Act 5 (ある想い)
3.
祖父からの電話を切った美海は、自分が困った顔になっている事に気付いた。彼の歯切れの悪い言葉に、段々と眉間に皺が寄って行ったのだ。
「千鶴さんって、そう言えばあれから連絡ないなぁ」
1人ごちて、2階に上がる。
千鶴からの連絡はないか、と尋ねて来た祖父の言葉に、美海は先週彼が出張に行ってから、1度だけ電話があったことを思い出したのだが、祖父には、ないと答えた。養女の件を催促する電話だったからだ。
この時もまだ「はい」と言えずに、時間をくれ、と千鶴に告げた。
『兄が帰って来ないんです』
『は?』
明らかに怪訝な千鶴の声が、今でも思い出せる。美海自身も、内心は自分の支離滅裂さを自覚しながらも、喋るのを止められなかったのだ。
『千鶴さん、兄の行方、知りません?』
困ったらしい千鶴からの応答は、ない。
『あの日曜日から、帰って来ないんです。千鶴さん、知りませんか? でないとあたし、この家から出られないんです』
千鶴は、洵は研究所にもいないと美海に告げ、とにかく落ち着きなさいと言った。連絡があったら美海に言うから、と。
話はそのままうやむやになり、今は彼女からの連絡を待つ状態になった。こちらから千鶴にかける気は、なかった。例えば千鶴が何か知っているとしても、教えろと言って教えてもらえるとは思えなかったのだ。養女承諾の返事の延期は、美海のささやかな交換条件のつもりだった。何を企んでのものか、教えてくれ、と。祖父に対して危機感が持てないだけに、千鶴の言い分には何か含みがあるように感じられてしまうのだ。
祖父は、美海らを売らない。
先の電話も、そうだ。
今日は泊まり込みになるから、まだ帰れないと言った祖父。千鶴のことを聞いた後は、戸締まりをして寝ろ、と言って切れた。最後に何かを言いかけて、止めた。美海はその言葉の先を悟っている。
「気を落とすな」もしくは「大丈夫だ、洵は戻る」。
およそ彼らしくない言葉を美海のために出そうとし、およそ彼らしくないために、言うのがためらわれて、止めた。
美海は今になって、祖父がそう言う人間であることが分かったのだった。洵がいなくなったためにやっと見えた彼の人間らしさでもあり、それがために憎みきれず、耐えかねて、洵が家を出た理由でもあると分かった。美海も、そんな祖父を憎めない。
千鶴の申し出を快く受けられない理由は、2つあった。“交換条件”なぞ、ただの言い訳だ。
本当はもう、“福山”になること事態に、抵抗はなかった。千鶴も博也も優しい。在り方が変わるだけだ、と、美海は小鉢のポプリを見ながら、考える。自分であることには、変わりはない。
だが。
自分であることには、変わりはない。
どれほど記憶が薄れようとも、それでも美海の体は海を懐かしむ。千鶴が全てを理解していようと、“福山”から先、美海が違う姓になることは出来ないだろう。どんな子供が出来るか知れない。それこそホラーである。“福山”にすがることは、ただの逃げのような気がしてしまうのだ。
「お兄ちゃん、逃げたの?」
祖父から。
美海から。
不遇な運命から。
呪われた身体から。
美海は、睨むようにポプリを一瞥してから、部屋を出た。
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