登る日 4.



 美しい郊外だった。
 単に町から離れて家並みがなくなったと言う風景でなく、明らかに人の手が入っている丘だった。その向こうに見える建物を引き立てる造りをしている、計算された風景である。道の両側に林立するイチョウの木も、黄色のじゅうたんを作ってこれを飾っていた。先日かすかに降った雪は、とうに溶けてなくなった。
 門も建物も、出来る限りの装飾が施されていた。小さいが、その外見はボーンの屋敷より美しいだろう。城と呼べる豪邸だ。
 まだ馬術には長けていない為よそ見出来なかったが、ボーンがかもす雰囲気はどうも楽しそうだとは言えなかった。門を通って門番に馬を預けてからボーンを見上げると、その顔が息子のことを語った時と同じ表情であることが分かった。
 ガルダンは屋敷内にいる人間がおぼろげに想像出来て、身を引き締めた。その為に服装まで整えてここに来る必要があったのだな、とも思った。
 ボーンが「わしだ」と言って中の召し使いが扉を開けたので、身内の住まいであると推測出来る。ガルダンの予想は当たっていた。どんな人物であるかの想像は、外れたが。
「妻だ」
 とボーンが言ってから、静かに奥の間の戸を開けた。
 日当たりの良い、柔らかな色合いの部屋の窓側にベッドがある。その上に希薄な印象の女性がたたずんでいた。窓に若干顔を向けているようだが、景色を見ている風でもない。開いた扉からの侵入者を見るでもない、動かない彼女の様子に、ガルダンは怪訝に思った。美しいが、存在感が薄い。それが第一印象だった。
「喋らず、静かに行ってくれ」
 そう言ってボーンがガルダンの背中を押しても、彼女は彼らに反応しない。
 ふうわりとした金の髪が綿のように腰まで取り巻いている。フリルの沢山ついた、少しピンクがかった白いドレスは、ネグリジェだった。ベッドにはクッションが幾つもあり、至る所から花の薫りも漂っていた。ポプリか香水なのだろう。少女のような部屋に似合いの薫りだった。
 そこまで近づいてもまだ、彼女はガルダンを見ようともしない。夢見るように少し開いた唇さえも、こうなると不気味だった。よく見ると、よだれが一筋光っていた。彼女まで近づききれずに途中で足を止め、ガルダンは乞うようにボーンに振り向いた。
 彼の心中が読み取れたボーンが頷き、ガルダンは安堵してきびすを返した。戸口に戻り、代わりにボーンが彼女の側まで行った。
「ファリィ。今日はご飯を食べたかい?」
「ああ」
 了解と言うよりは、驚きの為に声が出てしまった様子だった。ベッドに座る彼女の視線よりも低くしゃがんで微笑むと、ようやく気を許したのか、恐る恐るだが彼女はボーンを見たのだった。
 全く外に出ていないのだろう、彼女の肌は抜けるように白かった。これでもう少し頬がふっくらしていて赤みがあれば、人形のように見えたことだろう。彼女の口元を、ボーンが布で優しくぬぐった。
 ボーンはもうガルダンを呼ぶことはせず、2,3彼女に何か話しかけると、じゃあと言ってゆっくり立ち上がった。終始彼女は黙ったままで、部屋を出る彼らに顔を向けることも、しなかった。
 彼女を脅かさないよう音も立てず扉を閉めると、ボーンは居間に行こうと言った。
 暖炉が部屋を暖め、お茶の用意もしてあった。
「“記憶喪失”と言うらしい」
 素っ気なくボーンは言い、ガルダンも能面のままそれを聞いた。つもりだった。
 が、手に持ったカップが震えていて、思いがけず自分が今の光景にショックを受けていたことに気付いて、ガルダンは再び軽いショックを憶えたのだった。
「ああ言う患者を、初めて見たか?」
「はい。……あの。あの方は、その……。ボーン様のことを分かってらっしゃるので?」
「わしが夫だと言うことをか?」
 ボーンの寂しそうな顔を見て、ガルダンは自分の発言を後悔した。問わず、自分で察するべきだったのだ。
「すみません」
「謝るな。お前は、間違っていない」
 ボーンは苦笑した。
 自分の名前も分かっていないのだが、不思議と飯は食えるし、召し使いが付き添って用も足せる。日が落ちてくると暴れ出すので、ベッドに縛り付けるのだ、と、ボーンは中空を見たまま淡々と言った。この時代、この世界で“痴呆症”の名はまだなく、当然治療法もあるべくもない。それを知らずとも、彼女が一生このままかも知れない辛い事実は、すぐに想像がついた。
 奴隷にも色々な扱いがある。流行病の絶えない鉱山で働かされたり、2日に1度しかパンを与えられない過酷な場所もある。農場に住み込みと言う奴隷ならかなり恵まれていると分かってはいたが、本当にまだまだ幸せな方だったのだな、とは、先ほどの光景によって実感した。
 彼女には、生きる楽しみも死ぬ自由もない。生きている意味は、どこにあるのだろう?
 ガルダンは目を伏せた。息子の死が原因かとは当然思ったが、その問いはさらにボーンを苦しめるだけだ。そしてそれをボーンは、やはり「間違ってない」と言って教えてくれるのだろう。
 ガルダンはカップを口に近づけたが、飲まなかった。香りも鼻に届かず、くすんでかき消えた。ソファは暖かく部屋は豪華だったが、彼女には見えていないのだ。
「わしには、そんな大した秘密などないのだがな」
 調子を変えて、ボーンは不自然なほどに笑顔を作った。自分に対してのボーンの好意が感じられた。
「崖から足を滑らせて、息子が死んだ。壊れた我が子を見て、ファリィの心も壊れた。……それだけだ」
 それだけと言うには痛いほどの過去をしかし、ボーンは穏やかな笑みでさらりと言ってのけたのだった。ガルダンが同情しないように、自分を哀れまないように、だろうか。
 だからガルダンも、少し笑ってみた。
 ボーンの為に。
「俺にも、そんな大した秘密なんてないですよ」
 ガルダンは、テーブルにカップを置いた。
 息を吸う。
 躊躇は、しなかった。
「本名は、コルチェ・セオ。先妻の子でした」
 重くのしかかっていた圧力が、ふわりと取れた気がした。
 ボーンは、思ったより驚いていなかった。身分ある者だけが姓を持てる、あの時男が言ったことの方が真実だったのか、と思った程度なのだろう。だが奴隷扱いされていたことも事実なので、ガルダンは嘘を言ったつもりはなかった。
 ガルダンは言ってから、本当はもっと前にでもボーンに打ち明けてしまいたくて仕方がなかった自分の心に気が付いた。言うタイミングを掴めなかったのだ。自分で自分に重圧をかけていたのだと言うことを知り、ふいに笑いたい衝動にかられた。何とか抑えようとするが、笑みが洩れる。手の甲を口に当てて止めた。
 ガルダンは、きっかけを与えてくれたファリィに、内心感謝した。





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