Act 7 (故郷)


 4.

「!!」
“洵”が吠える。
 海が、ひときわ荒れた。
 波が生を受け、うねった。
“洵”は見上げていた。
 何を?
 それに気付いた皆が見上げると、青い空の中に、美海がいた。
「美海!!」
 厚子が悲鳴に近い叫び声を上げた。
“洵”の力によって持ち上げられた体がねじ上げられる様にきしみ、美海は咳をした。口から血が吐き出され、仰向けの彼女の顔と、はるか下方の砂地に、赤い斑点を描いた。
 唇の端から血が一筋、流れていく。
 彼女の瞳から、海水以外の水滴が舞った。
 下には厚子がいる。
 博也も、千鶴もいる。
 隆顕にさえ、見られることになる。
 それでも、美海の心は決まっていた。今は死ねないのだ。
 美海は“洵”の力を、自分の“力”ではね除けた。と同時に落下が始まる。彼女は反転し、洵を見た。
「洵!」
 正気に戻って欲しくて、叫んだ。
 彼女の体の、落下運動が止まった。髪が太陽を背に光を吸って輝き、大気に広がって揺れた。それを皆が見上げていた。
 恐怖の目だった。
 異端の者を見る目もある。今の、視力の弱った美海に、かえって人の感情が悲しいほど読みとれた。
 非難の目。
 哀願の目。
 安堵の目。
 美海は、はたと顔色を変えた。
 同族を見る、安堵の目!
 洵!
「洵!」
 美海は、心から力一杯叫んだ。
 同族の目。
 そうだよ、あたしは、ここにいるよ。
 美海は、心で叫んだ。
 ゆっくりと、彼女の体が降りて来る。
“洵”の目は、ずっと美海を追っていた。血の様に、赤い瞳が。
 違う、と思い、美海は泣いた。
 洵の目は、もっと優しい。もっと、穏やかだよ。
 泣きながら、美海は砂地に足を着けた。髪が、ふわりと降りた。手で顔を拭うと、涙と血が手の甲に付いた。呼吸がおかしくなっているのが“洵”の力のためか、撃たれたためか、変化しようとしているためなのか、今の美海には分からなかった。
 まだ海の中に立ち尽くしたままの“洵”を見上げ、美海はゆっくりと手を差しのべた。こっちへ、おいで、と。
 同族だよ、怖くないよ。何もしない、と彼女は両手を差し出した。
 一緒に、暮らそうよ。
 涙をためて、でも美海は、一生懸命、微笑んだ。
 その様子に唇を震わせていた厚子は、ああそうか、とボンヤリ考えていた。どうして自分が洵に対して、もう一歩を踏み出せなかったのか。
 洵自身が、人を寄せ付けない雰囲気を出していたこともある。だが、もとより、美海と洵の間には割り込める訳がなかったのだ。
 2人は兄妹と思えないほど全く何も似ていないのに、根本的な所を共有していたのだ。
 半ばすがるようにして六郎にしがみついていた厚子は、少し鼻をすすった。その様子に隆顕が、そちらを見た。
 その一瞬の虚を突いて、隆顕は足を取られた。
「あっ」
「きゃあ!」
 即座に厚子も突き飛ばされ――六郎は、間髪を入れなかった。
“洵”は。
 3歩、足を美海に近付けている所だった。
 この血だらけの同族が自分を守ってくれているのだと、彼は理解したのである。同じ力を持ち、同じように海に帰りたがっている。
 この娘と一緒なら、と“洵”は思った。
 思った時に。
 ――思い出していた。
 小学校の時、赤いランドセルを背負っていた少女のことを。
 夕方の公園で、自転車の練習をする少女の横顔を。そこのベンチで、泣く彼女を自分が慰めている時もあった。
 自分が誰かに、電話をしている。
 何度も、ごめんと言っている。
 俺は、電話の向こうの彼女のことより、台所の影から密かにこちらの様子を伺っている美海の方が、気にかかっていた。
 妹として見ることが出来なくなって行く自分を押し殺して来たのに、彼女はそんなことも構わず心の中に入って来る。
 いつも真っ直ぐにこちらを向いて、笑っているのだ、彼女は。
 両手をいっぱいに広げて、美海は笑っている。
 早くおいで、と叫んでいる。
 洵、と。




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