「ガルダン」   夜明け 1.  理性は“逃げろ”と言っていた。  だが逃げる場所など、どこにもない。  逃げようとは思わなかった。  背中を見せる気はない。  力の差は明らかだった。むしろ、まだ死んでいない方が奇跡と言えるほど。  少しでも隙を見せれば、相手は容赦なく斬りつけて来た。試合中に斬られて死ぬのは、ルールのうちだ。実際死んだ選手もいる。  だが寸前で避けるのもおっくうなほど、体が重くなって来ていた。剣を構えなおすが、もう足に力が入らない。時間の問題だった。  相手はまだまだ元気なもので、何が面白いのか、屈強な肉体の上に乗ったひげ面が笑みを作ったままだ。  そもそも短剣と言って良いほどの剣1本で、斧なぞ相手にまともに戦える訳がない。剣対斧では速さだけが秀でているところとなるが、ところがこの男、速いのだ。筋力だけの鈍重な外見に似合わない腕前は、さすが国1番か2番かささやかれているだけのことはあった。顔の大きさの倍はあるかと思われる斧が、まるでナイフを振り回しているように見える、と言うのは、言いすぎではあるまい。  すでに勝負は、ついていた。 「まいったと言やあ、死ななくて済むのに。強情な奴だな」  ひげ面の戦士ボーンは、斧を下ろした。むろん、そんな自分の態度を隙と見て彼が斬りかかって来るだろうことは予知していて、ガルダンの剣は呆気なく叩き落とされてしまったのだった。  歯を食いしばって、殴ろうとする。ボーンは半ば呆れ顔になって、ガルダンが振り上げた拳を掴んだ。ガルダンはやっきになるが、いくつかの怪我と疲れのせいで力が入らず、ボーンはびくともしない。 「離せ!」 「もう言え。まいっただろう?」 「いいや」  答えるや否や、ガルダンはボーンの手にぶらさがり、思い切り彼の腹を蹴飛ばそうと跳ねた。だがそれすらも彼には読まれていて、ガルダンの足は宙を蹴って終わったのだった。 「サルみたいな奴だな」  次の瞬間、ふいにボーンの手が離れた。体勢を直せなかったガルダンは、ぶざまに尻餅をつくはめになってしまった。  真っ赤になった彼の耳に、ひそひそと話す誰かの声が入って来た。 「何であんな子供が、ここまで勝ち抜けたんだ?」 「子供じゃない!」  ガルダンは思わず、群衆に向かって叫んだ。だが闘技場をぐるりと取り巻く群れのざわめきは、収まらない。お喋りは一層ふくれ上がり、波がうねるかのようにひとかたまりに聞こえた。固まりとなって、ガルダンをつぶそうとしているかのように押し寄せる。 「小僧」  ボーンがすいと彼の前に立った。  ハッとして顔を上げた。すぐ睨んでみたが、もう遅い。  自分が戦いの最中であったこと、ボーンが目の前にいることを、一瞬と言えど忘れてしまったのだ。これが普通の戦闘であれば、ガルダンはとうに死んでいる。  しかしガルダンは、 「小僧じゃない!」  と立ち上がって拳を構えるではないか。とうとうボーンは堪えきれなくなり、腹を抱えて笑った。 「何がおかしい!」 「じゃあ、名を教えろ。名で呼んでやる」 「……ガルダンだ」  名を聞きながら近づいて来たボーンの、次の動きは素早かった。当て身を食らい気を失う間際にガルダンは、彼が「良い名だ」と言ったような気がしたが、聞き返しは出来ず、深い闇に落ちた。   夜明け 2.  埃っぽい風が、往来する人々の足元を吹き抜けて行く。少しは雨が降ってくれた方が町がうるおって良いのだが、しかし今日に限っては天気が良くて良かったと、そこにいる皆が思ったに違いなかった。何しろ闘技場に、屋根などと言う豪華なものは付いていないのだから。  その人の群れの中を泳ぐようにして、玄関から外に飛び出した少年のことを、最初誰も気に止めなかった。皆が振り返ったのは、柄の悪そうな男たちが彼のことを呼び止めたからだった。 「待て!」  群衆にさえぎられて上手く走れなかった為と、体調が万全でなかった為に、ガルダンはあっさり捕らえられてしまったのだった。 「離せ!」 「やっと捕まえたぞ、この野郎」  厄介事に巻き込まれたくない群衆は彼らからサササと退いたが、試合後の興奮が残っている為か、半数ほどが野次馬の輪を作った。その中からはさっき戦っていた子供だぞと言う声も聞こえて来て、ガルダンは声の方向から顔をそむけた。  逆に、その声の方向に顔を向けた者もいる。ボーンだ。 「何の騒ぎだ」  彼は馬から降り人垣を掻き分け、渦中の人間を見てホウと声を上げた。 「どうした小僧」 「ガルダンだ」 「嘘付け、偽名使いやがって!」  ガルダンを捕らえた男が憎々しげに言い、もう1人の男がガルダンを殴った。ガルダンは声を上げなかった。  ボーンは2人の男に不快感を持った。 「ほら、来い!」  とガルダンを引っ張る男の腕を掴んで、ボーンは険しい表情をした。 「彼は負傷している。手荒な真似をするな」 「あんたにゃ関係ねぇ」 「ある。彼とわしは、戦った仲だ」  思わず2人は、顔を見合わせた。ガルダンを捕らえる機会をうかがって、ずっと玄関先にひそんでいた2人は、このひげ面の男が誰なのか分かっていなかった。だからこの台詞に驚きを隠せなかったのだ。  兄貴、と1人が小声で呟いた。不安そうな面持ちの子分を一笑に伏して、兄貴分がボーンに向き直る。ひげ面ながらもどこか気品ただよう不可思議なボーンと言う男を、口元に笑みを作ったままの兄貴分が胡散臭げに見上げた。 「旦那、こいつはこれでもご領主様の息子さんでねぇ。気まぐれで農地から逃げ出されたんでさぁ」 「嘘だ。俺は奴隷だ」  ガルダンはすかさず口をはさみ、兄貴分を睨み上げた。男は嫌な顔でガルダンを見たが、ボーンの視線に気付いてまた笑みを顔に貼り付けた。  ボーンは腕を組みひげを撫でていたが、 「あい分かった」  と言うとすかさず、男の虚を突いてガルダンを取り上げてしまった。面食らった男たちと、ガルダンに向けても、ボーンは言った。 「この者はわしが預かる。領主とやらがわしを訪ね、自分のことを“奴隷だ”とまで言わしめる彼の処遇をわしに弁明出来るなら、お返しいたそう。でなくば、2度と現れるな」  そう言った後ボーン・マハだと名乗ったこの騎士に、畏怖しない者は殆どない。地に膝を突いて平伏しかねない2人にボーンは数枚の金貨を投げて、立ち去るよう告げた。  この時代、騎士の立場はまだかなり優遇されているのだ。諸侯らに仕える程度の騎士でも領地と城を持つことが可能なほどなのだ、その辺で農園を繰り広げる程度の領主なら、まず太刀打ち出来ない。  中でもボーン・マハと言えば、王都の大通りに屋敷を構え郊外に2つの城を持つ、王直属の富豪だ。腕の憶えも前述通り、世間にまかり通っている。今回優勝すれば、さらに名は広まることだろう。試合はまだ、数日かかるのだ。  たかが少年1人、そのボーンと一戦交えてまで連れ帰る気はなかったらしい。2人はしっかりと金貨を拾ってから、足早に去った。  その一連の出来事を不愉快に思っているのは、他ならぬ当人、ガルダンだった。  野次馬も退いたのに、自分の馬に手をかけるボーンの背をじっと睨んだきり、ガルダンは動かない。 「どうした? 来い」 「嫌だ」  40歳くらいかと思われるボーンの目尻が、くしゃりとしわを作った。 「はっきり言うな」 「あいつらも嫌いだけど、金を出すあんたも嫌いだ」  笑みをたたえるひげ面を嫌そうに見上げながら、ガルダンは吐き捨てた。  短い言葉では分からなかったが、今度の台詞のイントネーションに方言が含まれていることを、ボーンは感じた。地方の言葉づかいだ。先ほどの男たちにはなかった。  だが奴隷として使う種族、クグライバル人とは体つきも髪の色も違う。さてどちらが嘘つきだろうとボーンは先の男の言葉を思い出したが、何となく彼らが領主を連れてボーンの元に来ることはないだろう予感がした。  しかし本当に彼らが訪ねて来ても、この子は帰りたがらんだろうな。生まれ故郷に帰りたくて試合に参加し、旅費を稼ごうとした、とも考えられるかも知れない。  そんな思いがボーンに、 「では好きにしろ」  と言わせた。 「え」  馬に乗るボーンの態度に、今度はガルダンが慌てた。まさか本当に走り去ろうとするとは、思わなかったのだ。 「おっさん」 「ボーン・マハだ」 「ただの哀れみかよ」 「いいや。出来れば、一緒に来て欲しいがな」  しかしお前が嫌だと言うなら、無理強いはしない。そう言う大人をついぞ見たことのなかったガルダンは、信じられない言葉に目を丸くした。奴隷だと言ったのに、このような、人間に対して使う言葉を使う男に出会ったのは、初めてだったのだ。  しかも、 「俺の名前も聞かずに、信用するのかよ?」  偽名の、素性の知れない子供だ。何か企んでいるのかとも一瞬思ったが、しかしこんな偶然の重なった結果手に入った子供で、何をするとも考えられない。 「“ガルダン”だろう?」  ひげ面には、屈託のない笑みが浮かんでいる。男たちとの関係すらも、聞く気がないらしい。  ガルダンはボーンに興味を持った為と、今ここで彼と別れて、もし先ほどの男らに捕まるはめになっても面白くないと思った為、ついて行くことを決めた。  彼が肩を竦めたのを了承の合図と見て、ボーンは馬の腹を軽く蹴った。 「年齢はいくつだ?」 「11歳」   登る日 1.  バルドナットと言う国が建国して、もう67年になる。  赤土に覆われ緑の少ない大地には、常に埃にまみれた風が吹いている。  だが今の王は4代目だが、戦争を知らない王だった。今の暮らしに満足し、バランスも取れていると思っているのだ。  クグライバルと言う名の国を滅ぼし属国としたのは、もうかれこれ40年も前のことだろうか。かの国の種族独特の黒髪・黒い瞳の人間を奴隷と称し使役することを、バルドナットの人々は当たり前のこととして過ごして来た。この国が砂多き大地であっても、裕福な国として栄えている理由はひとえに奴隷のおかげである。  そんな平和を味わう国民の娯楽となっているのが、王都中央にかまえた闘技場を使って年に1度行われる、御前試合であった。王侯貴族も興奮し魅入る、他流試合である。基本的には、武器も流派も何も問わない。勝者には莫大な賞金も出るし、諸侯の覚えも良くなる為、我こそはと思う有志が毎年沢山集うのだった。  しかしそんな安穏とした生活に密やかな影が忍び込んでいることは、まだ国の誰も知らなかった。この国の南には、この国を狙う大国・エルアルバが息を潜めている。そして奴隷クグライバル人は、彼らもまた人間なのだから、いつかこの立場を不満に思う日があってもおかしくないのだ。           ◇  トーナメント制のこの試合を4回戦も勝ち進むことは、運のみでは難しい。試合前に工作などしたとしても、全試合になど、ほぼ無理である。  1週間彼を客間に住まわせて、その言動を観察したボーンは、確信した。  彼には、実力がある。と。  逃げようともしないガルダンに、ここの奴隷になる覚悟があるのかを聞くために、ボーンは彼を書斎に通した。  執事に連れられて入室したガルダンは、ここでもまたポカンと口を開けてしまった。屋敷に足を踏み入れてから、驚かないことはない。屋敷の大きさだけでも通りで一番目立っていたと言うのに、今日新たに通された部屋の四方を埋め尽くす本の洪水に、ガルダンは溺れそうな思いがした。 「ここに座れ」  部屋の真ん中にある机の下から椅子を引っぱり出し、ボーンはその向かいに回った。退室する執事が扉を閉める音を聞きながらいぶかしげな顔をしたが、ガルダンは彫刻の施された艶のある椅子に腰かけると、再び室内を見渡した。  棚に入りきらなかったらしい本も、いくつか床に山を作っている。本の表紙にはガルダンの見知った文字の形もあり、そうでないものもあった。 「読めるか?」  ボーンは比較的薄い本を1冊、机の上に置いた。  読めない、とは言いたくなかった。 「“水と……のこと”」 「何?」  ボーンは途中ガルダンがゴショゴショと声を小さくした部分を、聞き返した。途端に、ガルダンの顔がぶすくれる。 「この単語が読めないんだな」  ガルダンが言葉をごまかした部分を、指さした。それに“こと”と言ったのはこの場合、“物語”が正しい。彼はその読み方を知らず、適当に当てはめたのだ。普通に学校に行けば7,8歳で学ぶ文章を読めるのだな、とボーンは思った。しかし、 「読めないんじゃない。忘れたんだ」  と、ガルダンは腕を組むではないか。 「では本当は知っている、と?」  頷く、負けず嫌いな少年を微笑ましく思い、ボーンは目を細めた。確証を得た、と思った。少なくとも、彼はやはり生まれついての奴隷ではない。こんな態度は取れないはずだ。 「書く方はどうだ?」  ボーンは棚から、紙とペンとインクを取りだして来た。ガルダンの表情が硬くなる。差し出されたそれを、ガルダンは受け取らなかった。 「こ、こんな物、使ったことがない。家にある奴なら」 「あの男たちのいる農場か?」  ガルダンは曖昧に頷いた。目がさまよっている。ボーンは完全に面白がっていた。 「なら、外に出よう。土に指で書いてみろ。何の字が書ける? 自分の名前のつづりを言ってみろ」  たたみかけられて、ガルダンは怒りで顔を赤くした。だが逆上して暴れたりなどしない所に、救いがある。ボーンは肩を竦めて、机に肘を突いた。 「その場限りの適当な嘘は、すぐボロが出る。1つの嘘は次の嘘を生み出し、しまいに手が付けられなくなる。上手い嘘がつけんなら、正直者になれ」  覗き込んで来るボーンの顔を見上げた時、ガルダンは自分が観念していることに気付いた。体から余分な力が抜けている。この男には嘘がつけないと言うことが、返って自分の気を楽にさせたらしかった。 「言葉は魔物だ。自分が言ったことには責任を持たんといかん。その覚悟がないなら、何も喋らん方が利口だ」  ボーンの言わんとする所を察したガルダンは、すぐに椅子から飛び降り、床の空いている所に平伏した。  思わぬ行動に言った本人の方が驚いたが、ボーンはガルダンのそれを「彼は自分が『自分は奴隷だ』と言ったことの責任を取れと言ったのだ」と解釈したらしいと悟った。そんなつもりで言ったのではなかったのだが、なるほど言われてみれば、そう取れる。ガルダンの勘の良さに、ボーンは満足げな笑みを浮かべた。 「立て」  ボーンの一言に素直に従ったガルダンの目には、決意があった。  そのガルダンの目前にボーンは、 「まずは、これを」  先ほどの本よりさらに薄い、手書きのような小冊子を掲げた。手渡して来るので、ガルダンはパラパラとその本をめくってみた。比較的優しそうな単語が、ずらりと並んでいる。 「全部読み書き出来るようになれ。それが午前の仕事だ。午後は、剣術の訓練。分からないことは、わしや執事のイライフに聞け。召使い長のメリレルでも良い」  それらの言葉を呑み込むのに、ガルダンはたっぷり数秒を要した。本から目を離し、顔を上げ、つばを飲み込み、瞬きをしてから、 「それが、仕事?」  小さく、自信のなさそうに呟いた。呟いた自分の声にハッとしてガルダンは再度本をまじまじと眺め、きちんと声を出してボーンに問うた。 「これが仕事?」 「そうだ」  ボーンの表情は、至って真面目である。 「今日明日中になどと、無茶なことは言わん。時間をかけて、ゆっくり憶えろ。もっと難しい本も読めそうなら、読んで構わん。屋敷のどこへでも、好きに動け」  完全に、普通の子供扱いである。いや、町で暮らす子供より優雅だろう。この時代に終日読み書きにふけることが出来るなど、国王か貴族の子供かと言った所だ。しかも、剣の練習まで行えるとは。 「文字は誰に教わった?」 「母さんと……」  うっかり別の者の名前まで言いそうになって、口をつぐんだ。 「母さんと父さんか?」  ガルダンは反応しなかった。だがボーンはまぁ良い、と片手を挙げるではないか。 「言いたくなったら、そのうちな。上手な嘘でも思い付いたら、言ってくれ」  と、彼は似合わないウインクをした。 「この本は、あんたが作ったのか?」 「ああ」  ボーンは少しはにかんだ笑みをした。その中に若干の寂しさのようなものが含まれている気がして、ガルダンはボーンの目を見つめた。 「昔、息子に作った」  遠い目だった。  ガルダンは先ほど言いかけた名前を、やはり口に乗せようかと思った。けれど、そのまま黙ってその冊子に目を落とし、ガルダンは今日の言葉ですっかり変わってしまった自分の人生について、思いを巡らせた。   登る日 2.  マハ家の家族は、ボーンの他には誰もいなかった。  屋敷を好きに歩いて良いと言われて散歩してみたが、どこを見ても女や子供が住んでいた形跡はない。肖像画なども、見あたらなかった。  執事は口を割りそうにないタイプだったし、自分が何も教えていないのに他人の私生活をあれこれ探るのは不公平かと思い、ガルダンは何も聞かないまま日を過ごして行った。  門番はボーンに忠実で、絶対に外へ出してくれなかった。とは言え、ガルダンも無茶をする気がなかったが。抜け出すのはたやすかったが、そうすると2度とここに戻って来られないだろうからであった。元働いていた農地からも迎えが来る様子がなかったので、今の所ガルダンは、この不思議で恵まれた生活を楽しんでいた。  彼は髪を切り身なりを整えしゃんと立っていると、貴公子にすら見えた。淡い栗色の髪が軽く風になびき、その下に光る一重の目は涼やかである。初めて身なりを整えた時ボーンが、 「将来が楽しみだな」  とひげに手をやり、笑ったものだった。ボーンの髪も茶色いので、親子に見えないこともない。それがボーンには、更に嬉しいらしかった。  連日中庭で剣技を行い、元々日に焼けて濃かった肌の色だったがさらに焼け、とうとう髪より黒くなる有り様だった。暑い季節なので、動くとすぐに汗びっしょりになる。シャツを脱ぐと、これが本当に子供の体かと思える精悍な造りの上半身が現れた。 「少し背が伸びたな」  ある日、ガルダンの着ていたシャツとズボンを見て、ボーンが言った。 「当面はメリレルに言って、服を繕い直してもらえ。そのうち、新しい服を買いに行こう」  ボーンもまた、成長の早い子供を見て楽しんでいるらしかった。  メリレルは召し使い長だ。一番年輩で、誰にでも面倒見が良かった。召し使いの為の部屋は2つあり、メリレルはそこにいた。  ガルダンは、ノックすることを学んでいた。 「開いてるわ」  落ち着いた、少しかすれた声がした。 「入ります」  まだたどたどしかったが、人間関係を円滑にする為の言葉と態度も、ガルダンは少し憶えた。彼女の目には、まだまだ新入りガルダンへの嫌悪がぬぐえていなかったが。ガルダンはその目に気付かないふりをしている。  2人部屋だが、もう1人は出ている。少し居心地の悪さを感じ、身じろぎした。  服の寸法を大きくして欲しい旨を伝え、もう少ししたら服を買いに連れて行ってくれるらしいとガルダンが言うと、退室のきっかけを失わせるかのように、メリレルがほがらかに笑った。 「あなたを、気に入っているのね」  仕立屋を呼べばほんの1時間で済む所を、わざわざ店まで行こうと言うのだ。  気に入られたくてここで勉強している訳ではない、とガルダンは心中抗議したが、口には出さなかった。ではどうして、ともし聞かれたら、答え辛かったからだ。  ガルダンは、代わりに別の言葉で答えた。少し毒を含んで。 「息子の代わりにされてるだけだ」  すかさず彼女は叱咤した。 「ほらまたその言葉づかい!」 「……されてるだけ、です」  さっきまでの笑みが消え、困った顔になっている。メリレルは、ガルダンの言動を正す役目も行っていた。 「知ってるの?」 「本人が言いましたから」 「“本人”って。ちゃんと“ボーン様”か“お屋形様”と言いなさい」 「俺が使ってる本は、ボーン様の息子のものだったです」 「ええ」  メリレルは戸口に立ったままでは何だから、と椅子がないのでベッドにガルダンを座らせた。狭い部屋なので、椅子や机がない。ガルダンは浅くベッドに腰かけた。今自分にあてがわれている物より、質の劣るベッドだった。 「言葉づかいはまだまだねぇ。“息子”じゃなくて、せめて“息子さん”と言えるようになさい。本来なら全ての方を様付けで呼ばなきゃいけないんだけど、あなたの立場は少し変わってるから」  そうなのだ。  最初から奴隷らしからぬ扱いだと思っていたが、召し使いより良い部屋に住まわされ、掃除や洗濯もせずとも良く、時にはボーンと食事さえ同席する、そんな奴隷なぞこの世にいない。賓客とまでは言わないが、ガルダンは明らかに奴隷ではなかった。後から知った話だったが、ボーンが他人を自分の書斎に入れると言うのも、まれなことらしいのだ。  ふとガルダンは、メリレルたちの心中を思った。  もし急に入って来た子供が、客人とも奴隷とも付かない妙な立場で住みつき、自分たちより待遇が良かったなら、そりゃあ戸惑うし、面白くもないだろう。  だがそれに気付いたからと言って、今さら彼女たちをねぎらったり気づかったりすることは、返って失礼だと思った。自分がボーンに買われた時、とても気分が悪かったことと同じだ。 「分かった?」  即答せずに考え込んでしまったので、メリレルから追い打ちが入った。ガルダンは反抗を止め、子供の顔をして、こっくりと頷いて見せたのだった。 「分かりました」  彼の表情を反省と思ったらしいメリレルは、若干表情をゆるめた。 「御曹子(おんぞうし)様は、お可哀想だったわ」  少し窓を見る。ボーンが“息子”と口に出した時と、同じ表情だった。 「生きてらっしゃれば、さぞご立派におなりでしたでしょうに」  ああ死んだのか、とガルダンは思った。離婚していなくなったのか死んだのかどちらだろうと、考えたことはあったのだ。それ以上メリレルは言わなかったので母親については分からなかったが、それは追求しなかった。  息子の代用品でも構わない、それで体が鍛えられるなら。とガルダンは思った。  出来れば、再度あの他流試合に望みたかった。そしてそこで優勝する為には、ボーンさえもしのぐ腕前にならなければいけないのだ、よそ見などしている暇はない。  あの試合で優勝しなければ、意味がないことだからだった。   登る日 3.  だがその“試合で優勝する”と言うガルダンの目標が、いかに子供っぽく愚かしいことだったかを、ガルダンは学べば学ぶほど実感して言った。  最初の年はまだ分かっていなくて、実力不充分だとボーンに止められたとこが憎いほど悔しかったのだが、2年目になり13歳を迎えた彼は、試合そのものに疑問を持つようになり、出場の意欲がほとんど消えてしまったのだった。  しかし、剣技への意欲は消えない。ますます募るばかりである。自分にどれほどの力がついたかと思う点では、試合に参加するのも1つの手だと思うのだが、それでもし死んでしまうなら意味のないことだ、と考えるようになったのだ。  初めての雪が降った。  比較的温暖で標高も低い地なので、雪は珍しかった。ガルダンは剣の手を休めて空を見上げた。灰色がかった雲が少し光を含み、淡く光っている。降ってくる雪はその光にかげって、黒く見えた。それが音もなく幾重もつらなって、ゆっくりとガルダンの体に降り注いで来た。雪は、感覚のなくなりもう死んでも良いな、と思った時のことを思い出させる。顔をしかめた。  彼は1度身震いすると、木に引っかけておいた上着を手にした。  着込んでいる時、馬の鳴き声がした。ボーンである。ガルダンは衣服を正し、玄関に向かった。 「お帰りなさいませ、ボーン様」  その礼儀には、よどみがなかった。  執事イライフが開けるドアに入るボーンの斜め後ろに付き、彼はボーンの差し出す剣を受け取って、武器庫に戻しに行く。最初の頃には、なかった光景だった。ボーンが自分の剣を誰かに預けることなど。時間などは不定期だったが、ボーンが帰って来た時の、これが日課だった。  夕食を終えると、ボーンがガルダンを呼ぶ。呼ばれない時もあったが、ガルダンが自分から彼の部屋を訪れる時もあった。彼は滅多にこれを断らず、質問に対して丁寧に返してくれるのだった。  その日は、ガルダンが自ら訪れた。  2度のノックの仕方で、ボーンには誰か分かるらしい。彼は入れ、と短く言った。 「失礼します」  部屋の隅に片付けてある椅子は、ガルダンの専用となっている。彼はそれを引っぱり出して、テーブルを挟んだボーンの向かいに座った。ボーンは、机の下に入れてある椅子を自分用に出した。 「今日は、新しい本を読んだか?」 「ヒムシュタッド王の自伝と、それを考察したアギニアの哲学論を」 「アギニアは難しい言葉を使うだろう」 「辞書を引きながら、読みました」  ボーンは微笑んだ。ここに来て2年と半年が過ぎたガルダンの成長ぶりは、見ていて気持ち良いほどだった。ただジャンルには少し片寄りが見られ、彼は政治とその関係をよく読んだが。興味を持つのは良いことだとし、ボーンはこれを放っておいた。強制して身に付けさせなければならないと思われる事柄のほとんどを、彼は自発的に身に付けてしまったからだ。  それに、本当に本気で取り組んで欲しいとボーンが願っているものは、剣だ。その熱心さは、ボーンを満足させていた。  だからその彼が次の試合にも出場しないと言い出すのは少し意外だったので、ボーンは思わず聞き返してしまったのだった。 「何?」 「次だけでなく、これから先も。あの御前試合には、参加しないと決めました」 「なぜ?」 「死ぬからです」  ボーンは考え込んだ。  ガルダンの言葉は少ないので、そこから全ての思慮をくみ取ることが難しい。臆病風に吹かれたとは考えがたかったが、今のやり取りからそれ以上の答えは出せなかった。  ボーンはゆっくり手探りするように、 「死ぬこと自体を恐れている訳では、ないんだろう?」  ガルダンを見た。  ガルダンも言葉を組み立てる為、少しボーンから目を逸らして考えた。 「単純に強い者と戦うだけでは、嫌だと思ったんです」 「ほう」  さらに何かを尋ねられるかと思いガルダンは答え方を模索したが、ボーンが自らその続きを答えた。 「意味のある戦いじゃないと、死ぬ価値がないってことか?」 「はい」 「優勝賞金の為に命をかけるのは、意味がないか?」  ガルダンの目がさまよった。自分が自由に金を使える立場にあったなら、それも意味があることかも知れない、と思えたからだ。金で望みが叶うなら、意味があると言えるだろう。  そう思うと、迂闊に“はい”とは言えなかった。 「……今の、私には」  と、ガルダンは答えた。 「普段は“俺”で構わんぞ」 「ありがとうございます」  ボーンはガルダンの胸中が分かりかねて、額に手を当てて少しうなった。奴隷と言うには種族が違い、かと言って領主の息子にしては言葉が荒いし態度も大きかった。金に汚い所がないので、金の為に試合に望んだとも違うらしいことは、今となっては頷ける。  それ以上の理由を促すことは、最初に何も聞かないと決めたボーンの信条をくつがえすことになる。ガルダンも良い気がしないだろう。  だがボーンに出てしまった欲の為には、お互いの過去を明かして、親密になる必要があった。  その欲とは、ガルダンをもっと成長させたいと言うものである。 「分かった」  ボーンはまず納得した顔を作った。ガルダンが緊張を解いた様子を見てから、 「明後日、」  と声のトーンを少し高くして続けた。 「遠出する。お前も付いて来なさい」 「はい」   登る日 4.  美しい郊外だった。  単に町から離れて家並みがなくなったと言う風景でなく、明らかに人の手が入っている丘だった。その向こうに見える建物を引き立てる造りをしている、計算された風景である。道の両側に林立するイチョウの木も、黄色のじゅうたんを作ってこれを飾っていた。先日かすかに降った雪は、とうに溶けてなくなった。  門も建物も、出来る限りの装飾が施されていた。小さいが、その外見はボーンの屋敷より美しいだろう。城と呼べる豪邸だ。  まだ馬術には長けていない為よそ見出来なかったが、ボーンがかもす雰囲気はどうも楽しそうだとは言えなかった。門を通って門番に馬を預けてからボーンを見上げると、その顔が息子のことを語った時と同じ表情であることが分かった。  ガルダンは屋敷内にいる人間がおぼろげに想像出来て、身を引き締めた。その為に服装まで整えてここに来る必要があったのだな、とも思った。  ボーンが「わしだ」と言って中の召し使いが扉を開けたので、身内の住まいであると推測出来る。ガルダンの予想は当たっていた。どんな人物であるかの想像は、外れたが。 「妻だ」  とボーンが言ってから、静かに奥の間の戸を開けた。  日当たりの良い、柔らかな色合いの部屋の窓側にベッドがある。その上に希薄な印象の女性がたたずんでいた。窓に若干顔を向けているようだが、景色を見ている風でもない。開いた扉からの侵入者を見るでもない、動かない彼女の様子に、ガルダンは怪訝に思った。美しいが、存在感が薄い。それが第一印象だった。 「喋らず、静かに行ってくれ」  そう言ってボーンがガルダンの背中を押しても、彼女は彼らに反応しない。  ふうわりとした金の髪が綿のように腰まで取り巻いている。フリルの沢山ついた、少しピンクがかった白いドレスは、ネグリジェだった。ベッドにはクッションが幾つもあり、至る所から花の薫りも漂っていた。ポプリか香水なのだろう。少女のような部屋に似合いの薫りだった。  そこまで近づいてもまだ、彼女はガルダンを見ようともしない。夢見るように少し開いた唇さえも、こうなると不気味だった。よく見ると、よだれが一筋光っていた。彼女まで近づききれずに途中で足を止め、ガルダンは乞うようにボーンに振り向いた。  彼の心中が読み取れたボーンが頷き、ガルダンは安堵してきびすを返した。戸口に戻り、代わりにボーンが彼女の側まで行った。 「ファリィ。今日はご飯を食べたかい?」 「ああ」  了解と言うよりは、驚きの為に声が出てしまった様子だった。ベッドに座る彼女の視線よりも低くしゃがんで微笑むと、ようやく気を許したのか、恐る恐るだが彼女はボーンを見たのだった。  全く外に出ていないのだろう、彼女の肌は抜けるように白かった。これでもう少し頬がふっくらしていて赤みがあれば、人形のように見えたことだろう。彼女の口元を、ボーンが布で優しくぬぐった。  ボーンはもうガルダンを呼ぶことはせず、2,3彼女に何か話しかけると、じゃあと言ってゆっくり立ち上がった。終始彼女は黙ったままで、部屋を出る彼らに顔を向けることも、しなかった。  彼女を脅かさないよう音も立てず扉を閉めると、ボーンは居間に行こうと言った。  暖炉が部屋を暖め、お茶の用意もしてあった。 「“記憶喪失”と言うらしい」  素っ気なくボーンは言い、ガルダンも能面のままそれを聞いた。つもりだった。  が、手に持ったカップが震えていて、思いがけず自分が今の光景にショックを受けていたことに気付いて、ガルダンは再び軽いショックを憶えたのだった。 「ああ言う患者を、初めて見たか?」 「はい。……あの。あの方は、その……。ボーン様のことを分かってらっしゃるので?」 「わしが夫だと言うことをか?」  ボーンの寂しそうな顔を見て、ガルダンは自分の発言を後悔した。問わず、自分で察するべきだったのだ。 「すみません」 「謝るな。お前は、間違っていない」  ボーンは苦笑した。  自分の名前も分かっていないのだが、不思議と飯は食えるし、召し使いが付き添って用も足せる。日が落ちてくると暴れ出すので、ベッドに縛り付けるのだ、と、ボーンは中空を見たまま淡々と言った。この時代、この世界で“痴呆症”の名はまだなく、当然治療法もあるべくもない。それを知らずとも、彼女が一生このままかも知れない辛い事実は、すぐに想像がついた。  奴隷にも色々な扱いがある。流行病の絶えない鉱山で働かされたり、2日に1度しかパンを与えられない過酷な場所もある。農場に住み込みと言う奴隷ならかなり恵まれていると分かってはいたが、本当にまだまだ幸せな方だったのだな、とは、先ほどの光景によって実感した。  彼女には、生きる楽しみも死ぬ自由もない。生きている意味は、どこにあるのだろう?  ガルダンは目を伏せた。息子の死が原因かとは当然思ったが、その問いはさらにボーンを苦しめるだけだ。そしてそれをボーンは、やはり「間違ってない」と言って教えてくれるのだろう。  ガルダンはカップを口に近づけたが、飲まなかった。香りも鼻に届かず、くすんでかき消えた。ソファは暖かく部屋は豪華だったが、彼女には見えていないのだ。 「わしには、そんな大した秘密などないのだがな」  調子を変えて、ボーンは不自然なほどに笑顔を作った。自分に対してのボーンの好意が感じられた。 「崖から足を滑らせて、息子が死んだ。壊れた我が子を見て、ファリィの心も壊れた。……それだけだ」  それだけと言うには痛いほどの過去をしかし、ボーンは穏やかな笑みでさらりと言ってのけたのだった。ガルダンが同情しないように、自分を哀れまないように、だろうか。  だからガルダンも、少し笑ってみた。  ボーンの為に。 「俺にも、そんな大した秘密なんてないですよ」  ガルダンは、テーブルにカップを置いた。  息を吸う。  躊躇は、しなかった。 「本名は、コルチェ・セオ。先妻の子でした」  重くのしかかっていた圧力が、ふわりと取れた気がした。  ボーンは、思ったより驚いていなかった。身分ある者だけが姓を持てる、あの時男が言ったことの方が真実だったのか、と思った程度なのだろう。だが奴隷扱いされていたことも事実なので、ガルダンは嘘を言ったつもりはなかった。  ガルダンは言ってから、本当はもっと前にでもボーンに打ち明けてしまいたくて仕方がなかった自分の心に気が付いた。言うタイミングを掴めなかったのだ。自分で自分に重圧をかけていたのだと言うことを知り、ふいに笑いたい衝動にかられた。何とか抑えようとするが、笑みが洩れる。手の甲を口に当てて止めた。  ガルダンは、きっかけを与えてくれたファリィに、内心感謝した。   登る日 5.  ああ“恋”と言う字か。と、辞書を見ながら、ガルダンは思った。確かこんな形の字が書いてあった気がする。  大事にしまっていたあの本は、俺にもあまり見せてくれなかったからな、とガルダンは幼なじみの好奇心に満ちた黒い目を思い出すのだった。かすかなそばかすが愛らしい娘だった。  いつか文字を全て学んで、これを読みたいのだと彼女はよく言っていた。死んだ母の代わりに文字を教えてくれたのは、彼女だった。奴隷の立場に落とされてから後妻と父への恨みを募らせていた彼は、暇を見付けては体を鍛えたり剣の稽古をする方にばかり熱心だったので、彼女、サーリャにとっては大層不出来な生徒だったが。 「何だ、サーリャ。またコルチェに字を教えているのか?」 「そんな奴に構うなよ」 「奥方様の反感を買うぜ」  馬小屋の生活を強いられ、かと言って農奴の仲間にも入れてもらえない半端な立場の彼は、8歳ですでに孤独を知った。サーリャと知り合えなければ、寿命はもっと短かっただろう。  サーリャは2つ年上で小さく痩せていて、下手をすれば彼より低いほどだった。生まれついての奴隷の彼女の方が栄養が足らないのである、仕方がなかった。だがサーリャは姉のようにふるまい彼をかばい、時には諭したりもしたのだった。 「いつか日の当たる時が来るわ」  皆が諦めて今では思いもしていないようなことを言い出す所も、彼女の特徴だった。良く言えば希望を持った少女だった。悪く言えば夢見がちだったのだ。彼らが農場の中で一番若かったが、それが、彼らの目を輝く強いものにさせていた理由にはならないだろう。  その夢が、コルチェの名をガルダンに変えた。 「サーリャ、サーリャ」  いつになく明るい声で息をはずませるコルチェの呼び声に、サーリャも黒のおかっぱ髪を揺らして答えた。 「どうしたの?」  畑の真ん中に立って仕事の手を止めた彼女に、ふと農奴仲間が顔を向ける。それにも気付かずにコルチェは満面の笑みで叫んだ。 「今、街角で聞こえたんだ。他流試合ってのが、あるんだって!」 「他流試合?」 「騎士だとか剣士だとかが参加するんだ! 優勝すると、賞金だけじゃなくて、騎士の称号まで貰えるんだって!」  コルチェの顔は喜びに輝いている。その輝きを消すのは惜しい気がしたが、13歳になったサーリャが手放しで喜べるほど、それは嬉しい話ではないのだ。サーリャは顎を引いて、眉をひそめた。 「子供の試合じゃないのよ」 「でも俺、強くなったよ!」  コルチェは胸を張った。 「大人にはかなわないわ」 「大丈夫さ! その辺の奴には負けない」  彼の口を慌ててふさいだが、時はすでに遅かった。農場の中でこんな会話をすれば、たちまち話は行き渡る。  月のない夜だった。  目を離すべきでなかったと、いくら後悔してももう遅い。誰がどこにコルチェを連れて行ったのだ、と仲間に問いただしたサーリャは戦慄したのだった。  農場に住み込みで働くのは奴隷ばかりではなく、用心棒の男たちもいる。彼は全部で3人。全員が馬小屋に集結していると言うのだ。いくら強くなったと言っても子供である、3対1で勝てるはずもなかった。  行くな、とサーリャは仲間に止められた。 「コルチェが悪いんだぜ。それにあいつはバルドナット人じゃないか」  だから助ける必要などない、と言うのだ。何かが違う気がしたが上手く言えずに、サーリャは唇をかんで闇に飛び出した。誰かが彼女の名を呼んだ気がしたが、振り向かなかった。  コルチェのいる馬小屋は、目をつむっていても、辿り着ける。彼女は小屋の中から叫び声などが何もないのを怪訝に思いつつ、勢い良く扉を開けた。 「コル! ……チェ……」  ランタンが、室内を照らし出している。薄暗い、黄色い光。  その中に4人の影が揺れていた。どれも見知った顔のはずだった。ただ1人。コルチェと思しき人間だけが、顔を腫らしずたぼろになり、体中にあざを作り、血だらけになり、息も絶え絶えに床にへばりついていて、判別出来ない。  他の3人も、全く負傷していない訳ではなかった。何度かの攻防があったらしい。だが返ってそれが仇になったのだろうとサーリャは推測する。コルチェに刻まれた傷はどれも、容赦のないものばかりだった。 「何……してるの」  怯えの為、声が震えているのではない。サーリャは怒りに体を熱くした。 「生意気言えねぇようにな」  1人が笑いながら、そんなことを言った。  1人はもう動けそうにない少年をなおも組み伏せ、1人はそんな怪我だらけの彼の顔を踏みつけて痛ぶっている。もう呻く力さえなく、コルチェはピクリともしていなかった。サーリャの奥歯がぎりっと鳴った。  確かにコルチェは迂闊な発言をした、とサーリャも思う。だが、これはやりすぎだ。たかが子供の他愛もない夢物語に、よってたかってこの仕打ちは何なのだ。 「止めて」  自分でも驚くほど低い声で、サーリャは一歩中に踏み込んだ。だが、 「おおっと」  と、男が彼女を阻んだ。しかも火かき棒を振りかざして! 「これ以上来たら、火傷するぜ」  先端が真っ赤に焼けた棒を振ってサーリャの足を止めた男は、嫌な笑いを口元に浮かべ、コルチェに向き直った。そしてその手を振り上げたではないか!  烙印を押す気だ!  気付いたサーリャは無意識に、はじかれるように駆け込んだ! 「駄目ーーーーー!!!」  無我夢中で。  男に体当たりした。  男がぐらりと揺れた。  体勢を崩した男の、火かき棒を持つ手がゆるんだ。  真っ赤な火かき棒。  突き飛ばした男の手がサーリャに当たり――。  ――サーリャの胸を焼いた。 「ぎゃあああああぁぁ!!」  多分、一生に一度しか聞く機会などないほどの、断末魔の叫び。  肉の焼ける音。  肉の焦げる匂い。  それでも。  なのに、それでも、サーリャは倒れなかったのだ。コルチェの上に棒が落ちないよう払いのけ、自分の体がコルチェをつぶさないよう、仁王立ちのままなのだ。中空を、目を見開いて睨んだまま、口は半開きにわなないて。  違う意味で、皆がサーリャにぎょっとした。  半死のコルチェですらも、驚いて顔を上げたほど。  それを見て。  安堵した彼女は力を抜き、床に落ちた。   登る日 6. 「その子は死んだのか?」  黙ってガルダンの話を聞いていたボーンだったが、これには思わず口をはさんでしまった。  柔らかな日差しが差し込む居間に声が響き、意外な大声を出してしまった自分の口を、ボーンは手で押さえた。  遠い目をして話していたガルダンは、 「いいえ」  と、近くのボーンに目を向け、言った。  しかし、嬉しそうな顔ではない。  怪訝なボーンの表情をちらりと見やってから、ガルダンは言葉を続けた。 「鎖骨の辺りから左胸の少し内側を通る、大きな火傷の跡が残りました」  と。  サーリャは確か5日間生死をさまよいました、とガルダンは言った。  自分もひどい有り様だったので、翌日の夕方から彼女の看病に付いたと記憶しているつもりなのだが、曖昧なのだ。本来ならコルチェとて安静を要する体だったのだが、サーリャのことが気が気でなく、寝ていられなかったのである。  椅子に座った状態のまま、コルチェは自分の怪我もかえりみず彼女に付き添った。そんな彼を、誰も止めなかった。サーリャの怪我の原因がコルチェにあると思った為か彼の熱意に押された為か、それは分からなかったが、コルチェにとってはどうでも良いことだった。今、自分の邪魔をしないでいてもらえる方が、ありがたかったから。  領主ですらも、何も口出ししない。  この時さすがに2人は屋敷に運び込まれ、客室で手当を受けた。暖炉に火が入れられ、茶の湯も用意された。体裁を気にした為だ。だが領主であるコルチェの父や後妻なども、ここに顔を見せることはなかったのだった。  傷が元で発熱したサーリャの額を冷やし続け、暖炉の木をくべ続けた。自分に出来る唯一の仕事とばかりに、それこそ1時間おきに額の布を取り替え、木ぎれを炉に放り込んだ。いくら暖炉に手をかざしても、深夜にそんなにも水に手を浸けていれば、その方が彼の手をかじかませる。自分の怪我も熱を持っていたので、そんな自分の患部に氷のような手を押し当てて、痛みに耐えた。  自分さえ愚考を犯さなければ、と思わざるを得ない。  騎士などと。  試合などと。  遠い夢だったのだ。  それどころか、自分が強い、などと。言うどころか、思いすらもしてはいけなかった。  開けた木窓の隙間から、白いほこりがチラチラと入って来る。手をかざしたら、冷たく溶けて水になった。窓の向こうはすっかり暗闇のようだ。コルチェは足に力を入れ何とか立ち上がって、窓を閉めようとした。冬将軍の猛威が見えた。  空から無数に舞い落ちる白い粒はサーリャの周りを取り巻いて、彼女を飾るかのようにちらつき、消えて行った。このままこの冬の使者が彼女の魂を連れて行くのだろうか、とふと思った。  それも悪くないな。生き返って、また辛い日々が続くだけの人生なら、今この暖かい部屋で一生を終える方が幸せかも知れない。そうしたら自分も、サーリャと一緒に行こう、とコルチェは少し笑みを作った。 「駄目だ!」  そこまで考えてから、慌てて彼は首を振り、窓を閉めたのだった。  またぐったりと椅子に体を投げ出し、一息ついてからサーリャの顔を見下ろした。  まだだ。  まだサーリャは、あの本を全部読んでいないではないか。  まだコルチェは、サーリャに言っていない言葉がある。  ちきんと元気になったサーリャに、言わなければならない。自分の母親には言い損なった言葉を。とても簡単だけれど、とても重要な「好きだ」の一言を。  コルチェは、まだサーリャに言っていない。  サーリャ。  サーリャ。  心中何度も連呼し、コルチェは彼女の黒い瞳を望んだが、その輝きは、まぶたに隠れて現れない。  やもすればすぐに涙が流れそうになるのを、歯を食いしばって止め、コルチェは看病し続けた。今はとにかく、彼女が目を覚ますこと。それだけを願った。  ――いつの間にか眠ってしまったコルチェは、一瞬自分がどこにいるのか分からず目をぎゅっとつむってから、はっとして顔を上げた。  部屋が暗い。ランタンの中に入れてあるロウソクが切れ、窓を閉めたので、昼夜の別も分からなかった。暖炉の火もちょろちょろと小さくくすぶっているだけだ。だが寝てしまう前より寒くないと言うことは、天気がよくなったのだろうか、と思い、コルチェは窓を開けてみることにした。何とか立ち上がり、自分も幾分か、体力が回復したらしいことを悟った。  見下ろすサーリャは、まだ眠っていた。だが昨日より、穏やかな表情をしている。峠を越えたのか、苦しみを越えたのかが分からず、コルチェはぎょっとなって急いで窓を開けた。  窓の隙間の分だけ、光が部屋に入って来る。  もう、朝なのだ。  しかも、昨日降った白いもの(彼は後でそれが“雪”だと知るのだが)が、見える範囲すべての地面を覆っており、光がキラキラと反射して、目が痛いほどに眩しい。どんな朝よりも、その日の光は明るく白く、神聖に思えた。  そして、その光を浴びて。 「……」  呻きが聞こえた気がして、コルチェはサーリャを見下ろした。椅子に座り、覗き込む。  見間違いかと疑い、目をこすった。  だが、間違いではない。  サーリャが、顔をしかめていた。  日の眩しさに、起きたのだ。 「起きた……?」  鼻の奥がツンとして、視界が曇った。  違う意味でコルチェは、歯を食いしばった。なのに、涙が止まらなかった。 「……チェ……?」  サーリャの唇が薄く開き、吐息のような呟きを洩らした。  コルチェの曇った視界の中、サーリャがずるずるとベッドから手を出そうとしているのが、見えた。まだ力が入らないらしい。コルチェはそっとその手を取った。すり寄せた頬からサーリャの手へと、涙が一筋流れた。 「良かった。生きてて。良かった。俺のせいで……ごめんね、こんな」  嗚咽と鼻をすする音が混じって声は途切れ途切れだったが、これでもコルチェはサーリャの手を包んだ自分の両手に顔を埋めて、良かったとごめんねを連呼し続けたのだった。彼女の生還をどんなに喜んでも喜び切れず、罪悪感をどんなに詫びても、詫び切れなかった。  だが。  そう思う自分の心の奥底に、彼女はそんな自分を哀れみ許してくれるはずだと言う甘えはなかっただろうか? 彼女が微笑んで「もう良いよ。コルチェが悪いんじゃない」と言ってくれることを期待した自分はいないか?  それを思い知らされたのは、サーリャが、コルチェを拒んだ為だった。  衝撃は、先のケンカより心臓を叩いた。  サーリャが突然、コルチェの手を振り払ったのだ。  振り払う、と表現すると語弊のあるほど、弱々しい力だったが。自分の手の中のサーリャの手にぐっと力が込められた気がして、コルチェが握る力を弱めたら、彼女の手が逃げて行ってしまったのだ。  逃げた彼女の手は自力で浮いていられず、胸の上にぱたりと落ちた。 「!!」  落ちた衝撃に、激痛が走った。サーリャはかはっと息を吐いたが、幸か不幸かまだ悲鳴にはならなかった。  サーリャはほんの少しだが何とか顎を引いて、自分の胸元を覗き込んだ。 「……サーリャ……?」  傷付いた心を隠してコルチェは、サーリャを見守った。  彼女は自分の体の状況を理解して、顔を歪めた。  彼女の心中が外の景色に負けず劣らず、氷のように冷えた。そして直後、焼け付くような憎悪が胸に燃え広がった。急に心配してくれているはずのコルチェの顔が、自分を哀れんでいるように感じられたのだ。耐えきれなくなって、目をそむけた。  目をそむけてからふと、サーリャは自分の目が見えていると言う事実に気付き、鼻や頬に触りたくなった。体に付いたと同じ跡が顔にあるのか、確かめる為に。  どうにか顎にまで手を持って行っているサーリャの胸中をやっと察して、コルチェはそっと言った。 「大丈夫、顔に火傷はないよ」  けれど体にはどうしようもない跡が残った。  サーリャはカッとコルチェを睨んだ。コルチェは今まで目にしたことのない彼女の怒りの形相に、ただ戸惑うしかない。 「……って……」 「え? え?」  何を言ったのか分からない焦りと、怒りを受け止めきれない未熟さがコルチェをおろおろとさせた。  コルチェに罪はない。  自分をしずめる為、サーリャは自分に言い聞かせようとした。だが納得出来ない理不尽な感情の炎が心を埋めてしまい、冷静になりたくてもなれなかった。 「出てって! 2度と見たくない!」  一瞬。  全ての思考が、止まった。  当然彼女の声は大きくなく、息も絶え絶えだ。全てきちんと読み取れた訳ではない。だがその言葉の内容や憎悪の大きさは、すでに充分読み取れてしまった。  ピキ、と全身が総毛立ち、血の気が失せるのを感じた。視界の隅からじわじわと暗闇が迫り来る。貧血の兆候だ。だが目をつむり頭を振って、コルチェはこらえた。 「あんたのせいよ! 騎士になんてなれやしない。自分の分をわきまえもしないで。なれるものなら、なってみなさいよ! 騎士になるまで、私の前に出て来ないで!!」  そこまで言ってから、サーリャは叫んだ疲れでドッと脱力した。目を開けている元気もなくなったらしく、もう、コルチェを見ていない。  混乱と動揺で、心がぐるぐるした。  今のサーリャに、今のコルチェがかけられる言葉は、何もなかった。ただ黙って、退室するしか。  ゆるゆると立ち上がり、自分の足が当たって椅子が倒れた。その音で、我に返ったほどだった。  サーリャの言葉は、本当に騎士になれと言っているのではない。  自分への拒絶がふんだんに詰まった言葉だった。  しかし一筋の光を感じた気がしたのは、やはりコルチェが子供だった為かも知れない。  だがその一筋を信じて。  自分の道を、信じて。  彼は、農場を逃げた。   登る日 7.  盗んで来た衣服や馬具などを金に換えて、街の片隅でコルチェは何とか生き延びた。  剣はその時に手に入れたものだ。強度はさほど考えず、なるだけ軽い物を買い、自分で研いだ。速さを自分の武器にすることを、子供ながらに身に付けていた訳である。  名を変えたのは、そんなに深く考えてのことではなかった。単に領主の息子である、そして誰も守れなかったひ弱な名前を捨てたかっただけだった。  今、名を変えて強くなったかと問われれば、まだ分からないとしか彼は答えられない。自分が母やサーリャを守る為にどれだけの力が必要だったのか、学べば学ぶほど思い知らされるからである。自分がいかに無力であるかが、浮き彫りになるだけなのだ。 「試合に勝てば、騎士になれると信じていた。愚かでした」  ひとしきり話し終えたガルダンは自嘲気味に笑ったが、だが肩から重荷が取れたようなすがすがしさを感じていた。  試合で優勝すると言うことは、騎士として雇ってくれる諸侯が現れるかも知れないと言うだけの話で、子供では誰も使わないだろうし、よほどの下積みがなければ騎士になってみた所で、何の活躍も出来ず消えて行くはめになるのだ。  サーリャを迎えに行く、など、妄想とも言える遠い道だった。  それが遠い道であることに気付かせてくれたのは、ボーンだ。  そして遠い道である自覚をした時点から、ガルダンの一歩は始まっている。  サーリャの為にと言うよりはすでに、自分の為だった。自分がなりたいから、騎士を目指す。  その決意を見て取ったボーンが、ガルダンにかける言葉は何もない。ただ一層の助力をボーンもまた、決心するだけだった。信頼がさらに深くなった2人の間に、わざわざ言葉はない。           ◇  14歳の朝から以後、彼はガルダン・マハと名を変えた。  進出 1.  南の、バルドナットの隣に、エルアルバと言う国がある。  昔はバルドナット国と1つだったものが、分裂したとかしないとか。  戦争には至っていないが、多数の小競り合いが続いていると言う話だった。もしや、大戦争もあるかも知れない。そんな噂をちらりとガルダンに洩らしたのは、他ならぬボーンだった。 「あくまでも噂だし、そんな話は何年か前からずっと言われているがな」  そう言ってボーンは相変わらずの茶色い無精髭を撫でたのだったが、彼がいい加減な話を垂れ流しにする男でないことは、一緒に住むガルダンが一番了解している。つもりである。剣の練習を止めてまで切り出した話だ、何か意図があってわざと話を振ったのだろう。  屋敷の庭で剣を合わせていた2人は、汗が引き始めて若干風の冷たさを感じた。 「従士と言えども、気を付けろ。と言うことでしょうか?」  刃の先を軽く拭いて鞘に納めようとしたガルダンに、まだもう一勝負するぞと言い置いてから、ボーンは先の質問に、 「いいや」  と答えた。  ガルダンは、従士になったばかりだった。  名を変えて半年。突然入城は、いくら王宮騎士のボーンの力でも無理である。だがその為の道のりを整えることは出来た。従士として、王に近い公爵家に雇い入れさせたのだ。そこで働きが認められれば、入城もあり得よう。14歳として、ぎりぎりの出世道だった。  以前のガルダンならボーンの力を借りることに嫌悪しただろうが、まだ後ろめたさはあるものの、今は彼の厚意に甘えていた。目的を達成したい欲の方が強かったのだ。  だがそんな、彼の持つ若干の後ろめたさすらも、雇い主は敏感に察するのだろうか。他の使用人らとも仲良くなる気のないガルダンの態度を、公爵はあまり快く思っていないようだった。そう感じたのは、ガルダン自身である。なのに、かと言って手の平を返すかのように愛想良くなどもなれない不器用な自分の性格を、持て余す毎日だった。  刃をつぶした剣を肩に担いで、ボーンは溜め息をついた。彼は、ガルダンのそんな性格を良く分かっている。このガルダンの一途さ不器用さが悪い方向に転じないことを願わずにはいられない。  本来公爵家に住み込みで働くものなのだが、ガルダンにはボーンの屋敷から通うことが許されていた。なので、この手合わせはガルダンが従士になって以来、殆ど毎日行われている。それが公爵の反感を買っているのだろうか、ともボーンに思わせる所だったが、住み込みにさせてガルダンの牙が抜け落ちることは避けたかったのだ。  出来れば、もっと鋭い牙に仕上げたい。  ボーンは剣を構えた。ガルダンも、剣を握る手に力を込めた。ボーンの目は、練習と思えないほど厳しい。  勝負は一瞬でついてしまう。最初に剣を合わせた時、こらえられるかどうかだけなのだ。引き締まった厚い胸板は、上着に隠れてはいるが、とても45歳と思えない。その剣は練習用であるにもかかわらず、最初に戦った時の斧と同じような重みと迫力が宿っている。国一番とささやかれる腕前は、健在だった。  速さで重みを補おうとするガルダンの剣技は、磨かれた。だが勝負にかける意気込みの差が、勝敗を分けた。  思ったよりももっと、鋭く速かった。  ガキィンと重く硬い音が響き、何とか押し返したが後ろ足が滑り、ガルダンは体勢を崩したのだった。その瞬間をボーンが逃すはずがない。剣の柄近くを横殴りにされ、ガルダンの剣が宙を舞った。 「!」  声は出さなかったが、驚きと落胆の吐息が漏れた。もう夏も終わり体も冷えかけていたのに、この一瞬にかけた集中力が、ガルダンの額を汗で輝かせていた。ボーンは息一つ乱れず、涼しい顔をしているが。 「終わるか?」 「いえ」  短く言い、ガルダンは手首を振った。  力は及ばないが、気合負けしてはいけない。そんな風に自分を奮い立たせて自分の剣を拾いに行くガルダンに、ボーンは目を細めた。 「ガルダンは、“戦争”をどう思う?」 「え?」  振り向いたまま、ガルダンはきょとんとした。 「どう思う、とは?」 「先のエルアルバとの話だ。ひょっとしたら、開戦になる」 「はい」 「どう思う?」  ガルダンはボーンの真意が分からず、手を口に当てて考え込んだ。ボーンはボーンで、そのガルダンの様子に考え込んでしまった。戦争と言うものに対して感情を動かすのでなく、その話を出したボーンの意図を読み取ろうとしているだけなのだ。 「質問を変えよう。お前は、他流試合を“死ぬから”もう行かない、と言った。だが戦争も、行けば死ぬかも知れん」  ガルダンは合点の行った顔をしながら剣を拾い上げ、ボーンに振り返った。迷いは見られない。ガルダンはきっぱりと言った、 「それとこれとは、別の話ですね」  と。  そう言ってから、ガルダンは剣を振ってみた。多少力が入らなくなってしまったが、柄が手に馴染まないほどではない。 「騎士になることがすでに、戦うことでしょう。他流試合は、私闘です」 「ほう」  内心、正直ボーンは舌を巻いた。的確な答えだったからだ。戦争に対して“行く”“行かない”を問答するのは無駄である、と言う意思表示が見て取れた。軍人として、申し分のない考え方だと言えよう。戦争を嫌悪せず、拒否しない。  ガルダンは「意味のある戦いで死ぬのは良いのだ」という意味のことを口にした。  ガルダンのそれが、人を殺すということをどこまで悟っているのかが、ボーンは気になった。  簡単に言ってしまえば「人を殺すのはいけないことなのだ」と思っているのかどうかだけなのだが、今のやり取りだけ見るなら彼は、戦争は必要である、意味あることだと思っているように思えるのだ。  だがこればかりは、机に貼り付いて憶えられることではない。実戦から学んで行かなければ。  そんな甘いことをわざわざ教えてしまうのは、戦争で尻込みしろと言っているようなものかも知れない。だがそれを克服し、戦うことの意義と辛さを身に焼き付けなければ、真の騎士道に辿り着かないのだ。  ボーンは気を取り直し、すっと構えた。 「討伐隊と言うものが、結成される」  剣同志がうなり、悲鳴を上げた。  進出 2.  国境近くの峠で盗みを働く奴らがいるらしいのだ、とボーンは言った。その国境がエルアルバとの境であり、下手をすれば戦争だと言う話だった。  その付近を治める領主が援軍を求め、王都がそれに応じたらしい。王の側近がこれの援軍に当たるので、そこで大きな働きをすれば目に止まり、昇進が早くなるのではないかと言うのが、ボーンの見解だった。 「そこまで、どの位かかるのでしょう?」 「歩きなら1ヶ月だが……。多分、馬だろう。人数によるが、上手く行けば1週間で着く」  だがその後の討伐が2日やそこらですんなりと収まる訳がない。良くて1ヶ月、悪ければ半年仕事だな、とガルダンは考えた。  それが為に、一度顔を見ておこうと思った。  最近、体の調子が良くないと聞いていた為もあった。  ファリィのことである。  頻繁ではなかったが、それでもちょくちょく顔を見せていれば、少しは慣れてくれるのか、若干だが反応してくれるようになっていた。ボーンの妻だから、と言うご機嫌取りのつもりはない。彼女が哀れな病人だからと言う訳でもなかった。いや。それは少しあったかも知れない。自分の存在が、彼女の気を落ち着け安らかにさせているらしいと知った時からガルダンは、ここに来ることにあまり抵抗がなくなったからだ。  丁度良く晴れたので、当たり前のようにボーンと共に別荘を訪れた。  天気も精神状態と関係があるらしく、雨の日の彼女は荒れるのだ。本当はそういう時にこそ役に立ちたかったが、彼女に取ってボーンやガルダンはすぐ“よそ者”になるのだ。通常でも、少し気を抜くとすぐ忘れられてしまう。  ところが、今日は態度が違った。  扉を開けていつもの光景を見ると、何と最初から待っていたかのように戸口に顔を向け、あまつさえ微笑んでいる彼女がいたのである。  考えてみればファリィの笑顔と言うものを、ガルダンは初めて見たはずだったのだが、そのことに気付かないほどに彼女は自然に笑っていた。作り物でなく、心の底からに見える。彼女の周囲を取り巻く柔らかな空気は変わらず光を含んでおり、今日は、彼女の口元も綺麗だった。  思わずボーンは、 「正気に……?」  と言いながら、1歩踏み出した。  だが彼女はそれだけでもうビクリと怯えを露わにし、口を歪めて縮んでしまったので、ボーンは失意を隠せず、溜め息を洩らしてしまったのだった。何年も前にとっくに諦めていたはずだったのに、ほんの少し兆しが見えただけで浮かれてしまう自分が情けなかった。  ボーンのそんな様子にガルダンは、手だけを慎重に大きくゆっくりと広げてみた。自分たちが安全なことを示そうとしたのだ。足は絶対に動かさない。ボーンも足を引っ込め、静かに待った。信頼を取り戻す為に。  彼女の立ち直りは早かった。さほど驚いていた訳でもなかったらしい。彼女はすぐに思い出してくれたらしく、笑顔になった。  それでもゆっくりと2人は足を進め、彼女に視点を合わせて膝を突いた。窓際を指定席とするベッドの上の彼女は一層逆光になり、キラキラと輝いた。初めてガルダンは、 「女神だ」  と思った。今まで彼女のことをそのように思ったことはなかったのだが。  彼女が正気に戻り社交界に復帰したならば、どんなに光り輝くだろうか、と思った。ボーンのたくましい腕に支えられ、あどけなく妖精のように舞い踊る彼女を、今なら苦もなく想像出来た。いいや、踊らなくても良い。踊れなくても良い。ただ座っているだけで、こんなに神々しい。これが本来の彼女なのだ。ボーンが一生支えると誓った女性なのだ。 「今日は、ご飯を食べたかい?」  いつもと同じ調子で、ボーンが聞いた。まだ治った訳ではないのだ。ガルダンは内心、落胆した。  ファリィは「あぁ」と言う少しとぼけた返事をしながら、しかし、はっきりと治ったかのような錯覚をボーンに与えた。微笑みながら手を伸ばし、自分の側にしゃがんでくれている彼の頬に触れたのだ。これにはボーンもこらえきれず、目をむいてしまった。  それを見た彼女はさらに、口元の笑みをくっきりとさせた。怯えは全くない。ボーンの目に涙が溢れ、流れかけていた。だがそれすらもこらえ、彼女の手を取りたくなる衝動を抑え、ボーンは石に徹した。  彼らが安全な生き物であると察したのか、それとも本当にその時だけ一瞬元に戻ったのか。何ともう片方の手も、彼女はガルダンに伸ばした。ガルダンもなされるがままに、じっとした。彼女が触りやすいよう、わずかに顔を動かしただけだ。彼女の自愛の笑みを、不思議な気持ちで見守った。  手が頬に触れる。  彼女の手は思っていたより冷たく、だが思っていたより柔らかかった。部屋の雰囲気そのままの手だ、と思った。召し使いが行ったのだろう爪は綺麗に切られていて、ガルダンの頬に当たらなかった。  ガルダンが幼い頃の母親の面影を彼女と重ねて見てしまうのも、無理はなかろう。思わず母様と呟きそうになってしまったから、初めてガルダンは気付いたのだった。なぜ自分がファリィを苦手でなくなったのか。なぜ落ち着くような気分になれたのか。  ああ、そうか。  ファリィのこともまた、自分は守りたいと考えるようになっていたのだ。役に立ちたいと思うようになっていたのだ。大事な1人になっていたのだ。何も与えずとも。何も与えられずとも。  いいや、与え与えられる関係は、確かにあった。ガルダンは彼女から安らぎをもらい、ファリィはガルダンから、平穏を感じていたはずだった。ボーンとは違う存在として認められた時、それは確かな喜びだった。  やっと気付いた。彼女が自分を見てくれることを、こんなに欲していたなどと。情けないほどに、幼い子供に戻ったように、母の手を欲している自分がいたのだ。  なのに、こんなに冷静な自分は何なんだろうか。と、ガルダンは妙に冷えた自分の胸を暖めるかのように手を当てた。彼女の命の火と引き替えに悟った自分の気持ちが燃焼もせず、昇天もせず、宙に浮く。  命の火。  そんなものがあるとは、思わない。  だが冷たくなって行く人間からは、命の火が抜けたのだと言う言い方が、もっとも正しく思えるのだ。死んでもまだ人間は、微笑みの形を顔に残しておけるものらしい。笑顔が彼女に出来る精一杯の遺産だったのだ。彼女がそう自覚していたかどうかは、定かではないが。  火が、抜けた。  操り人形と言うものを彼らが知っていたなら、そのように形容しただろう。まるで糸が切れたかのように、本当に“プツン”と言う音が聞こえたかのように、ファリィの腕が落ちた。 「ファリィ?」  ボーンが慌てて、しかし優しく持ち上げた。そのボーンの胸の中に沈んで行くかのようにゆっくりと、笑みのまま彼女は倒れ込み――まるで人形のようだった彼女は、本当の人形になっていた。光る青い瞳は生気をなくし、ただのガラス玉と化した。血の流れが止まり、壊れた彼女はボーンの腕の中でどんどんと冷えた。白かった彼女の肌も、青白くなって行く。  初めて彼女と会った時と変わらない柔らかい日差しが、部屋を満たしている。だが日差しと同じような暖かい喜びがこの部屋に満ちることは、とうとうなくなったのだ。  そのことにようやく気付いたかのようにボーンが小さく、 「……え?」  と言った。  一瞬ガルダンは、ボーンまでもが狂ってしまわないことを願った。そう思うほど、ボーンが放心していたからである。  そしてそう思うほど冷徹な自分が少し嫌だと、その後思った。  進出 3.  せめて、最後に。  たった一言で良い、彼女が「ボーン」と口にしていれば――もしくは、ガルダンのことを自分の息子と間違えて名を呼ぶなどしていれば――ボーンは、いや、ファリィ自身も救われただろうか、とガルダンは思う。  最後まで夫の存在を分からず、息子のことを思い出さず、ひっそりとファリィは死んで行った。死を自覚することもなく死ねたのは、幸運なのだろうか。ガルダンにはそうは思えなかった。まだ彼の中でちゃんとした言葉にならないのだが、とても可哀想に感じたのだ。  死の間際に立ち会えるのは良いことだ、と世間では思われる傾向がある。だが、あの簡単な死に方を見てしまったのは、返って不幸だった気がした。実感がなさすぎる。  質素な行列だった。  町の人間でさえもっと盛大ではないのかと思えるような、ボーンとその召し使いたちしか参列していない粗末な葬儀だった。ファリィの両親はいなかった。彼女より早く他界したのか、故意に来なかったのか、それは聞かなかった。  この国にも宗教があり、教会がある。ガルダンは神を信じていなかったが、もし天国と言うものが本当にあるなら、ファリィを連れて行ってやって欲しいと、この時だけ現金に祈った。そう祈らずにいられないほどに、墓地に収まった彼女の印は寂しいものだったから。  彼女を埋める作業は淡々と終わり、人はすぐいなくなった。後にはポツンと墓が1つ増えただけの、やはりここにもいつもと変わらない光景があるだけだ。人1人死ぬ行為がやけにみじめな、ちっぽけなものだと思い知らされる。  なのに、心に空いた空虚は絶大で。  ガルダンは墓を見下ろしながら、胸に手を当てた。 「ファリィのことは考えるな。――寿命だったんだ」  葬儀の終わって誰もいなくなった墓の前で、ボーンが呟いた。彼はそこに彼女が生きて座っているかのようにゆっくりとしゃがみ、愛おしそうに花を供えた。彼女によく似合っただろう、淡く細かいピンクの花が沢山ついた、上品な花束だった。 『寿命だった』などと、あなたが一番思っていないくせに、とガルダンは思った。  まだまだ強固なはずのボーンが、この時は嫌に小さく見えた。彼がしゃがんだまま、立っているガルダンに背中を見せている為だろうか。いや。そんな理由でないことは、言葉でなく感覚で分かる。分かる気がした。  本当にこのまま何ヶ月もボーンの元を離れて良いのだろうか、という不安にかられた。  討伐隊召集の日が近づいているのだ、気持ちを切り換えなければならない。  だが切り換え方が分からない、と思った。“死”に対して受けたショックと親しい者が去った実感はどこか絵空事で、リアルな感情が出ない。切り換えようがないのだ。なのに、ファリィの笑顔は脳裏から離れず……。  ガルダンは、ボーンの心配をしているかのように心を偽って、自分の不安をごまかそうとした。  ボーンが立ち、振り返った。  夕暮れの少し暗い日差しが、斜め後ろから2人の影を長く伸ばしていた。それがガルダンの顔に陰影をつけ、表情を分かりにくくしている。ボーンは彼の顔を覗き込むようにしてから、視線をそらした。 「?」  俯いたままボーンが、ガルダンの肩にポンと手を置いた。ちょっと押すようにして、ガルダンを墓のすぐ前に立たせようとする。 「ファリィに、祈ってやってくれ」 「いえ、俺は……」  彼女の墓に向かう資格がない。そう思いながら瞬きをした途端、ガルダンはボーンがそう言った理由が分かった。  泣いていたからだ。  溜まった涙が粒になって、目尻から流れ落ちた。  彼女が死んだ瞬間にも葬儀の時にも、泣かなかったのに。ボーンの小さな背中を見ていたら、自然と泣けて来たのである。立ち上がったボーンはいつも通りだった。式の為にちゃんと手入れしたひげと立派な正装に身を包んで背を伸ばし、無理をしている風などみじんもない。みじんもないからこそ、先ほど彼がガルダンだけに見せた無防備な背中が、やけに切なかった。  泣いている顔を見られたくなくてガルダンは、ぶっきらぼうにボーンを避けて彼女の墓の前にしゃがんだ。だが今さらである。ボーンはそんなガルダンの様子に対して、 「ありがとう」  と言った。  だが何の為の、どんな意味で言ったのかが分からない。ガルダンは少し振り返ったが、続きの言葉はなかった。  ファリィの為に泣いてくれてありがとうと言う意味だったんだろうか、とガルダンは解釈した。だがそうだとすれば、半分は間違いである。ガルダンはボーンの心中を思って、泣いたのだ。  立ち上がったガルダンは、涙を拭いてからきびすを返した。 「もう良いのか?」 「はい」  声を出したら、また目が潤んでしまった。無理に止めようとする涙に限って、引いてくれない。泣くべき時には泣けないと言うのに。はいと答えてからもう少し付け加えて喋ろうかと思ったが、止めた。  すると先とは違うニュアンスで、ボーンが肩を叩くのだ。 「大丈夫だ」  と。  今度はこれを連呼し、ガルダンを励ましてくれるかのようだった。 「ちゃんと泣ける奴は大丈夫だ。どこに行っても、やって行ける」  討伐に出ることの不安を読んだのだろうか、ボーンはそう言った。 「ちゃんと泣いてらっしゃらないボーン様は、大丈夫じゃないのですか?」  鼻をすすって、軽口程度は叩けた。思いもよらないガルダンの軽口に意外な顔を一瞬浮かべてから、ボーンは笑った。 「わしは、昨夜泣いておいた」  大の男と少年が、泣くの泣かぬのと話しているのが、滑稽だった。ガルダンもつい笑みを洩らす。ボーンの手は硬く、暖かかった。まるで本当の親子のように、2人は笑いあった。  進出 4.  少数精鋭という言葉が、とても空々しかった。  逆に考えれば、ガルダン程度の子供が参加出来る部隊なのだ、その30人ほどの隊列が端(はた)から見ても“精鋭”でないことは、軍にうとい町の人間でも分かりそうな気がした。  本当に戦う気があるのだろうか、とさえ思える。  王の側近であり左大臣も努めているのだとか言う、この隊の隊長に収まっている男、口は達者だがどうも戦闘向きの体に見えず、機敏そうでないのが気になるのだ。挙げ句自分のような隊一番の若輩に偵察なぞを押し付けて、本隊がさっさと村に引っ込んでしまうのだから、猜疑心は募るばかりである。  だが、隊の半数ほどはちゃんとした騎士だったし、剣士や弓士も混ざってはいたが、全員がなにがしかの武器を使え馬にも乗れる人間ばかりである。まぁそれなりの隊とは言えよう。  馬を休められるぎりぎりの休憩だけを取って進んで来た長旅に、ガルダンの疲労は溜まっていた。上手くなって来たとは言え1日中馬に乗り通しでは、まだ小さいガルダンの体が保たないのだ。なのに彼が選ばれ、隊と別行動になって街道をうろつかされるはめになった。ガルダンが一番若くて偵察に見えないだろうと言う理由らしい。  何かあった時には矢を放てと、弓士が同行している。自分と何歳も違わない若い弓士で心もとなかったのだが、それは自分の方が若いので、文句は言えない。しかしこの男何が楽しいのか、ニコニコとしながら馬を操っている。体が大きくて馬を御しやすい為か弓を背に負っているだけなので身軽なのか、余裕があるらしい。こんな考え方は精神的に良くないだろうなと思いつつもガルダンは、きっと遊び半分で隊に参加したのだろうな、と内心毒づいてしまった。 「大丈夫か?」  だがすぐに返答出来ず、疲れの為に能面が保てなくて目を座らせた。 「何だよ、お前若い奴だから心配してやってるのに」 “やっている”という言い方がさらにガルダンの気に触り、顔をそむけてしまった。つくづく人付き合いが下手だと思いつつも、笑顔になれない。男は肩を竦めて、唇を尖らせた。  トマジと名乗るこの男との行動になってすでに、3日がたとうとしていた。ここ数日は良くない天気が続いていて、視界も悪い。山の麓の天候がこのように荒れるものと思っていなかったガルダンの体力を、さらに奪って行った。今日はまだ晴れているが、かろうじてと言う程度の空だ。今のガルダンの心境にも似て、どんよりと重かった。  偵察と言っても、連中のアジトの目星をつける為の情報収集にとどまっており、確たる証拠は掴めていなかった。それが疲労に拍車をかけているのだ。加えてトマジと2人であると言う点も、疲れの原因かも知れないとガルダンは思うのだった。最初は1人で行動するよりマシだと思っていたのだが、そのうち1人の方がマシかも知れないと思えて来た。  トマジは表情をくるくるとよく動かし、身振り手振りまで入れながら話しかけてくれる。ガルダンの態度をあまり気にすることもなく。  そして話す内容と言えば、隣りに住んでいるおばさんは自分の5倍あるだとか、雨が降るのはその地方の人間が8人以上悪いことをした時だなどと言う、耳を貸す価値もなさそうな話ばかりなのだ。自分の身の上話でもしてくれるならまだ聞けるが、ガルダンが興味を持てる話題は飛び出さない。かと言って彼もガルダンのことを根ほり葉ほりと聞く訳ではなかったので、その点は楽だったが。  トマジの言葉を半ば聞き流しながら、ガルダンはぐるりと街道を見回した。  街道と言っても、山道だ。整備されておらずデコボコと、王都の平坦な道に比べ、別世界のような荒野である。緑が少ないのは王都もここも同じだが、ここの方が更に木々が少なく、大きな岩などもあって道の先が分かりにくい。坂になっているので気を抜けず、疲れは溜まる一方で、2人はつい注意散漫になっていた。 「おい、人の話を聞いてんのかよ、お前」  もう何度目になるだろうかという台詞を、雑談の合間にトマジは入れる。  ガルダンも、もう何度目になるだろうかと言う、 「聞いてるよ」  という返事を、溜め息混じりに返した時だった。  ヒュンと何かが、2人の丁度間に落ちて来たのである。 「え?」  トマジの口がぱっくり開いたまま、凍った。  運良く馬にも引っかからなかったが、土に矢が突き立ったのだ。当然トマジの物ではないし、隊の誰も持っていないタイプの矢だった。岩陰からこちらに飛ばされて来たらしい。前方の大きな岩は少し丘になっていて、誰かが隠れていても分からない風な作りになっていた。そこから出た物と見て間違いはなさそうである。威嚇ではなく、明らかに自分たちを狙って撃って来た物だった。  なのに、そう考えつつ後退したガルダンの視界の端には、馬から降りて矢を確かめているトマジの姿が映ったのだ。ガルダンは愕然とした。 「トマジ、引け!!」 「うわっ?!」  ガルダンの叫びに吸い寄せられたかのように、次の矢が飛んで来た。先ほどの物と同じ。殺す気である。だが幸い、この矢も外れた。  ガルダンは馬を退かせながら、腰に手を触れた。が、あるはずの物がなくて、手が空振りした。偵察という理由で商人の格好をさせられ、武器も外されてしまっていたのだ。あるのは、馬に下げた荷物の中に短剣1本きり。動きながら、取り出せる訳がない。  岩陰から人が飛び出したのが見えた。5人だ。だが馬に乗っていないので、逃げ切れれば大丈夫である。 「トマジ、乗れ!」  だがトマジはガルダンを見ず、連中に釘付けになっていた。 「盗賊だ!」 「奴らが?!」  トマジの叫びに、思わずガルダンも止まった。  その瞬間! 「うっ!」  飛んで来た矢がガルダンの腹に突き刺さった。 「ガルダン! あっ!」  ガルダンの上げた叫びに気を取られたトマジまで、矢の犠牲になってしまったらしい。  だがガルダンはそのまま気を失いかけて馬から転げ落ちてしまい、頭を打って完全に気絶してしまって、“らしい”とまでしか分からなかったのだった。  進出 5.   山の夕暮れは寒い。  日頃住み慣れた王都の風に比べ、芯の凍るような冷たい風が、ガルダンの頬を突き刺して行った。  前日の夜から歩き続け、まだ村にたどり着いていないのに、また夜が来てしまったのだ。もう、歩く自分の足が自分の物なのかどうかも分からないほどだと言うのに。  前日の夜。ガルダンは、自分がもう死んだものと思っていた。  気付いたのは、今のような赤い空でなく、もっと日が落ちてからだった。最初は目を開けることさえままならず、すっかり体も冷たくなっており、指先に草の触る感覚さえなかったのだ。手をわずかに動かして、そこに土があることを確認してやっと、自分が生きてそこに倒れているのだと分かったほどだった。  気合いでまぶたを押し開くと、暗闇が押し寄せて来た。だが完全な闇ではない。厚い雲が逆に空を明るくしてくれて、見通しが良かった。  ずるずると自分の肩の横に手を突き、うつ伏せになった上体を持ち上げると、ぐっと腕に力を込めた反動で腹が痛んだ。腹を覗き込み、夢でないのだと主張するかのように、折れた矢がガルダンの腹から生えている。ぶらぶらと、折れた先が揺れていた。  ちっと悪態をつき、ガルダンはさほど何も考えずに矢を引き抜いた。だが幸いなことに、矢は体に残らず全部抜けたばかりか、血もほんの少ししか付いて来なかった。斜めから刺さっていて、体の完全な下敷きにならなかったことが救いだったのだろう。血は吹き出すほどもなく、応急処置程度で良さそうだ。服の下に着けておいた皮の鎧が、それなりに役立ったらしい。  そう思ってからガルダンは、自分の衣服がはぎ取られていないことに気付いた。  とどめも刺されていないのだ。  トマジは無事だったのか? 「トマジ?」  ガルダンは自分の声がちゃんと出るかどうかと、周りに誰かいるのかどうかの確認も兼ねて、トマジの名を呼んだ。返答はない。誰かが近くにいる気配もなく、荒野のような山道に1人ポツリと取り残されてしまったらしい。  だがすぐにあることに気付いて、慌てて立ち上がって見回した。気配がないからと言って近くにいない訳ではなく、死んだかも知れないのだ。自分が悠長に気絶している間に、トマジが殺されたのだとしたら。  今近くにいないからと言って、だから生きている保証もない。誰の何の影も見えないことは、安堵につながらない。 「いや」  呟いて、ガルダンは唇をかんだ。自分が生きているのだ、彼とて死んだとは言えない。  気に入らない相手だからと言って、半ば無視するような態度しか取っていなかった自分が、今さら悔やまれた。だが、もっと親しくしていたなら現状は変えられたのかと言えば、それは分からない。  ガルダンは首を振り、服を裂いて包帯を作り腹に巻くと、自分の肩を抱くようにして歩き出した。どの道ここで夜を明かすのは得策でないし、また盗賊らが戻って来ないとも限らない。  ――そうして歩き続けたガルダンは、幸か不幸か誰に出会うこともなく、今に至るのであった。  本隊のいる村を拠点に周囲を偵察して廻っていたので、歩きでもそんなに遠くないはずだという見通しが非常に甘かったことは、翌昼になっても何も見えて来ないことから、思い知らされていた。幸い視界は良く、街道をそれた記憶はないので村に向かっていることは間違いないと思うのだが、歩いても歩いても一向に見えて来ないのだ。自分の体調が万全でないことも関係しているかも知れない。自分が歩いているのか止まっているのかさえ、分からなくなって来たのだから。  夕陽が山すそに沈んで行くのを見ながらガルダンは、いっそ盗賊に殺されておいた方が楽だったのではなかろうか、とふと考えた。今このように大変な思いをして隊と合流しても、失態を咎められるのが関の山だと思えたのだ。馬をなくしトマジとも別れ、盗賊の足取りも掴めなかった。  きっと自分のことを飄々とした小僧だと、隊の誰もが噂したに違いない。自分でも嫌になるほど、心の開き方が分からないのだ。そんな自分がおめおめと隊に戻って、何を言われるか。そう思うと、足取りは余計に重くなった。  戻っても騎士への道が開けるどころか、笑い者になって終わるだけかも知れないのだ。ボーンにも顔向け出来ない。……ファリィにも。サーリャにだって、もう会いになど行けない。  元々騎士になりたいという気持ちは、サーリャに会いたいが為だ。騎士になれるほどの人間になってから自分に会いに来い、と言う意味だったのだと、ガルダンは今は解釈している。だからこの、人間として向上した姿だと言えない状態は、資格を失ったも同然であり、ガルダンにとっては道が閉ざされたと思える絶壁だった。  なのに、光を見た時。 「村だ」  思わず呟き、安堵の溜め息が洩れた。  はっとして、口を押さえた。自分の溜め息に驚いてしまったのだ。皆に何と言われるだろうか、隊長にどんな顔をされるだろうかと思っているくせに、もうサーリャに会えないと思ったくせに、灯を見て最初にホッとした自分がいる。誰もいないからこそ露呈した自分の本心が、唇を噛み切りそうな位に悔しかった。  口元を拭った。手の甲に血が付いたようだったが、もうすっかり空が暗くなり、あまり見えなかった。  逆に言うと、暗くなったから家に灯がともって、そこに村があると分かったのだ。案外近くに灯は見えていた。  だが皆にすぐ会えない引け目があり、正面から堂々と入ることが出来ず、ガルダンは窓からそっと中を伺った。我ながらみっともないとは思いつつも、状況を把握する為だと自分に言い訳をして、隊が泊まっているはずの宿舎を覗き込んだのだった。  初めは部屋の中に誰もいないように見えて、窓の開いている隙間にぐっと顔を突っ込んでしまった。  人影が見えて、慌てて退いた。窓から離れて、壁に背を貼り付けた。冷や汗が頬を流れた。  見られていないと思うのだがそれよりも、ちらりと視界に入った姿があり得ない人物であったかのように見えてガルダンは、壁に貼り付いたまま凍ってしまった。  声が出せる状況なら、まさかと位は呟いていたに違いない。 「大丈夫でしょうか?」  トマジの声がした。  進出 6.  聞き間違える訳がない。ずっと2人でいたのだ。  よく舌の回る口から出てきた様々な声の色は、全て憶えている。部屋の中から聞こえてきたのは、あまり聞いたことのない弱々しい声だったが、トマジに間違いなかった。  生きていたのだと喜ぶより先に、何故ここに彼がいるのだという疑問の方が生まれた。気絶する前に見えた状況からすると、逃げ切る為にはガルダンを見捨てるばかりか彼の馬をも取り上げて、すぐさま走らなくてはならなかっただろうからだ。トマジの馬は、主を残して走り去って行ったのだから。  5人もの盗賊を小さな弓だけで倒せたとも思えない。そう思うガルダンの表情は、自然と険しくなった。 「まさか死んではいないと思うのですが」  さまようようなトマジの声は、恐れていると感じられる。ガルダンは思考を切って、耳をそば立てた。  もっと窓に近付きたかったのだが、どの角度から自分の頭が見えてしまわないとも限らない。気配も完全に消せている自信がないので、油断出来ない。 「くそっ」  と舌打ちした声は、トマジのものではない。彼が話しかけた相手のものだ。一言だけでは誰か分からなかったか、 「奴が“マハ”でさえなければ、殺しておけたのに」  次に紡がれたねっとりとした嫌味な言い方が、隊長である左大臣のものと知れた。その声を聞いただけで、脂ぎった顔が思い出せる。部屋の中にいるのは、この2人らしかった。  誰のことを言っているのかは、嫌でも分かる。自分がボーンの息子でなかったら、殺されていたのだ。何となく軽んじられているかの扱いのくせに、なのに偵察を命じられて別行動をさせられたりしていた疑問が、少し納得出来た気がした。 「あ、あの……」  控えめなトマジの声。どうやら絶句してくれていたらしい。左大臣の言い方があまりに素っ気なく、犬か猫のことでも言っているかの口調であったから。 「彼を置いて来たのは、間違いでしたでしょうか」 「いや、盗賊に捕まって生きたまま釈放されると言う筋では、無理がある。奴が気絶している間にその場を去ったのは、一応賢明だと言えるだろう」  ガルダンは自分の考えを振り払う為と、なるだけ気配を消すよう努めんと、ぎゅっと目をつむってゆっくり呼吸した。平静になれと自分に言い聞かせた。心を乱して、彼らの話を聞き漏らしている場合ではない。  だがそう考えていることがすでに、他事である。  ふと気付いたら、左大臣が何か言っていた。様子からすると、愚痴のようだ。 「大体、会わないようにあいつを連れ回すのがお前の役目だったのに、ばったり会ってしまうとは何事だ!」 「それは奴らに言って下さいよ。俺のこと分からねぇで、仕掛けて来やがって」 「奴らは人を見れば襲うのは、当然だ! お前が気を付けろ!」 「そんな無茶な」  左大臣の声が大きくなるにつれ、トマジは押されてさらに弱く消え入りそうな声になって行った。  大袈裟な溜め息を演出してから、左大臣は言った。 「まぁ良い。捜索に出した者も、明日か明後日にはガルダンを連れて戻るだろう。我々は盗賊を退治して、お前を救い出したことにする。口裏を合わせろ」 「それも無理がありませんか?」 「ではお前は屍にするか。信憑性が出る」  何の感情もなく、虫でもつぶすかのような言い方に、続いてトマジの言葉はなかった。驚いているのか睨んでいるのか、顔は見えないが、 「何だその目は。本当に死ぬか?」  と左大臣が言ったので、多分反抗的な目でもしていたのだろう。  トマジがはっと言ったように聞こえた。うなだれたのだろうか。その後物音がして、扉を開け閉めするらしい響きがあった。それからは会話がなくなったので、多分左大臣が退室したのだろうと思われた。これ以上の会話は、望めない。  だがこれ以上を、望むべくもない。  むしろ、これ以上何か聞いていたとしても、もう何も考えられなかっただろう。  ガルダンは自分の心臓の音が室内に残るトマジに聞かれるのではないかと思って、右手でぐっと胸を握りしめた。左手は壁にくっついて硬直したまま、体を支えているので精一杯だ。胸に当てた手がじっとりと汗ばんでいることにも、気付かなかった。  とにかくまず、離れなければならない。  宿から離れるだけではいけない。すでに自分を捜しに出ている者がいるのだ。ここに来るまでの間に、そんな男たちには出会わなかった。どこかですれ違ったと言うことか。  ガルダンは緊張しながらゆっくりと足を上げ、一歩前に踏み出した。音は出ない。周囲に人影もないし、中にいるトマジも気付いてないらしい。  と、思ったその時!  ガタリと室内で大きく音がした。瞬時に見付かった! と思ったガルダンは首をすくめ、体中から冷や汗を吹き出させた。  ガルダンは一歩踏み出した状態のまま、背後の壁の向こうにある気配が段々と自分に近付いて来るのを感じようとしたが、そんな気配は一向に伝わって来なかった。それどころか、コツコツと歩いているらしい音が、左大臣の消えた方向に消えて行くのだ。どうやら、見付かった訳ではなかったらしい。  トマジの呟きが、聞こえた。 「ボーン様なんか嫌なことは下っ端に押し付けて、自分は甘い汁吸えるんだからよ。気楽なもんだぜ」  低く、語尾が殆ど聞き取れない小さな声で、しかもそれと重なって扉を開ける音がしたので、正確に全部を聞けたとは言えない。だがトマジは、はっきりと“ボーン様”と言った。  ガルダンは目をむいた。隊長たちが盗賊と何らかの取り引きをしているらしいと分かった以上の、ひどい驚愕を感じた。  思わずガルダンは、振り返った。窓を凝視する。そこに人影はない。  すぐにバタンと言う音が聞こえて、室内は全くの静寂になった。もう誰もいないのだろう。  ガルダンは眉を吊り上げ歯がみをし、窓から中に侵入したい衝動を必死になって押さえつけた。扉全てを開いてトマジを探し、胸ぐらを掴みたい気持ちである。それを殺して冷静になれと、感情で動くな理性的になれと、自分に何度も言い聞かせた。  今は、去れ。  何が最善の道かは、分かっていなかった。だがとにかくこの場を離れ、それからでないと、まともに頭が働いてくれない気がしたのだ。  ガルダンは土を蹴り、急に思い付いたかのように走り出した。走り続ければ、あの部屋を後にすれば、あのような話が全てなかったことになるかの錯覚を憶えた。  だが、真実なのだ。  到底思い付きもしなかった、自分がいかに愚かな人間だったかを思い知るような、深く胸をえぐる真実なのだ。視界がぼやけて来たのを感じてガルダンは、絶対に泣くもんかと歯を食いしばった。 「何だってんだ、畜生!」  走りながら、悪態をついた。  村は、遠くなっていた。夜の闇を疾走する彼の叫びに耳を傾けた者は、誰もいない。  サーリャの時ともファリィの時とも違うのだ。こんな風になど、泣きたくなかった。泣いても道が開ける訳ではない。答えが出る訳ではない。冷ややかに自分で自分の心に問いかけなければ、誰も助けてなどくれないのだ。  だが1つだけ、答えの分かったことがあった。 “敵”がはっきりとしたことだ。  進出 7.  まだ、ボーンは“敵”ではない。  と思う自分の気持ちは、冷静な判断に見えて、事実、感情のものだろうと思われる。3年もの間、無条件に自分を助け守ってくれる存在であったから。トマジなぞが洩らしたただの一言に、自分の3年間をくつがえされるのが、腹立たしいのだ。  だが、ただの一言だからこそ。  あまりにふいに言われたからこそ、この重みは尋常ではない。また、それまでの暮らしに何の疑いもなく、ただ1人の味方だと思っていたからこそ、その痛みは大きい。  そう思ってから、ガルダンは苦い笑みをかみ殺した。出会った最初は、警戒していたではないか。  結局ガルダンは、夜の間にすれ違っていたらしいと印象付ける為に倒れていた山に少し戻ると、街道をそれた。そして道に迷っていたふりをして街道に戻り、捜索隊と合流したのだった。丸1日、かかった。  わざとらしくはなかったはずだと思いながらも、初めてついた本格的な“嘘”に、ガルダンの胸は高鳴った。 「よく戻ったな」  左大臣ルガイヤは厚みのある暖かい笑みで、ガルダンを迎えた。奇しくもそこは、彼とトマジが会話をしていたあの部屋だった。彼の顔を見た途端、不安が怒りに打ち消され、今度は別の意味で高鳴る胸を抑えなければならなくなった。  自分の演技を完璧にする為だろうか、ルガイヤはガルダンの嘘には気付いていなかった。だが、だからと言って彼の嘘が空々しかったかと言えば、そうではない。 「良かった」  言葉少なに言う調子は、知らない者が見れば演技と思えないだろう。トマジに「口裏を合わせろ」と言った架空の設定を口にはせず、聞かれればごく少なく答えると言った程度で、全てをさらけ出さない。言い訳がましくないし、言葉を重ねて行けば露出しかねない矛盾が見えてしまわないように、上手く隠している。  これが、嘘のつき方なのだな。  と、ガルダンは薄ら寒いものを感じた。  それと同時に。  自分には「嘘をつくな」と教えたボーンが、もしかするといかにも本当の気持ちであるかのように、自分に接しているのかも知れない可能性に気付くのだ。  その場限りの簡単な嘘は、ボロが出る。なら、その場に限らない複雑な嘘をつけたなら? ボーンがそこまでの偽りを駆使出来るのなら、それを見破る術はない。 「ボーン様」  約2ヶ月ぶりに会ったボーンは、何も変わらず立っていた。故人ファリィを想う影は、どこにもない。  だが、彼の帰還をわざわざ玄関を出てまで迎えてくれた姿勢には、いつもより優しさを感じさせる。彼に引き取られて以来、長く離れていたことがなかった為かも知れない。ボーンの微笑みは、ルガイヤのそれがただの作り笑いだったのだと分かるほど……とても薄っぺらだったのだと思えるほど、厚い。 「よく戻ったな」  計らずも出た、ルガイヤと全く同じ言葉。感情の入れ方が、まるで違って聞こえる。だから、それが真実なのだと思いたい。思いたかった。 「どうした?」  なのに、なぜ。  ガルダンは表情を堅くし、上官に行う形の敬礼を行った。 「偵察の途中、偶然盗賊と出くわし……何の働きも出来ないまま、おめおめと帰って来ました」  自分の顔が暗い訳を、盗賊のせいにした。 「盗賊は、その後……?」 「俺が気絶して隊とはぐれている間に、ルガイヤ様が討伐なさってしまわれた、と」 「……」  ボーンがふむ、と言った気がしたが、その険しい横顔に、それ以上話しかけは出来ない。ボーンは何を考えているのか何を企んでいるのか、分かりたい反面、怖かった。  自分は、ボーンを利用して来た。  悲しくて悔しくて。自分の境遇、奴隷と言う制度、人が勝手に付けた、優劣。  勝てなくて、自分の力ではどうしようもなくて、ボーンの力を借りた。それを彼は百も承知だろう。だが彼の方は、ガルダンを利用していないのか? 自分は、ただ息子の代わりに愛でるだけの存在なのか?  ――何の為に。  そう思うガルダンは、自分の中にあるボーンへの問いが微妙に変わっていることに、気付いていない。  左大臣ルガイヤに抱いた、はっきりした“憎しみ”とは、全く別の感情だ。だが、ガルダンは違うものであると認識していない。自分で自分の心を、持て余していた。 「そうか」  重い沈黙の後、ボーンがポツリと呟いた。そこから、ガルダンが望む彼の感情を見いだすことは出来ない。それ以上の言葉もない。  ただ真っ直ぐと自分を見つめるボーンの視線が痛くて息苦しくて、ガルダンは俯いた。 「活躍出来なかったから、騎士にはなれないと思って、落ち込んでいるのか?」  ボーンの口調が柔らかくなった。そうか彼には、自分の態度がそう見えるのかと思った。  頷いたら嘘になるし、かと言って全てを話す勇気もまだなく、ガルダンはやはり俯いたまま、唇をかんだ。 「それとも、もう騎士になるのは、どうでも良くなったか?」  これには慌てて、首を振った。  そんな訳はない、むしろ騎士にならなければ前進はないと思ったのだ。騎士を目指す気持ちに変わりはない。……純粋な気持ちでなくなっただけで。 「ならば、目指し続けろ。人に惑わされるな。よそ見をしている暇はない」  そう言うとボーンはきびすを返し、家に入って行く。  ガルダンは、また目前に広がる背中が広く大きくなっていることに気付いた。まだまだ追い越すどころか、追いつけもしないと痛感させられる。  ボーンの言葉。もしかしたらボーンは、ルガイヤの所業を知っている。とすれば、ボーンもトマジが言ったように、ルガイヤと同類であると言うことだろうか。  そういうことか、とガルダンはボーンの背を睨んだ。  何を知っているのか、何を考えているのか、今は聞いても仕方がないのだ。聞いた所でどうしようもないから、ボーンもそれ以上言わないのだ。  ルガイヤと戦う為に。  ボーンを知る為に。  ガルダンはボーンの後を追って、一歩踏み出した。  頂点 1. 「開門」  よく響く門番のかけ声に反応して、大きな扉がいかにも重そうな音を立て、左右に開いた。装飾の随を施されたこの城が建てられたのは、3代前の女王即位の時だった。レンガ造りの四角い建物が主流の街で、丸さを強調した建物は珍しい。女性的な優しさに満ちている城だった。  この中で醜い権力争いが行われているとは、思えないほどである。 「ボーン様は、西の庭においでかと」 「ありがとう」  衛兵に軽く手を揚げてから、城を迂回してガルダンは、庭と言うにはあまりにも広いそこを見渡しながらボーンの姿を探した。 「おい、邪魔だろ?」  唐突に、すぐ近くで声がした。  え、と思い周りを見渡す。すると、自分の真後ろに青年が立っていた。 「俺のことか?」 「他に誰が?」  腰に手を当てて青年は、ふんと小さく言った。青年と言っても、ガルダンとそう大差ない年齢のようである。ただ、ここ3年でぐんと背が伸びたので、ガルダンの方が頭1つ分は高いが。  青年は体格もきゃしゃで肌が白く、少し長めの銀髪が肩の辺りで軽く波打っており、首も細い。意志の強そうな太い眉と青い目だったが、それでも軽装で体の線が露わになっていなければ、女性と言っても通じそうな顔立ちだった。  軽装だが、その服の質は一般市民のものとは明らかに違う。上流階級だ。貴族の息子か何かだな、とガルダンは思ったが、道を譲る為に3歩ずれただけで、彼は頭を下げなかった。  銀髪の男は、眉をひそめた。 「おい」  と、彼はガルダンに近付いた。 「なぜ、頭を下げないんだ?」 「なぜ、下げなきゃいけないんだ?」  第一これだけ広い庭で、どけも何もあったものではない。ガルダンにしてみれば、譲ることが既に最大限相手を立てての行為だったのだ、これ以上何を譲歩しろと言うのだという気持ちでいる。だが男には、ここはガルダンが頭を下げて当然の場所だったのだ。  怒りを持って睨もうとしたが、自分の方が低い。男は顎を上げて、なるだけ見下すような視線を作った。 「お前、名は?」 「ガルダン・マハ」 「階級は?」 「まだ従士だが……」 「抜け」  どうしてそうなるのだ。  剣を構えて来る男に、ガルダンは呆れた。何か深い思慮があっての行為でなければ、ただの我が儘だ。 “マハ”の名を聞いても顔色1つ変わらないと言うことは、ボーン・マハを知らない、城外の人間なのだろうかと思った。別にボーンの威光を笠に着る気はなかったが、近衛騎士団長を務める王直属騎士の名を知らないことが意外だっただけだ。 「それは飾りか?」  剣先で、ガルダンの腰を指し示す。ガルダンは渋々、抜いた。 「自分は名乗らないのか?」 「ふん」  鼻で笑ったのか、気合いを入れた為出た言葉だったのか。男はすかさず斬りかかって来た。余裕で受け流したとは言い切れない男の鋭い剣さばきに、ガルダンは身を引き締めた。殺気はなかったが、気を抜くと怪我をする。  ガルダンは自分からは絶対に剣を振らなかった。全て避け、受け流すだけである。相手の自滅を計った為もあるし、嫌な予感を覚えたせいでもあった。  具体的に何がどう「嫌な感じ」だと思ったのかは、分からない。男に関してはむしろ、どことなく好感を覚えさせられる雰囲気もあるのだ。  剣の当たる音を聞いて、西の庭で兵の訓練をしていたボーンが、 「ガルダンか?」  と、小走りに寄ってきた。  すると急に、その姿を見て銀髪の男は反転し、走り去ってしまったのだった。訝しげに思うガルダンにボーンが辿り着いた時には、もう男の後ろ姿は木に隠れて見えなくなっていた。ボーンは男の消えた方向を見た。 「どうした?」 「若い男が斬りかかって来ました」 「名乗らなかったのか?」 「はい」  若干ためらったが、 「殺気はなかったので、刺客ではないと思うのですが」  と付け加えてすぐ、ガルダンは自分の台詞の愚かさに、内心ほぞをかんだ。白昼堂々とケンカを売る刺客もない。だが一応城の中だ、名乗らなければ不審者と見なされる。 「まぁ良い。では行こうか」  ガルダンは剣を納め、ボーンの後ろに付いて歩いた。  ボーンは、先ほど遠目に見た男の背格好に心当たりを感じたが、敢えて黙った。ガルダンが驚きに顔を崩したところが見られるかも知れない、と意地悪なことを思った為だった。  ガルダンは、これからボーンと共に謁見し、そこで騎士の称号を受けることになっている。その為に入城したのだ。  夢にまで見た、と言うと、言い過ぎだろうか。  いや、実際ガルダンは、夢に見たこともあったのだ。叶わない夢だと思ったことは、一度もなかった。そう、あの事件以来。ただ前だけを見る。そう決めたのだ。  夢の中の城はガルダンの想像でしかなかったので、なぜか昔の自分の家を思い出していた。見たこともない王の顔は、なぜか領主、本当の父親の顔をしていた。そこに笑顔はなかった。淡々と、ガルダンが騎士になる手続きをする父。それは小さな書状1つだった。目覚めた時、やけに寂しかったのを覚えている。本当に騎士になる時も、あのような書状1つなのだろうか、と思い。  だが実際の城はとてつもなく大きく、ガルダンを圧倒した。  王の間はひときわ絢爛豪華で、マハ家にさえ幾つも見ないガラスがふんだんに使われたシャンデリアや、金細工の施された柱などがまばゆく輝いていた。無論、昔「コルチェ」が住んでいた屋敷など、比べるも馬鹿馬鹿しい兎小屋でしかない。  今後ここが自分の人生に関わって来るのかと思うと緊張で体が震えかけたが、姿を現した王らしき人物はただの初老の男で、ガルダンの緊張は少しほぐれたのだった。  ただの。室内の装飾に引けを取らない豪華な身なりをした、ただの老人だ。  壇上に置かれた、これもまた見たことがないほど立派な椅子に彼がよいしょと腰かけると、ガルダンはお辞儀をしようとして――ぎくりと、止まった。  ボーンの意地悪い思惑が的中し、ガルダンの嫌な予感もあたり、顔が驚きに崩れた。  王の斜め後ろに、銀髪の男が立ったのである。  頂点 2.  土色の四角い建物が林立する埃っぽい町。春の風が少し強く、砂を巻き上げて吹き抜けて行った。  そんな中、通りを馬に乗ってゆったりと歩く若い騎士を、誰が昔奴隷だったと言って信じようか。領主の息子でもない。立派な姿だった。  この日をどれほど待ちわびたかと思いつつ歩を進めるガルダンは、本来なら馬を疾走させて向かいたい心境だった。  出鼻をくじかれた気はしたが、王子の親衛隊に加えられたとて騎士には違いないのだ。 「王にお願いがあります」  誓いの儀式が終わると同時に男が斜め前に座し、王に頭を下げた時、ガルダンは再度嫌な予感を覚えたものだった。  男は王の次男、ファバムだと名乗った。王子にしては随分奔放な性格だ、と王に同情しかけたガルダンだったが、すぐに他人事ではなくなった。 「ガルダン・マハを私に下さい」 「え?」  思わず声を上げてしまったのは、ガルダン本人である。衛兵の1人が無礼なと言った気がしたが、ガルダンの耳には届いていなかった。  ガルダンのことを気に入ったから引き取りたい、という訳でもなさそうだ。ファバムの眼光は優しくない。王に了承を得たファバムが、 「時に、お前は幾つだ?」  と聞くのも、口は笑っているが、目が挑戦的なのだ。 「17歳でございます」 「なんだ、年下か」  明らかに落胆した、王子の声。先ほどの立ち会いで、年下にやられたのかと恥辱を感じたらしい。  思わずガルダンが先行きを不安に感じたのも、無理はない。今まで騎士になることを目標にして来たが、違う、ここからがスタートなのだ。幸か不幸か、ルガイヤも左大臣のままだ。彼の顔も拝みたかったが、ごく内輪の小さな儀式だった為、ルガイヤの姿はなかった。  しかし自分に課した指名は、まず果たした。  堂々とサーリャに会いに行けるのだ。ボーンとのしがらみなどは、彼女には関係ない。自分の平穏の為にも、彼女の顔を見たかった。そう、自分の父親と継母に会ってしまうだろうことも、いとわないほどに。ガルダンは馬上でつい、背筋をピンと伸ばしたのだった。  館までの道中に、農場が広がる。まだ青い麦に隠れるようにして働く人がちらほらと見えるその中に、サーリャの姿は見えない。さすがに6年もたつと、分からないものなんだろうか。だが自分は見つける自信があっただけに、残念に思った。  館に門番はない。ガルダンは馬を止め、目を細めて館を見た。生まれてから8年間を暮らした自分の家。馬小屋に追い出されてからも時々眺めた。憎しみを込めて。今は、何の感慨もなかった。ただ、あんなに大きいと思っていたこの家が、ボーンの屋敷や別荘より、はるかに小さかったんだなと思っただけだった。  扉を叩いて出てきた召使いには、自分はガルダン・マハだと名乗った。  別にコルチェでも良かったのだが、今の自分の名はもうガルダンなんだと思っていたし、もし父らが自分のことを分からなかったらそのままで良い、と思った為だった。  案の定、と言うべきか。 「いや、これはこれは」  もみ手でもせんばかりの領主が愛想笑いを浮かべて近づいて来た時、ガルダンは寂しさを感じた。そしてやっぱりこの人はもう、俺の父親じゃないんだ、と自分に言い聞かせた。  ガルダンの足元にすり寄りそうに深いお辞儀をする領主は、全くガルダンが自分の息子、コルチェであることに気付きもしない。後妻も顔を出して来たが、こちらも気付く気配がなかった。  自分がコルチェ・セオだと告げたら2人は、特に後妻はどんな顔をするだろう。ガルダンはそんな思いに駆られたが、そっと苦笑しただけで、また胸の内にしまっておいた。 「実はこちらに、サーリャと言う娘がいたと思うのですが」  ガルダンはさっそく本題を切り出した。1秒たりともいたくないと言うほど嫌悪感がある訳ではないのだが、応接間に通されてくつろぐのも遠慮したかった。 「サーリャ……ですか?」 「……奴隷です」  突然の来訪の上、会っていきなり立ったまま奴隷の名を口にした騎士に、さすがに領主も後妻も怪訝な顔をしたが、剣を持った者においそれと口答えも出来ない。領主は農奴の顔と名を順に思い出して行った。 「サ、サーリャでございますか。サーリャ、サーリャ」  つまり領主の記憶にも薄い程度の存在でしかないのだな、と思いながらガルダンは、老けた領主の額を眺めた。そびえ立つように高かった父の背を、今はすっかり追い越してしまった。家と同様に、父親もまた小さくなっていた。 「サーリャが、何か?」  領主が馬鹿正直に懸命に思い出そうとする横から、後妻がすいと割って入った。涼しい顔をしている。その脳裏にきちんとサーリャの姿が思い出されているのかどうか、定かでない。 「引き取りたいと思いまして」  ガルダンは正直に言って、懐をポンと叩いた。金貨がジャラッと鳴った。金貨であるかまでは分からないにしても、銅貨にしたって相当な額の音だった。 「なぜサーリャを? 奴隷市場もありましょう」  それは、となるだけ平静を装って返答を考えていたガルダンは、 「ああ、サーリャか! 2、3年前に出てった、」  とうっかり口を滑らせた領主に助けられたのだった。不振を抱いた後妻に質問攻めにされず内心ホッとしながらも、ガルダンは領主の言葉に眉をひそめた。 「出て行った?」  言ってしまってから、後妻の顔が自分を咎めていることに気付いて領主は、情けない顔をした。だが観念したらしく、ボソボソと呟き出す。 「教会の司教様だとか言う人が来て……。どこのどなたか教えてくれませんでしたので、今はもうどこに行ったか……」  教会に買い取られた訳である。もしくは教会の名を借りて、自分の身を自分で買い戻したのかも知れない、領主にそれと分からないように。ただ普通に農地にいるだけで、教会がやって来るはずなどないのだ。  今の奴隷の殆どは、占領地クグライバル国から不当に借り出した人材であることが多い。それを阻止しようとする動きもあるとは聞いていたし、領主もそれを知っていたから、されるがままになっていたのだろう。口止めに足る金を積まれているのかも知れない。  いかんせん、道は絶たれてしまった。  解放運動の一旦なら、今頃は国に帰ってしまっているかも知れないし、年も19歳のはずなのだ、結婚すらしていてもおかしくない。  ガルダンは、先ほどとは違った寂しさに襲われた。 「分かった。済まなかったな。邪魔をした礼だ」  懐から金貨を2枚取り出すと領主の手に握らせ、ガルダンはきびすを返し、2度と振り返らなかった。金貨を握らせる時持った父親の手は、カサカサでゴツゴツしていた。諸侯らの脂ぎった分厚い手ではない。苦労の手だ。あまり長く握っていても変なので、すぐに離したが。  まだ、それでも領主の記憶は目前の騎士が自分の息子である、とは到達しない。コルチェが今なお生きていると言う報告を受けていれば考えついたかも知れなかったが、昔逃走した彼を連れ戻すべく命令した2人の男は、コルチェを死んだことにして金貨を自分たちのものにしてしまったのだ、それが嘘だとは想像しなかった。  領主の方は。  たくましい若者の背を見つめながら顎に手を当てる後妻の方は、眉をひそめて考えにふけっている様子だった。  頂点 3. 「お前も大変だな」  とは、およそ一番言われたくないと思っていた人物に、言われた台詞だった。 「私を憶えているか?」  人払いをした謁見室の中、椅子にふんぞり返ってニヤニヤと左大臣ルガイヤは言った。親密な笑顔のつもりだろうかと思ったが、嫌悪感しか感じない。彼への怒りがガルダンを騎士にのし上げたのだ、忘れようはずがない。  ええ、憶えていますとも。そう言いたい心を抑えて、ガルダンは敬礼した。 「あの時は、お世話になりました」  ルガイヤから満足したらしい鼻息が聞こえ、ガルダンは笑顔が作れない理由を緊張の為であるかのように振る舞った。 「苦労して騎士にしてやった甲斐があった」 「え」  感慨を込めたふうなルガイヤの言い方は、嘘に聞こえない。一瞬驚きを顔に出してしまった。  だが本当のような嘘を言えるのが、ルガイヤだ。確かにあの討伐隊の件について、ガルダンが不利になることを言わなかったから、今騎士になれた部分もあろうかと思う。しかし彼のおかげで昇進したとはどうしても思えない、3年もかかったのだ。  どういうことですかとも自分からは聞き難いし、ありがとうございましたとも言い辛い。ガルダンは口を引き結び、再度敬礼をした。無言であっても、敬礼さえしていれば何となく格好がつく。  ルガイヤそれ以上は言わずに、話題を変えた。 「ファバム様は、幼くあられるだろう?」  最初に言った「大変だな」は、ここにかかっていたらしい。内心は同意だったが、迂闊に話してどう思われるかが定かではなかったので、ガルダンはこれにも返答しなかった。  しかし表情は、口ほどにも物を言ってしまったらしい。ガルダンの困惑の顔を見て、ルガイヤはそうだろうそうだろうと言いた気だった。 「城内でも有名な新人いびりだ、と誰かに教えてもらったか?」 「はい」  ガルダンは、まだ従士だった頃の方が騎士らしい仕事だったのではなかろうかと思えるほど、雑用を言いつけられて奔走する毎日を送っていた。殆ど行事と化していると聞いたが、他の面々に比べるとガルダンにだけいびり方が丁寧らしいとも聞かされている。やはり最初の印象が尾を引いているらしいと思い、これにはさすがに彼も溜め息を洩らしてしまうのだった。  ルガイヤが急に立ち上がって、自分の肩をポンと叩いて来た。  ぞわりと寒気が走る。  走ってから、そういえばボーンは自分の体に触れて来ないなと、ふと思った。ファリィの葬儀で背を押してくれた、あれが最後ではないだろうか。人に触れられることがなかった為、慣れていなくて体を堅くしてしまった。それが具体的に感じる今のボーンとの距離なのかな、と思えた。  ルガイヤが耳元でささやく。 「今はまだ無理だが……働き次第で、ファバム様の下から引き上げてやれる。お前には酷だが、もう少し頑張ってファバム様に食らいつけ」  一瞬言葉の意味が分からず、ガルダンはきょとんとしてしまった。そしてすぐに気付く。今日ルガイヤが自分を呼びつけた理由は、これだったのだ。  彼の下に所属を変えてもらえる……そんな甘言を餌に、ガルダンを操ろうとしている。  確かにルガイヤの誘いには、魅力があった。  彼の下なら、行っても良いなと思えるのだ。なぜなら、ガルダンが知りたい情報が今より多いはずだからである。多分最も早い道である、今すぐに移動出来るなら。 「そもそも、たかが次男坊の遊び相手にしかならん地位にお前がすえられるのを、黙ってボーン殿が見過ごしたというのが、私には腹立たしい」  ルガイヤはいかにも落胆したような表情で、はぁと溜め息をつく。 「何か考えがあるとも思えない。城内での彼の働きも……と、これは余計だったな」  手に口を当てて、ゴホンとせき込む。ガルダンは何となく彼の狙いが見えて、失笑しそうになった。  ボーンのことを悪く言うルガイヤの顔は、醜かった。ボーンが若く見えルガイヤが老けて見えると、2人は20歳も30歳も離れて見えてしまう。何となくそこに、ルガイヤのさもしさを感じた。 「ボーン殿は王直属の騎士団長だ、それは素晴らしいことと思う。だが全般的に権限を持っておられる訳ではないし、私の方が第一継承者であるイスク様に近い」 「イスク様」 「まだ、お会いしたことはないか」  ある訳がない。何しろファバムに翻弄される日々だし、王子など本来はおいそれと近づけない存在のはずなのだ。名乗りもせずに王宮の庭をうろうろとしているなど、どういう事情だったのかと最初は思ったものだったが、ファバムはあれが普通だった。  イスク様はさぞかしまっとうな方なんだろうなぁとガルダンは思ったが、興味はさほど沸かなかった。  むしろ今は、ファバムの方が気にかかる。どこか憎めないのだ……嫌な性格なのだが。 「だがファバム様は、誰も信用なさらない。今までも、これからもな。それは憶えておくが良い。じきに私がお前を拾ってやる」  ああここに1人、もっと嫌な性格がいたっけ、とガルダンは思ったが、もはや怒りは通り過ぎて、呆れるだけだった。今更“拾って”など欲しくない。  とは言え味方のふりをしておけば色々と分かることがあるかも知れないと判断し、ガルダンは話に乗っておくことにした。ファバムに食らいついて離れないことは、命令されずとも出来るだろう。彼に興味があるのだから。  なぜ誰も信用しないのかが、気になるほどに。 「誰も信用なさらない、とはどういうことですか?」 「気になるか?」  ルガイヤの口調が冷たくなったので、ガルダンはしまったと思った。本当にきちんと忠誠心があるのかどうか、言葉尻を捕らえて試されていたのだ。  はいとだけ答えるのは得策ではないなとガルダンはすかさず言葉を呑み込み、ルガイヤの気を良くする返答を考えた。 「勿論。知らないままでは、あざむくことも出来ません」  ルガイヤはニヤリと笑った。多少露骨すぎたかと思ったが、 「正直なのだな」  ルガイヤは額面通りに受け取ったらしく、ガルダンは内心ホッとした。何と言ってもまだ17歳の若僧だ。剣技だけを叩き込まれた七光り者だとでも思われているのだろう。いや、ルガイヤの言葉を信じるなら、自分はルガイヤの力で成り上がれたらしいが……。  ルガイヤは再び椅子に腰を下ろし、足を組んだ。 「5年ほど前だ。ファバム様にはちゃんとファバム様専用の乳母と側近がいた。親衛隊隊長を務めていた男だったが、賊が押し入り、ファバム様の身代わりになって殺されたのだと言う、もっぱらの噂なのだ」 「真意は明らかでないのですか?」 「事件は場内、しかもファバム様の寝室で起こった。乳母まで惨殺されておってな。血の海だったと言う話だ。目撃者もおらず、犯人はいまだに分からん」  初めて聞いた話だ。そこまでの惨劇なら、城内で有名なはずだ。有名すぎて皆、今では口を閉ざしているのだろうなとガルダンは推測した。 「それからだ、あの方が特定の従者も側に置かず、ああした、我の強いお方になられたのは。……ボーン殿は、お前に話したことがなかったのだな」  あくまでボーンへの不信感を募らせたいらしい。今まで逆に、ルガイヤが望むような不信感不安感をボーンに抱いて来たと言うのに、彼に言われて返ってボーンへの気持ちが少し和らいだのがおかしかった。やはり根本的に、自分は天の邪鬼らしい。 「かしこまりました」  笑いそうになる顔を引き締める為に、ガルダンは堅い声を作って敬礼した。  頂点 4. 「至急、来いとのおおせです」  まだ日も昇らない朝早くに城から来る伝令にも、ガルダンはまたかと思っただけだった。ベッドから起き上がったばかりだったが、既にガルダンの身なりは整っている。むしろ、朝から走らされている伝令を気の毒に思ったほどだった。  どんな理不尽に思える命令にも、ガルダンはこれを仕事と割り切って、特にファバムにこびるでもなく無感情に徹してこなした。無論、ルガイヤに、ひいてはイスクに取り入る為ではない。  ファバムの隊の殆どは、イスクの隊に移りたがっていることが、あれから徐々に分かって来た。イスクの方が性格も優しく温厚で、しかもやはり第一継承者である点が魅力らしい。どう見てもイスクの下の方が、将来が明るそうなのだ。  なのになぜ、俺はファバム様に惹かれる?  馬を走らせるガルダンは、ごまかしようのなくなって来た自分の思いについて考えた。  誰も信用しないと決めた幼少時代。同じようにより所をなくした銀髪の少年の寂しい気持ちが、ガルダンには分かる気がするのである。相変わらずファバムは、誰に対しても心を開かないが。しかし人に対して閉ざすばかりだった自分が、分身を見るような気持ちで心を閉ざした人間に出会えたことは、今までにない感情を芽生えさせていた。  ルガイヤと会ったことは、ボーンに伝えた。  その時話した内容だけを取り上げれば、何と言うことのない話だ。  自分が騎士になったことに目を付けて、ルガイヤが接触に来た。それだけのことである。ガルダンとしてはルガイヤの名を出すことで、ボーンの反応を試そうとしたのだが、 「お前さえしっかり分かっていれば、それで良い」  と、動じることがない。  やはりルガイヤとボーンには、何の関係もないのだろうかと思ったが、トマジの謎の言葉はまだ脳に刻まれている。現実逃避だと言われればそうだとしか答えられないが、そこに触れる問いを避けてガルダンは言葉を模索するのだった。 「その行動に至る理由、動機を理解していなければ、自分の取るべき行動とて決められないはずです」 「なるほど」  ボーンはひげをなでながら、ゆっくり頷いた。 「だが今の話から、ルガイヤ殿の考えは読めんな。お前自身は、どう思うのだ?」  ――と言う問いによって結果、ガルダンはファバムの為に馬を走らせている今に至る。  ルガイヤが自分を何に利用したいにしろ、ボーンが何か企んでいるにしろ、「騎士」を持続したければ、自分の行動は1つしかないのだ。  ファバムに仕え続けること。  例えどんな命令であっても。 「今から遠出する。供をしろ」  到着したガルダンを出迎えたのは、外出着に着替えたファバムだった。マントをはおり、すっぽりとフードもかぶっている。まだ空が白み始めた所だ。今日の要求は一段と強引だなと思ったが、ガルダンに断る理由はない。  王家の人間が散歩をしたり遠出をしたりするのも、ない訳ではない。ただし供を数人から十数人控え、彼の為だけの特殊な空間を作り上げた状態での遠出となるので、庶民が王子を目にすることはないのだが。  今は、隣国エルアルバとの緊張状態が続いている。あれほど、一触即発だすぐ開戦だと言われて来た戦争はまだ起きておらず、しかし確実にバルドナットの民の精神を衰えさせていた。誰かが裏で外交を操って、開戦を引き延ばしているのだと言う噂もあったが、定かではない。そう言った噂の類は、従士だった頃よりはるかに耳に入るようになったが、その分眉唾な情報も増えた。  城内にスパイや暗殺者がいるとかいないとかの噂も、日常茶飯事だ。だから供を連れてさえ、外出するなどもっての他なのだ。皆が総出でファバムを止めにかかるのは、目に見えていた。このような、まだ鶏すら起きていない白んだ空の下でなければ。  ガルダンがこっそりとファバムの分の馬を裏口に用意して来た時、逆にファバムの方が、 「さすがに今日ばかりは、この命令を断ると思ったぞ」  と言うほど、ガルダンの顔が清々しかったのだ。  馬に乗りながら、ガルダンが言う。 「それが王子のしたいことなら」 「だから従うのか?」 「はい」  2つの影が霧に紛れつつ、裏口から飛び出し疾走を始める。無論裏口にも門番がいるのだが、ガルダンが丸め込んだ。ガルダンの心に後ろ暗い気持ちはなかった。  むしろ少し寒い秋の風が、胸の中までもすっきりとさせてくれるような気持ち良さだった。  風にあおられてフードのめくれたファバムは、銀の髪をなびかせた。意地悪そうに冷たく、ガルダンの横顔を眺める。 「じゃあ私が“死ね”って言ったら、死ぬのか? お前は」 「お望みなら」  ガルダンは即答した。本当は不当な命令には断る権利があると考えているが、今は即答出来たし、もしそう命じられたら彼はすぐに剣を抜いて、自分の首をはねただろう。  ファバムは疾走させていた馬をしずめさせた。周りにはまだ霧の晴れない、静かな林が広がっていた。地面が赤く見える。もう紅葉が落ち始めているらしい。 「……止めた」  投げやりにファバムは吐き捨て、肩を竦めた。 「冗談でも口に出したら、本当に死にそうだ」  そう呟いて膝の内側に力を入れ、ファバムの馬がまた歩き出すその後ろについて、ガルダンは鼻の頭を掻いた。  林が途切れ、草原らしき場所が見えてくると同時にもやも晴れて来た。ぱあっと朝日が花畑を照らした。目を細める。  野生の、薄いピンクがかった全体的には白っぽい小さな花が、所狭しと草原を埋めているのだ。先ほどまでの霧が露になって花に降りかかり、きらきらと輝いている。この土と埃の土地に草原が広がっていることも珍しいと言えるのに、そこに更にこんな花畑が存在したとは。  ガルダンは思わず驚きに息を吸い込んでしまい、ファバムに聞かれてしまった。ガルダンに見えないように、ファバムが満足げな顔をした。  馬から降りたファバムが太めの枝に馬のたづなを結わえると、彼は数歩進み、その花園に入る3歩手前に座ってしまった。更に仰向けに寝転がる。マントがあるから露が浸み込むのは平気なのだろうか、とガルダンは一瞬思ったが、元々そんな細かいことを気にする質でないのは分かっている。  腕枕をして、 「昼寝する。見張れ」  と目を閉じてしまうファバムに、ガルダンはもう、呆気には取られなかった。  ファバムに仕えると決めた時点でガルダンは、“仕える”と言うことの覚悟をしていた。どこまでも従い、どこまでも守り抜く覚悟である。それは誰の為でもなく、“騎士”である自分に課した誇りだった。自分には何もない。守るものも追うものも目標も、明確ではない。  だからせめて、自分が憧れ焦がれた“騎士”を全うしたいと思ったのだ。  そこまでの思いを、全てファバムが分かったかどうかは、定かではない。  だが昼寝と称して体を倒してしまったファバムの顔は、城内で見て来たどの顔より安らいでいた。花を手折ったりしない優しさが彼の中にあることが分かる顔だった。憶測だが、彼は花を踏まない為に、手前で止まったのだろうと思われる。ガルダンは王子の少し斜め後ろに胡座を掻き、伸びをした。 「おい」 「はい」  身を固くする。まだ寝ていた訳ではなかったらしい。  だがもう立ち上がるのもタイミングを逃し、ファバムも動く様子がなかったので、ガルダンは座ったままでいた。ファバムはそれを咎めなかった。 「お前の望みは、何だ?」  思いもよらなかった問いに、ガルダンはついきょとんとなってしまった。肩の力が抜け、17歳の顔がうっかり出てしまう。  ガルダンは咳払いをした。 「なぜですか?」  固く答えたガルダンの声に、ファバムは目を開け、顔をガルダンに向けた。目を開けた途端に、先ほどまでの優しさは消えていた。 「私がお前に問うているのだ。ただ答えれば良い」  内心溜め息をつくガルダン。ほんの少し心が溶けたかと思えば、一言ですぐに凍り付く。何を言えば相手がどうなるのか、分からないのがもどかしい。 「……今はまだ、分かりません。望みがないんです」 「ない? ない訳がないだろう」 「第一の望みが消えてしまいましたので」  いささか腑に落ちかねる様子だったが、ガルダンの顔に影が出てしまったのだろう、ファバムは口を閉じた。納得したらしいなと思い目をそらすと、やがてファバムがポツリと言った。 「1日だけの自由ってのは、過ぎた望みなのだろうな」  沢山の思いが裏に隠れた言葉だった。簡単な、だが重い、自由と言う言葉。急にファバムは“王子”なのだと思い出させる言葉に、腹を割って話すことが出来るのかなとガルダンに錯覚させた。  しかしガルダンが返答するより先に、 「忘れろ」  と冷ややかに言い、ファバムは目を閉じてしまった。  どこからか聞こえる小鳥の声が、ガルダンの心を慰めた。  頂点 5. 「これはこれは。ボーン卿」  わざとらしい笑みと高慢な態度が、見せかけの敬意の隙間から、見え隠れしている。  左大臣ルガイヤの何がそんなに受け付けないのかと言われれば、生理的にとしか言いようがないだろう。  だが頭は切れるのだ。ゆえに、左大臣の地位を今なお確保している。  ルガイヤの屋敷に来るのは3年ぶりか。そんなことを思いながらもボーンは、懐かしい居間の風情に懐かしい目をすることなく儀礼的に言った。 「“卿”は結構。ガルダンには“殿”と私のことを言っておられたようですからな」  なるだけ嫌味にならない言い方を務めながら、ボーンはルガイヤがすすめてくれる椅子に着座した。装飾の少ない、質素な木の椅子だ。ボーンはゆっくり腰を落ち着け、同じく質素なテーブルに手をかけた。  着座してから見上げたルガイヤの笑みは、若干ひきつっていた。やはりどうしたって、嫌味に聞こえるらしい。ルガイヤもどっかりと向かいの椅子に腰を落ち着けながら、言った。 「私と彼の話は、貴殿に筒抜けらしいですな。よく手懐けてらっしゃる」  ルガイヤは、不快感を隠しもしないで反撃して来た。どうしたって温厚な話し合いにはならないことを予期しながら、自分から出向いて来たのだから、仕方がない。  ボーンもルガイヤを睨んだ。人払いはしてある、2人だけだ。斬りつけられるのではなかろうかと、ぞっとさせられるボーンの眼光に、ルガイヤは思わず彼の手元を見てしまった。剣に手を伸ばしていないか、確認したのだ。  ボーンは彼に見えるように、机の上で手を組んだ。 「あれを手懐けるなど、出来ぬこと」 「弱気な発言ですな。年を召されましたかな?」  ルガイヤが揶揄したが、そう言う彼とて50歳近い。ルガイヤは遠い目をした。  先に侍女に用意させておいた果実酒を、2つのグラスに注ぎ込む。乾杯の前に、ルガイヤ自らがまず1口飲んで見せた。 「毒はない」 「貴殿に私を殺す理由はなかろう」 「どうかな?」  ルガイヤの口調が少しだけ崩れた。それはかつての友を見る目。ボーンは返事の代わりに、彼が手渡してくれたグラスに、口を浸けた。  それから改めて、互いのグラスを合わせる。コンと鈍い音がした。ルガイヤの身分になってもまだ、ガラスのコップは高級品であり、透明度の高い良質なものは得られない。得ようと思えば出来ない訳でもなかっただろうが、彼がそこまで執拗に財を集めている訳ではないことが見えて来る象徴でもあった。  ルガイヤの望みは、財ではない。  それは、彼と働きを共にするようになった時から、ずっと分かっていたことだ。  なのにルガイヤの奸計は、尽きない。 「私に話があって、お越し下さったのだろう?」  ボーンははっと顔を上げ、自分が段々俯いてしまったことに気付いた。ルガイヤの笑みは、また他人を見るような、もしくは蔑むようなものになっていた。 「大事な息子殿に近付くなとでも言いに来たか?」  あからさまに言われ、ボーンは黙した。浮き足だった発言を控えた為でもある。 「ルガイヤ殿」  低く言い、ボーンは鼻でゆっくりと深く呼吸をした。 「聞いて、貴殿が答えてくれようはずもないだろうが……何を、考えている?」 「5年前から変わっとらんさ」  ルガイヤの返答は素っ気ない。彼は酒で口を湿らせた。 「私はいつも、いつでも、この国、バルドナットの未来を憂いておる」  ボーンもそうだな、と呟いて、赤い液体に目を落とした。少しどす黒く見える、深い赤だ。血の色を彷彿とさせる。血はボーンの深い部分にまで浸み込んで、もうどんなもので心を洗っても、拭い落とせる日はないだろう。ルガイヤもまた。 「貴殿は、手段を選ばなさすぎる」 「選んでおるさ、慎重にな」  ルガイヤの即答に、ボーンは再度言葉を切った。 「私のすることに、今更口出しはさせん。貴殿とて同罪だからな」  喉の奥でルガイヤは、クッと笑った。嬉しそうな、邪な、憎しみのこもった、それでいて悲しい笑みである。ボーンはその笑みに同情しないよう、心を冷静に保った。彼を睨むことで。 「ガルダンも騎士になった。死ぬこととて務めの1つだが……あれが不当な死に方をするようなら、必ず貴殿を殺す」 「大した力の入れようだな。そんなに大事か?」  ルガイヤは少しおどけて見せた。そうすることで、彼の怒りを受け流したかったのだ。だがボーンの目はルガイヤを真っ直ぐ捕らえて離さない。ルガイヤはやれやれと肩を竦めた。 「私が彼を殺すことはあり得んよ。私の下に引き抜きたいと言う旨を、ガルダンから聞いたろう? 本当にそれだけさ。国王はもう老いた。貴殿より私の方がイスク様に近いからな、私の下の方が良かろうと思ったのだ。それとも何か、貴殿の許可を得てからガルダンに会わねばならなかったか? 安心したまえ、天下のボーン殿が盗賊と密通しているなどとは、彼に言っとらんよ」  雄弁に言葉を紡ぎだしそこまで言うと、ルガイヤはぐっと果実酒を飲み干した。溜め息をつき、挑戦するような顔でボーンを見上げる。  見上げる。  ボーンは思わず、立っていた。  その怒りは尋常ではない、爆発的に立ち上がっていた。  ルガイヤは内心冷や汗を出していたが、ここが勝負所なのだ、悠然とした態度は崩さなかった。だが居心地が悪くじっとしていられなかったので、彼はなるだけゆっくりと足を組んで時間稼ぎをした。  だがボーンに言葉はなく、拳を振り上げもせず彼は、ルガイヤに背を向けた。  一瞬ルガイヤは勝ったと思って、笑みを洩らした。  しかしその次の瞬間、笑みは凍りつく。  今まで、どんなに対立していても自分には向けられなかったはずの、獣にも似たむき出しの敵意が……いや、はっきりとした殺意である、むき出しの殺意が、自分を捕らえていたのだ。 「言いたければ、言え」  恐ろしく低く、地に響くかのような声でボーンが呟いた。  国1番と噂される彼の腕前は決して美しいものでなく、血が血を洗って織りなした地位であることを裏付けるかのような、凄みのある横顔が、肩越しに見えた。 「ガルダンは私の息子ではない。私に脅しは効かん」  そう言いながら、ボーンはそれ以上振り返ることなく退室した。後には呪縛から解かれたかのように脱力するルガイヤが1人、室内に取り残されるだけだった。  額の汗を拭いながら再び果実酒をあおる、そんなルガイヤの耳に、扉を閉めてからボーンが洩らした小さな小さな呟きは、聞こえようはずもない。 「そしてわしも、ガルダンの父ではない」  頂点 6.  思わず、早くエルアルバ国と開戦になれば良い、と物騒なことを考えてしまった。  そうすれば、身内の幼稚なゴタゴタをしている場合ではなくなる。相変わらずの雑用同然な仕事に浸るガルダンは、そんなことを思いながら、今日はファバムの馬の背を洗っていた。  普通馬屋の番人にさせるかもしくは、奴隷が行うに近い下働きだ。無論それを命じたのは、ファバムである。  朝だろうが夜だろうが構わず呼びつけられもするし、何もせずそこに立っていろと言われることすらある。あの朝の遠乗りの時、もっと自分ははっきり意志表示をするべきだったと何度後悔したことか。  のみならずガルダンは、隊の中でまで妙な疎外感を受けるようになってしまっていた。  踏んだり蹴ったりな状態である。  戦争になってしまえば、今の状況から抜け出せる。ガルダンがそんなことを思ったとしても、無理はなかろう。  そう思っている時に限って、街はまだまだ平和なものなのだが。 「いらっしゃい、いらっしゃい!」  威勢の良い声が、あちこちから聞こえる。  仕事を終えたガルダンが、徒歩ですり抜けて行く市場内にももう、1日の終わりを告げる夕日の赤い光が降りて来ていると言うのに、昼間と変わらない活気と喧噪が辺りを渦巻いている。  この街の様子をファバムにも見せたいものだとガルダンは思ったが、その願いが叶うのは、到底遠い未来である。  ファバムの新人いびりに関して、薄々分かったことがある。  試されている気配があるのだ。  ガルダンだけ手応えが皆と違うのか、その為に彼1人、随分と丁寧に扱われているのだ。と言う見解の出来る。  心当たりは、ないでもない。  最初に出会った時手合わせをした、これだけではない根拠だ。確かにガルダンだけ目を付けられても仕方がないだろうと言える事柄が、1つだけある。  負ける演技を、しないのだ。  多分これだろうな、とガルダンは気付いている。それでも練習試合で、皆がいかにも全力で戦ったフリをして王子に負けるようにしている中、ガルダンはそれをしようとしない。だから仲間内にも冷たくあしらわれているのだ。  ガルダンは、自分からは絶対に剣を振らない。それは一貫している。だからいつも引き分けで終わるのだが、ガルダンは本当はファバムに剣を教えたかった。だが指導したくても王子の性格では聞き入れられないだろうし、誰も教えようとしていない。王子の剣の指導をした唯一の彼の側近が死んでしまったので、ファバムは本当の自分の力の程度を知らないままだ。悪い言い方をすれば、皆に適当にあしらわれているのだ。専用の指南役を持っていないファバムは3日に1度は自分たちと対戦するのだが、これでは上達などしようはずがない。  何となくそれが不愉快で、何とかしたいと思い、でも何とも出来なくて、今に至るのだった。  ボンヤリと考えながら歩くガルダンの耳に、 「コルチェ?」  小さな呟きが聞こえた気がした。  それは、あまりにか細い声だった。  雑踏に紛れて消えてしまっても、おかしくないほどに。  それは、あまりに突然で。  え? と言おうとしたそれすらも、驚きの為、声にならない。  気付くとガルダンは、振り返っていた。 「気を付けろ!」  ドンと野太い声がぶつかって、通り過ぎる。ガルダンは大通りのど真ん中に、立ち尽くしたのだ。足が吸い付いたように動かない。  振り向いてみても声の主が見つけられなかったので、彼はせわしなく周りを見回した。通常のガルダンからすれば、別人ではないかと思われるほどの狼狽ぶりである。  どこだ?  ガルダンは声のした方向を懸命に思い出し、ぐるぐると四方に目を凝らした。  見回しながら、心のどこかは冷静に「自分の煮詰まった、愚かな頭が生んだ幻聴だ」とも思った。  しかし。  人垣をすいと避けて、ガルダンに向けて歩いて来る影がいた。ガルダンは群に混ざっていても、よほど背の高い集団が近くにいなければ、安易に見つけ得るだけの身長を持っている。少女の方は、ガルダンの胸ほどまでしか背がないのではないかと言う小柄さで、加えて、華奢だった。  いや、彼女は充分女性になっていた。  首まで覆う、胸の膨らみすら分かりにくいような服を着ていたが、きゅっと絞った腰や淡い紅色の唇が、男性を惹きつける。少し勝ち気に輝く黒い瞳がそのままで、思わずガルダンは目をこすってしまった。  昔は肩ほどまでで切り揃えられていた髪が、胸の辺りにまで伸びている。黒々とした艶も、相変わらずだ。  だがそんな彼女もまた、自分の見ているものが信じられないと言った顔で、ガルダンを見上げていた。手を口に当て、瞳を大きく見開いている。 「……本当に……?」  それはこちらが言いたいくらいだ。とガルダンは思った。  だが大きくなったサーリャと言うものを、自分は知らない。なのに、目の前にいる、彼女は間違いない、サーリャなのだ。ガルダンは何度も自問した。  そして改めて、やはり2人共が、互いの成長した姿を見間違えることがなかったと思い、目を細めたのだった。  人目があろうと関係なかった。  ガルダンの手は無意識に、サーリャの手を取っていた。引き寄せて抱き締めることに、何の躊躇もない。何も考えていなかった。  だからサーリャの拒む力が感じられた時、ガルダンは目が覚めたような思いがしたのだった。 「あ……」  ガルダンは自分の手を離した。はっとしたサーリャが、今度は逆にガルダンの腕を持った。 「コルチェ? コルチェよね? 違うのよ、間違えてないのよ、私はサーリャよ。でも、でも……あなたがあんまり立派になってて……。私は異国の女だから……」  異国の者は、どこまで行っても市民にはなれないし、奴隷の扱いである。ガルダンの格好はもはや、誰がどう見ても立派な騎士だ。筋肉もつき日焼けし、昔のひ弱な「コルチェ」をそこに見出せる人間は、サーリャ以外にいない。釣り合わないと言いたいらしいことを悟ったガルダンは、歯がゆさを覚えた。  奴隷など、変だ。  こんな法律は、変だ。  クグライバル国から強制的に連れて来られたり、売られて来たり。  そう考えていたガルダンの顔は、相当険しいものになっていたらしい。不安そうに覗き込んで来るサーリャに気付いて、ガルダンは表情を緩めた。 「済まなかった、強く握ってしまって。……どこかでゆっくり話せないのかな? まさか会えるなんて……」  我ながら陳腐な言葉しか出ないものだ、と後悔したが、サーリャは嬉しそうに肩を竦めて笑った。 「私たちクグライバル人でも受け入れてくれるパブがあるわ」  そう言って足取りも軽く、サーリャは歩き出す。そうしていれば全く普通の娘だ、火傷の跡など想像出来ない。クグライバル人独自の黒髪と黒い瞳は、変えようもないが……。  パブと聞いてガルダンは、不思議な感じがした。サーリャが酒を飲むところが想像出来なかったからだ。だが考えてみれば、自分だって酒を飲むようになっていた。  頂点 7. 「神様って、本当にいるのかもね」  2人分の食事と麦酒を注文してサーリャは、そんなことを呟いた。ガルダンは無神論者だったが、時々は信じてみても良いかな、とさすがに考え、 「かもな」  と相づちを打った。トマジ辺りが見たら、卒倒して皆に言いふらしかねない素直さだ。そんなガルダンの面を知るのはサーリャだけだったし、この先も彼は彼女にしかこの面を見せないつもりでいるが。 「コルチェ、」  身を乗り出したサーリャを制してガルダンは、 「最初に1つだけ」  と人差し指を立てた。 「俺は今、名前を変えたんだ。ガルダン・マハ。騎士になった。……君を、守りたくて……」  暗に“自分と共に来て欲しい”と言う含みを入れたつもりだった。今言うべきかどうかは迷ったのだが、今言わないともう会えない気がして、言ってしまった。彼女が自分を許してくれているのかなど確認していなかったが、彼女の顔色は、自分を許してくれているとガルダンは信じていた。 「まさか、本当に騎士に……?!」  最後の台詞の1つ前に、サーリャは引っかかった。 「他流試合で優勝した訳じゃないんだけど。運が、良かったんだ」  運が良かった。本当に。  サーリャと出会えたことでガルダンは急に、今までの自分の人生が全て素晴らしいものであったかのように思えた。どんよりと厚かった雲の切れ間から、天の光が射し込んで来たかのような気分である。ボーンと出会えて騎士になれ、今こうして彼女と顔を合わせることも恥ずかしくない。サーリャと同じ農奴になって働いた日々すらも良かったのだと思えて来る。彼女と知り合えたのだから。我ながら浅はかだなと思ったが、全てのことが重ならなければ今の自分はないのだ。こんな日くらいは祈るフリでもしておかないと、バチが当たりそうである。  馬鹿正直にサーリャにそう告げると、彼女は声を立てて笑った。 「コル……じゃない、ガルダン、外見がとっても立派になったからドキドキしちゃったんだけど、中身がそのままで嬉しいわ」  誉められた気がしない。 「あ、良い意味で言ってるのよ。私が好きな、あなたのまんまだわ」  サーリャの言葉づかいはさらに優しさが増し、女性らしくなっていた。ほどなく運ばれて来た酒を手に取り、 「乾杯」  と言って、杯を半分ほどまでくいと空けてしまうと、さっそく彼女の目尻は下がり、色気をかもし出した。 「俺のまんま、か」  呟いて、ガルダンも麦酒に口を浸け、はっとして顔を上げた。 「そう言えばサーリャ、あの本はまだ持っているのか?」 “俺のまんま”と呟いて、思い出したのだ。サーリャとの過去を思い出す時、殆ど必ず彼女が大事そうに抱えていたあの本を思い出す。正確な題名は憶えていなかったが、“恋”と言う字だったことを学んだ日、その言葉だけがガルダンの胸に刻まれたのだった。  ガルダンとしては、当たり前に聞いたつもりだった。  だがサーリャは、 「あの本?」  全く記憶にないらしかった。  まだ6年だが、もう6年でもある。2人の共通の思い出が彼女の中に残っていないらしいことは、ガルダンに若干のショックを与えた。  いや、いいんだ。そう言おうとして、気を取り直した。 「ほら、昔、俺にもなかなか見せてくれなかった本があったじゃないか。宝物だとか言って……」  途中で気付いたらしいサーリャは、段々合点の顔をし、ガルダンが言葉を切った所で、 「ああ」  と言ったが、楽しそうではなかった。ガルダンの視線に苦笑する。 「ただの本だったの。宝物じゃなかったって気付いただけよ」 「読めるようになったのか?」  だがサーリャは首を振った。 「半分ほどだけね。でも、不幸せな話みたいだったから、途中で止めちゃったの。どうせなら、明るい話が読みたいじゃない?」  そう笑って、彼女は首を竦めて見せた。  だがあんなにも読めるようになることを望んでいたサーリャが、話の内容が不幸らしいと分かっただけで、あっさり止めてしまうものだろうか? しかも半分しか読めていなくて? 本当に希望に満ちた話であることだけを願って、宝物だと言っていたのだろうか?  そういう考え方をすると、ガルダンはサーリャの希望を打ち砕いた直接の原因は自分ではないか、と思い当たってしまい、気持ちが沈んだ。  サーリャの首もとは、すっぽりと隠されている。その下に一生の不幸を刻みつけたのは、自分なのだ。  多分それが、サーリャから夢を奪ったのだ。そんな風に思った。 「俺が、悪かった」 「え?」  突然押し殺すような声で出されたガルダンの謝罪の言葉に、意味が分かりかねてサーリャは目をくるりとさせた。 「あの事件のせいで、本に夢が持てなくなったんじゃないか?」 「あの事件」  ガルダンの言わんとするところを察したサーリャは、弾けるような笑顔になった。 「関係ないわよ」  努めて明るい声を出すと彼女は、何でもないことのように襟をめくって、傷をさらけ出した。少しピンクがかったケロイド状の傷跡が左側の鎖骨の上に見え、その下方までずっと伸びている。 「もう、痛くも何ともないわよ」  そう言いながら服を戻し、サーリャは当時ガルダンが逃亡した時のことを思い出した。 「あの時は、どうかしちゃってた」  額に手を当て、目を伏せる。反省しているらしいサーリャの態度は、あれを一時的なものだったと物語っているようだった。 「私が出てって、って言ったから、出てっちゃったんでしょ?」 「いや……」  言葉を濁した。完全否定したいのに出来ない自分の態度が悔やまれた。けれど彼女は明るかった。 「結果的には、人生良くなって良かったわ」 「でも俺は、」  サーリャに謝っても謝りきれない傷を残した。そう言いかけて言葉を詰まらせたガルダンは、サーリャの顔を真っ直ぐ見つめることが出来ず、俯いた。  ガルダンの頬に、そっとサーリャが手を触れた。水仕事でもしているのだろうか、所々あかぎれていて、苦労を感じさせる手だった。細く、冷たい。だが優しい手だった。 「あなたが悪いんじゃない」  ガルダンは頬に当てられたサーリャの手を取った。今度は逃げなかった。  もう1度、先ほど無視された格好になってしまった台詞を言おうとして、 「サーリャ。俺と、」 「お待ちどう様」  給仕に邪魔をされた。   頂点 8.  振られた、と言ってしまうには中途半端な言葉だったのだが、何か情勢でも変わらない限り無理だろうなと思えるサーリャの強さが、そこにはにじみ出ていた。  ガルダンとは会いたいが、マハ家に行く訳には行かない。と彼女は、はっきり言ったのだ。  教会に縛り付けられていると言う訳じゃないのは、こうして堂々と外を歩いている時点で分かる。いや、今はまた働き先を変えているかも知れないのだが、とにかく彼女がどこでどう働いているにしろ、サーリャを買い取るだけの財力が、今のガルダンにはある。しかしそれはお断りだと、彼女は言ったのだ。  買い取る、と言う思想が、彼女の気に入らないのだろう。  それに今の仕事にやり甲斐を憶えているのだ、と彼女は言った。 「私がいなきゃ困るんじゃないか、って思えるくらいなのよ」  孤児院で保母のようなことをしているのだと言ったサーリャの表情は生き生きしていて、本当に毎日が楽しいらしいのだと分かる。 「結婚したとか好きな人がいるとか、そんなんじゃないわよ」  机に肘を突いて、少し上目遣いに彼女は笑って見せたのだった。 「え。俺、そんなことは一言も、」 「顔に書いてあるわ」  思わず顎に手をかけてしまったガルダンに、サーリャはカラカラと笑ったのだった。 「でも好きな人なら、いるかもね」  意味ありげに呟いて、そこで話を終わらせるものだから、完全に振られたとは言い難いのだ。しかも会いたいとまで、ちゃんと言われている。6年振りに再会した娘は、多少したたかになったらしい。  しかし彼女に出会えたことは、ガルダンに気力を与えた。  サーリャのとても前向きな姿を見たら、自分も少しやってみようかと言う気になって来たのだ。  城内での今の自分の扱われ方は、ほぼ最低である。これ以上、今のところ、酷くもならないだろう。最も酷い状態に相当する「死」は、既に覚悟が出来ている。 「やってみるか」  ガルダンは1人ごちた。  その日入城するガルダンの顔は、いつも通り無表情だったが、いつもとは明らかに何かが違っていた。  今日は、隊の皆で練習試合を行う日である。  中庭から見える秋の空は高く、ガルダンの心を映すかのように、突き抜けた青さをたたえていた。それを見上げてからガルダンは息をつき、集合した皆より一歩前に進み出て、 「隊長」  と、敬礼した。  向かい合って立つ親衛隊隊長の3歩後ろに、今日はファバムも立っている。隊長、と呼びかけながらガルダンは、ファバムを見ていた。 「今日は真剣で、ファバム様と手合わせをさせて下さい」  ガルダンの左手には自分のものとは別に、剣が1本携えられている。彼の腰にあるものも今日は真剣なんだと言うことに皆が気付き、場が一気にざわめいた。  ファバムも意外そうな顔をしたが、 「面白い」  すぐ気を取り直して、隊長よりも先に返事をした。隊長が割って入る。 「駄目です! お怪我でもなされましたら、どうするおつもりですか?!」 「戦争が始まっても、同じことを言うか?」  冷ややかなファバムの問いに隊長はうっと詰まり、その隙にファバムは彼を避けてガルダンから剣を受け取ったのだった。無論、ファバムが前線に出るような戦いはそうはないだろうし、隊長の言葉は正しいのだ、ファバムに怪我をさせる訳には行かない。  だが儀礼的にそう思っているだけの言葉に説得力はなく、だからファバムに押し切られてしまった。  他の皆も結局、2人が剣を抜くのを止めることが出来ず、ただ場所を広げて見守った。後で勝手なことをしでかした罰を受けるが良い、と思っている為もあったかも知れない。 「やあっ!」  ガキンと剣同士が火花を散らした。  切り込んで来たのはファバムの方だったが、ガルダンは剣を斜めにして彼の力を受け流した。いつもの刃引きされた鈍い光でなく、鋭利な輝きが2人の間に舞った。どちらの剣も、鍛え抜かれた逸品である。  この輝きが、人を殺すのだ。  そう思ったファバムは、一瞬だけ気を取られた。  だがガルダンは、そこに付け入ることをしない。  彼の呼吸が整うのを待ち、テンポを合わせて剣を振った。  何度か斬り結ばれる剣。  そこに居合わせた者の、誰が気付いただろうか。実際に剣を振るファバムでしか、分からなかっただろう。  ガルダンはわざとファバムの呼吸に合わせ、ファバムが剣をどこにどう振ったら良いかを、無言で示している、などと。少しでも剣が体に触れれば、肉が削がれ血が飛ぶのだ。そんな真剣で戦いながら、しかも相手に指示も出さず剣の振り方を指南するなど、神業に等しい。  等しいが、ガルダンは指南しているのだ。  ファバムの腕前も、決して悪くはない。まして今日持つ真剣の重みと鋭さに感覚は研ぎ澄まされ、普段より格段に集中力が増している。   だから分かってしまうのである、ガルダンの隙を。  その時その時に、ここにしかないと言う隙をガルダンが作っているのだ。そこ以外には切り込めない。だが、だからそこに剣を振ると、ガルダンの剣に止められてしまう。ところがそのリズムが、そのテンポが、心地よく体に浸み込んで来るのである。  不思議な体験でもあった。  隊の皆が自分に対してわざと隙を作り、上手く負けているらしいことは、ファバムとて知っていた。だがそれで良いと思っていたのである。どうせ自分という者の扱われ方は、この程度なのだと開き直っていた。皆がそうなるようにし向けたのも、彼自身なのだ。  だがガルダンの、自分に対するこの剣の振り方は、どこか違っていた。  ただ単に負けようとしているものではないのだ。  真剣である、そのようにわざとらしい演技でもしようものなら、本当に斬ってやろうと思っていた。自分への当たりが厳しいからと、このような真似をしでかしたのだとしても、後の報復を考えていた。  ところが、彼の剣にもまた、気迫が入っている。対等にファバムと勝負をしたい意気込みすら感じられる気がする、崇高な剣だった。 「はっ!」  うやむやとした考えを振り切るかのように、ファバムは勢いよく降った。大きく空振りし、体勢を崩す。当然のように、ここでもガルダンは突っ込んで来ない。  ファバムは急に、彼の思惑に乗ってしまっているような剣技が嫌になり、ガルダンがわざと作った隙ではないところへ剣を振った。 「やあっ!」  早々、思い通りになど動いてやらない!  そんなつもりで切り込んだ。これが彼の胴に入るかも知れないことなど、頭が回らなかった。  しかし。  剣が悲鳴を上げる。  ファバムは、はっとした。  受け止められたのだ。  しかも、ただ受けられただけではない。  ガルダンの剣が、重かった。彼が、攻撃に転じたのだ。  受けて、ガルダンの剣がとても重く鋭利なものであることを知って、初めてファバムは、彼が今まで自分に攻撃をしたことがなかった事実に気が付いた。いや、ガルダンだけではない。隊の誰からも、このように厳しい剣を受けたことがなかった。ガルダンの剣は、本気の剣だった。  ――来る!  殆ど反射的にファバムは、剣を構えていた。  剣身を思い切り叩かれる。危うく取り落としそうになり、当然体制が崩れた。ところが今度はガルダンの動きが止まらず、ざっと踏み込む音が聞こえたのである。 「ま、待て!」  叫んだのはファバムでなく、隊長だ。気が付いて慌てて自分の剣を抜き、割って入ろうとしたが、それはガルダンの動きに到底追いついていなかった。  ピタリ、と。  3人の動きが止まった。  ファバムは動けなかった。  顎から落ちた汗が、その真下にあるガルダンの剣先にポタリと落ちた。正確に頸動脈を狙ったガルダンの剣は、ファバムのそこを斬るわずか手前で止められていた。反撃を許さないほどスピードの乗った剣を直前で止めるのに、どれほどの腕力が必要かということを、そこにいる誰もが知っている。そして改めて、ガルダン・マハと言う人間の持つ剣技が、あのボーン・マハのものをそっくり受け継いでいるものであることを認めない訳に行かなかったのだった。  だがその腕と取った行動は、別物である。 「貴様……。ファバム様に対してこのような無礼を」  怒りに打ち震える隊長を尻目に見ながら、ガルダンは剣を収めて息を整え、ファバムに敬礼をした。 「ファバム様。それがあなたの実力です」 「ぶっ、無礼な! 無礼な!」  まるで自分が言われたかのように、隊長の方が狂ったように叫んだ。彼は彼で、自分の地位をガルダンに取られてしまうと危惧し、我を忘れてしまったのだろう。隊長が見ても分かるほど、ファバムの方はガルダンの行動を無礼と思っていない為に。 「お強いが、受けることを知らない剣だ」 「分かった」  若干放心気味だったファバムのガルダンの言わんとするところを察し、笑顔こそ見せなかったが、しっかりと了承の頷きを返した。  ガルダンに剣を返す。皆に背を向けたファバムだったが、去り際に1度ひょいと振り返り、 「今度は皆で、勝ち抜き戦にするか」  と言い残して去った。あっさりした表情だった。胸のつかえが取れたかのような……。  言葉で上手く通じ合えないなら、体ごとぶつかるしかない。少々乱暴だがそんな答えを見出し、今実行し終わったガルダンは何とも言えない爽快さに身を包まれた。  すぐに隊の歓声と羨望の声が、代わりに身を包む。 「見直したぜ!」 「そうか、お前そういう奴だったのか!」  勿論皆が皆同じように言ってくれた訳ではなかったし、そうして声をかけてくれる者も何人が今のやり取りの真意を理解しかたも、分からない。それは今後、少しずつ分かり合うしかないだろう。ファバムとのやり取りのように。  ガルダンはこの時初めて、自分を表現することの喜びを知ったと言って良かった。  まだ始まったばかりである。  しかし、問題の何もかもが解決出来そうな、解決出来たような、そんな気持ちよさを味わった日だった。  深く青い、澄んだ空に、まだ雲の影はない。  転落 1.  城内には、様々な噂がばらまかれている。  信憑性の高い話もあるが、聞くも滑稽な笑い話も転がっている。だがここで大事なのは、その噂が出回ることとなった、その根拠なのだ。  ガルダンは「真実」に見える「嘘」を、今まで味わって来た。信憑性が問題でないことを学習して来たのだ。  それに、その噂が出回ることとなった元の根拠を、自分は嫌と言うほど知っている。自分の耳で、それを聞いているのだから。  だからこの「噂」は、限りなく「真実」に近かった。  もう耳をふさいで知らないフリをするような、幼稚なことが通用しなくなった瞬間でもあった。いよいよ調べなければならないのだ。そう思ってからガルダンは、本当に自分がこの件に触れたくなかったのだなと言うことに今さら気付き、心中苦笑するのだった。 「ボーン様は、盗賊と通じてるらしいぞ」  と言う噂に。           ◇  ガルダンの耳に噂が入った時にはすでに、城内に散々広まっていた。しかしファバムとの件のあった後にその噂が流れ出したと言うことは、少し調べればすぐに分かった。どうも親衛隊隊長が言いふらしているらしい、と言うことを、隊の仲間が教えてくれたからだ。  あれから、2週間たっていた。  サーリャと出会い心を開くことを憶え始めたガルダンは、まだ不器用ながらもファバムに一歩近付き、ボーンに対しても近づくことを考えていた。  ファバムと交流することで、ガルダンは思い知ったのだ。  ボーンが自分を避けているのではない。  自分が猫のように、彼に懐かなかったから。信じられなかったから、ボーンも自分に無理に何かを諭したり訴えたりしなかったのだ。信じられていないことが分かるのに、そんな相手にどんな言葉を使って、溝を埋めようと言うのか。  自分がボーンを、信じていなかった。  ボーンは無実だ潔白だとかたくなに思い込みたかった自分の気持ちは、彼を信じているということにはならないのだ。彼が「何をしたか」でなく「何を思ったか」なのだ。そしてそれは事実を突き詰めても話し合っても、得られるものではない。 「お前さえしっかり分かっていれば、それで良い」  かつてのボーンの言葉の意味を、ガルダンはこの時になってようやく分かった気がした。 「ボーン様」  自分からボーンの書斎を訪れなくなったのはいつからだろう、と思いながらガルダンは、書斎の扉をノックした。  少し癖があるらしい叩き方を、自分では意識していないのだが、ボーンは分かっているらしい。中からかすかな音がして、入れと言う声が続いた。扉を開けるとすぐ、振り向いた状態のボーンと目が合った。  目をそらしもせず、緊張もない。  ボーンを見る目に力を込めてもいないし、見た途端に何かを思うという訳でもなかった。そんなガルダンの心が伝わるのか、いや、最初からだろう、ボーンは穏やかな顔をしていた。  この2週間も変わらずに、ボーンも城内に出入りしている。当然噂は耳にしただろうし、していなくとも、その雰囲気は察しただろう。  久しぶりに、ボーンに会った。  ガルダンはそんな気がした。 「失礼します」  うむ、とボーンが頷き、ガルダンが扉を閉める。いつものように椅子を引っぱり出し、ボーンも向かいに腰掛ける。以前と変わりのない動作、変わりのない光景。  ボーンはここで、以前にはなかったものを取り出した。 「いつか、お前とやろうと思ってな」  テーブルに、2つの銅盃が置かれた。  ボーンが掲げた瓶からそこに注ぎ込まれる赤紫の液体の、本当の価値をガルダンはまだ分かっていない。だが多分彼のことだから、高級な秘蔵の1本なのだろうと想像出来る。受け取ったそれを、ガルダンはゆっくり大事に持ち上げて、香りを楽しんでみた。甘すぎず強すぎない、柔らかな匂いがした。  果実酒はサーリャと飲む麦酒より格段に深みがあり、甘みと酸味も効いていて美味しいと思った。彼女にも飲ませてやりたいと考えてしまう、それほどガルダンの心にはサーリャが住みついていた。過去の小さな彼女でなく、19歳の娘が。  ボーンは少し目を伏せて、盃を傾けた。が、目を上げた彼には迷いが見られなかったので、ガルダンも口火を切った。 「噂が聞こえて来まして」  ボーンはうむとも何も言わない。だからどうなのだという、ガルダン自体からの問いかけを待っている。ガルダンは盃を口に浸けた。喉が熱くなり、胃に落ちて行く。それをきっかけに、言葉をつむいだ。 「噂が真実ならば、その根拠を教えて下さい」 「聞いてどうする?」 「分かりません」  素直に答えた。  聞いたからとて具体的にどう行動するのか、とは決めていなかったのだ。変わらずここに暮らし続けるだろうし、ボーンを見る目も変わらない、そのことに確信を持っただけだったから。ボーンがそれを拒否するならば、そこから考えるしかないと思っていた。  そんなガルダンの心中を察したのかボーンは、 「そうだ」  と言った。 「3年前、討伐隊から帰って来たお前の様子が変だったのは、気付いていた。わしやルガイヤ殿が盗賊と通じておるらしい、と言う話を何らかの拍子に聞いてしまい、ずっと悩んでおったのだろう?」  ガルダンはすんなり彼が話してくれた喜びを隠して、固い顔で頷いた。 「聞いてしまって、それがどのような答えであれ、ボーン様との関係が壊れ、騎士になれなくなるのが嫌だと思っていました」  後半の“騎士になれなく……”は、付け足しだった。本当はさほど問題にしていなかったように思う。しかし心の奥底では考えていたのだろうし、ただ“ボーンと仲が悪くはなりたくなかった”と言うのが恥ずかしかったので言い添えたのだ。その方が利己的に見えて、必要以上に人と近づかずに済むから、という打算も働いていた。期待をかけられたくはない。  目立った行動を取りたくない、という意識が働くようになったのは、多分トマジに言われてからだ。知らない人間にまで“ガルダン・マハ”が有名なのだと聞かされて以後、仏頂面に磨きがかかった気がする。離れた所から人を眺め、心の裏を読む癖を身につけてしまった。 「お前がどう判断するかは、任せるさ」  ふと見るとボーンは、2杯目を注いでいた。少々鼻が赤くなって来ている。ボーンが酔う所を、ガルダンは初めて見た。 「“国境の盗賊”と取引を始めたのは、6年前、丁度お前に会う少し前だ。隣国エルアルバとは昔から険悪で、牽制が続いている。盗賊の頭が向こうで反乱軍を起こそうとしている男だと分かったので、わざわざスパイを送り込むこともない、奴らを使っておった。奴らに適当に暴れてもらっとるうちは、エルアルバも我が国に攻め込んで来る余裕がなくなるし、戦力低下にもなるからだ」  じっと微動だにせず聞きながら、ガルダンは矛盾を感じて口にした。 「そんな契約がされているなら、討伐隊結成は変じゃありませんか? それに、ボーン様が俺をその隊に加えたことも、疑問です」 「一度に言うな」  ボーンは苦笑して、また杯を開けた。急ピッチだ。もしやこの話をする為に、ボーンはかなり神経を使っており、酒の力を借りて話しているのではなかろうか、とガルダンは思った。そしてもしかするとボーンもまた、ガルダンへの接し方に非常に気を使い、臆病にすらなっていたのかも知れない。ボーンとてただの人間なのだ。ガルダンはふと、そんな考えに行き当たった。 「討伐隊結成は、最初は本当に討伐に行くのだと、わしは思っておった。“国境の盗賊”に内部分裂が起き、我が国を荒らしだしたと聞いたのでな」  肩を落としてボーンは言い、3杯目を注ぐ。飲み過ぎだと思い、一瞬諫めようかと思ったのだが、言いそびれた。 「ルガイヤ殿は志も高く、城内での力も持っている。志が高い、とは思えんか? だが彼は国の為一番働き、色々なものも犠牲にして来た男だ。……親友だった」 「だった?」 「討伐隊の件が決定打になり、意見を違えたままだ。奴は分裂した盗賊共とも手を組んだことが分かっている、何やら企んでおるようでな。何をか聞かせてはくれぬし、ガルダン、お前のことでも奴はわしに脅しをかけて来おったのでな、今ではすっかり他人だ」  自嘲気味に呟いてボーンは、また口を湿らせる。話をすること自体の抵抗と言うより、ルガイヤの名を出すことのやるせなさのようなものが、そこにはある気がした。きっと、本当に親友だったのだろう。 「大した脅しではない」  ガルダンが聞くより先に、ボーンは気付いてくれた。 「わしが盗賊と通じている、とお前に言うぞと言われただけだ」  また顔をくしゃっと歪めて、ボーンは言った。どことなく苦い顔。  そこまで聞けば、ガルダンは2番目の自分の質問へ自分で答えが出せた。3年前、討伐の話の時はまだ2人に信頼関係があったということだ。あれを機にガルダンは騎士に昇格出来るはずだった。ボーンが隊に一緒でなかったのは“マハ”の名が有名すぎて、返ってその名を持つガルダンの足手まといになるのを避けた為だろう。 「あの時、」  思わず口を突いて出た言葉を引っ込め――思い直してガルダンは、また口に乗せた。 「“盗賊と通じている”と聞いても動じない心を、俺が3年前に持っていれば」  そうしたらボーンは隠さず教えてくれたのだろうし、このように遠回りをする必要もなかった。 「いや」  ボーンは、ガルダンの後悔を取り除くだけの、微笑みを向けた。 「お前は充分大人だ。わしこそ、わしが、悪かった」  そう言ってボーンは、机に肘を突いたまま、頭を下げる仕草をしたのだった。  ボーンの“初めて”を見る、何と多い日であろうか。ガルダンはボーンが自らを「悪い」と言うことも、初めて聞いた。ガルダンに対して対等になってくれていると言うことなのだろう。 「いえ……。教えて頂き、ありがとうございました」  それだけの厚い心を受けてなお笑顔1つ出せず、固い礼儀しか出せない自分に、自己嫌悪する。だが自分がボーンを見る目は、以前よりはるかに柔らかく感じる気がして、少しでも変わっていれば良いだろうと自分に言い訳するのだった。  しかし。  折角打ち解けたように思えた、折角溶けた氷がまた温度を下げるような言葉が、ボーンから浴びせられるとは、ガルダンは思いもしなかった。  杯を置き席を立つガルダンに、ボーンが若干ためらった顔をし……。 「はい?」  退室しかけたガルダンは、彼の顔色を読んで立ち止まった。  ガルダンが立ち止まったので仕方なく、と言う感じでボーンは口を開いた。 「話は変わるが、サーリャのことだが……」  歯切れが悪い。ガルダンは体の向きを変え、ボーンを真正面から見下ろした。  ボーンは4杯目を注いだ。 「お前も相当に知識を身につけたのだから、言うことはなかろうと思っていたのだが……。ただ会うだけで彼女を引き取れないのなら、ひんぱんに会うな」 “会わない方が良い”という言い方ではない。この2週間、殆ど1日おきに彼女と会っていることを密かに懸念していたらしい。  かなり思い切った発言だったのだろうと思われる。  ガルダンの受けた衝撃も、尋常ではなかったから。  転落 2.  ガルダンは入室前とは違う悲しみを背負って、退室しなければならなくなってしまった。  気持ちとしては通じ合えたと思えても、考え方・思想が根本的に違うことを痛感してしまったのだ。すりあわせて改善して行くも困難なほどの壁が見えてしまい、せっかく晴れたガルダンの心中はまたも暗雲に覆われたのだった。  感情のすれ違いでなく、身分と生活環境が生んだ概念の差なのだ。そこに誤解はない。  会うなと言われたばかりだったが、いや、言われたからこそだ。無性に会いたくなり、ガルダンは孤児院を訪れてしまった。誰が見ているかも分からないのだ、と言うボーンの言葉は逆に、どうして見られてはいけないのかが分からなかった。いや、頭では分かっている。騎士と奴隷だからだ。だがそれを心の糧にして生きて来たガルダンには、理性では納得していても、心がそれを許さない。  孤児院までの道は、体に浸み込んでいる。  いつも玄関まで彼女を送っていたからだ。  門をくぐりかけたところでガルダンは、孤児の少年にサーリャが外出中だと告げられた。 「じゃあ礼拝堂で待ってるって言ってくれないか」  黒髪の少年はこくりと頷き、また建物の中に入って行った。逃げ帰るように走る彼の黒い目は、確かに怯えていた。ガルダンを怖がったのだ、自分とは違う人種だから。扉の開いた向こうにちらりと見えた2,3人の子供たちは皆黒髪に見え、全員クグライバル人なのかなとガルダンは思った。  孤児院は、教会の裏にある。  孤児院の中にも入ったことはなかったし、教会も初めてだった。  そっと礼拝堂の扉を開けると、色とりどりの光が溢れていた。大きな丸いステンドグラスは正面にあるのだ。外から入って来る光を吸って、内側に神々しい輝きを落としている。祈りの日ではないので人がまばらなのだが、それでも全くいない訳ではない。ガルダンは一番後ろの席に座り、目を細めてそれを眺めた。人の大きさほどもあるガラスが鮮やかに室内を照らし出す様子は、すすけたガルダンの心に感動を与えた。  だが、その一方で。  このような代物を作ろうとしたら一体幾らかかるのだろう、と冷静に思う卑しい自分がいた。  所詮、下卑は下卑。きっとボーンとどころでなくファバムとも、完全に心が通う日はないのだろう。  ガルダンとて色々な本を読み、色々な知識を頭に入れた。奴隷を「物」として扱う考え方は知っていたし、自分はそれに染まりたくないと思っていたが、いつの間にか「金を溜め、サーリャを買い取る」と思っていたこともあった。サーリャと出会って2週間の中にも、それを感じる時があった。いつの間にか、変わっていたのだ。  それが常識として最初から教育され続けている者なら、なおさら考えはくつがえせない。例えガルダンの想い人であっても心の支えだったとしても、ボーンの中でのサーリャはやはり“奴隷”なのだ。それ以上の存在にはならないし、なれないと思っている。いや、思いつきもしない。それはボーンのせいではない。例えて言うなら、家畜を敷地内に上げ寝食を共にするようなものなのだ、バルドナット人にしてみれば。  近年その動きが変わって来たとは言え、まだまだ全体の意識は変わらない。  トントンと、軽く肩を叩かれた。  ガルダンは危うく険しい顔のまま振り向きそうになって、深呼吸してから後ろに立つ相手を見た。  声を出そうとして、制された。教会の中で私語は慎まれる。サーリャの付いて来いという合図に添って立ち上がり教会を出ると、 「突然、すまない」  約束もなしに訪れた非礼を、ガルダンは詫びた。  一歩前を歩いていたサーリャが、ちらりと振り返って苦笑した。いつも次に会う約束をしていたし、会うのは夜だったからだ。彼女に休日はない。まさかまだ日の落ちきらないこんな時間に押しかけて来ると思っていなかったので、少年からガルダンが教会で待っていると聞いて驚いたのは、事実だった。  サーリャは忍び込むように、孤児院の扉を開けた。  建物の名から受ける印象より、孤児院は広く清潔だった。先ほどサーリャ宛に伝言を頼んだ少年が、おぼおぼとだが笑みをくれて、ガルダンは少し安堵を感じた。廊下を歩くと沢山の子供たちに出会ったが、彼ら彼女たも「こんにちは」とはっきり言うよう、心がけているようだった。全員、黒い髪と黒い目をしていた。 「こんな場所しかなくて、ごめんなさい」  2人がいつも使うパブは、日が落ちてからしか開かないのだ。ガルダンとしては町中を散歩するでも草原に寝ころぶでも、場所など気にはしないのだが、サーリャが人目に触れず会うことを望んでいた。 「いや。俺が悪い、急に来たりなどするから」 「あ、ううん。嬉しいのよ。嬉しいんだけど、ちょっとびっくりしただけ」  肩を竦めながらサーリャは、廊下の奥の応接間らしき一室の扉に手をかけた。 「あ」 「おや」  先客に、サーリャが固まった。  それからガクンと、慌てて膝を突く。ガルダンは視界が開けた向こうに座る人物を、しげしげと眺めた。 「ガルダン、」  気付いたサーリャが彼にも膝を突くよう、目配せした。だが彼は、自分が理解しなければ平伏しない。仕方がなさそうに、サーリャは早口で言った。 「司教様よ」 「良い良い」  司教と言われた男は威圧感を持たず、綺麗に切り揃えられた白髪の下に人の良さそうな笑みをたたえていた。やせぎすで、王宮の連中のように脂が乗っていない。むしろ様々な苦労があったのだろう疲れが顔にこびりつき、頬がこけている。だがその笑みは、暖かかった。  王が全ての人間をひれ伏させる力の持ち主なら、彼は全ての人間を包み込む力を持っている。そんな広さを感じさせる老人だった。 「こちらに」  狭い部屋の中央に、木造の簡素なテーブルと4脚の椅子。応接間などと言うには貧素すぎたが、それでも水差しとカップが常備してあった。おずおずとだがサーリャが立ち上がり、テーブルに3つのカップを用意し始める。その後に続いてガルダンも部屋に入り、後ろ手でドアを閉めた。 「王宮で2度ほど、見たことがある」  司教はそう言ってガルダンに笑いかけ、椅子を勧めた。  ガルダンとしてはサーリャ以外の他人と話すつもりなど全くなかったので、つい不機嫌が顔に出そうになった。元々、人見知りのきらいがある。孤児院でなく、教会で待ったのもその為なのだ。もっと子供たちと仲良くなれる性格なら、とっくに城でも上手く立ち回っている。  だが頼みのサーリャは、しゃちほこばってしまってガルダンにまで気が回らない様子である。諦めてガルダンは席に着いた。  サーリャがカップを置く。湯気がなく、水に近い透明さだった。かすかにラタの葉の匂いがした。水出しで飲める茶である。季節がもう冬に入る直前に、ラタティーは珍しい。いつも湯を沸かせるほど豊かじゃないということなのだ。 「ファバム様の親衛隊に変わり者がおる、と評判じゃ」  急に言われて、 「は?」  思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。滅多にないガルダンの驚き顔に、サーリャが口を押さえて小さく笑った。  ガルダンはこの老人と面識がない。王宮で会った、でなく「見た」と言うのだから、中庭で剣の練習をしているところでも見られたと言うところか。  確かに彼の衣服は上等だった。さすが、あのステンドグラスを作るだけのことがある。地味な色合いだが、見る者が見れば庶民には到底手が出ない品だ、と分かるだろう。この格好のまま王に謁見しても、充分だ。  司教は何も気にしていない風に笑って、テーブルの上で指を組んだ。 「わしが眺めていただけじゃからの。君はわしのことは、見ておらんだろう。ガルダン・マハ」 「名前まで」  思わずまた、呟いてしまう。それを恥じるように口をつぐんで、ガルダンは憮然とした顔を作った。それを見かねたサーリャが横に座り、申し訳なさそうに言った。 「私が司教様に言ったの。ガルダン・マハって知ってますか、って。そしたら調べて下さって……」  おどけるように肩を竦めるがサーリャの笑顔には、怯える目と罪悪感が込められていた。ガルダンの視線を咎めていると感じたのだろう、サーリャは笑顔を消した。 「だって……。騎士だって言うだけで、どこで何してる、とは何も教えてくれなかったから」  言われるまで気付いていなかったのは、間抜けだと我ながら思った。自分が彼女といて居心地が良いからと言って、肝心なことを何1つ言わず、彼女を不安にさせていたのだ。  多分この孤児院の中で司教は、父親のような存在なのだろうなとガルダンは思った。それ以上かも知れない、包み隠さず全てを話せるのだから。ガルダンのことも。  サーリャを引き取りこの孤児院で働くよう手配したのも、全て彼なのだろう。  他人の前なので多少照れくさかったが、ガルダンはサーリャを許す意味で笑みを作って見せた。  転落 3. 「ファバム様の親衛隊だというのは、わしが勝手に調べたことじゃ、この子に罪はない」  ガルダンの顔色を読んだ司教が、言い添えた。 「すまなかった」 「いえ」  ガルダンは軽く頭を下げた。  勝手に調べたからと言って、すんなり謝ってくれる者も珍しい。好感を覚えてガルダンは、若干緊張を解いた。 「のう、ガルダン」  司教は突然、話題を変えた。 「この孤児院を、どう思う?」  どう思う、と言われても。  隣に座るサーリャの肩が強ばった気がして、ガルダンは彼女の母親が相当酷い扱いを受けていたことを思い出した。連れて来られる時も不等だったらしい。サーリャのことはセオ家の場合引き取って面倒を看ていたが、そんなことは稀だ。普通はそのまま捨てられるか、人買いに持って行かれる。  そんなクグライバル人は、多い。 「わしは行く行くは彼らを、祖国に戻してやりたいと思うとる」 「祖国」 「クグライバル国に」  司教はラタティーを一口含んでから、こともなげに付け加えた。 「もしくはこの国で自由に暮らせるよう、市民権を与えて平等の立場を実現したいものじゃがな」  ガルダンのカップを持つ手が凍った。  ショックだった。  頭をハンマーで殴られたように、目の前が一瞬くらっとした。  ボーンに対して受けた衝撃とは全く異質である。心が浮き上がるような高揚感だった。  無理もない、10年来諦め続けて来た同志に、突然出会ったのだ。心が躍るのは「平等」という言葉によってである。意味は知っていたが読書中には滅多に出て来ず、まして人の口から聞いたのも初めてなのだ。  バルドナット国民で、しかも王宮に出入りするような高い位にいながら、平等という思想を持っているとは。  考えてみればクグライバル人の、しかも孤児の為だけに、教会の裏に建物を造るような人物だ。それだけのことを考えていても、おかしくない。  自分はまだ、彼のことを胡散臭く見ていた。ガルダンは急に、恥ずかしく思った。  なのに、 「でも市民権なんて。無理だ」  その思いに反してこんなことしか言えない自分の性格に、言ってから落ち込んだ。 「無理かどうかは、やってみてから言えば良い」  あっけらかんと、司教は言った。2転3転するガルダンの気持ちに、気付いていないかのように。  それから急に、声を落とした。 「ファバム様さえ、おらなんだらな」 「え?」 「イスク様と、対立なさっておられる」  頭を低くした司教の目線に合わせて、思わずガルダンも頭を下げた。つられて、サーリャも顎を引いて眉をひそめている。 「イスク様はお優しい。王様もそうだ、そろそろ王位を継承なさるであろう。だがイスク様の性格では、政治を弟に乗っ取られかねんと思わんか?」  考えたことがない、とは言わない。少なからずそれを思った時はあった、イスク様よりファバム様の方が王位にふさわしいのではないか、と。だがファバム自身がそれを望んでいるとは思えなかった。 「口をはさんで、ごめんなさい」  申し訳なさそうに、サーリャが軽く手を上げた。困惑した表情だ。 「おお、王族の名をよう知らんかったか」  と言う司教の言葉に、ガルダンは少し、あ、と思った。王族のゴタゴタは、ここまで響いて来ない。あくまで別の世界になってしまっているのだ。 「ファバム様とはな、第1王位継承者であられるイスク王子様の弟君なのじゃ。兄上が頼りないので、それを良いことに王位を狙っておられると言われとる」  司教の神妙な物言いに、サーリャも顔を険しくして頷いた。  内部の事情を何も知らない平民が、このように言う司教の言い方だけしか聞いたことがなければ、ファバム様は悪人ということになるな。と、ガルダンは思った。確かにそんな噂とてないでもないが、多少城の事情を分かっていると、司教のこの言い方には偏見が入っていることが伺い知れてしまう。  かと言って反論出来るほど、何ほどをも知っている訳ではない。 「イスク様は信心深い。“奴隷”なる先人の決めた強制的な制度を、憂いておられる」  サーリャはもう口を出さず息を飲んで、じっと司教の言葉に耳を傾け、ガルダンの様子を見守っているようだった。ガルダンの表情がどう変わるのはを、見たいらしい。 「ファバム様がおらなんだら、イスク様なら、奴隷解放を実現してくれるのだ」  司教の語り口が徐々に熱を帯び、気付いて彼は咳払いをして座り直した。身を乗り出していたことにも気付かなかったのだろう。彼はラタティーともう1口飲んだ。  ガルダンも冷茶を口に含んだ。  2度も「ファバム様さえいなければ」と連呼されれば、嫌でも分かる。司教がガルダンの返答に期待をかけているのは分かったが、だからこそ彼は何も言えなかった。ファバム暗殺、などとは。  ファバムとは相容れないのかも、と危惧はしても、まだそこまでの決心などつくはずもない。だが行く行くは、それがサーリャの身を全くの自由に出来る手段だと言う甘い誘惑はあり、それがガルダンの心をもたげた。 「少し、早計だったね」 「ガルダン」  肩の力を抜いて笑う司教の様子に、サーリャがガルダンを咎めるような声を上げた。司教が軽く手を差し伸べ、そんなサーリャを制した。 「エルアルバとの開戦は、押さえ切れなくなっている。その前にファバム様に消えていてもらわないと、余計な血が流れることになるのだ。王宮には大司教様がおる、色々と良くして下さるはずじゃ。じゃが所詮聖職の者には、国を変えるだけの力はない。親衛隊におる君ならと思い、サーリャの友人であるとも知って、ついペラペラと話してしまった」  司教は一気に言い終えるとカップを干し、サーリャに笑いかけてから立ち上がった。後はお前たちの時間だ、とでも言うように。  日が、もう色づき出している。 「時間は少ない。悠長に考えておる時間はないぞ」  司教は釘を刺すような言葉を残し、最初の印象と変わらないゆったりした調子で部屋を出た。  転落 4. 「おや、今日は1人かい?」  肉付きの良い体格の上に朗らかな顔を乗せて、店主が注文を取りに来てくれた。この男は、金髪だ。  クグライバル人を受け入れてくれるパブである。だが店主は、髪の色が示す通りクグライバル人ではない。だが彼は訳へだてなく、愛想が良い。最初奇異の目で見られたガルダンを快く迎えてくれたのが、彼だった。サーリャが一緒だったからだろうとも思ったものだったが、やはり今日も変わらない笑顔に、何となくガルダンは安堵した。  ああ1人なんだ、と言いかけたガルダンの台詞を、 「いいえ、2人よ」  追いついたサーリャが取り上げた。 「仲の良いこった」  声に出して笑う店主に2人前の酒を注文したサーリャは、息を整えてからガルダンの向かいに座った。 「やっぱり追いかけて来ちゃった」 「……」  すまないとも帰れとも言いかねて、ガルダンは目を泳がせた。1人で飲みたい気分だったはずなのだが、このパブに来たと言うことは、無意識にサーリャに来て欲しいと思っていたかも知れないのだ。  心の整理が付かなくて、ガルダンはやるせない気持ちになった。 「驚く話だったわ」  小さく言ってサーリャは運ばれて来た自分のジョッキを、ガルダンのそれに合わせた。コンと鈍い音がした。 「せっかく会いに来てくれたのに、変なことになっちゃって」  ごめんね、とサーリャは呟いて、 「今日はおごるわ」  と言い出した。 「え」 「たまにはね。いつもおごってもらってばかりじゃ、悪いわ。今日、ラグマットが売れたの。頑張って織った甲斐があったわ」 「そんなことまで、」  してるのか。と言いかけてガルダンは、口をつぐんだ。  そんなことと言ってもラグを織る程度ならむしろ日常であり、毎日寒空の下で日が暮れるまで農作業に追われていた過去よりは、楽な生活なのだ。それさえ重労働だと思えてしまう今の自分の生活が、どれだけ安穏としているかと思うと、ガルダンは恥ずかしくなった。  自分の側に来てくれるなら、そんな仕事はさせないのに。と思う、それは傲慢だ。だがそう思っていても、時々言いたくなる。 「サーリャは……。あの孤児院を出る気はないんだな」  言ってから自分のことが情けなくなり、言葉を戻そうとするかのようにガルダンは、息を飲み込んだ。  サーリャには、分かる気がした。ガルダンのこんな弱気な発言の理由も。  だが今彼の元に行ったところで、自分の立場はやはりよそ者のままなのだ。サーリャは首を振った。 「司教様はね、私たちクグライバル人の為にあの孤児院を建てて下さったのよ。教会にみえる方々も優しくしてくれるし、何より、子供たちの生き生きした顔を見られるのが嬉しいの」  だろうな、とガルダンは思った。  奴隷としてこき使われるのでなく、自分たちが自分たちの為に働き生きて行けるのだ。体調を崩せば看病してくれる者がいて、一緒に笑いながら同じ食卓で食事が出来る仲間がいる、そんな幸せなことはない。市民なら普通に誰もが持っている権利を、彼らは孤児院でのみ、掴んだのだ。  誰にも何も言わせない。一生守って行く。思いはしても、口にしたとしても、実現が難しいことをガルダンは肌で感じてしまっている。本当に充実した幸せな生活を彼女に提供出来ると約束出来ない。自分と会っているだけで彼女が満たされた気持ちになってなどいないことを、ガルダンは分かってしまうのだ。  約束出来ない自分に嫌悪もし、そんな社会に対しても腹が立った。  こんな社会。 「イスク様なら、か」  うっかり呟いてしまい、ガルダンは口を閉ざして周囲を見回した。どうもサーリャといると、ガードが甘くなる。周りの客で彼の言葉を聞き咎めた者はいなかった。それを聞いたのは、サーリャだけだった。 「司教様に言われたこと、考えてしまっているのね」  初めて会った時と同じようにサーリャは、俯くガルダンの頬に触って彼の顔を覗き込んだ。 「本当はあなたが優しいってこと、分かってるつもり。でも、あなたには辛いでしょうけど、決断して欲しいわ。司教様はそれを具体的におっしゃらなかったけれど、私にも分かったもの。あなたに期待してるってこと。私も、期待してしまった」  サーリャの口調が、段々熱くなって来た。司教の熱弁の時の目と似ていた。 「もし本当に奴隷解放がなされるなら。私は自由だわ。誰の目も気にしなくて良いのよ。何て素敵なこと! 私が、あなたと同じ人間になるのよ! ……あなたなら出来るわ」  力強く励ましてくれるサーリャに、まだ頷き返す気にはなれなかった。  少しずるいなと思うのは、2人ともガルダンに“暗殺しろ”とはっきり言わないところだ。だがガルダンはそう解釈してしまったし、司教もサーリャも、ガルダンが理解しているのを承知の上で喋っているとしか思えない。そんなに顔に出ているのか、とガルダンは改めて自分の素直さを呪った。 「私を救うと思って。なんて言ったら、重荷になっちゃうかしら」  ガルダンは顔を上げて、サーリャの目を見た。そこには後ろめたさや罪悪感など見あたらない。自分たちの言い分が正しいのだと確信している顔だった。確かに言い分としては正しいだろう、ガルダンの思う「正義」とも一致している。  しかし本当にファバムを殺す必要があるのか?  その一点だけは心に引っかかった。確かに奴隷に対する考え方が、ファバムも自分よりだとは思わない。むしろボーンと同じことを言うだろう。とは言えこの点だけは、どうしても一度彼に会って確かめたいと思う点だった。  少し視線をずらすと斜め上から見下ろす形で、襟元の傷が見え隠れしていた。大きな、ひどい火傷の跡。  それを目にするたび、ガルダンの胸は締め付けられるのだ。  消えない過去だが、消せるほどの喜びをサーリャに与えたい、と思い続けて来た。  それが、今なのだろうか。  サーリャの為に。  クグライバル人の為に。  バルドナット国の未来の為にも。  ガルダンは息をつめ、一気に酒を飲み干した。  まずは明日、ファバムに会おう。それからだ。  酒を飲み下すと共にそう自分を落ち着け、ガルダンは溜め息をついた。  苦い酒の後味だけが、いつまでも喉に残った。  転落 5.  計ったかのような。  まるで誰かに操られているような嫌な感じを憶えつつ、ガルダンは呼ばれたファバムの部屋の扉をノックしたのだった。  本当なら、自分からここに訪れるつもりだったのだ。無論、ただの一兵士にすぎないガルダンがここまで来る為には、途方もない許可を必要とする。だから逆にファバムに呼ばれてすんなり上がって来られたのは、幸運なのだ。何も裏を考えなければ。 「――え?」  入室を許されたガルダンへ最初にファバムが浴びせた言葉は、意外でもあり必然でもあり、氷のように冷たかった。 「クグライバル人となぞ、会うな」  心のこもらない言い方に、ガルダンは自分の顔色がすっと変わったのを感じた。すぐに言葉は出なかった。  ボーンが告げ口をしたとは思わない。だがサーリャと共に歩いている所を誰かが見つけ、ファバムに上告したのは、間違いない。  誰が。 「そのようなこと、誰が言ったのですか?」 「無礼な物言いの多い奴だ。事実かどうかだけ、答えろ」  溜め息を飲み込んで、ガルダンは胸を張った。 「後ろめたい行為は、ありません」 「本当なのだな」  ファバムは苦い顔をして、椅子を転かしそうなほど深くもたれた。ボーンの書斎の5倍はありそうな広い部屋に、今は2人だけだ。ガルダンはふと昨日の司教たちの言葉を脳裏に浮かべ、振り払った。 「なぜ会ってるか、じゃない。会うことが問題になるのだ」  納得出来ない。 「……奴隷だからですか?」 「質問をするな!」  ただ命令を下すだけの、一方的な言葉しか持たないファバムは「会話」を嫌う。知らない訳ではないだろう、時々ポツリと本音らしきものを洩らすのだから。だがそれを相手に受け入れられると思っていない。ガルダンもそれは同じなので良く分かったし、だから今はファバムを見てサーリャに会い、自分が変わって行けたと感じている。  だからファバムにも親近感を感じていた。  今までは。 「話はそれだけだ。行け」 「……行きません」 「何?」  怪訝なファバムの目が、ガルダンの顔を捕らえる。まっすぐ立った彼の手は太股の横で強く握りしめられており、ファバムを見る目は今までにない感情を映していた。 「納得出来る理由がなければ、退室しません」  我々バルドナット国の民と、彼らクグライバルの人間にどれほど違いがあると言うのだ、とガルダンは考えている。バルドナット人でありながら奴隷の立場に落とされ虐げられて、サーリャを好きになった自分だからこそ。  今までは自分だけに備わった特殊な思想だと思っていたが、この城内にすらそれを自覚する者がいるのだ。ファバムがそれを分からない男だとは思いたくない。だがボーンほどの者でも、ああなのだ。サーリャにしてみても、ああなのだ。まだ身分を感じる、自分を卑下した物の言い方。他のクグライバル人の考え方は知らないが、もっと卑下した考えをしている可能性もあろう。そんな心を彼らに植え付けたのも、自分たちだ。だが、彼らにはもっと堂々として欲しかった。  上の者と下の者の、考え方の歩み寄り。  そんなことを願う自分は、甘いのだろうか? 「相手がクグライバル人だからだ。それ以上、言えん」  またも冷たく荒々しい言葉が、鉄槌のようにガルダンに打ち下ろされた。まるで彼の願いをあざけるかのように。 「クグライバル人を蔑むのは、間違いです!」  顔が上気しているのを感じながらも、ガルダンはつい声が大きくなるのを止められなかった。 「質問の次は、私に意見か?」 「意見ではありません!」 「では命令か」 「違う!」  語気が荒くなりすぎた自分の声に驚いて、ガルダンは一旦つばを飲み込んだ。 「ここでこの話を始めたのは、間違いだった」  ファバムは独り言のように呟いた。 「お前の考え方は、危険だ」  座って彼を見上げていたファバムだったが、落ち着かない様子で立ち上がった。だが毛の柔らかな生成り色の絨毯が敷き詰められており、かかとを打ち鳴らすかのように歩いても、音は全て吸収された。 「お前が今の政策に不満を持っていると言うことに、違いはない」 「ええ不満ですね」  はっきり“不満”が自分の中で形になってしまっているのだ、それを偽ることは出来ない。  ガルダンは、ファバムが口を開く前にまくしたてた。 「このままじゃ良くないんです! エルアルバも我が国を狙っている、そんな中で! クグライバル人を奴隷にし続けることに疑問を抱いているのは、私だけではありません!」 「エルアルバとクグライバルは関係なかろう!」 「あるんです、俺なんかよりよっぽど危険だ!」 「昔からの常識だ、簡単には変えられん!」 「そんな常識なんか!」  ガルダンの声につられて、最初は冷静であろうとしたはずのファバムも、心に余裕がなくなっていた。頭に血が上り、声が荒くなっている。 「ファバム様だけじゃない、ボーン様も! バルドナット人にだって限りなく黒に近い髪や黒みたいな目をした人間だっているのに!」 「顔つきが違うではないか! お前に何が分かるか!」  ファバムも怒鳴り声になっていた。  掴み合いの乱闘にならないだけが若干ましと言った様子である。 「ああ分からないね、俺には。昔戦争で勝った? だから負けた国を奴隷にして良い、と? じゃあ今度エルアルバに負けたら、俺たちが家畜だ! 俺は奴隷だった。自分の親に家畜扱いされ、こき使われた! そんなのは間違ってるんだ、俺がクグライバル人じゃないからじゃない! 同じ人間なんだ! 平等なんだ!」 「止めろ、黙れ! 王族愚弄だぞ! 誰か!!」  ガルダンの声に重なって金切り声を上げたファバムの、一番最後の台詞に反応した兵らが、待ってましたと言わんばかりに飛び込んで来た。  バタン! と扉を蹴破るかのような大きな音に、一瞬2人はびくりとなり声を奪われた。 「連れて行け! 謹慎だ!」  だがすぐにファバムが叫び、ガルダンの両腕が掴み上げられた。入って来た兵士は1人や2人ではない。4人ほどがドヤドヤと入って来て、よってたかってガルダンをはがいじめにしたのだ。 「離せ! 離してくれ! まだ話は終わってない!」  部屋の外に引きずり出されそうになるのを抵抗して呼びかける自分の声が、やけに空しかった。 「ファバム様!」  しかしこの後、奇妙なことが起こった。  転落 6.  飛び込んで来た兵士たち。  2人がガルダンの腕を掴みねじ上げようとする一方、後の2人がガルダンから離れ、突如ファバムに向かって剣を抜いたのだ!  ファバムとの距離など、何メートルもない。一秒が数分にも感じられそうな混乱がガルダンの頭を駆けめぐったが、考えるより先に大きく鋭く、叫んでいた。 「剣を抜け!!」  自分より階級が上の者に会う場合、手ぶらとなる。騎士でもだ。まして相手は王族。しかし当然その逆のファバムは、常に剣を携帯しているのだ。  ファバムは目前に起きた不可思議な出来事に驚愕したがしかし、反応は早かった。ガルダンの声を聞くとすかさず剣を振り、兵の一刀を受け流したのだ。またガルダンが叫ぶ。 「なぎはらえ!」  うろたえたのは兵の方だ。  よもやファバムが迅速に剣で対応して来ると思っていなかったらしく、隙だらけである。横にぶんと振られた剣に気圧され、手が出せなかった。 「こいつ!」 「うわ!」  叫びは、ガルダンの腕を抱えていた2人が起こした。  ガルダンを斬ってしまえとばかりに2人が同時に腰の剣に手をかけた為、拘束の緩くなったガルダンが暴れ、彼らの手から逃れた。しかもただ走り逃げるのでなく、きっちりと片方には肘打ちを、片方からは剣を奪い取って斬りつけることも忘れない。もはや本能と言って良い戦闘能力だった。 「ファバム様!」  自分を羽交い締めにしていた2人には目もくれず、ガルダンはファバムの方に走って、背中から1人を斬りつけた。無論卑怯だし、騎士にあるまじき行為である。  だが突然、何の脈絡もなく襲って来たのは彼らだし、何より、ファバムを斬らせる訳には行かないのだ。まだ話が終わっていないのだから。  と言うのは、斬ってから崩れる男の背を見て、後から思ったことであり、実際は何も考えていなかった。 「引け!」  ガルダンを自由にしてしまい、しかも剣を取られては、数では3対2でも分が悪すぎる。そう判断したのであろう兵らが叫び、ファバムと斬り結んでいる仲間を見捨ててすぐに走り出していた。 「待て!」  ファバムと剣をやり取りしていた男も、逃げようとした。それをガルダンは、剣を振って止めた。 「ぎゃああぁぁぁ!」  男の足を1本、切り落として。  苦悶の顔でのたうち回る兵を見もせずに、後の2人は走り去った。  時間にして何分もなかっただろう、一瞬の出来事だった。  そのすぐ後に、2,3の見知った顔がどやどやと流れ込んで来たのだった。 「何ごとでございますか?!」 「あっ?! い、一体……」  ガルダンの持つ血塗れの剣と、血の海の中にうずくまる男たち2人に交互に目を移し、親衛隊の騎士たちは絶句した。 「2人逃がした! そこで見なかったか?」  ファバムが剣を収めながら言った。しかし彼らはここに入ることに気を取られて、周りを見ていなかったらしく、困惑した表情だった。  ガルダンが足を斬った男の側にしゃがみ、剣を床に置き――ドン、と片手で男の肩を押さえつけた。 「何が目的だ。首謀者は誰だ?」  先ほどの激しさとは打って変わって、恐ろしく低い冷静な声を出すガルダンに、皆がぞっとした。彼が本気で怒っているのが分かるからだ。返り血もこれ以上ないほどに浴びており、鬼さながらだった。  男はそんなガルダンに戦いたが、突然かっと目と口をいっぱいにまで開くと、 「!!」  思い切り、閉じた。  ぶちっと言う舌の切れる音が聞こえそうな勢いだった。  血だまりの中に、ピンクがかった赤い肉片がびちゃっと落ちた。  途端に男の全ての力がなくなる。  計ったかのように、もう1人も絶命した。  ガルダンも押さえつける理由がなくなったので、諦めたように立ち上がった。膝から下の前面が真っ赤に染まっており、髪や顔、胸にも血の飛んだ跡が残る。室内に漂う空気には、むせるほどの血の匂いが充満していた。  だがファバムだけが戦慄していなかった。 「申し訳ありません。何も聞かないうちに……」 「仕方がない」  ファバムは溜め息をつきながら歩き、どっと椅子に体を投げ出した。  そして困惑している騎士たちに、 「突然襲いかかられた」  とだけ言うと、机の端に手を伸ばした。が、すぐに目的のものがないことに気付き、 「誰か、水を持って来てくれ」  手を引っ込めて苦笑した。  3人は一瞬ぽかんとしたが、1人が反応し、はいただいまとか何とか言いながら駆け出して行った。ガルダンも、3人のこの反応は頷ける。ファバムが「持って来てくれ」などと言うとは、誰も想像出来ないことだろうからだ。  何か言おうと思ったが、ファバムの沙汰を待った。残った2人の騎士もガルダンに何かを聞きたそうなそぶりを示したが、ファバムの前なので黙っていた。  待たれていることを知って、また少しファバムは苦笑した。 「首謀者の心当たりはあるか?」 「いいえ。……明確には」 「憶測でも構わん。引っ捕らえはせん」  ガルダンは司教の名を出そうか否か、迷った。  だが司教はガルダンに暗殺をほのめかしたのだし、城内の人間でもない。兵などを動かせる立場にはないだろう。 「お前が指示したのではないか?」  騎士の1人がたまりかねたようにガルダンに言った。嫌な言い方だった。  親衛隊の仲間全てが、仲間な訳ではない。現に、ボーンのことを噂した張本人が隊長だと言う話も聞いているのだ。  4人(正確には2人と2体になってしまったが)は、知らない顔だった。だが城を警護する兵の服を着ている。騎士の1人が言ったように、彼らがガルダンの手駒なのだとすれば、ガルダンはどうやってその服を調達して、彼らをファバムの元まで入れて来ることが出来たのだと言うことになる。ガルダン自身がここまで来るのも簡単ではないと言うのに。  それに、その自分の手駒と応戦してファバムを救い、まして斬りつけて殺しているのに何の意味があるのだと言うことになる。正直、ただの言いがかりだ。  だがその言いがかりをつけた騎士は、言うではないか。 「人を斬って、自分の強さをファバム様に誇示したかったのだろう」 「それは問題だな」  その声がなければ、ガルダンは怒りで反論していたかも知れない。だが良いタイミングの横槍が、ガルダンの気を削いだ。声は固く、怒気を含んでいた。  騎士の荒唐無稽な推測に反応したのは、ファバムではない。  部屋にはいなかった別の声はドアの影から聞こえ、皆は一斉にそちらに顔を向けた。  ボーンだった。  大股に歩いてくる彼の背にマントが翻えっていると言うことは、どこからか帰って来たばかりなのだろう。 「殿下の一大事に間に合いませんでしたこと、深くお詫び申し上げます」 「良い。そなたは私の配下ではない」  ボーンがうなだれた頭を上げさせて、ファバムは言った。戦闘で脱力した為か、逆に清々しささえ感じられる顔をしていた。  ボーンの後ろから、先ほどの兵が水を運んで来た。血だまりを避けながら、ファバムの机の端にカップと水差しを置く。 「概要は先ほど、この者に聞きました」  ボーンにこの者と言われた水を運んだ騎士が、少し頭を下げた。ボーンはその者が後ろに引いてから、先ほどと同じ怒りを含んだ声を張り上げた。 「ガルダン! お前が入室している最中にこのような奇妙な襲撃が起これば、疑われるのは必然! そして騎士でありながら、敵とは言え背中を斬るとは、何たる行為! 身の潔白を証明するもいとわぬ、今ここで自害しろ!」  突然ボーンがはなった思いもよらない言葉に、その場にいた誰もが驚いた。口答えを許さない強い口調に、誰の声も出なかった。  転落 7.  演技ではない。  それは、ボーンを知るガルダンが一番分かることだった。  ボーンは本気である。  そこには、怒りしか感じられなかった。何の打算も見えない。ガルダンに利用価値がなくなったからだとか、慈しみが持てなくなったからだとかそういう風ではなかった。ボーンがガルダンを見る目は冷たくはないし、その口調は突き放したものではない。  ただ純粋に、死ねと言っているのだ。  騎士にあるまじき行為。  自分が仕える主にかけた迷惑。  それらは、死をもって償うべきなのだ、と。  それだけをボーンは言っているのだ。  ガルダンのそんな考えは、走馬燈のように脳裏を過ぎ去っただけで、長い考えではなかった。  今までに叩き込んだ“騎士”の自覚が、うだうだと考えるより早く行動していた。すなわち、一旦床に置いた剣を取り上げ、それを首につがえる動作が。  血が、舞った。  鮮血である。  ガルダンの首筋から――しかしそれは、ガルダンの血ではなかった。 「待て! 待って下さい!」  そんな声が、ガルダンの耳のすぐそばでした。剣の切っ先が、先ほど嫌な言い方でガルダンを責めたはずの騎士の手の平によって、止められていた。  荒々しく剣を奪い取られる。床に叩きつけるように捨てられた剣が、ガンと鈍い音を立てた。剣を捨てた騎士の手の平がざっくりと切れ、血塗られていた。  元々の剣の手入れが良くなかったことと、その前に2人を斬って切れ味が悪くなっていたことが幸いし、刃先をまっすぐ受け止めたためもあったのだろう、男の手はつながっていた。無事動いている。しかしそのことに安堵するよりも、ガルダンの心には「死にそびれた」と言う苦い思いが染み出した。  若干は首の皮を切ったらしい血の流れる感覚があったが、痛いと言うよりはかゆい程度である。それが余計に苛立った。後でちゃんと死のうと思うほどに。 「なぜ止める?」  腕を組んだボーンの表情は変わらない。むしろ、ガルダンがそれを男に聞きたい気分だった。  男が言ったのだ、お前が犯人ではないのか、と。  だがその不可解な行動の理由は多分、ガルダンがファバムを助けたことと同じなのだろう。言葉に出来ない心の奥底が突き動かされ、体が勝手に動いた。事実その騎士はボーンの問いに対して口を動かしはしたものの、しばらく声が出せずに目をさまよわせていた。  手の平からこぼれる血の量を呆然と眺め、もう1人の騎士が気付いて止血してくれるのを見ながら、 「許しません」  騎士はようやくボソリと言ったのだった。 「間違っています。皆の前で申し開きをするか、自分が犯人でないと言うなら、真犯人を見つけるべきです」 「なるほど」  ファバムは卓上に肘を突き、組んだ両手の甲に顎を乗せて、神妙な顔で頷いた。口元を引きむすぶ彼の表情がしかし、どこか心を軽くしたように見えたのは、ガルダンの気のせいだったのだろうか。 「ガルダンが犯人であるとは断定出来ない。私の部屋での一件も、ひとまずは許そう。しばらく謹慎を申しつける。お前たちは親衛隊を集合させよ」  それで良いな? と言う顔をしてファバムは皆を見回し、ボーンに視線を固定した。  ファバムは一番言いたかった言葉を、さらりと口に乗せたのだった。ガルダンを許したかったのだ。  だが王子の立場上、この騒動の直後に他の騎士たちのいる手前で、ファバムがガルダンにだけ恩赦を出すわけには行かない。許したくとも、下手な許し方をすれば、後々の火種にもなりかねないのだ。  もっとも今とて、くすぶった火種であることに変わりはないが、強行に見えたボーンの発言が逆に効をなして、ことが丸く収まったと言えた。  ボーンもそこで頷いた。  頷いた為2人は退室となり、城を出るに至ったのだった。  長い時間に思えたが、空はまだ青く明るかった。大通りも陽気なものだ。  だが空の色とは反対に、ガルダンの中にはまだ、暗い影があった。  聞きたいことも言いたいことも、沢山あった。  話は終わっていないのだ。  だが、終わっていた。  分かったのだ。  思想の違いが。  殺せないことが。  その2つが、話のすべてだった。  ガルダンはあのまま言い争った自分が、怒りに我を忘れてファバムを斬るのだろうかと思った。自分は剣を持っていなかったが、その気になれば素手とて殺せる。叫びながら、頭に血が上りながら、心のどこかが冷静に自分を見つめている感覚があった。斬るつもりか? と問うている自分がいた。 「愚か者が!」  はっとして顔を上げた。  突然一刀両断のごとく振り下ろされた鋭い口調に、胸を突かれた気がしてガルダンは、ボーンの目をまともに見られなかった。  前を歩いていたボーンが肩越しに振り返っており、その彼らの面前にはもう見慣れた玄関がせまっていた。城門をくぐっていたどころか、屋敷まで帰っていたのだ。道を覚えている馬のおかげか。ガルダンは少し、馬の首をなでた。  突かれたはずの胸の真ん中に、しかし、じんわりと暖かいものが感じられた。 「お前が呼び出されたと聞いて、肝を冷やした」  ボーンは馬から降りて、まだ沢山の町民が行き来するのが見える門の外を眺めながら、ファバムの名を出さない言い方をした。  ガルダンも馬から降りる。 「引き止めるつもりで慌てて入室すれば、あれだ。生きた心地がしなかった」  厳しく重い言い方で、顔も合わせず憮然と呟かれている言葉なのに、どこか暖かい。 「ボーン様」  執事がひかえていた。気を利かせ、馬の手綱を受け取り連れて行ってくれる。いつもは玄関のすぐそばにある馬小屋に、自分でつないでおくものなのだ。  執事が2人の元を離れてから、ボーンが言った。 「彼女の件だろう」  確信のある言葉だ。肯定なのだが、肯定だからこそ返答出来なかった。そんな自分の顔色は、口ほどに物を言ったらしい。ガルダンの顔を伺ったボーンの口から、溜め息が漏れた。 「忠告も、忠告の意味を理解出来なければ、役に立たぬ」  ガルダンは吐き捨てるような1人言のようなボーンの言葉に、申し訳なさこそは、感じ得た。だが彼の忠告に意味があったとは納得しかねて、皆まで受け入れられる言葉ではなかった。 「ボーン様の忠告は、ことを荒立てない為だけの、保身の忠告に聞こえます」 「分からんか?」  横に並んで歩いていたボーンはガルダンの腕を掴み、歩調を早めた。ガルダンを引っ張り家に入ると、声を落としてボーンは言った。 「お前はある程度、認められた立場にある。しかし、その発言や権限は認められておらんのだ。お前が勝手な真似をすればするほど、自分の首だけでなく、すべての皆の首をしめているのだぞ」  壁にドンと背を押しつけられたガルダンは、怒りと落胆の入り混じった顔を見た。ガルダンは目をそらして言った。 「すべての皆、と言うのは曖昧です」 「名を上げよと言うか」  ボーンは扉を閉め、苦々しく、しかしはっきりと言った。 「ファバム様とわしとクグライバル人。ひょっとしたら王やイスク様、この国全体の立場にも関わる」 「……!」  前半の名には、想像がついた。しかし出て来る名が大きすぎて、ガルダンは驚きの為に言葉をなくしたのだった。  自分の立場が小さいことは、嫌と言うほど自覚しているのだ。  ファバムの部屋に行くことすら、一筋縄では行かない。  自分の言葉がどれほどの力を持っているとも、思っていない。  だからこそあの時、言わずにいられなかったのだ。  力のない者ほど、自由を奪われ、明日の見えない未来を不安に思わなければならない現実を。  それを訴えることによって何とかなるとまでは、考えていなかった。  ただ、分かって欲しかっただけだったのだ。  そんな自分の思いとサーリャとの関係を、認めて欲しいだけだった。  それがボーンの言うような大事に発展するとは、到底信じられなかった。 「確かに俺がファバム様の部屋で声を荒げたことは、軽率でした。それは認めます、追放でも仕方がないと思ったから、自害もいとわなかった。でも、俺の発言や行動がどうしてそこまでの影響になるのかは、分かりません」  ボーンの眼に負けないように腹に力を込めて、ガルダンは反論した。 「愚か者が」  先ほどとは少し違うニュアンスだった。  ガルダンがまだ拾われて来た当時の年齢なら、いや、せめて従士になった頃の年齢だったなら、ボーンは苦笑して彼の頭に自分の手を乗せていただろう。もう、そうすることの出来ない年齢と2人の間の溝が、寂しかった。 「クグライバル人の問題は、そう安々と口にしてはいかんのだ。お前が奴隷に肩入れしていると言うだけで、それを利用しようとする者が現れる。その利用いかんによっては、ファバム様だけでなく、王たちにも影響を及ぼすのだ」  歯切れの悪い言い方だった。  ボーンは「ガルダンを利用する者」を知っているようである。なのにそれをはっきりと言わない時は、まだその確証を掴んでいない時だ。 「それが誰か、教えて下さらないのですか?」 「まだ、はっきりはしておらん」 「……司教、様ですか?」 「何?」  ボーンは意外そうな顔をした。思いも寄らなかったらしい。彼が外出していたのは、別件だったのだ。 「そうか、奴隷をかくまって孤児院を作ったあの男か……」  脳裏でなにやら合点が行ったのか、ボーンはそう呟いた。その呟きに、ガルダンは司教の名を出したことを後悔した。  いや、後悔するなら、もっと最初からである。いっそ今でなく先週に、いや昨日でも構わない、ファバムと会う前にボーンとこの話が出来ていれば、もっと状況は変わっただろう。  ボーンは本当に知らなかった。  いや、知ろうとしなかった、が正解だろう。ガルダンの一存に任せていたのだ。  ただ少しサーリャと会う回数がひんぱんだった為、それをたしなめた。裏に司教がいるとは知らなかったのだ。 「お前は知っていたのか?」  ガルダンは後じさった。本当にまったく何も疑わなかったボーンを裏切った、嫌な思いが胸に広がった。後悔先に立たずだ。 「ガルダン?」 「司教が、俺に“ファバム様を殺せ”とほのめかしました」 「ガルダン!」  逃げるように背を向け、ガルダンは屋敷を飛び出した。  転落 8.  急に不安が、ガルダンを襲った。  ガルダンが暗殺に失敗したと知った司教が、何をする気なのか。逃亡でも計るつもりか、それとも知らぬふりをし続けるのか。その時、サーリャはどうなるのか。  偶然、司教の養っている孤児の娘が、幼なじみの騎士と出会う。その騎士はファバムの部下で。偶然、司教はファバムを消したがっていて。 「……馬鹿な!」  早駆けながら、ガルダンは舌打ちした。偶然も3つ続けば必然である。  なぜもっと深く考えなかったのか、自分を叱咤してみてももう遅い。  本当にそれらがただの偶然だったとしても、今日の出来事は仕組まれたことだ。ガルダンの仕業に見せかけてファバムを殺してしまいたかったのだろうが、正確なところのその意図は分からない。  しかしファバムらが犯人を捕らえることが出来なければ、あの騎士の言う通り、ガルダンが申し開きをすることになるだろう。その時にガルダンがサーリャと……“奴隷”と会っていたという事実は、不利でしかない。  今もこうしてサーリャの元に走る自分を、誰かが見ているのだとしたら。  そう思っても引き返す気にはなれず、一層馬の足を早めるのだった。彼女にまで影響が及ばなければ良いが、もしも司教が「口封じにサーリャを消してしまおう」などという決断を取ったとしたら。そう思うと身が震えた。  ガルダンは、いつもなら躊躇していた孤児院の扉を、この時ばかりは音を立てるのも構わず荒々しく開けたのだった。 「サーリャ!」  異人の騎士が発する怒声に、子供が怯えを露わにして逃げまどった。自分の図体や格好が子供たちを怖がらせるものであることを思い出し口をつぐんだが、ガルダンはふと自分の幼い頃と比較して違和感を覚えた。  大きな男が――例えバルドナット人であってもクグライバル人でも――自分のそばに来た時に、このように怯えた記憶がガルダンにはないのだ。怯えれば危機が回避出来るかと言えば、そんな環境ではなかったから。彼らは逃げれば、孤児院が守ってくれるのだ。母親のように。  母親代わりであるサーリャが、子供たちと入れ違いに姿を現した。廊下を走って行った子供は一様に部屋へと引っ込み、不思議な静寂が生まれた。肩の上で艶のある黒髪を揺らしてゆったりと近づいてくるサーリャに、焦燥の色はない。 「サーリャ」 「ガルダン?」  目を丸くして、口に手を当ててサーリャは驚いていた。ガルダンが大声を上げる所を初めて見たのだ。  彼女がきょとんとしている様子に、他意は見られない。司教は彼女に何も言っていないらしいと思い、ガルダンは若干胸を撫で下ろして彼女の黒い瞳を覗き込んだ。 「入って」 「サーリャ。……司教様は、外出なのかい?」 「?」  司教の名を急に出すガルダンにサーリャは目をくるりとさせたが、すぐに、 「司教様は滅多にこちらにいらっしゃらないわ」  と微笑んだ。  それを聞いて安堵の表情を浮かべたガルダンを怪訝に眺める、そんなサーリャの手が自分の腕を掴んでいるのを、ガルダンは逆にそっと握り返した。 「殺せない」 「え?」 「俺には、ファバム様を殺すなんて出来ない」  ガルダンの手の中に収まるサーリャの小さな手には、何の力も入っていなかった。その先には呆然とした顔。ガルダンの言った言葉の意味が理解出来ないという風情だったが……徐々にその表情が、歪んだ。 「出来なかったんだ」  眉をひそめて目を伏せるガルダンの手を、もう片方の手も使ってサーリャが包み込むように持ち上げた。 「それで、逃げて来たの?」 「いや。謹慎になった。俺が謁見中なのを見計らったように侵入して来た奴らがいて、そいつらが誰の差し金で送り込まれたのかが分かるまでは、城に出て来るなと言われたんだ」 「まぁ」  侵入者という言葉に反応するにしては弱い驚き方で、サーリャは驚いた。  だがその後、ぐっとガルダンの手を握る力を強くした彼女の力は、ガルダンを驚かせた。思い詰めたような表情の中に、うるんだ彼女の瞳があった。 「サーリャ?」 「ガルダン、私と一緒に逃げましょう!」  唐突な申し出に、言葉も出ない。サーリャはすがるように、重ねた手を自分の胸に当てた。せきを切ったように言葉と涙が彼女からあふれ出た。 「騎士なんて何になるの? お城にいても良いことなんてないじゃない。あなたいつも浮かない顔をしていたじゃない! 別の国に行きましょう。私を連れて逃げてよ! あなたなら、出来るわ」  突然髪を振り乱す彼女に、ガルダンはうろたえた。が、奇しくもファバムの暗殺をほのめかした時と同じ言葉が彼女から漏れたことで、ガルダンの中のどこかが冷めた。サーリャがガルダンの本当の力を信じている訳ではないという気がしたのだ。彼女はただ、目の前にあるチャンスを掴もうとしているだけだと。 「出来ないよ」  サーリャの声が大きくなるのと対称的に、ガルダンの声は小さくなって行った。そんな2人のやり取りを、部屋の隅から子供たちがうかがっていた。いつも優しく、母であると思っていた女性が声を上げる様子を、彼らは初めて聞いたのだ。  1人の子供が怒気に当てられて泣きそうになった時、ぽんとその頭を撫でる手があって、子供たちは少し落ち着いた。 「司教様」  今度は歓喜によって声を上げそうになった子供たちを、 「しーっ」  彼は口に人差し指を当てて、笑ってみせた。ガルダンの馬の存在に気付いて、司教は裏口から入って来たのだ。  それはすべて部屋の中のやり取りであり、ガルダンたちは気づきもしていない。司教が部屋の扉に耳をつけて彼らの言葉を聞き取ろうとするその顔は、子供たちに見えずに幸いだっただろう。でなくば、また子供たちは「司教様の顔が怖い」と泣いていたかも知れないから。  廊下の2人からは、 「どうして出来ないの? 私のことがどうでも良いの? ファバム様の方が大事なの?」  そんな風にまくし立てるサーリャの声しか、まだ聞こえなかった。ガルダンはそんな彼女の剣幕に押され、また不思議な思いに捕らわれもしていて言葉が出なかったのだ。 「そういう訳じゃない」  やっと言葉をつむいだ。 「じゃあどういう訳なの?」  ガルダンは、彼女の剣幕にたじろぎながらも、ようやく本当の彼女を見た気がしていた。  利己的な彼女。  必死になる彼女。  髪を乱して。  生きることにどん欲で。  そんな彼女が、今度は笑みへと顔を歪めるのも、ガルダンは黙って見つめていた。 「そう……しょせん、あなたの利用価値もここまでなのね」  泣き崩れて歪んだ笑みからこぼれ出た彼女の言葉を理解するのに、ほうけてしまったガルダンはたっぷり5秒を要した。要して、それでも言葉が出なかった。  どう返答をして良いか、分からなかったのだ。 「分からないって顔ね。これ以上あなたが私に何も出来ない、何もしてくれないんだったら、もう会う意味がないってことよ」  その時になってサーリャは自分がガルダンの手を握っていることに気付いたようにそれを見て、ふりほどいた。代わりにその手で自分の両肩を抱き、ガルダンから後じさる。  何も出来ない、何もしてくれない。  彼女にとってのこの2週間は、そうだったのか? とガルダンはサーリャを見つめながら思った。  そんな具体的な取引がないと、一緒にいる意味はないのだろうか?  ただパブで会って酒を飲み、話に花を咲かせて。  それだけで充分だと思っていたのに。  そう思うガルダンの胸に、サーリャの言葉は槍だった。 「どうせあなただって、いつか私を抱くつもりで会ってたんでしょう。だったらその位働いてくれるのが、当然じゃない!」  その言葉は。  急に態度を豹変させた彼女のその言葉の裏側に、どれほどの思いと葛藤がひそんでいるのかを、ガルダンは知らない。知らないが、今突然思いついただけの言葉ではないのだろう予想はついた。  予想がついたからこそ、2人の思いが実はまったくかみ合っていなかったのだということにも、気付いてしまった。  吐き捨てるように叫んで、くるりと反転して逃げようとするサーリャを、ガルダンは3歩走って捕まえた。今別れる訳には行かない、と思ったのだ。いや、言葉として“思う”よりも先に、体が動いていた。 「離して!」 「抱かない!」  ガルダンは彼女の腕だけを掴んだまま、叫んだ。暴れる彼女を抱きしめて押さえたかったが、ここで抱いてはいけないと思ったのである。不用意な態度、不用意な言葉が、それ以上の理解しようとする吸引力をなくさせるケースはいくらだってある。ガルダンはその失敗を今まで何度も繰り返したのだ。臆病にもなった。だから、ここで失敗する訳に行かなかった。臆病になる訳にも行かなかった。  自分が関わりたいと思った相手と充分な意思伝達もせずうやむやに収めてしまう、そんな心地悪さはもうまっぴらだと思った。 「そんなつもりで、それが目的で会ってた訳じゃない。触られたくもないなら、この手も離す。けれど、まだ逃げないで。もう少し、話をさせて欲しいんだ」 「何の話をするって言うの? もう関係ないのよ」  サーリャはなおも掴まれた自分の腕を引っ張り、逃げようとする。そんなサーリャの言葉が終わるか終わらないかの時に、 「関係ある!」  とガルダンは、きっぱりと言った。 「俺はサーリャが好きだ」  少しだけ、サーリャが大人しくなった。 「正直に言うと、抱きたいと思ったこともある。でもそれは好きだからだし、サーリャが嫌なら絶対しない、しちゃいけないことだから。それが目的で君と会ってた、会いたかった訳じゃない」  ガルダンは一言一句を区切るように、自分に言い聞かせるように慎重に口に乗せた。人に自分の言葉を理解して欲しいのだったら、わめくように喋っても伝わらないと悟ったのだ。  大人しくなったサーリャの口元から、ふん、と小さく息のような笑い声が洩れた。 「会って2週間で、私の何が分かるって言うの? 昔の私とは違うのよ。……何人もの男の慰み者になってるって聞いても、あなたはまだ私を、昔の清純なお姉さんとして見ることが出来る訳?」  そう言うとサーリャはまた、ガルダンの手をふりほどこうとした。  しかしガルダンはその手を、離さなかった。離せなかった。それも、予想しないことではなかったからだ。  ガルダンには計り知れない、色々な苦労があったのだろうサーリャ。女であることが、女であると言うだけで、受ける差別もある。クグライバル人であることが奴隷であるという事実を作ってしまった社会によって、優越感の為だけの差別が生じる。その2つを合わせ持つ彼女が、何もされない訳がない。 「どうして私はクグライバル人なんだろう、って思ったわ。あなたが羨ましかった。いいえ、憎かった。お坊っちゃんに生まれついて、黒くない髪の毛で。いくら馬小屋に引きずり落とされたって言ってもね、あなたが領主の息子だから、皆遠巻きにしてさほど苛められずに済んだのよ」  子供時代。  誰の仲間にもしてもらえなかった孤独さをよく覚えているガルダンの脳裏に、当時の様子はありありと思い浮かべられる。それは違うと言いたかったが、確かにサーリャからして見れば大した苛めではなかったのかも知れないのだ。 「私が火傷を負った時も、あなたが一緒だったから助けてもらえたんだわ。でなけりゃ今頃、死んでたでしょうね。いいえ、死んでた方が良かったかも知れない。でも領主はあなたがいなくなった後も、私を生かした。奥様が怖かったから私を抱くのは2回で断念したけどね、稼ぐ為に生かされたわ! 胸のここが焼けただれてるのが妙にそそるってんでね、よく売れたわ、私」 「……!!」  自嘲の笑みを浮かべる彼女の口を自分の肩に押し当てて、ガルダンは思わず彼女を抱きしめていた。泣きたくなった。頼むからそれ以上喋るなと言いたくて、声に出来なくて、黙って抱きしめてしまった。サーリャはガルダンの腕の中で、怯えた子犬のように縮こまった。  やっと見えた小さな彼女の存在を知って、ガルダンもまた気付いたのだった。  自分も、サーリャを見ていなかったのだと言うことを。  長年の夢が現実になったことに舞い上がり、大きくなった彼女の姿に見とれ“今”に酔いしれるあまりに“それまで”をおざなりにしていたのだ。サーリャもそれには気付いていたのだろう。ガルダンを利用する目的もあっただろうが、互いに互いの心の底を気遣うことがなかったから、浅い関係でしかなかった。 「離して」  身をよじった彼女の抵抗に力はなかった。ガルダンは力を緩めた。  うつむく彼女を悲痛な思いで見下ろしながらガルダンは、一瞬本当に彼女を連れてどこか遠くに逃げてしまうのも良いかも知れないと考えた。しかしそれは単なる「逃亡」であり、すべてに、自分自身にさえ負けることを意味している気がして、動けなかった。動けないまま、ポツリと呟いた。 「でもサーリャは子供の頃、俺をかばってくれたし、助けてくれた」  その優しいサーリャも、きっと本物だったのだ。顔を上げた彼女がまた自嘲的な、少し軽蔑するような笑みを作って、 「坊ちゃんのあなたを利用する為よ」  と言っても、何となくそれはただの強がりに見えた。 「今回もそうよ、偶然出会ったんなんかじゃないわ。あなたが騎士になったことも知ってたし、ファバム様を何とか殺す方法や、でなくばあなたに罪を着せる方法は、全部仕組まれたことよ。あなたは最初から、踊らされていただけなの」 「おや、そこまで言ってしまったか」  ガルダンはサーリャに言われた内容のショックより、聞き慣れない第3者の声に驚いた。  サーリャが言ったことの方は、話の流れでこれも予想がついたからだ。どちらかと言えば、それを告白するサーリャの心境を考えて、胸が苦しかった。自分で自分を追い込もうとするかのような口振りに、いかに彼女が今まで勝ち気なふりをし続けなければならなかったかを思い知らされて。  そんな2人のやり取りを、司教の1言が一蹴した。  かたわらに孤児院中で一番小さな女の子を2人、従えて。  部屋の扉が開けられた音にも気付かなかった2人は、身を固くした。特にサーリャは司教がいないと思って話していたので、火を噴いたように顔を真っ赤にしていた。父親とも言える彼に聞かれたくなかった話も、多数含まれていたに違いない。  だが司教はそんなサーリャとまったく反対に涼しい顔をして、しかしガルダンに近づきはせず、部屋から出たそのままの位置で話し出した。 「まぁボーン卿相手では、すぐに知られる所じゃろうからのう。せいぜい親子で首の心配をするが良い」  にこやかな笑みを崩さないまま――ガルダンにはその顔が作り物に見える気がした――司教は少女たちの肩に手を添えて、 「サーリャ。こちらに来なさい」  と言った。 「ガルダン。例えば今君が私を殺したいと思っても、それは何の解決にもならんよ。君は“司教殺し”として断罪されるだけじゃ。それどころかこの子たちがどうなるのか、そこまでよく考えなさい。今後おかしな動きをしても同様じゃ。……サーリャ。今まで通り、わしを信じてついて来なさい」  そう言って司教が肩を掴む少女は、ガルダンが何か不審な動きをすれば犠牲にするつもりで傍らに据えた「人質」だった。そのことに気付いたサーリャはガルダンを振り返りもせず、 「帰って。2度と会わないわ」  と怒気を含めて吐き捨て、彼のそばを離れた。  今のガルダンには、それ以上一歩も前に進めない。ガルダンもまた、司教が傍らに少女を控えさせた意味が分かったのだ。少女は何も知らず何も聞かされておらず、無邪気に司教を見上げている。自分たちの母親たるサーリャが元の笑顔を持って戻って来たので、ガルダンのことを「サーリャを泣かせた悪者」と思っている。  そんな少女らからは、情け容赦のない「帰れ!」コールが飛び出した。  帰るしかない。  ガルダンは反転した。最後にサーリャに当てて、言葉を残して。 「俺は死なない」  だから待っていてくれ、と言う意味として、サーリャに贈った。多分彼女は、ガルダンがどうにかなるまでは切り札として殺されることはないだろう。いや今のやり取りだけだと、司教がサーリャを殺そうとするかどうかも分からなかったが、しかし取り敢えず司教は自分の保身の為に「サーリャ」と言う盾を持っていたいはずだ。  サーリャからも司教からも、何も返答はなかった。  そのままガルダンは大股に孤児院を出て、馬に飛び乗った。  結局彼女は、ガルダンに肝心な言葉は言わなかった。自分は彼女に思いを打ち明けたが、彼女はそれに返してくれなかった。嫌いだとは言われなかったが、逆もなかった。  嫌われているのかも知れない。  けれど、明らかにどす黒い陰謀を胸に秘めた司教の元で、今まで通りの暮らしが出来ると、果たして彼女は思っているのか?  この一連の出来事にひそむ裏を、かきださなければならない。  生きて、生き抜いて、必ずサーリャと再会したい。  初めて「死にたくない」と思った。  継続 1.  夜露の降りる町並みは、昼の埃っぽさが少し押さえられて、しっとりとして見える。昼間は黄土色一色の景色が、日が落ちて紺色になる。道ばたの荷馬車の荷台が、露で微かに光っていた。  少し首を傾げると、光がうつろう。  首を傾げたガルダンはふっと目をつむると、気付いたように姿勢を正してまた歩き出した。  闇を歩くことにもすっかり慣れた。月明かりでなくとも空が薄明るく、遅くない時間なら林立する民家の窓から、光も漏れている。冷えた風を避けて物陰を選びながら、マントを顎まで引き上げてガルダンは歩くが、ことさらキョロキョロしたりなどはせず、比較的堂々としていた。コソコソとするより返って普通に歩いていた方が、不審がられないことを知っていた。  夜を歩くのは、サーリャと会うことで慣れた。  だから逆に夜を歩くと、彼女を思いだしてしまう。並んで徒歩で帰ったり、馬に乗せて、背中に彼女の温もりを感じながら話をした日々は、今背中の寒さを感じると遠い昔に思えた。  サーリャと話した内容や自分の憶測も、ガルダンは帰ってすぐにすべてボーンに打ち明けた。  ガルダンが考えた憶測は「黒幕がいる」ということだった。もしくは、共犯者がいるということ。サーリャのような些細な者でなく、もっと大きな権威を持っている人物だ。司教だけの力でクグライバル人をどうこう出来るとは考えられないし、ファバムの部屋に兵士を送り込むことなど出来ないと思ったのだ。  動機も不鮮明である。国民の半数以上の考え方が「奴隷解放」に傾いていれば、地位と栄誉を欲して行動を起こす、と言う話も考え得る。聖職者なので純粋に奴隷を助けたいが為と仮定しても、それにしては司教が最後に取った行動が不可解だった。またも具体的にそれと言わなかったが、司教が取った行動は、明らかにクグライバル人を軽視している。  それに司教はガルダンに自分たち「親子の首」を心配しろと言い残した。ガルダンのことは捨てゴマとして殺すことを考えられていたとしても、なぜボーンまでを言うのか。つながりがないのだ。  ガルダンは、その問いをボーンに思い切ってぶつけたのだった。 「ファバム様が本当に司教の言うようなお方であれば、暗殺はあり得る話です。クグライバル人たちを必要以上に使役しているなら、反発されても仕方がない」  ボーンはガルダンの言い分を、面白そうに聞いた。ガルダンが本当にはそう思っていないことが、分かるゆえに。 「でも俺は半年ファバム様に仕えていて、そんな場面を見たことがありません」 「わしが知るファバム様も、そのようなことはなさらない」  ボーンの頷き方は神妙なもので、クグライバル人をそのように強制的に使うことには反対らしいことが感じられた。“奴隷は奴隷でしかない”ことと、その彼らに無理な労働を強いることは別物だと思っているようだった。 「ボーン様も、奴隷を酷使すべきではないとお考えですか?」  素直なガルダンの物言いに、ボーンは軽く笑った。 「もっと奴隷をこき使うべきだと思っていると思ったか?」 「いえ」  ガルダンは少しボーンから体を引いて、うつむいた。1つ1つを確認して行きたいと思った為の問いだったのだが、聞かずとも良かった問いだったので、言ってから自分で恥ずかしくなってしまったのだ。 「ならば、」  とガルダンは気を取り直して、言葉を続けた。やはり自分の憶測は正しいのかも知れない、と思いながら。 「奴隷云々の為にボーン様やファバム様が殺されると言うのは、おかしいですよね。俺が司教から聞いた話は穴だらけで、矛盾だらけだと言うことだ」 「その司教とやらが、本当に“奴隷解放”を望んでいるのならな」  ボーンはしばらく書斎の中をうろうろとしていたが、そう言い切ると心が決まったらしく、いつもの自分の席に座り込んだのだった。腕を組み、背もたれに体を預ける。  ガルダンは自分の仮定が間違っていないことの決定的な解答をもらった気分で、立ち尽くした。 「……え」 「“解放”の甘言をエサに、クグライバル人たちを手ゴマとして操っているのではないか、と言うことだ」  ガルダンはゆっくりと目を見開いた。  今までどうしても喉を通らず苦しかったものが、ストンと腑に落ちた心境だった。  そうなのだ。  元々、“解放”などと言うこと自体が、嘘だったのだ。  いや、もしかしたら今のこれはただの推測なのだから、司教は本当に彼らを解放したいと思っているのかも知れない。しかし、矛盾をなくす為にこれを仮定すれば、パーツが収まるのだ。 「司教は奴隷たちを操って、何かを企んでいる、と?」  そしてそうなると、これは到底司教だけの企みと言うには壮大すぎて、最初にガルダンが言った「共犯者がいるのでは」という憶測が、現実味を帯びて来る。  順当に行けば、司教の上は大司教だ。  大司教なら王に対しても発言権があり、奴隷たちを操るのも容易い。バルドナット国の宗教は、半分クグライバル人たちに救いの手を差し伸べるかのようなものになっているのだから。神に祈れば天国に行けるのだ、と。だから今辛くても、しっかり働くべきなのだと。  だが、それでもまだ、動機が不十分だ。  動機だけで考えるなら、もっと確かな煽動をして王制を倒し、大司教が王に取って代わろうとしている、という筋書きの方がまだ納得出来る。ファバムを亡き者にしたがる真意が、読めないのだ。奴隷の利用の仕方も中途半端である、表面的には「解放」をうたっているのはサーリャだけで、町は至って静かなものなのだ。もし本当に解放してもらえるかもと言う期待が彼らの中で膨らんでいれば、もっと動きや噂が立っても良いのではないか、という気がするのだ。 「逆から考えると、」  とボーンがふいに言った。 「本当にファバム様を殺したいなら、お前ならどうする?」  そう言いながらボーンが机向かいのを指さしたので、ガルダンは腰かけながら聞いた。 「どうゆうことですか?」 「お前に情報を流すような危険をせずとも、いくらでも方法はあると言うことだ。暗殺でなくとも、毒殺でも構わない。わざわざサーリャを使ってお前に接近して、このような話をした所に意味がある」 「あ」  他人の相互関係ばかりを気にして、ガルダンは自分の立場を考えていなかった。自分は利用されていたのである。では何の為に?  ボーンの言う通りだった。本当に確実にファバムを消したいなら、回りくどい言い方をしてガルダンなぞを焚き付けるより他に、方法がいくらでもあったはずなのだ。  本当にファバムに斬りかかるかどうかも分からず、ひょっとしたら司教のファバムに対する恨みを暴露してしまうかも知れない、危険な人間だと言うのに。  これを言うと、ボーンは苦笑して「後者はあり得んな」と言った。 「なぜです?」 「その為のサーリャだろう」 「あ」  ガルダンは2度口を押さえるはめになった。  司教を訴えることでクグライバル人すべての立場を悪くすることになるなら、サーリャもそこにいるのだ、ガルダンが漏洩などする訳がない。現にしなかった。ガルダンを操ろうとした者は、彼の性格や人柄をそこまで読んでいたのだ。 「ファバム様の部屋に飛び込んで来た兵士らは、捨てゴマであろう。ファバム様を殺せずとも良かった。お前に疑惑が持たれれば」  ガルダンは息を飲んだ。机の上で手を組み、ボーンの言葉を先読みした。 「……俺に疑いがかかれば、ボーン様の立場も悪くなる、と言うことですか……?」 「そう言うことだ。ほんの些細なことでも食いつければ、何とでも糾弾して行けるからな」  ガルダンの低い声に比べて、ボーンはカラリと答えた。  城から戻ってすぐにボーンが言ったのは、このことだったのだ。あの時は今一つ飲み込めなかった説明だったが、今ならなぜボーンがガルダンに自害しろと言ったのかも、分かる気がした。 「あの時俺に自害しろとおっしゃられたのは、」  ボーンはガルダンの声の調子が変わったことに気付いて、彼の瞳を覗き込んだ。 「俺が死ねば、ボーン様にまで疑いの手がかからないからだったんですね」  落胆の溜め息が語尾に混じった。もう誰も全面的には、信じることも頼ることもしてはいけないのだ。そう思いながら言ったガルダンの言葉に、ボーンは一瞬だけ驚いた顔を露わにしてしまったが、次に破顔したのだった。 「愚か者が」  と言いながら手を伸ばして、ガルダンの額をゴンとこづく。  思いの外痛かったので、ガルダンは額を押さえてボーンを見た。 「お前があそこで自害しようと、どのみちわしが疑われたことに変わりはない。あそこまでの事態を引き起こした責任と、ファバム様への詫びの為に死ねと言ったのは、本心だ」 「え。じゃあ……」 「あの騎士が止めに入るだろうことも、予測しておったがな」  ウインクでも作りそうにあっけらかんとした声で、ボーンは笑ってそう言った。悪党だ、と思いながらガルダンは憮然とした。 「あの男が止めなかったら、どうする気だったんですか?」 「わしも死ぬだけだ」  またも明るい声で即答されしかも、 「まぁ文字通り、首がつながっていて良かったと言うものだ」  と付け加えるボーンに、ガルダンは内心脱力した。思わず、本気だ、と呟きそうになる。  本気でボーンは死ぬ気だった。  しかもガルダンが時々心に誓う「本気」とは、格が違う気がした。 「しかし、わしはサーリャと言う娘に、2つ感謝をすべきであろうな」 「?」 「お前の表情がよく動きよく喋るようになったことと、和解出来たことを、だ」 「何を……」  と言い返そうとしてガルダンは赤面して口をつぐんだ。確かに以前の自分なら、無言を返答とする所だ。自分の考えを言葉にするのも、前よりは上手くなった気がする。自分から進んで話をする癖が、サーリャといることで身に付いたからだ。 「悪い娘ではないと思っていたのだが、しょせん立場が違いすぎた」  自分に言い聞かせるかのように、ゆっくりと区切って言ったボーンの言葉に、ガルダンは今度は反発しなかった。ボーン1人にたてついて説き伏せたとしても、何の解決にもならないことがよく分かったからだ。  それより今は、謹慎という形で手に入れた猶予を用いて、自分にかけられた疑いを晴らして行く方が先決である。 「ボーン様はもう、分かっていらっしゃるのでは? 俺とボーン様を陥れるような画策をして、得をする人間を」 「うむ」  再び腕を組んでボーンは、苦い顔をした。  ボーンが思っているであろう人物とガルダンが考えている“黒幕”は多分同じであろうとガルダンは思っている。昔と今しか「ガルダン」を知らないサーリャよりはるかに今のガルダンを知っていて、ファバムの元に兵を送り込むことも容易いであろう人物。彼なら、ボーンを蹴落として地位なり王の信頼なりを得ようとするもくろみがあっても、おかしくないのだ。 「……ルガイヤだな」  ボーンは初めて、ルガイヤを呼び捨てにした。  しかし確証はない。そういう男である。突然城に乗り込み彼を言及したとしても、何も証拠は出ないだろう。逆に名誉毀損などと反撃を浴びて、こちらが窮地に追い込まれる可能性もある。  調べる必要があった。  夜の町に繰り出すのは、ガルダンがボーンに申し出た。 「俺の方がボーン様よりはまだ有名じゃないし、夜歩き慣れてます」  そう言ったガルダンにボーンは、 「サーリャに3つ目の感謝をせめばならんな」  と言って笑ったのだった。夜を歩き慣れることが役に立つと言うのもおかしな話である。それに気付いてガルダンも少し笑ったのだった。  ガルダンが歩く曇った空の下は、その翌日の夜のものだった。目的の酒場を探し当てるのに、1日要してしまったのである。もしも本当にルガイヤが何かを仕掛けて来るなら、ぐずぐずしていられない。焦燥感を押さえる為に3度呼吸をしてから、ガルダンは顎を引いてその酒場の扉を開けたのだった。  むわりと、人いきれと酒の臭いがガルダンを包む。  ガルダンは薄暗いランプの下の顔を一周してある男の顔に目を止めると、男がこちらに気付いて立ち上がろうとするのを素早く近寄って止めた。  他の客らが騒がないよう、彼の肩にかけた手にぐっと力を込めて、無言で彼を座らせる。その顔は3年前から面影が変わっておらず、背の高くなったガルダンと並ぶと同い年のように見えてしまうほどだった。  その彼の向かいにガルダンも座ってから、 「久しぶりだな。トマジ」  かつての戦友の名を口にした。  継続 2.  いや戦友と言うのは、間違いかも知れない。  彼らは、全く戦わなかったのだから。 「どうして……」  と言ったきりのトマジの顔は、酔いが醒めて一気に白くなっていた。  どうして俺のところに来たのか。どうして俺がここにいることを知ったのか。どうして今ごろ会いに来たのか。  そんな様々な問いが交錯してしまって、それ以上言葉にならなかったのだろう。 「今もまだ、ルガイヤ様の下で働いていたんだな。城への出入りをしてないから、探すのに苦労したよ」  特にさほどの苦労もしていなかったが、ガルダンはそう言って少し口の端を引いて見せた。その表情、その口調で、トマジにはガルダンの変化が分かった。ずっと会っていなかった仏頂面の少年の変貌は、思ったより強烈な印象をトマジに与えたらしい。彼は驚愕に目を見開いた。  トマジのそれは、良い意味での驚きになったらしい。  ガルダンに対して警戒していた彼の心に多少余裕が生まれ、昔聞いた流ちょうな軽口が少し戻った。 「こんな時間にこんな風に会っておいて、偶然とは言わないだろうな? 俺に何の用があるんだ? お前さんの件でルガイヤ様には大目玉くらっちまって、俺は出世街道を外されたんだぜ」  トマジはガルダンが何をどこまで知っているのかを知らなかったので、あえて盗賊の名は出さなかった。ガルダンはトマジの言う「出世街道」がどれほどのものだったのかと内心思いながら、肩を竦めたのだった。 「偶然じゃないさ。あんたのいる場所くらいなら、調べれば分かる。ここの2階に寝泊まりしてるんだろう?」  ガルダンは自分の話す速度を変えず、最初の問いにゆっくりと答えた。まくし立てて人を煙に巻くのが彼の論法らしい、とは、昔話した時の記憶で学んであったので、ガルダンはわざと彼のペースを崩そうとしたのだ。  彼が口をはさもうとする隙だけは押さえて、ガルダンは言葉を続けた。 「俺が今日ここに来たのは、あんたを雇おうと思ったからさ」  素っ頓狂な回答に、案の定トマジは絶句した。  ガルダンは少し大袈裟なほどに顎を引きながら、机に肘を突いて神妙な顔をした。重大な発言が飛び出るかの仕草に、自然とトマジも頭を下げる。 「近々ルガイヤ様が、反乱を起こされるつもりだ」 「何?」  トマジは思わず呟いてしまってから、口をつぐんだ。そんな話は聞かされていないと、自分から暴露したようなものだった。聞いていなくて当然である、ガルダンのハッタリなのだから。  正確にはガルダンとボーン、2人の計画だった。トマジは出世出来ずに金銭的にも苦しいはずなので、自分がルガイヤに完全に信用されなくなったのだと思えば、傾くはずだと言うのがボーンの言い分だった。  だが“反乱”があながちハッタリでもないのかも知れないと思っている為、ガルダンの言葉は真剣味を帯びて、トマジに疑われる余地はなかった。  店のおかみが注文を取りに来たそれに、何の躊躇もなく麦酒を頼んだガルダンのことを、感慨深げな顔で見ている。3年は早いようで長い。 「奴隷のクグライバル人を使って、大きなことをしようとしている」 「暴動?」 「多分」  全くそんな確証はないのだが、トマジの読みが当たっているふりをして、ガルダンは頷いた。彼に花を持たせて話に引き込むことが大事だからだ。実際は“反乱”も“暴動”も言葉を換えただけで意味は同じものだったが、自分の言葉を肯定されたトマジはやる気を見せて、目の色を変えた。  ガルダンが続けた。 「けれど、奴隷たちをルガイヤ様が直接指揮してる訳じゃない」 「部下にやらせてるんだろ」 「いや、」  そうじゃなくて、と言いかけてガルダンは詰まり、少し考えてから言葉を変えた。 「ルガイヤ様が持つ権限だけでは、国中の奴隷を操ることは出来ない、と思わないか?」 「それが出来る人間がいるってことか?」  ガルダンは頷いた。「そうじゃない」とトマジの言葉を真っ向から否定するのを避けたのは、正解だった。トマジが目をそらして考え込んだので、ガルダンは控えめに答えを言ってみた。 「例えば……大司教様」 「あり得る」  俺もそう思っていたとばかりに、トマジが飛びついた。ガルダンはトマジが完全に“こちら側の人間”になったと思った。だがまだ油断は出来ない。 「奴隷を操って大司教様と共に反乱を起こし、国を乗っ取る……。大がかりだな」 「国境の盗賊を使って隣国の動きを抑えてるのも、その為なんだろう」 「え。ガルダン、お前……」  知っていたのか、まで言えずに絶句したトマジに、ガルダンは頷いて見せた。 「ボーン様が教えてくれた」 「そうか」  放心したトマジの表情は、安心か諦めか。盗賊の名に気を使っていたトマジは、目に分かるほど肩を落としたのだった。 「ルガイヤ様とボーン様は、仲違いしてるのか?」 「ああ。あの一件の後、すぐだって聞いた。知らなかったのか?」  ガルダンの問いに、トマジは今度は苦笑して肩を竦めて見せたのだった。ルガイヤという男の、人となりが伺える瞬間だった。部下に何も言わないのだ。  ガルダンはかいつまんで説明した。  ルガイヤとボーンが対立状態になり、ルガイヤは、ボーンを陥れようとしているのだ、と。自分はその為に利用され、はめられた。何とかして反撃したいのだと語った。  むろん実際にそれが全てルガイヤの策略なのかどうかの確証もなく、憶測でしかない。だがガルダンは、これをもっともらしく話した。中途半端な話し方では、トマジに不信感を抱かせるからだ。  彼にはしっかりと自分を信用してもらい、ルガイヤの屋敷へ侵入してもらわなければならないのだから。 「これが成功すれば、間違いなくルガイヤ様は牢獄行きか追放だろう。王に楯突いているんだから。そしたら働きを認められて恩賞も出るし、地位も上がる。――ルガイヤ様に付いていたんじゃ、この先ろくなことがないぜ」  砕けた物言いで説明を締めくくったガルダンは、ニヤリとして見せた。多少ぎこちなかったが、それよりトマジの頭には「恩賞が出るし、地位も上がる」と言うガルダンの甘言が強く残ったようで、半ば中空を見つめながら口を開けていた。 「お前なら、昼間堂々と屋敷に出入りも、出来るだろ」 「まあな」  トマジはまんざらでもない顔をした。左大臣の屋敷に、まだ顔パスで入ることが出来るというのが、彼のささやかな誇りなのだろう。裏口の出入りだが。  ガルダンは顎を引いて、睨むほど真剣な顔を作った。 「お前にしか、出来ないことなんだ」  継続 3.  3日もかかってしまった。  ファバムの部屋の様子はひどく生々しかったにも関わらず、何の手がかりにもならなかった。死体の身元すら割り出せない足踏みした状態に、城内が険悪な空気で包まれていた。  その険悪さをそのまま顔にしたかのように苦い顔をしたまま、城内をガンガンと歩いているのはルガイヤだった。もしくは彼が城内に瘴気を振りまいている原因かも知れないが。城の廊下は足音がするように、石がむき出しである。彼の足音は響いた。  しかし苦み走りながらも、その顔にはどこか邪悪な喜びが含まれていた。やもすれば笑いそうになる顔を、無理に引き締めているかの口元である。  ようやくだった。 「ガルダン・マハが疑わしいことに違いはない! 謹慎などと生ぬるいことを言っておらず、まずは捕らえて尋問すべきでしょう!」  今までに何度、声を荒らげて王に進言したことか。  状況からして、もっとも怪しいのはガルダンなのである。ルガイヤの読みからすれば、ガルダン軟禁は容易いはずだったのに、思わぬ反対に遭ってしまい、3日もかかったのだった。  口をへの字にして歩くルガイヤの前方から、同じ廊下を自分に向かって歩いてくる一団がいた。その中心がファバムであることを確認すると、つい我慢していた笑みがこぼれてしまい、ルガイヤは見咎められてしまったのだった。 「左大臣。楽しそうだな」 “思わぬ反対”を堅固に続けていた張本人、ファバムは不愉快さを隠しもせずに言った。  ファバムは2人の兵士にかばわれるようにして歩いていた。  ルガイヤは廊下の隅に寄って、腰を折った。 「これでようやく王子様を襲った犯人が分かるかと思うと、嬉しいのでございます。城の中だと言うのに、お1人でご自由に動き回ることも出来ない王子様が不憫でございましたゆえ」 「上手いことを言うな」  ファバムがふんと鼻で笑い、思わずルガイヤは下げた頭を上げてしまった。しかし怒りを露わにするのは、当然自滅である。ルガイヤはすかさず、悲しげな表情を作った。 「心外でございます」  それ以上の言い訳は見苦しい。そこで言葉を切る。 「まだ犯人が分かるなどと言う段階ではあるまい。それではガルダンが犯人であると決めつけているようではないか。何度も言うようだが、あ奴が私を襲う道理などない」 「どうでございましょうか?」 「……私を愚弄する気か?」 「滅相もございません」  ファバムは銀髪の隙間から、射るように双眸を光らせ、ルガイヤの目を追った。だが顔の動きは終始変わらず、へりくだったままである。  城内の者全員が、ファバムとガルダンに対して好意的であってくれたなら、ガルダン軟禁の決定をくつがえすことも出来ただろう。しかしいかんせん、味方が少なかった。2人が行った真剣での練習試合の様子を知っている一部の者はガルダン弁護に務めてくれたが、それを知らない他の者らにとってはファバムはただの「暴君」であり、ガルダンのことは「偏屈」だった。無口で誰とも相容れない、ボーン・マハの七光りで騎士になった男だと陰口を叩く者が、少なくないのだ。  そんな「偏屈」が「暴君」に腹を立て、襲ったのであろう。と言うのが、城内の一致した見解だった。  それを、ルガイヤからだけでなく、大司教らまでが率先して「ガルダンが怪しい」と言い続けられては、到底ファバムの力などで抑えきれるものではない。  ぎりと苦虫をかみつぶしたファバムは、ルガイヤの顔を見ているのも嫌になり、反転しようとした。しかしふと思い当たることがあり、足を止めて、 「左大臣」  振り向いた。 「何でございましょうか」 「お前、ボーン・マハとは昵懇の中ではなかったか? その息子のガルダンを捕らえることに、罪悪感はないのか」 「親友であればこそで、ございます」  ルガイヤは深く腰を折って、表情を見せないようにした。  そのまま顔を上げようとしないので、ファバムもそこを立ち去ることにした。何か煮え切らないものを感じながら。自分がガルダンに対して感じた友情と、ルガイヤがボーンに対して思う友情とが、どこかずれている気がした。確かに友人が道を誤っていると感じれば、進言をするだろう。ファバムも、した。だがそれは、充分に相手の言い分を聞いてからの話だ。ファバムはガルダンと話すことによって、それを学んだ。相手の心を掴まずに、自分の心は伝えられない。  ルガイヤには、それがない気がした。 「ガルダン」  歩きながら、ボソリと呟く。 「このままで良いのですか?」  ファバムに付いている側近役の兵の1人、親衛隊の騎士がコソリと言った。 「良い訳はない」  とにかく、明日だ。  明日、ガルダンが捕らえられてしまう。それに対し何らかの手を打たなければ、ガルダンはそのまま罪人にされてしまうだろう。根拠のない推測だが、今の城内の雰囲気ならあり得ない話ではない。  心なしか、ファバムの足取りが速まった。  その足音を聞きながら、深く頭を下げたままのルガイヤは、笑っていた。  とにかく、明日だ。  せいぜい今のうちだけ、大きな顔をしているが良い、と。  ルガイヤの目的は、ガルダンを使ってボーン・マハを陥れる、それだけに止まらない。ゆくゆくはファバムのことも本当に消してしまうか追放するかを、念頭に置いてあるのだ。それまではただの暴君としてせいぜい城内に不穏な空気を蒔いてもらう役者でしかなかった。 「くっ」  笑いが漏れる。若いファバムの心が手に取るように分かるので、おかしくなってしまったのだ。  人を操ることに愉しみを覚えてしまった男は、この上なく歪んだ笑みをした。  姿勢を正し、歩き出す。 「今度こそ、信頼に足ると思った者に死なれては、ファバム様も不憫でございますからね。すぐ同じところに送ってさし上げますよ」  笑いをかみ殺しながら呟くルガイヤの元に、その時、すっと影が忍び寄った。気配はない。足音もない。 「ルガイヤ様」  ルガイヤ以外誰もいなくなったはずの廊下に、ひっそりと声だけが浮かんだ。ルガイヤの耳にしか届かないほどの、響かない、糸のように細く小さな声である。 「例の反乱一派が、鎮圧されたそうです」 「いつだ?」 「一週間ほど前かと」 「そうか。ボーンは、まだ知らないな?」 「多分」  舌打ちする。 「まあ良い。すぐ計画に入れ」  ルガイヤは歩く速度を変えず、前を向いたまま言った。 「それと」 「何だ」 「昼間トマジがお屋敷に訪れ、すぐ帰って行ったそうでございます」 「……?」 「ルガイヤ様をお待ちしようかと思ったが、戻られないと聞いたので出直す、とかで」  ルガイヤは腕を組んで立ち止まった。確かに今日は戻らないつもりだったから、それを侍女か誰かが伝えたのだろう。おかしなことはない。だが、眉をひそめた。 「兵どもを集めろ。決行だ。ガルダンを捕らえる」  そして再び歩き出した。ルガイヤの勘が、何かを彼に告げたらしい。 「計画は?」 「実行しろ。ファバムの短剣を使えよ」 「は」  吐息のような承諾の言葉がささやかれ、影が消えた。  もしファバムが――いや、誰でも良い。誰かがこの奇妙な「計画」を聞いていれば、明日牢獄に入るのは、あるいはルガイヤであったかも知れないのに。  しかし誰の耳にも、入らなかった。  継続 4.  長い夜が始まろうとしていた。  城の一角の小さな窓に、日が落ちると共に明かりが灯る。  ボーンは、城に常勤してガルダンの到着を待っていた。  ガルダンは謹慎処分になっているが、ボーンはなっていないし、仕事もある。裏口の兵を説得し、ガルダンが来れば入城させるようにも頼んでおいた。ルガイヤ邸で仕事を終えた彼がすぐに王に謁見出来るようにしておいたのである。ルガイヤ本人に見つかって捕らえられる前に。  嫌な予感がした為でもあった。  結果的にはそうしておいて良かったとボーンが胸を撫で下ろすのは、「ガルダン軟禁」の報を聞いた為であった。行動は一層、早ければ早いに越したことはない。軟禁を決定させた時のルガイヤの剣幕と言ったらなかった、とボーンに報告をした兵は苦々しく言ったものだった。別に彼らにルガイヤがどうのとは言った覚えもないのに、やはり伝わってしまうのだろう、ボーンは苦笑した。  今、同じ屋根の下にいると聞いてさえ、もう顔を見たら何をするかも分からないほどに、憎んでしまった自分の弱い心が、情けない。  ルガイヤも今日は城に泊まり、明日正規の兵を連れてマハ家に行くのだ、と聞いてある。  ならば明日、出城する前に自分に会いに来るはずである。来なければこちらから捕まえに行って、奴の鼻先に謀反の証拠をつきつけてやる、と思っていた。  今日来るかとも思ったのだが、来なかった。来なくて良かったが。ボーンの方が、自分の中の鬼を鎮められる自信がなかったからだ。かつての友だったのに。そのように憎んでしまう、自分の心がふがいない。  しかし、それほどの怒りを培わせた原因はルガイヤにもある。ガルダンと共に相談した「ルガイヤが黒幕であろう」と言う憶測は、まだ憶測の域を出ていない。だが確定だろうと言って良いほど、確信はある。大司教とルガイヤにはつながりがあるからだ。ガルダンに接触して来たことも、今にして考えてみればこの為だったのだろう。ガルダンが、ルガイヤの思うように操れる男かどうかを見る為に。そう考えれば、変に友だったからと言って情けをかけることが命取りにもなりかねないのだ、今は憎んで良いのだと、ボーンは自分に言い聞かせるのだった。  とは言え肝心の、ルガイヤの謀反の証拠を探しに行ったガルダンが戻らない。  すっかり夜が更けてずいぶんになる。“作業”がまだ終わらないのか捕らえられたのかと思うと、気が気でなかったが、ボーン自らがルガイヤ邸におもむく訳には行かない。ガルダンが忍び込んでますとおおっぴらに言うようなものだ。  ……もし……。  もしも、ルガイヤが黒幕でなければ?  そう思った瞬間背筋が凍り、ボーンは首を振った。自分の思いこみだとは思いたくなかった。状況や背景を考え、冷静に判断した結果である。決して、私怨ではない。  ガルダンに、早く来てくれと願った。  証拠になるものが見つからないと言う可能性もあったが、探せば必ず出るとボーンは信じていた。ボーンはルガイヤが、そう言った類のものならばなおのこと保管を怠らない、几帳面な性格であることを誰より知っているのだ。そしてもしも彼が犯人でないのならば、身の潔白を証明するような証拠が出て欲しい、と、ボーンは奇妙な考えをふっと頭によぎらせたのだった。  ボーンは廊下に出ると巡回していた兵を捕まえ、同じく常駐している自分の隊の兵を呼んでくれるように頼んだ。ガルダンの様子を確かめに行かせる為である。 「はっ」  兵士が威勢の良い返答を放ち、ボーンの側を離れる。  その後ろ姿を見送ってから、ボーンは部屋に戻ろうと反転した。 「?!」  バッ、と振り向く。  兵が去った後の冷たい石の廊下には、ランプの薄明るい光がボンヤリと落ちているだけで、誰の影も気配も見当たらない。ボーンに聞こえるのは、自身の呼吸音と、ランプのロウソクが燃える時のジリジリと言う小さな音だけだった。  気のせいか?  普通なら、ここで部屋に戻るところである。しかし城内に広がる不穏な空気が、ボーンの長年培ってきた戦闘の勘を刺激し、異常を感知させた。 「む!」  方向を察知し、走り出す。無意識のうちに、左手は剣に添えられていた。  その方向には王の寝室がある。ボーンは躊躇しなかった。まっすぐ寝室へと疾走した。  王の間の扉を守る2人が、ボーンの形相を見てうろたえた。 「ボーン様?!」 「ボーン様!」 「どけ!」  兵をはねのけ、扉を蹴り開ける! 「王様!」  叫びながらボーンは剣を抜き、走り込んでいた。  眠る王の首に、今にも短剣を突き立てんとしていた人物へと!  影が、思わぬ侵入者に驚いて体勢を崩した。 「ぬん!」  力任せに剣を振る。恐ろしいスピードと風圧だった。触れれば、確実に首が落ちてなくなる、という恐怖を相手に植え付けるほどの剛剣である。  当然だろう。戦斧すらも剣のように楽々と振り回す強椀の戦士、ボーン・マハなのだ。  黒装束の侵入者はその一撃におののき、王のベッドから飛び降りた。風が流れて来る。窓から侵入したらしい。ボーンはすかさず窓に走り、侵入者の退路を断った。王が驚いて上体を起こす。 「何ごとだ!」 「ボーン様!」 「扉を閉めろ!」  慌てて入って来た兵らは、おろおろしながらも扉を閉めた。  その間にもボーンは暗殺者を追い込み、鬼の顔で剣を構えていた。暗殺者は短剣の他に小ぶりの剣も構え、隙を見て左右の手を持ち替えると、踊るような早さと身軽さで反撃を始めた。彼の目に、2人の兵の姿はない。ボーンだけに集中して倒さねば、倒せないことを肌で感じているのだろう。  ボーンは逆に、どっしりとただ立っているかのような重厚感で彼を威圧し、ほんのわずかに体をずらすだけで剣の全てを避けた。  苛立って踏み込み、真横に振られた剣を剣で受け止め、ガンと止める。直後、ボーンは大きく振りかざし、勢い良く剣を振り下ろした! 「ぎゃああ!」 「ボーン!」  暗殺者の絶叫が響き、ベッドの上で固まっていた王もさすがに声を荒らげた。  足踏みをしていた兵もようやく動き、室内の何カ所かへのランプに灯を入れ出した。ろくに視界の効かなかった暗闇に、ぽわりぽわりと光の玉が生まれた。  ボーンの右横顔にも、光が入る。その足下に崩れ落ちた男は長い方の剣を投げ出し、手首を掴んでうめいていた。投げ出されたと思われた剣の持ち手には、男の手が残っていた。手首を切り落とされたのである。兵の1人がランプを持って近寄ると、血の海が出来つつあった。 「短剣を渡せ」  侵入者にすでに戦意はなく、立ち上がる気配も見られない。しかし手首を握っているその手に持ったままの短剣がピクリと動いた時、ボーンはすかさず男の顎をぐっと掴んだのだった。 「はう!」  いきなり顔を掴まれた男は驚き、足をじたばたさせた。間抜けなほどに口を縦に開けさせられ、唇を突きだした状態になっている。短剣も取り上げられ、これでは自害出来ない。 「ボーン様」  突然男の動きを封じたボーンの行動に、兵がうろたえる。ボーンは静かに言った。 「猿ぐつわと縄を持って来い。それから、ルガイヤ殿を呼んで来るんだ」  先日ファバムの部屋を襲った者と同じだ、と直感したのである。敵に捕まる前に舌をかみ切ろうとする、その行動を防いだボーンは瞬時に、彼がルガイヤの手先ではないかと考えた。 「ファバムの短剣じゃ」  床に落ちて血塗れになった短剣を拾い上げ、王が言った。疑いの目つきで暗殺者を見下ろす。黒装束の男は当然、見たこともない顔だ。  王の胸中を察して、ボーンが言った。 「王様。ファバム様があなたを暗殺したいなら、ご自分の短剣など使われません」  その言葉にはっとした王の息づかいと、ボーンの手の中で男の顔がびくっとこわばったのは、同時だった。ボーンが男に視線を戻した。少ない光量の中で男を睨むボーンの顔は、一層凄みが効いていた。 「素直に吐くなら良し。嘘を言ったり黙秘するなら、お前を死なない程度の熱湯に浸けてやる」  男の目が恐怖に開いた。  湯になど浸かれば手首の出血は止まらないし、熱湯で体もただれる。何より熱いと言うより多分、それは痛いはずだ。針のむしろに寝かされていると同じである。  追い打ちに、ボーンは男を掴んだまま、手のない方の手首を踏みつけた。 「!!!!!」  兵や、王すらも顔をそむけるほどのくぐもった絶叫が部屋に充満した。だが、男は気絶出来なかった。  その時ファバムが飛び込んで来た。続いてイスクも入室する。 「父上!」  2人の声が重なり、そして室内の様子に同時に絶句した。しかしファバムは先日同じ光景を見てあったのですぐに気を取り直し、ボーンの名を呼んだのだった。 「暗殺者でございます」 「誰の差し金だと言うんだ?!」  その本人を待っているところである。ボーンは兵が持って来た猿ぐつわを男に噛ませ、喋りたそうに身をよじってうなっている男に言った。 「頷くだけで良い。誰に頼まれた? ファバムか?」  わざと「様」を付けずにボーンは言った。男は必死で首を縦に振った。 「何?!」  叫んだのは、イスクだった。ファバムは、ボーンがそんな訳がないと知っていることを知っている。策があるのだなと思い、黙って立っていた。 「ファバム様。まさかあなたが……」  そう言いながらボーンは、イスク(・・・)を見る。  当然イスクは何のことか分からずに狼狽したが、暗殺者が顔を動かさずにそれを見守った為、ボーンは再度、体重をかけて彼の手首を踏みつけたのだった。  言葉にならない絶叫がこだまする。 「小細工は通用せんぞ」  男の全身から、ぶわりと汗があふれ出した。  男がファバムとイスクの顔を知らないで良かったと思いながら、ボーンは言ったのだった。 「……ルガイヤだな?」  小細工は通用しない。この男は知っているのだ。今度嘘をつけば、自分は今度こそ生き地獄を味わうだろう。そう思う男は、懇願の目で首を縦に動かした。  これ以上ないほどに一生懸命首を振る男の姿に、ボーンは少し悲しみを感じた。やはり、という一言が頭をぐるぐると回った。王は言葉も出せず、呆然としているようだった。王も老いたな、とボーンはふと思った。ルガイヤの、王を暗殺してしまえと言う気持ちが分からないでもない気がしてしまったのだ。  もうすぐルガイヤが来る。彼は、どういった反応をするものだろうか。兵と一緒に男を縄で縛りながら、ボーンは複雑な思いを味わっていた。やはりまず否定をし、王にかしずくのだろうか。  そう思いながらもボーンは、険しい顔を崩さずにルガイヤを待った。  しかし。 「お見えになられません!」 「何?!」  部屋に飛び込んで来たのは、先ほどの兵1人だった。 「探したのか?!」 「聞いたところですと、急きょお帰りになられたと……!」  やられた、と思わずボーンは呟いた。ルガイヤのせせら笑いが脳裏に響き、ボーンは首を振った。もしやルガイヤは、ガルダンを殺してしまうつもりなのかも知れない、と思った。死人に口なしである、王暗殺も彼のせいにしてしまう算段があるのかも知れない。考え出すと、きりがなかった。  ガルダンがはち合わせせずに逃げ延びれば良いが、もし出逢ってしまった時ガルダンが、彼を追い込む証拠を掴んでいれば、間違いなく逆にその場で処刑される! 「ガルダン!」  ボーンは思わず叫び、窓を見た。  月明かりのない、薄暗い空だった。自分の感じた不吉な予感はこっちのことだったのか?! そう思いながら、ボーンは慌てて立ち上がった。 「どうしたのじゃ!」 「王様、兵をお貸し下さい! 大変なことになるかも知れないのです!」 「何?」  急に言われて事態が飲み込めないで返答に詰まった王の代わりに、ファバムが、 「許す!」  と言った。 「私の親衛隊を出す! 私も行くぞ」  ファバムは、ボーンにそれを拒ませない強さで言い切った。ここで問答を始める余裕はない。 「では、ただし私に従って下さい」  ボーンはすぐにファバムに対して感謝の意として、軽く膝を突いた。ファバムが笑みを見せた。  王とイスクにも礼儀を見せると、ボーンはその場にいる兵2人に暗殺者を任せ、退室した。ばっと腕を伸ばし、怒号を発する。 「準備をしろ! 出陣する! 目指すはルガイヤの屋敷だ!!」  継続 5.  その少し前。ガルダンとトマジは、書類の束に埋もれていた。  トマジがまず顔見知りとしてすんなりルガイヤ邸に入り、ガルダンは、庭の窓からトマジに手引きされ、侵入したのだった。  しかし本来なら、屋敷に出入り自由で部屋の場所もよく知っているトマジが1人で行う仕事のはずだった。その為にトマジを仲間に引き込んだと言っても良い。  なのに証拠になりそうな物を探せと具体的に言った途端、思いがけない展開になってしまったのだ。 「俺、字が分からねぇんだ」  愕然とした。  確かにバルドナットの文盲率は低くない。しかしトマジまでが文字を知らなかったとは。  ならお前に頼みはしなかったのに、とまで思ったが、屋敷の内部に明るい者がいてくれないと、やはり困る。だから計画は直前にして急きょ変更になり、外で見張り役をするはずだったガルダンも中に侵入し、本来物を探す役だったトマジが部屋の中から外の様子をうかがうという奇妙な見張り役になったのだった。  かくてガルダンは、ルガイヤの書斎の隅で手紙がないかどうかを調べている。  当然ただの手紙ではない。大司教や司教らの名が入ったものを探しているのだった。彼らがやり取りした密書があれば、それがもっとも重要な手がかりとなる。逆に言えば、それくらいしか有力な証拠に出来るものはない。  字が分からないとは言っても、トマジはトマジなりに部屋の外に気を使いつつ、ガルダンの調べた本や書類の束などを整理して、探しやすいように働いてくれていた。  しかし時間は無情に過ぎて行く。  ガルダン1人でボーンの書斎と同じような、本が落ちて来そうなほど膨大な量を見ようとすれば、日が落ちるのも無理はない話だった。その圧倒されるほどの本の山に、ガルダンはふと、本当にボーン様とルガイヤは似ているのだな、などと思ったものだったが、3時間もたつと、もうそんな余裕はなかった。  屋敷内の者は、ガルダンたちが書斎にいると思っていない。ガルダンが侵入した後に一旦トマジが何食わぬ顔で屋敷を出て、ガルダンが侵入したと同じ窓から忍び込んだからだ。簡単な引っかけだが、見つかりさえしなければ効果はてきめんである。用心の為に取った小細工だったが、まさか何時間もかかるとは思っていなかったので、そうしておいて良かった、などと内心ガルダンは思うのだった。  そもそも主人不在の書斎に入室者のあることを、ルガイヤはとても嫌った、とトマジは語った。だから屋敷の者が入って来る心配はなく、そういう点では危険なく調べ物が出来たが、日の落ちてくると今度は明かりが灯せない。  いよいよ手元が見づらくなった頃、トマジがささやき声で弱音を吐いた。 「今日はもう駄目だ。ガルダン、撤収しよう」 「駄目だ。書斎をこれだけ荒らしたんだ、もう次は来られない。何としても今、探し出さないと」 「本当にあるのか? そんな大事な物、燃やして証拠隠滅してるんじゃないか?」 「燃やしなんかしないさ。こいつが出て来たんだからな」  さきほど探し当てた別の手紙を見せて、ガルダンはトマジを説き伏せた。  それは、決定的な証拠ではなかったが、1つの手がかりには違いない手紙だった。さして重要でもないとルガイヤも思ったのだろう、比較的簡単なところから発見した物だった。  ガルダンの実の父親、セオ家の印の入った手紙だった。  何の関係があるんだろう? と最初は思った。しかし内容を見て、ガルダンはなぜ今になってサーリャが自分の前に現れることが出来たのかを理解したのだった。  本来の宛先は、司教への物だった。サーリャという娘を返してくれという内容だった。ある騎士が奴隷を欲しがっている。売れれば報酬は半々に出来る、と言った物。多分この「騎士」から調べが進み、今回のサーリャを使った計画が出来上がったのだろうと思われた。ガルダンがサーリャに出会えたのは、実の父に会いに行ってその話をした後だ。ルガイヤの接触も、あの後だった。  その手紙を見つけた時はさすがに言葉もなかったが、不思議と、すぐにどうでも良いと思えた。この手紙の後、彼らがどんな扱いになったのかは知らないが、気持ちとしては他人のすることとして、哀れみも憎悪も沸いて来なかった。  あるとすれば「感謝」か。  取り敢えず今は、この手紙のおかげで探す気力が沸いたのだ。必ず出る、と希望が持てたのである。何でも良い。手紙がなければ、司教の指輪だろうが大司教の紋章だろうが、とにかく実質的な形があれば。  そんな手紙も捨てずに保管しているのだ、大司教らと密約を交わしたなら、その文書を捨てるはずがない。  ガルダンは窓から外を見上げた。ほわりとした月が厚い雲の向こうから、弱々しく光っていた。  予測が正しければ、かなり大きな密談なのである。口約束だけでどうにかなるとは、思えない。  その時。  ガルダンは、ふと思いついた。 「寝室だ」 「え?」 「寝室。寝室にも、クローゼットとか何とかあるだろう」 「そうか!」  これはサーリャの癖だったのだが、彼女は大事なものを自分の枕元に置いて眠っていたのだ。枕元とは言わないにしても、重要なものなら自分の一番プライベートな部屋で管理されていても不思議はない。  寝室は書斎のすぐ隣である。廊下に出ずとも移動出来る。  2人は物音に注意しながら、そろりそろりと部屋を移った。  それぞれが思い思いの場所に張り付く。トマジはクローゼットへ。ガルダンはチェストの引き出しを開けた。なるだけ音を立てないように、しかし素早く行動しなければならない。もう部屋も冷たくなり薄着では寒いはずだったが、2人の体は火照り、汗を掻いていた。 「待て!」  トマジが手を挙げた。  ぴたりと2人の動きが止まる。止まると、部屋の外、廊下の向こうからコツコツという足音が聞こえた。1つである。遠ざかるのを待ったが、その音は大きくなるばかりだった。  大きくなり続け、近づき、止まった。  扉の前で。  ガチャリ、とノヴの回る音がする。  2人の緊張の汗が、一気に流れ出た。  扉が開いた。 「あら?」  召使いが、物音が聞こえた気がして開けた寝室には、何の影もなかった。彼女は気のせいだったかと思い、慌てて閉めた。少しでも勝手に入室したと分かれば、彼女の主人ルガイヤは炎のように怒るのだ。一歩も踏み込まずに立ち去るのが正解だった。  扉が閉められ足音が去り、トマジはクローゼットの影で、ガルダンはベッドの下で、それぞれ安堵の溜め息をついた。入室されていれば、見つかっていただろう。  2人は作業を再開した。  いや正確には、再開しようとした時だった。  ベッドの下から這い出ようとしたガルダンが、何か思い立ったらしくそのまま、ベッドの下の奥まで潜り込んだのだ。 「おい?」  トマジが小さくささやく。  見守っていると、ガルダンがずり出て来た。かろうじて片手で持てる程度の、少し大きな小箱を掴んで。 「下にポケットが作りつけられてて、そこにあった」  見つけた本人も嘘だろうと言わんばかりの顔をして、自分の手の中の箱を見つめている。トマジがニヤと笑い、ガルダンの肩を叩いた。それでようやく目が覚めたようにガルダンは肩を震わせ、慌ててそれを床に置き、剣を抜いて、それをこじ開けたのだった。 「やったな」  トマジが喜びを隠しきれず、またガルダンの肩を叩いた。ガルダンは中から手紙の1つを取り出し、かすかな月明かりを頼りに、そっと開封してみた。手紙の端を止める飾り蝋は、見たことのない紋章だった。  最初ガルダンは、3回も強く目をしばたいた。そこに書いてある文字を読み損なったかと思ったのだ。そして顔が紙につきそうなほどに目を近づけて、文字を読み取った。 「……嘘だろ、エルアルバって……」  敵国の名である。  ガルダンの口が、膝が、手が、そこにあるあまりにも大きな名に震え出してしまった。壮大であり意外な名であり、1国の第2王子を捨てゴマにする程度のことを構わないと思える、とんでもない計画だった。  その一枚を見ただけでは、ことのあらましが捕らえられない。  ガルダンはその場にしゃがみ込み、箱をひっくり返して手紙の全てを片っ端から広げて行こうとした。 「おい、どうしたんだよ! ガルダン、それなんだろう?! 早く逃げるんだ!」  小声ながらも鋭い叱咤を飛ばし、トマジがガルダンの腕を引っ張った。 「何だってんだよ! 後で良いじゃないか、何が書いてあるってんだよ、畜生!」  しかしガルダンは取りつかれたように手紙を見つめ、大きく目を見開き、ぶつぶつと口を動かしながら文章を読んで動かない。トマジは殴るような仕草で、掴んでいたガルダンの腕を放した。  俺は帰るぞ、と言おうとしたのだろう。反転したトマジが口を開いたその時、 「ガルダン……」  異変は起こった。  そのトマジの口調にガルダンも、ハッとして顔を上げた。トマジが窓の右端に身を隠して外を覗き込む。それを見てガルダンは慌てて手紙をかき集め懐に押し込み箱を拾い上げると、トマジと同じ窓の左側に張り付いた。  馬の鳴き声がした。  そして、10人ほどの騎兵の群れが見えた。 「ルガイヤか?」 「分からん。多分、そうだろう」  林を抜けて出現した騎兵の群れはすでに近く、気付かれずに屋敷を出るのが困難なほどだった。 「ばれたのか?」  トマジが咎めるような声を出した。 「まさか。どうやってばれるって言うんだ」  ガルダンは中空に目をさまよわせ、様々なパターンを思い浮かべた。しかし今日の今、ルガイヤ邸に忍び込んでいることを知っているのはボーンだけである。ボーンがルガイヤにそれを白状したとは、考えられない。例え拷問されても。  しかし現に、すぐそこにルガイヤがいる。 「夜になったから、城から帰って来ただけかも知れないぞ」 「武装してか?」  容赦のないトマジの糾弾に、ガルダンはうっと詰まった。  何にせよ、逃げなければならない。  そう思って近づいた廊下への扉からは、侍女らが主人の帰宅に慌てているらしい足音が聞こえて来る。逃げられたものではない。だが寝室の窓からは、正面玄関が丸見えなのだ。窓からも逃げられない。  ガルダンは書斎への扉を指さし、書斎に戻って、そこの窓から逃げることをジェスチャーで訴えた。角の部屋なので、窓の向きが違うのだ。行きも使った窓だった。  トマジも無言で頷き、開け放しておいた書斎への扉をくぐると、音の出ないようにそろそろとノヴを回して扉を閉めた。  しかし行きと違って帰りの辛いことは、足音のたつものが沢山床に散らばっていることだった。廊下の物音に気を配りながら窓に近づいていたのだが、  バタン!  という音が寝室から響いて来て、2人は瞬時に身を沈めたのだった。  間に合わなかった!  ガルダンは悔しさでたたらを踏んだ。確かに、手紙を眺めている暇ではなかった。  だが、今ならまだ逃げ出せる。隣りにルガイヤがいると言うことは、例え見つかったとしても逃げおおせさえ出来れば、城に駆け込むことが出来れば、ボーンなりファバムなり王なり、誰にでもこの手紙を渡せる。渡せさえすれば、後は何とかなるはずである。  箱を床に置いてガルダンは立ち上がり、覚悟して窓を開けようとした。 「来い!」 「きゃっ」  小さな。  本当に小さな、その悲鳴さえなければ。  ガルダンは、逃げおおせていただろう。不審に思うトマジが、動きの止まったガルダンの服を引っ張った。だがガルダンは、振り向くことすら出来ずに固まってしまった。  その耳に、またルガイヤの声が聞こえて来た。 「くそ、いまいましい、ガルダンめ! どこに行ったのだ!」  その呟きにトマジはニヤリと笑ったが、ガルダンの顔は、やはりまだ笑えずにいた。その後に続くドサリと言う音は、ベッドに体を投げ出す音だろう。しかし体を投げ出したのはルガイヤだったのか、誰かの体がベッドに投げ出されたのか……。  隣の寝室に、ルガイヤともう1人いるとトマジも気付き、ガルダンを見上げた。 「いや、来ないで! ……下さい」  女性の声。少女だろうか、線の細そうな声である。  ルガイヤに妻はない。彼女の口調、台詞の内容から考えられることは1つである。ならば、自分たちがここにいると気付いていないルガイヤが、彼女に集中している間に逃げてしまえば、そう簡単には追って来れないだろう。先ほどの10人の兵も、窓の下にすぐ集結して来る訳がない。  なのに、ガルダンは窓から離れた。  思わず声を上げそうになって、息を飲みながらトマジが彼の腕を掴んだ。ガルダンがトマジを見た。恐ろしい形相だった。 「ルガイヤ様、どうして急に私が連れて来られたんですか? 今日はこんな予定は、」 「うるさい!」 「きゃあ!」  破裂音が聞こえ、ガルダンの目が光った。思わず動くガルダンを、慌ててトマジが抱え込んで押さえた。  一体どうしたんだと叫んでガルダンを窓に引きずって行きたいが、今の彼はびくともしない。びくともしないどころか、寝室への扉に向かうではないか! 叫びたくとも声が出せないので、トマジは目を見開いて表現するしかなかった。 「お前は奴が現れるまでの餌だ。おとなしくしておれば、殴ったりはせん」 「餌? 彼はかかりませんよ。私は利用の為だけに近づいたのであって、好きでもなんでもないと言いましたから。私なんかを餌にしたって、ガルダンは現れません」 「どうかな?」  毅然として低くはっきりと話す彼女の声を、ルガイヤが一蹴する。 「い、いや!」  ベッドのきしむ音と、ルガイヤを嫌悪する声が響いた。 「お前も変わったな。扱いづらいメスは、用が済めば捨てられるだけだぞ」  まるで他人事のようにルガイヤが彼女のことを哀れんだ。それはガルダンが現れないようならお前を殺すと言っているのと同じことである。加えて、彼女をメス呼ばわりしたルガイヤの言葉に、ガルダンの理性が吹き飛んだ。 「!!」  必死で押さえていたトマジも、こうなっては力が及ばない。ぐいと引き離されたトマジの足下で紙の束がぐしゃりと音を立て、いよいよ隠れていることが知られてしまったと思われた。  ガルダンがノヴを掴んで回すその時、一瞬だけ険しかった顔が緩んでトマジを見た。 「お前は逃げてくれ」  ガルダンは懐の手紙の束をトマジに放り投げ、小声でそう言うと、一気に扉を押し広げた。驚愕の表情を浮かべるルガイヤと、その下に、ベッドに組み敷かれている黒髪の娘とを交互に見る。 「サーリャを放せ」  ガルダンは、すでに剣を抜いていた。    継続 6. 「馬鹿!」  飛んで来た怒声は、彼女のものである。  開いた扉から見えた女性はどう見てもクグライバル人であり、トマジの脳裏には「奴隷だ」としか浮かばなかった。しかしこれだけの怒りを見せるガルダンが、迷いもせず彼女をサーリャと呼んだのだ、ただの知り合いではないだろう。  トマジは扉の影に身を隠し、ガルダンに預けられた手紙を服の中に押し込むと、息を殺し、寝室の様子を見守った。本当は逃げた方が良いと頭では分かっているのだが、感情が、トマジの足を止めたのだ。 「どうして出て来るのよ、逃げれば良かったのに!」 「まさか、灯台もと暗しだとはなぁ」  泣き叫ぶサーリャの手を後ろに捕らえ、ルガイヤは彼女の首に剣をあてがった。いつの間に出したのか、大ぶりの長剣である。剣が出て来ると思っていなかったガルダンは自分の浅はかさを呪ったが、それを言うなら飛び出すこと自体が浅はかなのだ、同じと言えば同じである。内心、苦笑した。  優位に立ったと確信したルガイヤは、満足の笑みを浮かべた。しかも彼が書斎から出て来た為、寝室の手紙は無事だったのだと思い、その笑みが安堵に変わった。 「命を捨てて、女を助けるか。良い男だな、ガルダン」  ルガイヤが余裕の揶揄を放つ。 「サーリャを放せ」 「剣を捨てろ」 「彼女が先だ」 「なら、同時と行こう」  ルガイヤは彼女を盾にしたまま、ゆっくりとベッドから離れ、窓を背にした。一瞬ルガイヤの顔が逆光で見えにくくなったが、月の光は弱い。眩しいほどではない。  自然にガルダンもすり足でフロアの真ん中へと移動し、廊下への出口扉を後方にした。剣を持つ向きを変え、前に差し出す。投げる素振りをした。ルガイヤも剣を少し下げる。 「離すぞ。……1、2、3!」  2組の真ん中にガルダンの剣が投げ出され、同時に飛ぶようにサーリャも走った。  しかしそれらは、時間稼ぎだった。 「ルガイヤ様!」  サーリャが走った直後にガルダンの後方の扉が開き、廊下から、異変を聞きつけた兵らがわらわらと入って来たのである。ルガイヤが叫んだ。 「賊だ、捕らえろ!」  驚いたガルダンは思わず振り向いてしまい、その間にも兵の剣が襲って来る。慌てて避けた。しかし2度目はない。 「ガルダン!」  その叫びは、女性のものだったか男性のものだったのか。  気付けば、見るに耐えなくなったトマジが飛び出してガルダンにせまった剣を受け止めているところであり、サーリャはガルダンの投げた剣を拾って、ガルダンに向かって投げているところだった。 「こしゃくな!」  ルガイヤがサーリャの背中に向かって、斬りかかろうとした。  サーリャの投げてくれた剣が、スローモーションのように遅い。  ガルダンはトマジの厚意に甘えて、自分の剣を受けとめに走った。  サーリャも走りながら剣を拾って投げてくれたので、体勢を崩してしまい、転んだ。  ガルダンが剣の柄に手を伸ばす。  転んだ彼女の上に、ルガイヤの剣が振り上げられた。  柄を、掴んだ。  金属音が鳴り響いた。  ガルダンはルガイヤの剣をはねのけ、サーリャをかばった。  サーリャが立ち上がり、ガルダンの背に隠れた。とは言ってもその後ろにはまだ兵が3人もひかえていて、トマジが一手に相手をしてくれている状態だったが。  だから悠長にそれを見物はしていられない。サーリャが悲鳴を上げ、襲いかかって来た兵の気配に反応してガルダンが剣を振った。  兵が飛び退く。ガルダンは剣の舞を止めず、1人を突き殺した。 「お前ら!」  トマジが叫んだ。 「ガルダン、こいつら“国境の盗賊”だ!」 「何だと!」  その顔形の微妙な違いに、気付いたらしい。かつてトマジが同僚として仕事をした者がいたのかも知れない。ルガイヤの私兵がやたら多いのは、この為だったのだ。  その事実から今問題なのは、彼らが戦いのエキスパートだということだった。  トマジは壁を背にし、身動きの取れない代わりに背後から襲われないようにして2人と戦っている。腕前は互角以下のようで、トマジは寝室内を逃げながら戦った。ガルダンが1人殺してくれたおかげで2人のうち1人がガルダンに向き、少し楽になった。 「サーリャ、隠れてろ!」  背中に張りつかれていては、思うように動けない。そう思ったガルダンはルガイヤを攻め、もう一方の兵からの攻撃をかわしつつ、2人をサーリャから引き離した。剣技では勝てそうにないと悟っているルガイヤは、何とかもう1度サーリャを人質に取ろうとするが、ガルダンの剣がそれを阻んで思うように動けない。 「強くなったものだな、ガルダン。あのボーンに育てられただけのことがある」  ルガイヤが笑いながら言ったが、ガルダンは相手にしなかった。気を抜くと負けなのだ。 「知りたくないか? どうして奴がお前を拾ったのか」  無視しようとした。 「あの頃、奴は自暴自棄だった。試合でたまたま見つけたお前を育て、気を紛らわせようとしただけなのさ。無理もない、妻があんな状態になってはなぁ」 「うるさい!」  つい、口が出た。ルガイヤがニヤと笑う。ガルダンの手元が狂った。腕を、誰かの剣がかすめて行った。 「お前はただのおもちゃ、ペットで、それ以上の意味なんてない!」 「黙れー!!」  ガルダンの怒りが剣にこめられる。怒りを乗せた剣はうなり、兵の1人の腹へとめり込んだ。だがめり込んだ剣が、相手の腹筋に邪魔をされて、抜けない。そこにルガイヤが襲いかかった。  ガルダンは潔く剣を捨て、今刺したばかりの男の背後に回り、ルガイヤの剣を避けた。 「っ!」  ルガイヤの剣が、兵の胸を傷つける。最後の命がついえ、兵が絶命した。その彼が倒れる前にガルダンは彼の右手に手を伸ばし、剣を掴むと、彼を捨ててルガイヤに向かった。  男の影になっていたガルダンの動作を見切れず、ルガイヤが不利になった。  今や1対1。ルガイヤは焦った。  彼を動揺させる言葉が思いつかない。  剣を交える。瞬間、鼻先が突くほどの間近にルガイヤと顔を付き合わせ、ガルダンは思い切り彼を睨んだ。 「ボーン様が俺のことをどう思ってくれてるかは、分かってる。貴様に言われる筋合いはない」  ルガイヤが飛び退く。ガルダンは彼を追いつめようとした。  しかし状況はガルダンたちにとって悪化した。  援軍が来たのである。  屋敷にいた他の兵らが入室して来て、ガルダンとトマジに剣を向けて来た。  1対3。1対5。  まだ増えるだろう。 「この野郎!」  もはやまともな戦いではない。  トマジは戦い、傷を負いながら、心のどこかでやっぱり逃げれば良かったなー、と思っていた。しかしガルダンの性格の何かが彼に乗り移ったかのようで、逃げられなかったのだ。ガルダンを見殺しに出来なかったのだ。  ガルダンの方は何も考える暇などなく、ただ隅に隠れたサーリャをかばうだけで精一杯である。  トマジは走ってベッドの上に逃げ、毛布を広げて敵の上にかぶせて目隠しをしたりなどして、工夫して戦った。 「ぎゃあ!」  運良く1人倒せた。 「ぐわ!」  ガルダンも、一瞬の隙をついて剣を兵の首に叩きつけた。そのスピード、身のこなしは、ボーンに勝るとも劣らない。明らかにまだルガイヤたちの方が有利だと言うのに、恐怖で背筋が凍るほどだった。 「ガルダン!」  隠れていたサーリャに、兵の1人が襲いかかっていた。 「サーリャ!」  チェストの影から転がり出て、何とか剣を避けた。転がった先に死体があったので、サーリャはその死体が持つ剣をはぎ取って立ち上がった。  だが剣は重く、彼女の細腕では思うように動かない。遠心力で2度ほど振り回し兵を威嚇するが、それは到底何とかなる腕前ではなかった。  ガルダンが剣を振りながら、サーリャの元に走る。  彼女をなぶっていた兵に、こん身の力で剣を振り下ろした。  サーリャの目の前で、兵の頭がすいかのように割れた。その向こうに、ガルダンの血みどろの顔が見えた。必死の形相。これだけの敵を目の前にして、一歩も退かない強い目に、サーリャは釘付けになった。  嫌いだと。あなたを利用しただけだと、あれほど散々にののしったにも関わらず、ガルダンは6年前と変わらないまっすぐな目を、自分に向けてくれるのだ。ひたむきに愛しい目を。  いつか俺はサーリャを守りたいのだ、と言うのがガルダンの――いや、コルチェだった頃の彼の、口癖だった。理不尽な大人たちに対抗し得るだけの力が欲しい、という願望もあっただろう。その理不尽さがコルチェにだけでなく、サーリャにだって及んでいるのを、彼は気付いていた。コルチェはことあるごとにサーリャをかばい、そして力が欲しいと嘆いた。  今ガルダンは昔になかった、残忍なほどの強さを身につけていた。サーリャは降り注いで来る血に目を細めた。残酷な強さだがしかし、根底は変わらない。サーリャをかばい、守る、その為の剣なのだ。  サーリャの心に暖かいものが広がり、目にじわりと涙が湧いた。これでもう敵兵が全ていなければ、お疲れ様と、ありがとうと言って彼にしがみつきたいところだった。彼に手を伸ばし、ガルダンもその手を取ってくれて、抱きとめようとしてくれている気がした。  それは、ほんのわずかな短い時間だったが、確かに2人の瞳がしっかりと互いの意志を伝え合い、むすばれた瞬間でもあった。  そのサーリャの瞳に、ガルダンの背後に忍ぶ影が映った。  押し寄せる兵。  剣を構えるルガイヤ。  はっとしてガルダンも振り向き、剣を振ろうとした。  しかし剣先が間に合わず、体も避けきれない。  身をねじったガルダンの脇腹にルガイヤの剣が叩き込まれるのを、サーリャは涙目で呆然と見つめた。  しかも。  追い打ちに、別の兵がガルダンの腕を斬りつけ、血が飛んだ。  ガルダンががくりと体勢を崩す。 「い……」  完全に崩れ落ちそうになる彼の体を、サーリャは夢でも見ているような思いで、首を振って眺めた。夢だと思っているはずなのに、もう視界が涙で曇って何も見えなくなった。 「嫌あああぁぁぁ!!」  サーリャの絶叫が響く。  トマジも振り向いた。  サーリャはもう無我夢中で、ガルダンの体を抱きとめ――ようとした。  ガルダンは倒れなかった。  それどころか、走り出していた。  文字通り捨て身だった。  剣を構え、ルガイヤに突進したのだ! 「うおおおあああぁぁ!!!」  その捨て身の攻撃が、ルガイヤにかわせるはずがない。  ガルダンの、どんなにか辛く厳しかっただろう修行の日々は、きっと誰にも負けていない。むろん、ルガイヤなどの想像の及ぶところではないだろう。  それだけの過酷な試練を与えた張本人の1人は、ルガイヤである。  世間の非情さを知り、人を疑うようになった要因の1つだった。最初に知ったこの疑惑から全てが始まり、この憎しみがガルダンを強くしたと言っても過言ではないかも知れない。  そうした意味では、ガルダンはルガイヤに対してもまた、奇妙な感情を持っていた。  感謝の念である。  ルガイヤがいて、性格が歪んだ。臆病になった。  ルガイヤがいて、強くなった。負けたくないと思った。  相反した2つの感情が生まれ、不思議に融合しながらガルダンの中で成長して行ったのだ。  ああそうそう、もう1つ感謝しなきゃな。とガルダンは、サーリャの声を聞きながら思った。ルガイヤの策略があってようやく、ガルダンは彼女と会えたのである。この6年を取り戻せたのである。  やっと帰って来たような安堵感が、ガルダンの胸に広がった。  心臓を貫通されたルガイヤの上に、折り重なるようにしてガルダンは、体を倒して行った。  ルガイヤを貫いたその感触に、達成感を感じた。  サーリャの声に、ガルダンは微笑んだ。  ずっと走り続けて来た人生だった。  やっとこれで立ち止まれる、と思った。  ちょっと休ませてもらうね。  そんな呟きは、声になったのかどうか、自分の中で思っただけだったのか。  ガルダンはどこか遠くで、なぜかボーンの声を聞いた気がした。  継続 7.  誰かがたたずんでいる。  それがファリィであると気付いてから、ガルダンは思った。ファリィって誰だっけ?  霧がかかったかのように真っ白なような、光が一筋もないかのように真っ黒な世界は、本当に今自分の目で見えているものなのかどうか、疑わしかった。目、と思ってから、ガルダンは気付く。俺は、どこだ?  青いほどに白いその女性が、自分を見た。気がした。  そして思い出した。  ファリィはボーンの妻であり、3年も前に死んだ女である。  ガルダンは彼女のことを、少し好きだった。  彼女が正気であったなら――自分に笑いかけ話しかけてくれたならば、母親のように慕うことも出来ただろうに。人形のような彼女は、ある意味で、本当の人形だった。  自分が死んだんだということを分からずに、彼女は死んだ。自分の夫の顔も分からないまま、狂ったまま彼女は死んだ。  そんな死に方は嫌だな、と思ったものだった。  ファリィが可哀想だな、と思ったものだった。  自分だったら、自分が死ぬ時も分かっていたい。  自分の人生の終わりを、見つめたい。  あ、今が、そうなのか。  ふいにガルダンはおかしくなって、微笑んでしまった。今、自分はファリィと同じところにいるではないか。そして彼女と違って、自分がガルダンであると知っていることに、少し安堵した。  なぜ、彼女のことを可哀想だと思ったのか。  自分の凄惨な死に様と違って、彼女は苦しむことなく静かに死ねた。それは一見、幸せな死に方である。  だが。  彼女には、記憶がないのだ。  1分1秒たりとも漏れることなく完璧な“自分の記憶”は、自分だけのものである。死ぬ時は、体1つなのだ。死の際に、生まれた時と違って持って来れるものは、1つだけ。生涯かけて築き上げて来た“自分の記憶”だけだ。自分が自分であることだけなのである。ファリィは、そんな大事な“自分”を自分が思い出してやることなく死んだのである。  ガルダンはファリィに手を伸ばした。いや、伸ばしたつもりだった。自分の手がどこにあるのかも、分かっていない。しかし意識の上では、伸ばしたのである。  柔らかな、綺麗な笑みだった。  微笑んで立ったまま、しかしファリィはガルダンに手を差し出さない。 「ガルダン」  と、彼女が言ったような気がした。  その姿が遠ざかったような気がした。  彼女が、頷いたような気がした。  彼女は、思い出している?  その笑みが、合点の笑みに見えた。  現実に生きていた頃の彼女がすっかりなくしていた記憶は、死後、心の底からよみがえったのだろうか?  そんな考えが浮かんだ。それは、そうであって欲しいと願うガルダンの、勝手な想像だったのかも知れない。しかし最後に見せたファリィの笑顔は、そんな笑顔であったかのように思えた。  名を呼ばれたその声は、どこか懐かしくガルダンの耳に響いた。 「ガルダン」  聞いたことのある声である。  そう思ってからふと、ガルダンは自分がファリィの声などちゃんと聞いた記憶がないことに、気付いた。そんなに遠い昔ではない。しかし昔から知っている声。  視界がふっと暗転した。  いや今までもずっと暗闇だったはずになのだが、もっと自分に近いところに闇が移って来たかのような、そんな感覚だった。 「ガルダン!」  はっきりと聞こえた。  生の声である。  間違いなく、自分を呼んでいる。その声を、自分は聞いている。自分の耳で。自分の耳が、ここにあるのだ。自分の目が、ここにあるのだ。自分の体が、ここにあるのだ!  ガルダンは、瞼を押し上げた。  一気に大量の光が目に入って来て、びっくりして目を閉じた。顔をしかめる。しかめてから、思った。ちゃんと自分がある。  そして光を少しずつ受け入れる。  薄く目を開け、徐々に押し広げる。  天井が見えた。  くいと目を動かしてみると、自分の鼻先が見えた。もう少し動かしてみると、そこに涙に濡れた瞳が見えた。瞳の持ち主は黒い目をした女性であり、彼女を、ガルダンは知っていた。 「ガルダン」  その声を、ガルダンは知っていた。  喉に力を込め、彼女の名を呼ぼうとする。ひゅうと息が洩れた。 「……サー……」  名前の全てが音にならなかったが、彼女には分かったらしい。サーリャはしっかりと頷いて見せたのだった。  それからぼんやりと、ガルダンはその天井がマハ家の自分の部屋の景色であることを思い出した。少し左に顔を向ければ、眩しい光はそこにある窓からさんさんと入って来ているものだった。 「2日間、眠っていたのよ」  それを聞いてガルダンは、ああサーリャの時より全然短いな、と思った。かつての場面と今の状況が、全く同じであることに気が付いたのである。違うのは、あの時はサーリャが寝ていて、自分がそれを看病していた側だったことだ。きっと彼女も、ずっと自分のそばにつきっきりだったのだろうな、とガルダンは思った。  そして自分がなぜ寝ているのかの理由に思い当たり、手を動かして横腹を探ったのだった。のろのろと手を動かす。その手を、可憐な指先がふわりと包み込んだ。 「大丈夫よ。傷はふさがったし、安静にしていれば、骨も元通りになるって」  肋骨も折っていたのか。  確かに、大きく深く呼吸をすると、少し胸の辺りの感覚がおかしな気がした。ガルダンは握ってくれたサーリャの手を、握り返した。 「君は……大丈夫なのかい?」 「あの後すぐに、ボーン様が助けてくれたの」  ああそうか、とガルダンは安堵した。気を失う間際に聞こえた気がしたボーンの声は、本物だったのだ。ではトマジも無事だったのだろう。 「王子様もご一緒だったわ」 「ファバム様が?」  ガルダンの驚きに、サーリャはちょっと肩を竦めて笑って見せた。 「司教様が話して聞かせてくれたより、とても素敵な方だったわ」  それを聞いてガルダンも笑う。思い立ち、すぐ笑みを消した。 「……ルガイヤは?」 「死んだわ」  聞くまでもない質問だったし、言うまでもない答えだった。  ガルダンは間違いなく彼の胸に、剣を貫通させたのだ。それで、生きている訳がない。だがはっきりとしたサーリャの返答に、ガルダンは少し苦いものを感じたのだった。  出来れば生かしたまま、罪の全てを背負わせたかった。そう思ったのである。その為の潜入だったはずなのだから。  ガルダンの表情に影がよぎったのを見て、サーリャが心配げに覗き込んで来た。大丈夫だと言う代わりに、ガルダンは微笑んだ。 「ガルダン。……どうも、ありがとう。本当に……」  言葉が胸に詰まり、また目から涙が溢れて来た。そのサーリャの涙を、ガルダンはもう片方の手を伸ばし、ぬぐった。  ぬぐったその手を、彼女の頬に添える。  そのガルダンの手に、サーリャも自分のもう片方の手を重ねた。  彼女がかがみ込み、瞳をゆっくり閉じて行く。ガルダンも少し顎を上げて、目を伏せた。  重なり、しばらく離れなかった。  継続 8.  ガルダンが持っていた分も、トマジに渡した分と合わせて、全部の証拠がボーンの手から王に手渡された。  その開封は全ての諸侯らが集まった大広間で行われ、その朗読が終わった時、ルガイヤはその死を当然のものとして皆に蔑まれることとなってしまったのだった。  すでにこの世にいないことは、幸福だったのか不幸だったのか。  少なくとも生きながらにして罪を言い渡され、恥辱を味わわされることになってしまった大司教らにとっては、ルガイヤの死は上手い逃亡に見えたことだっただろう。彼らには到底自害する勇気などなく、国を追い出されさすらう日々が待っているのだ。  手紙の概要は、誰もがにわかには信じられないような計画だった。 『バルドナット国の“危険分子”を排除し、第1王子イスクを抱き込み、エルアルバ国にこれを全面的に引き渡す』  と言った内容のものが。  誰もが一度には意味が分かりかねて、朗読係はそれらを3度読み上げたほどだった。  つまり、  まずルガイヤと大司教らが、エルアルバ国と密通していた、というのがそもそもの始まりだった。  そして、  国土を広げたがったエルアルバ国の欲望と、  国教を広げたがった大司教らの欲望と、  この国を何とかしたいと思うルガイヤの欲望とが、一致したのだった。  ルガイヤは、この国を何とかしたいと願っていたのだ。  少なくともボーンは、そう思った。彼は“国”という小をつぶして、“人”という大を取ろうとしたのではないか、と。 「ルガイヤ殿は、いつも、いつでもこの国のことを考えている、と言った」  ボーンは呟くように静かに言った。  そのボーンがいる生成り色のカーペットにはもう、先日の生々しい血の跡は影もなく、以前と同じ落ち着きを取り戻した部屋になっていた。あの騒動から、もう2週間が経とうとしていた。  ガルダンが最初に緊張して入室した時と違い、ファバムの部屋の空気は、驚くほど穏やかだった。部屋の主人のファバム自身が、穏やかなせいであろう。机を囲んで彼の向かいに、若干回復したガルダンとボーンが座り、3人はことのあらましについてポツリポツリと言葉を交わしていた。  ボーンが続けて言った。 「エルアルバ国と開戦になれば、多くの血が流れる。かの国は我が国より大きい。戦うのは得策でないと思っていたのだろう」  将軍であるボーンを捕らえ、頭の切れるファバムを封じ、国王を亡き者にしてしまえば――後には烏合の衆が残るだけで、実質バルドナットは滅んだと同じ状態になる。と言うのが、ルガイヤのもくろみだったらしい。  二分していた“国境の盗賊”の一方は、ボーンがエルアルバ国に牽制をかける為に使っていた勢力だったのだが、もう一方をルガイヤが掌握し、エルアルバとの密通や、自分の私兵として良いように活用していたのだ。いや、ひょっとしてルガイヤが使う一派はもう、エルアルバが派遣して来た正規の軍だったのかも知れないが。  そして無傷で領土を明け渡し奴隷を捧げ、その報酬に、大司教はエルアルバへも布教出来るようになり、ルガイヤは、属国となったバルドナットを収める役目を貰う、と言うのが密約の全てだった。 「全く……」  ファバムは言葉もなく額に手を当てた。  しかしガルダンは、複雑な気持ちだった。そのように聞いてしまっては、どちらが正しかったのだろうかと言う気分に陥るからだ。  国を守り戦えば、人が死に、土地が傷つくのだ。もし負ければ、ルガイヤが成そうとしていた属国と言う立場より、もっとひどいことになりかねない。 「俺は――私たちは、ルガイヤ卿に従うべきだったのでしょうか?」 「いや。ルガイヤは、大きな過ちを犯している」  力ないガルダンの言葉に応えたのは、ファバムだった。俯き加減だった顔を上げると、清々しくまっすぐなファバムの顔がそこにあった。 「奴隷のことだ。クグライバル人たち。ルガイヤは、彼らを道具として扱った。それは、計画が実行された後も変わらず、やはりエルアルバ国も奴隷として彼らを使う気だっただろう。私たちバルドナット人を奴隷に差しだしはしない代わりに、彼らを犠牲にしようとしたのだ」  そのファバムの説明に、ガルダンはようやく自分がファバムのことを誤解していた点に気付いたのだった。 「ファバム様……。あなたはもしや、クグライバル人のことを、大切に思ってらっしゃるのですか?」  身も蓋もなく露骨に尋ねたガルダンの問いにファバムは照れたのか、少し明後日を向いた。しかしすぐ真顔に戻り、ガルダンとボーンに向き直った。 「ルガイヤの消えた今だから、ここでこの話が出来るが……。奴隷解放をすべきだと最初に言ったのは、私だったんだ。5年前に提唱した。だがそんな考えは危険だとして、私はルガイヤに暗殺されそうになったのだよ」 「え……?!」  ガルダンだけでなく、ボーンの驚きも重なった。5年前の暗殺未遂事件について、実のところ詳しいことは誰も知らなかったのである。 「今にして思えば、あれは暗殺でなく、脅しだったのかも知れないが。確証がないのでね、終わった今でも実際そうとは言い切れないことなのだが。――あの時、乳母や侍女も全て殺した犯人は、外部から侵入して来たものと思われていた。そしてその者と、その頃私の側近をしていた者が戦った、とね」 「そう聞いております」  ボーンが頷いた。  ファバムは机の上で手を組み、その上に顎を乗せた。 「ところが、あれは本当は側近と私が戦ったものだったんだ」 「何ですと?!」  これは心底驚愕だったらしく、ボーンは机に拳をドンと置いて叫んだのだった。咳払いをして、乗り出した身を椅子に戻す。ガルダンも座り直した。その様子に、ファバムは苦笑した。 「無理はない。彼は私の、その頃一番大切な親友だったからな」  その台詞に、ガルダンはかつてルガイヤと話をした時のことを思い出した。側近を失って以後、特定の従者も誰もそばに近づけさせなくなった、ファバム。 「ショックは大きかったよ。信じていた友に裏切られたのだからな。彼は最後まで、黒幕が誰かを言わなかった。その代わりに言ったんだ。『誰が味方で誰が敵か、分かりませんよ』と。言われるまでもない、もうすっかり混乱していたさ」  ファバムは肩を竦め、少し笑ってから続けた。 「彼はルガイヤの甥だった。だから密かに、ルガイヤではないかと思っていたんだ。けれど仮に敵が誰かが分かっても、私には戦う術が分からなかった。どこで誰に見張られているかも分からない。私の余計な言動で、父上や兄上に危険が降りかかることも、怖かった。愚かなフリをして自分を守る臆病者になったのだよ、私は」  最後には自嘲するような口振りになったファバムに、ガルダンは緩く首を振った。  そんなことはない。  そんなことはないと思うが、そうだと言い切る彼の気持ちが、ガルダンには痛いほど理解出来た。  具体的にこうした話を聞かずとも、どこか似ていると感じられていたファバムの性格は、ガルダンがそう感じた通りの性格だったのだ。非常に似た2人だったのだ。  人を信じたいのに、信じられない。  近づきたいのに、近づけない。  防御をした、自分の心。  ガルダンは今この時、ファバムの本当の友人になりたいと願った。  完全に心を開き、許し、ファバムの心を受けとめたいと思った。 「ファバム様は、ご立派です」  言った自分の声が震えていたので、ガルダンは口を引き結んだ。涙が出そうになっていたのである。ぐっと堪えた。 「お強いです」 「ガルダン。ボーン卿」  ファバムが立ち上がったので、ガルダンもボーンも席を立った。  ファバムが手を差し出した。 「これからが、もっと大変になる。戦争になるだろう。私は出来ればクグライバル人の力を戦争に借り、勝利した暁には彼らを奴隷から解放する、という提言を、父上に通したい。そう簡単ではないと思うし、我が国が勝つかどうかも分からぬのだが……手伝ってくれ」  熱く語るファバムの右手を、ガルダンは力強く握りしめた。その2人の手の上にボーンが手を乗せ、頷いた。  考えてみればこの時、ガルダンは握手というものを生まれて初めてしたのだった。  それぞれの手の平がじんわりと熱を伝え合い、心までをも伝え合うような、生涯記憶に残る暖かさだった。  継続 9.  冬がすぐ目前の、雲の高い寒空であったが、夕暮れは今のガルダンの心を移しているかのように赤く燃え上がっていた。  マハ家の屋根をも赤く染め上げ、まるで暖かく出迎えてくれるサーリャを、ガルダンに想像させた。胸を張り、玄関をくぐる。ガルダンは、ただいま、と思った。ボーンに引き取られ、今、違和感なくこの屋敷を自分の家であると感じたのである。  玄関に立つ人間は、想像と違っていた。 「え?」  召使い長のメリレルである。サーリャではなかった。執事も一緒に出迎えていたが、召使いは食事の用意に忙しいのだ、普通は玄関に出て来ない。  まして、今日は特別である。忙しいはずなのだ。  少ししわの入り初めているメリレルの顔に、いつもより深く険しいしわが刻まれている。不吉な予感がしてガルダンとボーンも、眉間にしわを寄せた。 「どうした?」  口火を切ったのはボーンだった。馬を降り執事に渡し、メリレルの側に近付く。ガルダンも馬を降りた。 「彼女が、出て行きました」  堅い口調で出された「彼女」と言うのが誰のことを差しているのかは、すぐに分かる。ボーンが目を見開いた。  ガルダンは呆けた口をしてしまい、思いもよらないサーリャの行動に声が出せなかった。  なぜ、という疑問もさることながら、気持ちが通じ合ったと思っていたサーリャの心が、まだガルダンに対して開かれてはいなかったのか、という悲しみの方が強かった。  その胸中を察したのか、メリレルがガルダンに対して一歩進み出た。 「女性の立場として、彼女の気持ち、私には分かる気がするんです」 「どう分かると言うんですか」  ガルダンは、ガルダン・マハに名を変えてもなおメリレルには、敬語で接していた。彼に礼儀を教えてくれた最初の教師でもあるのだ、そこに階級を感じたことは、ガルダンは、ない。  しかし女性にしてみれば、そこには明らかに越えられない壁があるのだとメリレルは言うのである。 「ましてサーリャは……他国の人間。あなたの将来を考えるなればこその、決断だったと思うのです」 「行き先は言わなかったんですか?」  言わなかっただろう確信があるものの、つい聞いてしまった。予想通り、メリレルは首を振った。  ガルダンは悔しさに、歯を食いしばった。それは決断でなく逃げだ、と思った。  他国の者だから――奴隷だからガルダンとは釣り合わない、などという理由で身を引くのでは、何の意味もないのだ。そう思っているのは自分だけで、ガルダンは、それらのことを乗り越える覚悟が出来ているというのに。本当に奴隷という立場を改善して行きたいなら、その程度のことはまず乗り越えるべきなのに。  いくらファバムやガルダンが解放をうたっても、当の本人たちであるクグライバル人がやる気になってくれないと、話は進まない。奴隷でも充分生きて行けるから良い、と思うのであれば、それはすでに戦わずして負けているのである。  逃げては、現状維持どころか事態を悪化させるのだ。  サーリャには、力がある。  そう思っていたのは、自分の独りよがりな思い過ごしだったのだろうか? 「サーリャ」  呟いたガルダンの声があまりにも情けなかったので、ボーンは彼の背中をバンと叩いたのだった。 「しっかりせんか!」  怒声を上げる。 「ボーン様」  ガルダンとメリレルの声が重なった。 「歩きであろう? まだ、そう遠くには行っとらん。行くとすれば、クグライバルに戻る方向だろう」  ボーンの言わんとするところを察したガルダンは、その言葉の意味に驚きを隠しきれなかった。 「良いのですか……?」 「すぐ帰って来い。2人でな」  ボーンは笑顔で頷いた。  執事が、一旦馬小屋に戻したガルダンの馬を引き連れて、そばに立っていた。 「悔いを残すな」 「はい!」  勢い良く頷き返して、ガルダンは執事から手綱を受け取り、再び馬に飛び乗った。  いつも、ずっと変わらずにいてくれたボーンの存在が嬉しかった。初めて出逢った時は訳も分からず拾われて、何を考えているのか分からない男だった。とにかく利用して自分を磨こうと思ったが、自分が利用しているのか彼に利用されているのかも分からず、居心地が悪かった。不明な点が多かった。  しかし、ボーンは変わらなかった。  ただの1度も嘘をつかず、ガルダンの悩みをも成長に変えて、大きくなることを見守ってくれていたのだ。ガルダンが少しずつ飲み込んで理解して行くことを、待ってくれていたのだ。信じてくれていたのだ。 「行って来ます! 父さん!」  ガルダンはそう叫び満面の笑みをボーンに残してから、馬の腹を蹴って走り出した。 fin