Act 7 (故郷)
1. 海岸沿いの細い道を、青いセダンが走っていた。 千鶴の車だった。 片手で運転をしながら千鶴が、いまいましげに携帯電話のスイッチを切った。 「やっぱり駄目ですわ」 そう言って六郎を見る千鶴の様子には、今朝の取り乱した跡はなかった。時間がたって落ち着いたためもあったが、一時は本当に狂気に身を投じるかと思われた六郎が冷静でいることが、千鶴にとって救いだった。 内心は、きっと焦っているに違いないのだが。千鶴と同じで。 だが今は、急いでもこれが精一杯である。 「洵が、邪魔をしておるのかも知れん」 六郎が呟いた。 千鶴はハンドルを握る手を、持ちかえた。カーブに差しかかる。タイヤが甲高い悲鳴を上げた。六郎は手すりを握った。 カーブの終わりと同時に、アクセルを踏む。南国をイメージする椰子の並木が、チカチカとフロントガラスに影を作った。 「博士、今更ながらの質問ですが……」 「何だ」 「私が美海に姉を名乗らないかとは、懸念されませんでしたの?」 千鶴が美海と会って、既に5年になる。真実を告げる機会は、あった。 「現に君は、言わなかった」 「そうではなくて」 言いかけて、千鶴は対向車の音にビクリとなり、慌てて前を向いた。まだ道が真っ直ぐなことを確認してから、ちらりと六郎を見た。 「それでも構わんと、思っていたんだ」 「それでも、って」 「あの子の自主性に任せるつもりだった」 本音と考えがたい言葉に、千鶴は眉をひそめた。だが、今さら言いつくろうような嘘を付いたところで、何のメリットもない。千鶴は、不思議な気分で六郎を見た。 もしかして、と千鶴はふと思った。 もしかして、この老人は家族が欲しかっただけなのかも知れない。 「この前。先々週で終わりましたけど、私の恋人が、ギャラリーをしましたのよ」 「……」 「ギャラリーの正面には、美海の写真を飾りました。15歳のものを」 「ほう」 「良い顔でした。幸せなんだな、と思いました」 六郎が自分を見ているらしい視線を感じたが、千鶴はそれに答えなかった。信号を見ながら、黄色から赤に変わる直前をすり抜ける。 「美海の笑顔がそのままだったら。……あるいは洵君が完全だったなら。――博士が“新作”計画を出さなければ……。いえ。全部、なるべくしてなったことですものね。私がことをなすための条件は、揃っていたもの」 千鶴の独り言のような台詞に、六郎は言葉を返さない。 美海の笑顔が変わりだした理由は。くったくない少女から娘へと変わりだした原因は、六郎が最も、痛いほど分かっていた。 彼らが人間であることが嬉しかった反面、悲しかった。美海たちの形態は六郎の理想にほぼ近付き、成功の域に入っている。 だがそれは彼らに……自分自身にさえ、悲しみを与えただけだったのだ。人であるのに、人でない生を歩ませている罪ゆえに感じる罰だった。 この矛盾だらけの道を歩く自分の足を、誰かに払って欲しかったのかも知れない。 「福山君……」 「はい?」 「もっと早くに。こういう話を、したかった」 「……」 千鶴はいつもの厳格さの全くない六郎を改めて眺め、また前を向いた。 「今だから、こういう話が出来るんですよ」 千鶴は、無駄だと分かっている博也の番号を、再度押した。 ◇ 「さて。えー……。皆さん。僕は、大杉六郎の孫、大杉洵です。僕と言う人間は戸籍上確かに存在し、その血も、半分は大杉の血ですが、もう半分は……人間では、ありません」 カメラに向かって話す洵が、歩きながら上着を脱ぎ、足元に置いた。白いシャツに流れる黒髪が印象的な絵になっている、と博也は思った。 洵は安定の悪い岩場を、1歩1歩確かめるように、砂地に向かって降りていった。 砂地と言っても、ビーチではないので狭い。潮が満ちればなくなる程度しかない。だが、上手く岩が波を砕いて、その辺りの水面は穏やかだった。それでも時々、高波が押し寄せた。 緩やかな砂地を通り越して洵は海に分け入り、腰まで進んだ所で博也に振り返った。 10メートルこそ離れていなかったが、水の中の洵が、岩の上から眺める博也にとって、既に別世界の生き物の様な気にさせた。10月も末の海は、もう冷たいだろうが、洵は平気な顔をしていた。 博也は少しビデオを操作し、洵の姿を大きく映した。 洵の台詞の後を、深呼吸して博也が続けた。 「彼は大杉博士の手によって作られた、海に棲める生物です。DNA操作によって、彼の体は海水に触れると、徐々にそれに適した形に変わっていきます。――大杉博士は、当時まだ生きていた息子夫婦に、彼の出生届を出させました。彼は……試験管で生まれました。ですから、届けはあっても病院名の記録はありません。幼稚園には通っておらず、小、中、高、大学も卒業はしたものの、常に出席日数はぎりぎりでした。病弱が理由でしたが、本当の理由は……彼の体が、定期的に、海水を必要としたためでした」 博也は呑み込むように言葉を切ると、更にビデオのピントをずらして、洵の顔を大きく映した。洵は伏し目がちになりながら、わずかに口を動かしていた。聞こえない程度の小声なのか、声に出していないのかは、分からない。 彼は右手を腹部に押さえつけ、左手は、それより上の心臓の辺りで握られていた。顔の水滴が汗なのかしぶきなのかは、既に区別が付かない。 博也は続けた。 「彼と言う生物が作られたと言う研究発表は、勿論世の中には公表されておらず、それどころか極秘の研究でした。なぜなら、彼と言うサンプルを元に大杉教授は研究を重ね、いずれは戦争を目的に量産しようとしていたからです。その影には沢山の人間が絡んでいました……」 ファインダー越しに博也は洵と目が合い、ドキリとした。 例えば恋人にこのような目で哀願されれば、否応もなく従い、力一杯抱きしめてやりたくなる――そんな類の、顔だった。 「伊藤さん。俺の声、入ってますか!」 まるで泣いている様な濡れた瞳をしているにも関わらず、その声は、強かった。凛と響く声は、豪雨に似た波の音を越えて、しっかりと博也の耳にくい込んできた。 博也は開いている方の手で、OKサインを作って見せた。 岩を打った波がはね、洵に覆い被さった。 海水が彼の髪を濡らしても、洵はその場を動かずに、博也の持つビデオに向かって声を上げた。すでに下半身を包む海は、じんわりと彼の体内を侵略し始めていたが、それでも洵は、だからこそ、人間の言葉を最期の時まで話していたかった。 最期だからこそ。 「俺は、大杉六郎を憎んでいた。俺をこんな体にしたことを、恨んだ。もしかしたら普通に生まれて、平凡な生活をする自分がいたかも知れないのにと、よく思った」 そして幸福な家庭を築いて、時々上司の愚痴をこぼしながら、妻と子供の笑顔に囲まれて暮らす――。そんな妄想が、自分の姿という、おぞましい現実によって砕かれた。 “妄想”の中の美海は……笑っていた。 「けれど。俺と言う者をこの世に生み出してくれたのも、大杉六郎だ」 「何だって? 聞こえないよ!」 呟きのようにかすれた洵の声が紡いだ言葉は博也にまで届かず、博也のそんな声も、ひときわ高い波の音がかき消した。 「洵君!」 「大丈夫で……。!!」 濡れた髪を掻き上げた洵は、博也の向こうに見えた人影に、目を見開いた。 「美海!」 それが、洵が人間であった時の、最期の言葉だった。 next back index |