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登る日 5. ああ“恋”と言う字か。と、辞書を見ながら、ガルダンは思った。確かこんな形の字が書いてあった気がする。 大事にしまっていたあの本は、俺にもあまり見せてくれなかったからな、とガルダンは幼なじみの好奇心に満ちた黒い目を思い出すのだった。かすかなそばかすが愛らしい娘だった。 いつか文字を全て学んで、これを読みたいのだと彼女はよく言っていた。死んだ母の代わりに文字を教えてくれたのは、彼女だった。奴隷の立場に落とされてから後妻と父への恨みを募らせていた彼は、暇を見付けては体を鍛えたり剣の稽古をする方にばかり熱心だったので、彼女、サーリャにとっては大層不出来な生徒だったが。 「何だ、サーリャ。またコルチェに字を教えているのか?」 「そんな奴に構うなよ」 「奥方様の反感を買うぜ」 馬小屋の生活を強いられ、かと言って農奴の仲間にも入れてもらえない半端な立場の彼は、8歳ですでに孤独を知った。サーリャと知り合えなければ、寿命はもっと短かっただろう。 サーリャは2つ年上で小さく痩せていて、下手をすれば彼より低いほどだった。生まれついての奴隷の彼女の方が栄養が足らないのである、仕方がなかった。だがサーリャは姉のようにふるまい彼をかばい、時には諭したりもしたのだった。 「いつか日の当たる時が来るわ」 皆が諦めて今では思いもしていないようなことを言い出す所も、彼女の特徴だった。良く言えば希望を持った少女だった。悪く言えば夢見がちだったのだ。彼らが農場の中で一番若かったが、それが、彼らの目を輝く強いものにさせていた理由にはならないだろう。 その夢が、コルチェの名をガルダンに変えた。 「サーリャ、サーリャ」 いつになく明るい声で息をはずませるコルチェの呼び声に、サーリャも黒のおかっぱ髪を揺らして答えた。 「どうしたの?」 畑の真ん中に立って仕事の手を止めた彼女に、ふと農奴仲間が顔を向ける。それにも気付かずにコルチェは満面の笑みで叫んだ。 「今、街角で聞こえたんだ。他流試合ってのが、あるんだって!」 「他流試合?」 「騎士だとか剣士だとかが参加するんだ! 優勝すると、賞金だけじゃなくて、騎士の称号まで貰えるんだって!」 コルチェの顔は喜びに輝いている。その輝きを消すのは惜しい気がしたが、13歳になったサーリャが手放しで喜べるほど、それは嬉しい話ではないのだ。サーリャは顎を引いて、眉をひそめた。 「子供の試合じゃないのよ」 「でも俺、強くなったよ!」 コルチェは胸を張った。 「大人にはかなわないわ」 「大丈夫さ! その辺の奴には負けない」 彼の口を慌ててふさいだが、時はすでに遅かった。農場の中でこんな会話をすれば、たちまち話は行き渡る。 月のない夜だった。 目を離すべきでなかったと、いくら後悔してももう遅い。誰がどこにコルチェを連れて行ったのだ、と仲間に問いただしたサーリャは戦慄したのだった。 農場に住み込みで働くのは奴隷ばかりではなく、用心棒の男たちもいる。彼は全部で3人。全員が馬小屋に集結していると言うのだ。いくら強くなったと言っても子供である、3対1で勝てるはずもなかった。 行くな、とサーリャは仲間に止められた。 「コルチェが悪いんだぜ。それにあいつはバルドナット人じゃないか」 だから助ける必要などない、と言うのだ。何かが違う気がしたが上手く言えずに、サーリャは唇をかんで闇に飛び出した。誰かが彼女の名を呼んだ気がしたが、振り向かなかった。 コルチェのいる馬小屋は、目をつむっていても、辿り着ける。彼女は小屋の中から叫び声などが何もないのを怪訝に思いつつ、勢い良く扉を開けた。 「コル! ……チェ……」 ランタンが、室内を照らし出している。薄暗い、黄色い光。 その中に4人の影が揺れていた。どれも見知った顔のはずだった。ただ1人。コルチェと思しき人間だけが、顔を腫らしずたぼろになり、体中にあざを作り、血だらけになり、息も絶え絶えに床にへばりついていて、判別出来ない。 他の3人も、全く負傷していない訳ではなかった。何度かの攻防があったらしい。だが返ってそれが仇になったのだろうとサーリャは推測する。コルチェに刻まれた傷はどれも、容赦のないものばかりだった。 「何……してるの」 怯えの為、声が震えているのではない。サーリャは怒りに体を熱くした。 「生意気言えねぇようにな」 1人が笑いながら、そんなことを言った。 1人はもう動けそうにない少年をなおも組み伏せ、1人はそんな怪我だらけの彼の顔を踏みつけて痛ぶっている。もう呻く力さえなく、コルチェはピクリともしていなかった。サーリャの奥歯がぎりっと鳴った。 確かにコルチェは迂闊な発言をした、とサーリャも思う。だが、これはやりすぎだ。たかが子供の他愛もない夢物語に、よってたかってこの仕打ちは何なのだ。 「止めて」 自分でも驚くほど低い声で、サーリャは一歩中に踏み込んだ。だが、 「おおっと」 と、男が彼女を阻んだ。しかも火かき棒を振りかざして! 「これ以上来たら、火傷するぜ」 先端が真っ赤に焼けた棒を振ってサーリャの足を止めた男は、嫌な笑いを口元に浮かべ、コルチェに向き直った。そしてその手を振り上げたではないか! 烙印を押す気だ! 気付いたサーリャは無意識に、はじかれるように駆け込んだ! 「駄目ーーーーー!!!」 無我夢中で。 男に体当たりした。 男がぐらりと揺れた。 体勢を崩した男の、火かき棒を持つ手がゆるんだ。 真っ赤な火かき棒。 突き飛ばした男の手がサーリャに当たり――。 ――サーリャの胸を焼いた。 「ぎゃあああああぁぁ!!」 多分、一生に一度しか聞く機会などないほどの、断末魔の叫び。 肉の焼ける音。 肉の焦げる匂い。 それでも。 なのに、それでも、サーリャは倒れなかったのだ。コルチェの上に棒が落ちないよう払いのけ、自分の体がコルチェをつぶさないよう、仁王立ちのままなのだ。中空を、目を見開いて睨んだまま、口は半開きにわなないて。 違う意味で、皆がサーリャにぎょっとした。 半死のコルチェですらも、驚いて顔を上げたほど。 それを見て。 安堵した彼女は力を抜き、床に落ちた。 |