Act 5 (ある想い)


 5.




 2人はベッドに座り、しばらく言葉を探した。
 洵の髪から、ほのかに海の香りと薬品の臭いが漂った。例の装置だと、美海はすぐに気付いた。
 では、洵は帰ってきたのだろうか?
 美海は口火を切った。
「ずっと、謝りたかったの。あんなこと言って、ずっと後悔してた」
「いや。謝るのは俺だ。ひっぱたいたりして、悪かった」
 美海は首を振った。月光に、栗色の髪が光った。
 ほとんどテレパシーにも似た直感で、美海は洵が帰って来た訳ではないと気付いた。でなければ、忍び込むように美海のそばに立ってなどいないだろうし、六郎も知っていて良いはずである。
 多分、六郎にばれない様に細工して眠っていたのだろうか、と思った。
「お兄ちゃんがいなくなってから、ずっと考えていた。なぜだろうって」
 洵は隣りの美海を見ずに、正面を向いたままうつむいている。そのことが、次に出そうとしている美海の言葉を一層悲しいものにさせた。
「この家にいること、きっと嫌いだったんだろうな、って……」
 暗に“あたしのこと嫌いだったんだろうな”と呟く美海の、かろうじて涙をこらえた視界に、バッと振り向いて驚きの表情を見せる洵の顔が映った。
「だって、」
 すねたように、美海は言った。
「お兄ちゃん、本当に幸せだった? ずっと苦しんでなかった? 割り切ってないから、家を出たんでしょ?」
「それは、」
 洵は言い淀んだ。
 しかし内心美海は、洵が自分のことを嫌いな訳ではないことが感じられて、少し安堵した。
 1月離れて美海が洵への想いを強く持ったと同様に、洵もまた、何かが変わったように見えた。
 意を決したように、洵が言った。
「嫌いなら、ここに来ない」
「じゃあ、また会える? 一緒に買い物したりご飯食べたり出来る?」
 再び洵は顔を背けた。
 その表情は、決して美海に対して嫌悪感や後ろめたさを持っているものではなかった。困ったような表情。洵は、この後の美海の台詞を予感して、先に言葉を出した。
「美海。お前は福山さんに連絡を取って、すぐ戸籍の書き換えをするんだ」
「答えになってないよ」
「それが答えだ」
 きっぱりと、洵は言い切った。美海はうろたえた。
 福山の言葉を思い出す。
 ――美海だけでも大杉の名を外して、学会やマスコミの手の届かない所にやってしまいたいの。
 では、大杉洵なら学会は、マスコミは、手が届く訳である。
 誰が“計画”を公表すると言うのだろう?
 祖父六郎は、それをしないと言った。
 千鶴は、時間がないと言った。
 それが答えだと言う洵の心の中には、もうお前のそばにいわれないと言う言葉があるような気がした。
「お兄ちゃん」
 美海の考えが、核心に到達した。
「福山さんも伊藤さんも――特に、伊藤さんは良い人だ。きっとお前の、良い兄になる」
 美海は眉をひそめ、下唇を噛んだ。洵が何を考えているのかを知る能力が欲しかった。
 美海が欲しいのは“良い兄”ではない。本当に必要なのは――。
「あたしも、連れて行って」
 美海は、真っ直ぐ洵を見た。その瞳と洵の目がぶつかった。洵は狼狽した。
「あたしが一緒にいたいのは、お祖父ちゃんでも千鶴さんでもない」
「駄目だ」
 洵は、美海から目を逸らして言った。美海は眉を吊り上げた。
「ちゃんと見てよ。後ろめたくならないでよ」
 あ、また目が潤んで来た。
 そう思ったが、今さら顔を動かせない。見るのを止めたら、洵が消えてしまいそうな気がした。
 美海は顎を引いて、涙が出そうになる自分をぐっと抑えた。
 洵が振り向いた。
 苦しげな表情。
 その目が、美海の目を捕らえた。
「駄目だ」
「どうして?」
「どうしても、だ」
「嫌だ」
「我がまま言うなよ」
「嫌だよ、もう会えないなんて。どうして家を出たのか、離れていくのか、理由を聞かなきゃ、諦めが付かないよ!」
「理由なんて、」
「言ってよ!」
「言えねぇよ!」
 洵は、はっとした。
 美海が掴んで来た手を洵が荒々しく握り、引きはがしたからだった。美海は、びくりと手を引っ込めかけた。
 この時、洵の脳裏に浮かんだのは、「嫌い」と言って納得するならそれでも良かったな、と言う思いだった。なまじ、嫌いでないと言ってしまうから、こうなる。自分の気持ちに、嘘が付けなかったから。
 引っ込めかけたその手を美海が動かせなかったのは、洵が握りしめたままのためだった。
 痛かった。
 すぐに気付いて、洵は力を抜いた。が、離さなかった。
 その手の力に、彼の素直な気持ちが見えた。表情や言葉以上に、真実があった。
「あたしは一生、大杉美海でいたい」
 洵の手を見ながら、美海はポツリと言った。うつむく彼の顔を覗き込もうとして、押し戻された。
「止めろ」
「止めないよ」
「もう、喋るな」
 これ以上、ここにいては自分を抑えられなくなる。そう感じているのは、洵だった。来るべきではなかったと後悔しているのは、洵だった。しかし反面、それを我慢出来なかったから今、ここにいるのだと言うことも、自分で分かっていた。
 洵は、手を離した。
「待って」
 美海は慌てて、立とうとした洵の前に立ちはだかった。
「これだけは言わせて。洵」
 本人を目の前にして初めて使った呼び名は、空々しくなく、洵の耳にさえ馴染んで聞こえた。
「以前、言ったよね。本気で誰かを好きになったら、本当の自分が見えてくるって。あれ、嘘だよ」
 洵が、ゆっくり顔を上げた。
「自分のことなんて見えない。あたしに見えるのは、目の前の人だけだよ」
 彼の表情を見た美海は、微笑んだ。頬の動きに、たまっていた目尻の涙が落ちた。
 悲しみとも喜びともつかず目を開いていた洵が立ち上がり、美海は彼の胸に手を置いた。
「妹で――偽りの自分で構わなかった。そばに、いられるなら」
 美海の栗色の髪が、月光に揺れた。
 洵は、彼女を抱きしめた。

      ◇

 夢が覚めた。
 朝日が顔に浴びせられ、美海はしかめ面でベッドから体を起こした。
 何もない――あるとすれば、まだ冬休みも遠いうつろな学校に行くだけの、いつもと変わらない朝だった。
 何もない。
 美海は、唇に手を触れた。
 部屋には、鍵もかかっている。
「……夢?」
 目をこすると、涙の後があった。腕を掴まれた、抱きしめられた感触も残っていた。
 だが、どちらでも良かった。
 自分の心は、はっきりしているのだ。
 自分が“人間”でありたかった、と本気で悩んでいたのに、反面、この体で良かったと思っている自分に、美海は少し驚いた。
 こんな体で、良かった。洵もそうであって、良かった。
 洵と兄妹で暮らせて、良かった。
 洵を好きでいて、良かった。
「好き」
 美海は、声に出してみた。この言葉1つに、どれほどの想いを込められるものか、考えた。
 言ってしまえば、ずいぶん簡単な言葉だった。
 だがその簡単な、しかし重い1言を、洵は言わなかった。
「まあ、良いよ。洵」
 美海は立ち上がり、のびをした。
 いなければ、探すだけのこと。
 行くなら、追いかけるだけのこと。
 彼の返事をオープニングに、再会から始めれば良い。
 そう思う美海は、真っ直ぐ前を見据え、歩き出した。








  next

  back

  index