Act 7 (故郷) 2. 目を見開いた六郎は、慌てて窓を開けた。 「福山君、速度を落としてくれ!」 「ええ?」 千鶴は素っ頓狂な声を上げた。慌ててバックミラーに顔を向け、後方車がないことを確認すると、念のため駐車灯を付けながらしぶしぶ速度を落とした。 左のサイドミラーに、先ほど追い越した自転車が映った。 六郎が乗り出すようにして、後方を向いた。 「武田君! 君、授業のはずじゃないのか?! ……まさか美海が来てるのか?!」 千鶴もぎょっとして、自転車を見た。確かに厚子だ。乗り手は見たこともない男の子だが、こんな小さな町で、学校をさぼってデートとも思いがたい。 隆顕は走る速度をゆるめずに車に追いつき、厚子が彼の背で怒鳴った。 「追いかけて来たんです!」 内心は方角が合っているのかも分からずに走っていたので、六郎の顔を見てラッキーと思っていたのだが、厚子はさも当然のように言った。そして、やもすれば怒りすらこもった大声で、続けて叫んだ。 「お祖父さんこそ、何しに来たんですか!」 「君たちの知ったことではない! 帰りたまえ!」 ああ、この言い方は間違いだ。と、千鶴は冷静にサイドミラーを見た。鏡越しにさえ分かるほど、案の定、厚子の顔が真っ赤になっていた。 「そんな言い方、ないでしょう?! あたしと美海は、友達なんですよ!!」 音量で言えば厚子の完全勝利だったが、六郎が上着のポケットに手を突っ込んだため、千鶴は駐車灯を消してアクセルを踏んだのだった。自動車が唸り、加速した。 バランスを失った六郎が、背もたれに打ち付けられた。呆気に取られた高校生2人の姿が、バックミラーの中で小さくなっていった。 「福山君」 「博士らしくありませんよ。今は、こんな時ではないでしょう?」 そうだった、と言う風に、六郎はシートに座り直した。やはり焦燥感のため、判断が鈍っているらしい。六郎は改めて、自分が握った物をポケットから取り出した。こんな物を、例え威嚇とは言え子供に向けるなど、冗談にもならない。 拳銃の中に、弾丸は3発。 半分は、昔使ってしまった。それは今も死んだ肉体に埋もれて、海に沈んでいるはずである。 3発も打たなければ、死ななかったのだ。 六郎はそう思いながら、高ぶる心を落ち着かせるための深呼吸を1つすると、遠くに見えてきた車の駐車灯らしき赤い光をじっと見つめた。 ◇ 美海は、この海岸まで、迷わなかった。 絶対にここだと思った訳でなく、かと言ってきょろきょろするでもなく、ただ、呼ばれるようなものを感じて走り続けた。疲れたとは感じなかった。思えばこれも、彼女の“力”の一端だったのかも知れない。 道沿いの赤いバンを見た美海にはこの時、確信しかなかった。 躊躇せず岩場を降りていくと、少し窪んだ一帯に、人影を見付けた。 真っ先に洵の名を呼ぶつもりだったのだが……。 「お、兄……」 口を手で押さえる。 見上げた彼の目が、陽の下で真っ赤に光っていた。 美海が博也のビデオカメラに気付くのは、その後だった。彼女は愕然とした。 「美海ちゃん! どうして、」 そう言いながら慌てふためく博也は、美海の睨むものがカメラであることに気付き、急いでカメラを覗き込んだ。幸い、ピントはずれていなかった。その仕草に、美海はさらに反応した。 美海は両手で掻きむしるように、頭を押さえた。何かが叫ぶように、響くように彼女の中に入り込んで来た。彼女の――本性を呼び起こすように。それが洵なのか“海”そのものなのかは、分からない。 「……嫌……」 美海は首を振った。 彼女は海の住人となった時の自分を、憶えている。またあの姿を、しかも洵を、見るのが嫌だった。 自分もあの姿になったら、ビデオに撮られるのだろうか? 頭の端で、そんなことを考えた。 洵は、嫌ではないのだろうか? 少なくとも、今の彼に嫌がる素振りは、なかった。そもそも動きと言うものがなかった。 その、赤い目。 ファインダーを通じて見る洵のそれが、先ほどまでの憂いた様子と全く豹変してしまっていることに、博也は背中をぞくりとさせた。 彼は、何も見ていないようだった。 そして、なびく銀の髪。 髪の間から肩の線が見えた。その向こうに、不可思議な突出した角の列がある。背に縦に並んだそれが、ゆっくりと布を裂いた。波が彼を誘うように押し寄せては、その破れたシャツを奪い、うねった。 はだけたシャツの下から出た背と肩が、青く光った。あらわになった胸元は、白かった。その白い体が、静かな規則正しい動きをしていないことを、博也はレンズ越しに気付いた。 ああ、肺呼吸じゃないんだ。 そう思った時博也はやっと、握りしめた指先に血が通う感覚を取り戻した。やっと、自分が今見ている物が一体何なのか、その異様さを実感したのだ。 博也は、美海を見た。 瞬きすら出来ずに大きく目を見開いたまま立ち尽くしている美海を少しでも刺激すれば、とたんに爆発しかねない。兄の変わり果てた姿を目の当たりにしては当然だろう、と博也は思った。 何と声をかけようものか、考えあぐねている博也の耳に、 「洵!」 道路から、車の止まる音と叫び声が入った。 呼ばれた当の本人以外が、叫んだ人間を見た。当の本人は顔すら上げていなかったが、徐々に、何かがそこにいることを認識し始めていた。 叫んだ六郎は、転がるように岩肌を駆け下りて来た。後に、千鶴が続く。千鶴の計画がどのような展開になったのかが分からず博也は眉をひそめたが、とにかくスイッチを切り、テープを懐にしまった。だが、六郎はそんなことには目もくれなかった。 ヨタヨタと走る六郎が、ポケットに手を突っ込んだ。後ろから追いすがる千鶴の顔が、驚愕に変わった。 「博士、やめて!」 いぶかしむ博也の目に、テレビなどでしか見たことのなかった代物が飛び込んで来た。彼は自分の目を疑った。六郎が取り出した拳銃なるものも充分異常だが、あろうことか、銃口を突き付けた先は、洵なのだ! 「嘘だろ」 呟いた博也が、足を踏み出した。 赤い目をした生き物がゆっくりと顔を上げ、六郎を見る。六郎は、一瞬目をそらした。彼には、もうそれが洵ではない 「洵!」 かすれた声が、波と重なる。 走る博也の前を、長い髪が横切った。博也は一瞬、足を止めた。 美海ちゃん?! 拳銃が。 その時。 ――妙に軽い、金属調の破裂音がした。 水しぶきと共に、赤い血が飛び散った。 皆が、言葉を失った。 バシャン! と水面に叩き付けられ、血を流してうずくまる。それ 突然正面に振ってきたもの これは、何だ 「美海!」 「美海ちゃん!」 「……!」 千鶴の金切り声と博也の叫びが重なり、六郎は、息を呑んだ。 「美海! 美海ぃ! 美海ぃ!」 呼ばれた彼女は、真っ赤な海の中、上半身を起こした。上手く浅い波打ち際に落下したため、気絶していなかったのだ。 「失敗か」 舌打ちした六郎は、再び銃を構えた。あと2発しかないのだ、外す訳には行かない。だが、その構えた彼の腕を、千鶴が掴んだ。 「あ、あなたは……あなたって人は……!」 「福山君、離せ! 洵を……あれを、殺さねば!」 半魚人の顔が、六郎に向いた。 「やめて」 弱々しく、美海が声を出す。高い波が、彼女らに押し寄せた。 「美海、危ない!」 叫んだ博也に、赤い目が振り返る。 かつて洵だったものの、その目が大きく見開かれ―― それは、吠えた。 next back index |