 やっと気付いた。彼女が自分を見てくれることを、こんなに欲していたなどと。情けないほどに、幼い子供に戻ったように、母の手を欲している自分がいたのだ。
 なのに、こんなに冷静な自分は何なんだろうか。と、ガルダンは妙に冷えた自分の胸を暖めるかのように手を当てた。彼女の命の火と引き替えに悟った自分の気持ちが燃焼もせず、昇天もせず、宙に浮く。
 命の火。
 そんなものがあるとは、思わない。
 だが冷たくなって行く人間からは、命の火が抜けたのだと言う言い方が、もっとも正しく思えるのだ。死んでもまだ人間は、微笑みの形を顔に残しておけるものらしい。笑顔が彼女に出来る精一杯の遺産だったのだ。彼女がそう自覚していたかどうかは、定かではないが。
 火が、抜けた。
 操り人形と言うものを彼らが知っていたなら、そのように形容しただろう。まるで糸が切れたかのように、本当に“プツン”と言う音が聞こえたかのように、ファリィの腕が落ちた。
「ファリィ?」
 ボーンが慌てて、しかし優しく持ち上げた。そのボーンの胸の中に沈んで行くかのようにゆっくりと、笑みのまま彼女は倒れ込み――まるで人形のようだった彼女は、本当の人形になっていた。光る青い瞳は生気をなくし、ただのガラス玉と化した。血の流れが止まり、壊れた彼女はボーンの腕の中でどんどんと冷えた。白かった彼女の肌も、青白くなって行く。
 初めて彼女と会った時と変わらない柔らかい日差しが、部屋を満たしている。だが日差しと同じような暖かい喜びがこの部屋に満ちることは、とうとうなくなったのだ。
 そのことにようやく気付いたかのようにボーンが小さく、
「……え?」
 と言った。
 一瞬ガルダンは、ボーンまでもが狂ってしまわないことを願った。そう思うほど、ボーンが放心していたからである。
 そしてそう思うほど冷徹な自分が少し嫌だと、その後思った。





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