Act 7 (故郷)


 3.

「うわっ」
「前川、ハンドル!」
「わっ、わっ」
 ガシャン。
 バランスを崩した隆顕は自転車ごと路上に転び、厚子は、2歩ほど離れた所に、トンと足を着けた。
「ドジ」
 何とも言いようのない顔で厚子を見る隆顕は、それでもまだ強い耳鳴りに痛む耳を押さえた。隆顕は自分だけかと思ったが、厚子も同じようにしているのを見て、これが病気でないことだけ判断した。
「こりゃ一体……“声”なのか?」
「超音波にも似てるわね」
「苦しみながら、冷静に答えるなよ」
 心なしか耳鳴りが少し楽になった2人は急いで自転車を起こし、再び走り出そうとして、止まった。
「置いて行くしかないわね、こりゃ」
 前輪の軸が完全に曲がっている。隆顕は店頭で大安売りをしていたスクーターを思い出したが、金額と財布の中身に開きがあることも思い出し、自転車の修理を決意するのだった。
「何考え込んでんのよ。さっさと行こう」
 厚子がくいと右手を振った。左手は、まだ耳を押さえている。
 耳が痛い。
 誰かが来るな、と厚子に言っている気がした。
 美海が?
 厚子は少し首を振って、駆け出した。
「おい、武田」
 隆顕も自転車に鍵をかけてから、走り出した。
「何よ」
「これ、美海らと関係あると思うか?」
「聞かないで」
 前を向いて走る厚子がきゅっと口をつぐむがゆえに、隆顕は余計に気にかかった。走って行った青のセダン。自転車で疾走していたにも関わらず、姿すら見えて来ない美海。奇妙な“声”。
 これが美海だとすると――と、隆顕は思った。
 俺達は、あいつに追いついて、でも何が出来るのだろう?
 そんな彼の心中を察したかのように、
「前川!」
 厚子が、隆顕に振り向いた。全力疾走のためつい語尾が荒くなる彼女の声には、何らかの決意が含まれている様に聞こえた。
「何か知らないけど! 帰る時は皆一緒!」
 隆顕は肩で息をしながら、少し笑った。
「おう」
「あ!」
 いつの間にか奇怪な音の止んで波の音が響いた。目ざとかったのは、厚子の方がわずかに上だった。先ほどすれ違った、青のセダン。
「あそこ!」
 その隣りに赤いバンも停まり、岬からは僅かな叫び声が聞こえた。
「何か修羅場っぽいぜ」
 厚子はそれに答えず道路を飛び降り、半ば跳ねる様な調子で岩肌を駆けた。隆顕もそれを追いかけた。
 厚子の目には、美海より先に海に浮かぶ何らかのきらめきの方が映った。それから、それの前に立ちはだかるようにして海を背にする美海と、倒れている男――カメラマンの伊藤氏、先ほど会った老人と福山千鶴。
「み……」
 叫ぼうと思った時、厚子は動きを止めた。厚子らが通う高校の制服は、白のセーラーに紺のスカートである。だが、美海の服が白くないのだ。
 老人は、美海に銃を突き付けている。
 この構図は、一体何なのだ?
「何なのよ、これは」
「おい、武田」
 福山千鶴が何か叫んでいる。六郎が彼女の手を振りほどき、その勢いで彼女は岩に打ちのめされた。
 近付くにつれ、その姿ははっきりと見えてくる。
 美海の着けているものが、間違いなく制服である事。
 美海のかばっているもの(・・)が人の形をしていて――その顔を、厚子が、よく知っていること。
「何よ、これは!」
 怒りを露わにする厚子の耳に、美海からの、厚子への呼びかけはまだ届いていなかった。

      ◇

「やめて、こないで、厚子! お願い、帰って……」
 喉を何かに締め付けられているかのように、声が出ない。それでも美海は、必死で叫び続けた。でないと逆に、美海の体を痛みと熱と違和感が侵食して来るからだった。
 彼女は、頭から海水をかぶっている。その塩水が弾丸の傷を刺激し、また、彼女の体内に呼びかけて来るのである。膝にまとわりつく波のうねりが、彼女を異界へと誘うのである。
「駄目」
 美海は首を振り、歯を食いしばった。
 自分まで、今の洵と同じになる訳には行かない。気絶して、この悲しい生き物を野放しにする訳にも行かない。
 友人たちを、巻き込む訳には行かない。
 美海は、博也を見上げた。
 千鶴がにじり寄っている。2人共、無事だったらしい。美海は、ほっとした。
 まだ“洵”の力は、人を殺めていない。
「“洵”が怖がるから……皆、帰って。お願いだから」
「美海?」
 いぶかしむ厚子に、美海は精一杯微笑んだ。既に目が霞んで判別しづらいが、多分、隣に立つのは隆顕だろう。
「ありがとう、ね。追いかけて来てくれて」
 後ろで“洵”が動いた気がした。逃げる気なら、そうして欲しかった。だが、彼は彼の前に立つ髪の長い生き物がどういう存在なのかが、気になっているようだった。美海は肩越しに彼を見て、苦笑した。
 すでに“洵”が洵でないと、彼女は痛感している。
「下がっていなさい、危ないから!」
 美海のそばに行こうとした厚子を、六郎が押し戻した。足をもつれさせた彼女の体を隆顕が支えたが、その目は初めて見る異様な生き物に釘付けになっていた。
「美海、そこをどけ!」
 六郎が叫んだ。美海の後ろで、“洵”がびくりとなった。
 千鶴どころか洵すら知らなかった現状に、六郎は後悔していた。だが、洵が去ることを恐れて嘘を付いていたのは、自分だ。
 これはもう、洵じゃない。
 23年間大切に育てた息子は、死んだ。
 凶暴な力を秘めた、生まれたての獣なのだ。だから、むしろそんな人類の敵を倒さんがための、彼の正義の行動を阻止しようとする千鶴や子供たちは、彼にとって悪でしかないのだった。
「たっ、武田君! 離せ!」
 厚子が六郎の拳銃に、覆い被さった。慌てて隆顕も、六郎にしがみついた。
「こらぁ!」
「美海、いいから逃げな!」
「そうだ、早く病院行け! 風邪ひく!」
「前川、それどころじゃないって」
「そうか?」
「いい加減にせんか!!」
 3人が揉みあう様子に呆気に取られた美海は、その騒ぎに怯える“洵”にはっとした。彼の眼中に、すでに美海はない。
 美海は、恐怖に目を見開いた。
“洵”が、体をのけぞらせた。
「駄目よ!! 殺しちゃ駄目! 洵!」
 美海は波に足を取られながら、六郎を睨み付ける“洵”に呼びかけた。美海とて、今はっきり六郎のことを憎んでいる。しかし“洵”に人殺しをさせる訳には行かないのだ。陳腐かも知れないが、人としての、最後の一線だと美海は思っていた。
「美海ぃ! お前まで海に入るなぁ!」
 六郎が声を枯らして叫んだ言葉に、厚子と千鶴が、はっとした。美海まであの凶暴な獣になってしまったら、と言う想いが2人の脳裏によぎった。すぐに厚子は首を振った。そんなことはない、と。千鶴は、何かを確認するように息を詰めて、美海を見た。
 洵が再び、吠えた。
 皆が耳を押さえる。今度は気絶する者は、いなかった。
「誰も殺さないで!」
 美海が荒れ狂った生き物の両腕を掴み、愛おしげに見上げた。美海まで変化させたくない六郎は暴れたが、腰を痛めている上に高校生の男に押さえられては動けない。
「美海!」
 けれど、その必要はなかった。




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