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10. 翌朝、彼は起きなかった。 いや正確には、起きれなかったのだ。 やはり前日のお祭り騒ぎは体にこたえたらしい。 ワシュレイは、声を出すことすら困難な状態に陥っていた。 ジェミネは壊れそうな自分の胸を押さえつけ、涙をこらえて電話に手を伸ばした。 警察でなく、大使館に連絡を取ったのは正解だった。 ほどなく救急車がやってきて、彼を壊れ物のように──それこそ本当にワシュレイは壊れ物なのだ──あつかった。 ジェミネは、同乗を許されなかった。分かっていたことだ。 汚いストリートに突然やってきた白衣と黒服の軍団は、まるで消毒薬のように嫌悪感たっぷりに、辺りに排気ガスをまき散らしながら去っていった。ジェミネはベルスに借りた、くたびれたGパンとTシャツのままで、そんな救急車を見送った。 ドレスと宝石は、救急車に同行していたバリーだとかいう執事のおじさんに返した。タキシードも同様である。 「これで全部ですか?」 バリーの胡散臭げな顔は、昨日までならフンと突っぱねられただろう。 ジェミネは怒りを抑えて、ミュールを脱いだ。 「申し訳ありません。これも昨日のレストランの運転手さんが貸して下さったものでした」 目を充血させて、その下にクマを作ってバリーを睨みつけるジェミネは、彼の手にそれを押しこんで反転し、車から離れた。もう行け、という合図である。 バリーは裸足のジェミネを見て何か言いかけたが、あきらめ顔になって車に戻った。 ジェミネが返したドレスの中にはきっちりと、ストッキングから下着までたたまれていた。 「ありがとうね」 ジェミネと一緒になってワシュレイが去るのを見送っていたベルスに、ジェミネが声をかけた。もう救急車の姿はなくなっていた。 「ベルス、ワシュレイの具合が悪いの知ってた?」 カマをかけたつもりではなかったのだが、ベルスは空を見あげて「まぁな」と言いよどんだ。 「タキシードに着がえてる時に、坊ちゃん一度吐いたんだよ。でもジェミネには言うなって言われてたからさ」 ベルスは気まずそうに言う。 「言った方が良かったか?」 ジェミネは首を振った。 「あんた、本当に良いヤツだったのね」 ベルスはそこで何か言いかけたが、ジェミネの腫れた瞳を見て、口をつぐんだ。 午後、家に戻ったジェミネはバイト先からの解雇連絡にへこみつつ、アルツハイメンの使いだとかいう男を出むかえた。どうやって見つけてきたのか、素早い行動力だ。 だが用件が「口止め」だったので、早いのも当然かとジェミネは醒めた思いがしたのだった。 ジェミネは最初、そんなお金なんかいらないと言って突っぱねた。だが男はベルスの一家にも渡したものだし、この先、気が変わって騒ぎを起こされても困ると言って、ジェミネに金を押しつけた。 彼は淡々と言ってのけた。 「愛や友情なんてものだけを胸に沈黙を押しとおすなんて、そんな美しいことが可能だとは、私は思いませんよ」 なら私がそれを見せてあげるわよ……とジェミネはタンカを切りたかったが、30年後の自分にまで責任が持てないと思ってしまう辺り、やっぱり夢は覚めたらしいと思わざるを得ない。 結局ジェミネは屈辱を味わいつつも、それを受けとった。 ベルスは、何だか気兼ねがあって結局は手つかずさ、と後でジェミネに言ったものだった。アパートを改築する資金にしようだとか、いやいや増築だとかいう話は出るものの「まぁ、まだ良いか」という一言で終わってしまうのだとか。 ベルスが話す家の様子が簡単に想像できるので、ジェミネは笑ってしまった。 「で、この先どうなるか分からないけど、俺の進学資金にという話も出ている。これが一番傑作だよな。ありえねぇよ」 けれどジェミネは嘲笑できなかった。 あの一件以来、ジェミネはおろかベルスも真面目に学校に出ている。本当にきちんと知識を吸収したら、まだまだ伸びることができるのだ。ジェミネは生まれて初めて、知識を「面白い」と感じていたから、だからベルスの進学も馬鹿にできなかった。 「行きなさいよ、大学。何ごともチャレンジだわ」 ベルスはそんなジェミネの笑顔にワシュレイの面影を見る。そしてベルスも、一つステップを上がったような気分になって、ゆっくりと微笑んだのだった。 「人生、全部やらなきゃ損だよな」 だが金を手にしたジェミネは、それを全部使ってしまった。 惜しげもなく、一ドルも残さず。 母の治療費にあてた後、残りをすべて父親に渡したのだ。 母親はサナトリウムに入った。その後、ジェミネが父親に金を差しだした。投げつけるようにでなく、静かに、テーブルで向かいあって。アル中で赤い顔をしていた父親は最初、そんな娘を見もしなかった。 「娘が体で稼いだ金でなんて、飲めるか」 と言って。 ジェミネはガタンと立ちあがり、拳を握って震えた。思わず涙がこぼれたが、そのまま父親に背を向けた。 「明日にでも、荷造りして家を出るわ。働きながら定時制の学校に通う。あんたは……好きにしたら良い」 そうして扉を閉めたジェミネだったのだが、翌朝、父親からコンタクトがあった。彼は一睡もしていないらしい沈んだ顔をして、ボソボソとジェミネに呟いた。 「昨日は、あれから酒を一滴も飲まなかったんだ。完全に抜けるには時間がかかるが……手伝ってくれないか」 父親は、不用意だった自分の一言がどんなに娘を傷つけたかを悟ってくれたのだ。 ジェミネが荷造りをすることはなかった。 アル中から脱した父親は、交通整理のバイトだが真面目に働きだした。 帰宅すると、酒よりもこれの方がうまいと言って、ジェミネの作ったレモネードを愛用するようになった。昔、子供の頃に見ていた、たくましく引き締まった顔をした父親が帰ってきた。 「あの日に起きたこと……父さんに話してくれないか?」 父親はある日、ジェミネにそう聞いた。今までずっと機会を伺っていたのだろうと思われる。だがジェミネは「もう少し……。もう少ししたらね」とかわした。 「お前の人生を変える誰かがいたのだろう?」 ドンピシャだ。 「うん」 ジェミネは微笑んだ。 「天使に会ったの」 next back index home |