Act 7 (故郷) 5. 血しぶきを上げて、美海の目に映る“洵”は、スローモーションを見ている様に足から腰、腰から胸へと崩れて行った。彼の手は美海の指先に届かず、空を切って砂に落ちた。彼の頬が片側、血だまりに沈んだ。 荒波がその体を覆ったが、美海たちを呑み込むには及ばず、白い泡と共に洵の額から流れ出る血を洗っていった。洗っていって、けれど血はやまなかった。 彼女はしゃがんだ。 しゃがんでから、自分の体も随分と疲れていることに気付いて、美海は膝を突いてその場に座り込んだ。自分の脇腹を押さえてみる。鮮血が、手の平にべったりと貼り付いた。 “洵”がぴくりと動いたように見えて、美海は慌てて彼を仰向かせた。上半身を自分の膝の上に乗せる。動いた様に見えたのは、気のせいではなかった。 洵が、彼女を見上げた。 赤い瞳。 けれどそれは、洵の瞳だった。限りなく、優しい目。 「正気に……?」 そっと呟いた美海に、彼の口元が微笑んだ。寂しい笑みだった。 洵が口を開いた。 最後の一言。 それは声になっていなかったが、美海はしっかりと頷き、涙を一粒、洵の顔の上に落とした。 青白かった彼の肌に、ほんのりと紅がさした。 膝に当たるごつごつとした背骨の感覚が、なくなっていく。 美海は洵の手を取った。潮風にさらされ、乾いてきている。凍ったように冷たかったが、皮膚が幾分、柔らかくなっていた。 髪の色が漆黒に染まっていく。 長年美海が見てきた、よく知っている洵の姿になっていく。 だが。 その胸は、動かなかった。 そこにいるのは、破れきったズボンとぼろ布のようなシャツを微かにまとうだけの、生命のない人間だった。 美海は彼の手を置き、顔に触れ、瞼を閉じさせ――半開きの彼の唇に自分の唇を押し当ててから――、その口も、つぐませた。 洵の顔から手を離した時、美海は肩に誰かのぬくもりを感じた。顔を少し横に向けると、いつの間にか厚子が岩場を降りて来ていた。 「美海……。ね。帰ろ」 気の強い厚子は、美海にさえ泣いた時の顔を見せなかった。今までは。 美海は、ゆるく首を振って、肩の手を取ろうとしたが、自分の手が血まみれであることに気付いて、やめた。厚子がバッと手を伸ばして、美海の赤い手を握った。美海は苦笑した。 厚子のおかげで、美海は怒りを鎮めた。でなければ、六郎を殺したかも知れない。 その滑稽な考えに、つい彼女は含み笑いをした。すでに、そんな力もない。洵の体を抱きとめたまま、美海は呆然としている六郎を肩越しに見た。 「お祖父ちゃん」 六郎が顔を上げる。大量の汗をかいていたが、美海には見えていない。念のため隆顕が彼を押さえていたが、彼が何をする気力もないことは誰の目にも明らかだった。 もう、終わったのだ。 美海は死より残酷な罰を、六郎に与えた。 「洵、死んだわ。満足した? ……あなたの弾で、正気になって、死んだわ」 「……何……」 六郎が驚愕に顎を震わせた。美海が、彼に見せるために体をずらした。洵の姿が、六郎の目に飛び込んだ。 「お……お……」 額に打ち込まれた弾が洵の脳を刺激したのだと、六郎は理解した。彼が望んだよりもっと悲惨な死を、洵に与えたのである。 六郎は、自分が正義になり損なったことを悟った。 その後の叫びは、嘆きとも呻きとも付かなかった。隆顕が力を緩め、手を離した。糸が切れたように、六郎が膝を折った。隆顕は、岩場を降りた。 厚子が、洵を見た。 「洵さんも、そうだったんだ」 溜め息のような笑みを厚子が洩らした時、美海はなるだけ優しく彼女の手を離した。 「そしてあたしも、ね」 厚子が美海に顔を向けた。 「今まで、ありがとう」 「……何よ、それ。今まで、なんて、そんな」 美海は親友のために笑みを作ったが、顔は蒼白で苦しげだった。厚子は、胸が締め付けられた。その白さに、黒ずむ血の跡がなお痛ましい。厚子はハンカチを取り出し、美海の顔を拭った。 「ありがとう、厚子。あたしの力を見ても、洵にキスしてるの見ても、まだこうして気遣ってくれるの、凄く嬉しい」 「だっ」 厚子はむせて、ハンカチを握りしめた。呼吸を整える。 「駄目よ、一緒に帰るの! だってまだ、ゴンドワナ探してないよ!」 美海が少し、首を傾けた。 博也が、厚子の声に上体を起こした。ゴンドワナ写真展。その中で笑っていた美海。博也は、急にそれを遠い昔に感じた。美海もまた、懐かしげに、遠くを見るように目を細めた。 「ゴンドワナなら、あったよ」 「え?」 美海は視点を厚子に戻し、笑いかけた。 「そこで、あたしたちはいつも遊んでた」 大杉宅で、武田宅で、学校で、百貨店で、公園で――その全てが、ゴンドワナだった。 美海は、千鶴たちに顔を向けた。彼ら2人の表情には、ある種の緊迫感が生まれていた。超能力と言うものを目の当たりにした者の、当然の感情の変化だった。 千鶴は、美海に対して違和感と恐れを抱いている自分が、嫌だった。所詮は“妹”として美海を六郎から奪うことで彼に復讐し、自分を正統化、善人化しようとしただけだと思い知らされるからだ。 美海は、千鶴たちに頭を下げて見せた。そして見上げた彼女の笑みが、まるで15歳の頃のそれに戻っているのを、2人は悟った。 千鶴は、呪縛が解けたのだなと思った。 「だけど、信じてね美海。私は、本当にあなたが好きだったのよ」 聞こえたのか否か、美海は肩を上げて嬉しそうに微笑んだ。 厚子が顔を上げた。 美海は、洵を横抱きにしたまま、立ち上がった。その姿に似合わないほどの怪力が、かえって彼女を違う世界の人間に見せた。はっきりとした、別れの兆しだった。 「そうだ、前川も。ありがとうね。追いかけて来てくれて。嬉しかった」 「大杉。いや、美海! 俺、」 「今日のこと、誰にも言わないでね」 「え」 隆顕はうろたえた。美海は、波を押し入って、海に歩き出した。 「正直、忘れられたくないけど、喋りはしないで欲しいの。あたしたちのこと、どんなに真剣に話したって、きっとおとぎ話になっちゃう」 その声自体はすでに涙声でなくいつもの調子だと言うことに、学友2人は気付いていた。 「すごく楽しかった」 そう言った時の美海の体は、すでに半分以上、見えなくなっていた。波はどんどん打ち寄せて来る。やがて、このかすかな砂場も水の下に隠れるだろう。厚子は足元に迫る波から立ち上がって、身を引いた。 嗚咽をぐっとこらえて、厚子は声を張り上げた。 「こぉら、みうみぃ!!」 美海の足が止まった。波が肩まで覆い見えづらいが、波に押されないよう踏ん張っているらしい。こちらの声に、耳をそばだてているのだ。振り返ってはくれていなかったが、厚子は言った。 言いたくはなかったが、言わなければならない言葉を、ありったけの想いを込めて。 「ばいばい」 隆顕はぎゅっと口をつぐんで、美海を見守った。 この時振り向いた美海を、厚子は、一生忘れない。少なくとも薄れていく記憶の中で、絶対にこれだけは忘れたくない、と彼女は願った。 今度こそ美海は、2度と振り返らなかった。 洵を抱えて泳ぎ出す彼女の髪が一瞬風になびき金色の光を放ったのは、目の錯覚だったのだろうか。 六郎はうなだれ、ぺたんと座ったままでいたが、その右手が持つものに目を落とすと、彼はそれを自分の頭につがえた。 「博士」 かたわらに立った千鶴が、彼の右手を包み込んだ。泣きそうな顔で、哀れな老人が彼女を見上げた。 「そんな逃げ方、しないで下さい」 千鶴はそっと拳銃を取り上げた。六郎は今度こそ力が抜け落ち、頭を落とした。 「どうしてわしは、まだ、狂ってもいないのだ」 「罪を償うためでしょう」 そう言い、千鶴は海を見た。目の端に博也が映った。 ふいに立ち上がった彼は、懐からテープを取り出した。厚子達はそれが何かを知らなかったが、想像は付いた。 テープを握った彼は、岩の一番先まで歩いて行って、水平線を見つめると――全身全霊の力で、それを海に投げ捨てた。 厚子は目尻を拭った。 大好きな少女の、最後の笑顔を思い出す。 くったくのない、いつもの明るい、とびきりの。 ◇ 何も変わらない、海の風景が、そこにある。 next back index |