登る日 6.



「その子は死んだのか?」
 黙ってガルダンの話を聞いていたボーンだったが、これには思わず口をはさんでしまった。
 柔らかな日差しが差し込む居間に声が響き、意外な大声を出してしまった自分の口を、ボーンは手で押さえた。
 遠い目をして話していたガルダンは、
「いいえ」
 と、近くのボーンに目を向け、言った。
 しかし、嬉しそうな顔ではない。
 怪訝なボーンの表情をちらりと見やってから、ガルダンは言葉を続けた。
「鎖骨の辺りから左胸の少し内側を通る、大きな火傷の跡が残りました」
 と。
 サーリャは確か5日間生死をさまよいました、とガルダンは言った。
 自分もひどい有り様だったので、翌日の夕方から彼女の看病に付いたと記憶しているつもりなのだが、曖昧なのだ。本来ならコルチェとて安静を要する体だったのだが、サーリャのことが気が気でなく、寝ていられなかったのである。
 椅子に座った状態のまま、コルチェは自分の怪我もかえりみず彼女に付き添った。そんな彼を、誰も止めなかった。サーリャの怪我の原因がコルチェにあると思った為か彼の熱意に押された為か、それは分からなかったが、コルチェにとってはどうでも良いことだった。今、自分の邪魔をしないでいてもらえる方が、ありがたかったから。
 領主ですらも、何も口出ししない。
 この時さすがに2人は屋敷に運び込まれ、客室で手当を受けた。暖炉に火が入れられ、茶の湯も用意された。体裁を気にした為だ。だが領主であるコルチェの父や後妻なども、ここに顔を見せることはなかったのだった。
 傷が元で発熱したサーリャの額を冷やし続け、暖炉の木をくべ続けた。自分に出来る唯一の仕事とばかりに、それこそ1時間おきに額の布を取り替え、木ぎれを炉に放り込んだ。いくら暖炉に手をかざしても、深夜にそんなにも水に手を浸けていれば、その方が彼の手をかじかませる。自分の怪我も熱を持っていたので、そんな自分の患部に氷のような手を押し当てて、痛みに耐えた。
 自分さえ愚考を犯さなければ、と思わざるを得ない。
 騎士などと。
 試合などと。
 遠い夢だったのだ。
 それどころか、自分が強い、などと。言うどころか、思いすらもしてはいけなかった。
 開けた木窓の隙間から、白いほこりがチラチラと入って来る。手をかざしたら、冷たく溶けて水になった。窓の向こうはすっかり暗闇のようだ。コルチェは足に力を入れ何とか立ち上がって、窓を閉めようとした。冬将軍の猛威が見えた。
 空から無数に舞い落ちる白い粒はサーリャの周りを取り巻いて、彼女を飾るかのようにちらつき、消えて行った。このままこの冬の使者が彼女の魂を連れて行くのだろうか、とふと思った。
 それも悪くないな。生き返って、また辛い日々が続くだけの人生なら、今この暖かい部屋で一生を終える方が幸せかも知れない。そうしたら自分も、サーリャと一緒に行こう、とコルチェは少し笑みを作った。
「駄目だ!」
 そこまで考えてから、慌てて彼は首を振り、窓を閉めたのだった。
 またぐったりと椅子に体を投げ出し、一息ついてからサーリャの顔を見下ろした。
 まだだ。
 まだサーリャは、あの本を全部読んでいないではないか。
 まだコルチェは、サーリャに言っていない言葉がある。
 ちきんと元気になったサーリャに、言わなければならない。自分の母親には言い損なった言葉を。とても簡単だけれど、とても重要な「好きだ」の一言を。
 コルチェは、まだサーリャに言っていない。
 サーリャ。
 サーリャ。
 心中何度も連呼し、コルチェは彼女の黒い瞳を望んだが、その輝きは、まぶたに隠れて現れない。
 やもすればすぐに涙が流れそうになるのを、歯を食いしばって止め、コルチェは看病し続けた。今はとにかく、彼女が目を覚ますこと。それだけを願った。
 ――いつの間にか眠ってしまったコルチェは、一瞬自分がどこにいるのか分からず目をぎゅっとつむってから、はっとして顔を上げた。
 部屋が暗い。ランタンの中に入れてあるロウソクが切れ、窓を閉めたので、昼夜の別も分からなかった。暖炉の火もちょろちょろと小さくくすぶっているだけだ。だが寝てしまう前より寒くないと言うことは、天気がよくなったのだろうか、と思い、コルチェは窓を開けてみることにした。何とか立ち上がり、自分も幾分か、体力が回復したらしいことを悟った。
 見下ろすサーリャは、まだ眠っていた。だが昨日より、穏やかな表情をしている。峠を越えたのか、苦しみを越えたのかが分からず、コルチェはぎょっとなって急いで窓を開けた。
 窓の隙間の分だけ、光が部屋に入って来る。
 もう、朝なのだ。
 しかも、昨日降った白いもの(彼は後でそれが“雪”だと知るのだが)が、見える範囲すべての地面を覆っており、光がキラキラと反射して、目が痛いほどに眩しい。どんな朝よりも、その日の光は明るく白く、神聖に思えた。
 そして、その光を浴びて。
「……」
 呻きが聞こえた気がして、コルチェはサーリャを見下ろした。椅子に座り、覗き込む。
 見間違いかと疑い、目をこすった。
 だが、間違いではない。
 サーリャが、顔をしかめていた。
 日の眩しさに、起きたのだ。
「起きた……?」
 鼻の奥がツンとして、視界が曇った。
 違う意味でコルチェは、歯を食いしばった。なのに、涙が止まらなかった。
「……チェ……?」
 サーリャの唇が薄く開き、吐息のような呟きを洩らした。
 コルチェの曇った視界の中、サーリャがずるずるとベッドから手を出そうとしているのが、見えた。まだ力が入らないらしい。コルチェはそっとその手を取った。すり寄せた頬からサーリャの手へと、涙が一筋流れた。
「良かった。生きてて。良かった。俺のせいで……ごめんね、こんな」
 嗚咽と鼻をすする音が混じって声は途切れ途切れだったが、これでもコルチェはサーリャの手を包んだ自分の両手に顔を埋めて、良かったとごめんねを連呼し続けたのだった。彼女の生還をどんなに喜んでも喜び切れず、罪悪感をどんなに詫びても、詫び切れなかった。
 だが。
 そう思う自分の心の奥底に、彼女はそんな自分を哀れみ許してくれるはずだと言う甘えはなかっただろうか? 彼女が微笑んで「もう良いよ。コルチェが悪いんじゃない」と言ってくれることを期待した自分はいないか?
 それを思い知らされたのは、サーリャが、コルチェを拒んだ為だった。
 衝撃は、先のケンカより心臓を叩いた。
 サーリャが突然、コルチェの手を振り払ったのだ。
 振り払う、と表現すると語弊のあるほど、弱々しい力だったが。自分の手の中のサーリャの手にぐっと力が込められた気がして、コルチェが握る力を弱めたら、彼女の手が逃げて行ってしまったのだ。
 逃げた彼女の手は自力で浮いていられず、胸の上にぱたりと落ちた。
「!!」
 落ちた衝撃に、激痛が走った。サーリャはかはっと息を吐いたが、幸か不幸かまだ悲鳴にはならなかった。
 サーリャはほんの少しだが何とか顎を引いて、自分の胸元を覗き込んだ。
「……サーリャ……?」
 傷付いた心を隠してコルチェは、サーリャを見守った。
 彼女は自分の体の状況を理解して、顔を歪めた。
 彼女の心中が外の景色に負けず劣らず、氷のように冷えた。そして直後、焼け付くような憎悪が胸に燃え広がった。急に心配してくれているはずのコルチェの顔が、自分を哀れんでいるように感じられたのだ。耐えきれなくなって、目をそむけた。
 目をそむけてからふと、サーリャは自分の目が見えていると言う事実に気付き、鼻や頬に触りたくなった。体に付いたと同じ跡が顔にあるのか、確かめる為に。
 どうにか顎にまで手を持って行っているサーリャの胸中をやっと察して、コルチェはそっと言った。
「大丈夫、顔に火傷はないよ」
 けれど体にはどうしようもない跡が残った。
 サーリャはカッとコルチェを睨んだ。コルチェは今まで目にしたことのない彼女の怒りの形相に、ただ戸惑うしかない。
「……って……」
「え? え?」
 何を言ったのか分からない焦りと、怒りを受け止めきれない未熟さがコルチェをおろおろとさせた。
 コルチェに罪はない。
 自分をしずめる為、サーリャは自分に言い聞かせようとした。だが納得出来ない理不尽な感情の炎が心を埋めてしまい、冷静になりたくてもなれなかった。
「出てって! 2度と見たくない!」
 一瞬。
 全ての思考が、止まった。
 当然彼女の声は大きくなく、息も絶え絶えだ。全てきちんと読み取れた訳ではない。だがその言葉の内容や憎悪の大きさは、すでに充分読み取れてしまった。
 ピキ、と全身が総毛立ち、血の気が失せるのを感じた。視界の隅からじわじわと暗闇が迫り来る。貧血の兆候だ。だが目をつむり頭を振って、コルチェはこらえた。
「あんたのせいよ! 騎士になんてなれやしない。自分の分をわきまえもしないで。なれるものなら、なってみなさいよ! 騎士になるまで、私の前に出て来ないで!!」
 そこまで言ってから、サーリャは叫んだ疲れでドッと脱力した。目を開けている元気もなくなったらしく、もう、コルチェを見ていない。
 混乱と動揺で、心がぐるぐるした。
 今のサーリャに、今のコルチェがかけられる言葉は、何もなかった。ただ黙って、退室するしか。
 ゆるゆると立ち上がり、自分の足が当たって椅子が倒れた。その音で、我に返ったほどだった。
 サーリャの言葉は、本当に騎士になれと言っているのではない。
 自分への拒絶がふんだんに詰まった言葉だった。
 しかし一筋の光を感じた気がしたのは、やはりコルチェが子供だった為かも知れない。
 だがその一筋を信じて。
 自分の道を、信じて。
 彼は、農場を逃げた。






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