Act 5 (ある想い)


 2.




 電話が鳴った。
 長期出張を終え、たまたま研究所に寄っただけの六郎としては、卓上に残るその電話をゴミ箱に叩き付けてやりたくなる、耳障りな音だった。
 だが六郎は、コールをきっちり2度鳴らしてから、受話器を取った。
「はい」
「私だ。久しぶりだな」
「……」
 六郎は押し黙った。眉をひそめ、手に力が入ったが、次の言葉は意外にも穏やかだった。
「これは、どうも」
 受話器から、若干の笑みが聞こえた。声でなく、息づかいで。
「どうやら君と言う株は、投資をしても一向に上がらんらしいな」
「あれは、1年や2年で結論の出るものではない」
「何年経ったと思っている?」
「まだ40年しか、研究しとらん」
 一瞬、受話器の向こうの声が途切れた。
「私達も老いた。君には家族がいないから良いが、私は息子らに財を残して行かなければならんのだ。道楽で協力している訳ではないぞ」
 六郎は彼の言葉に眉を吊り上げ、頭をぐっと前に突きだした。しかし、口を閉じ、体制を整え、怒りを抑えてから――声を出した。
「わしも道楽ではない。完全なものが出来んのだ」
「そんな約束じゃなかったろう?」
 六郎は答えない。
「出来たサンプルを、1年1つ提供する。だったはずだ。ここ2・3年、資料が数枚ファックスされて来るだけでは、こちらも仕事にならん。君の趣味にかけている分も黙認してやってるんだ。投資が打ち切りになれば、君も困るだろう? たかが大学の教授では、何冊本を書いても知れている」
 よく喋る男だ、と思った位のものだった。打ち切りでも構わない、と言いかけた。その言葉はしかし、六郎の口から出なかった。
 受話器の向こうの男は、それを狼狽してのものと思ったらしい。また、鼻で笑う音が聞こえた。
「今月中に頼む。ああ、奴らのような知能は要らんのだからな。気味が悪い」
「……出来たらな」
「検討により、倍でも支払おう」
 電話が、切れた。
 その電子音を聞きながら、六郎はその手が白くなる位受話器を握りしめていたのだが、それを置き、ゆっくりと立ち上がった。睨むように、悲しげに電話に目を落とす。
「わしの、家族だよ」
 ボソリと呟くと、六郎は所長室を出た。
 慣れた研究所内を奥に歩き進む。帰りしな、所員らが挨拶をして来た。六郎は思い出して、何人かに明日の雑用と、2言ほどの指示をしてから彼らと別れ、奥の階段を降りた。
 夕暮れの光も入らない薄暗い部屋に入り、仰々しい扉を前に、六郎は立ち止まった。
 いざ、ここ、最果てより、船出せん。
 キーナンバーに付けたゴロの言葉は、今もずっと変わらないままの、初心の気持ちである。ずっと最果てに棲み続け、ずっと船出が出来ないままにあるのだ。それが、その部屋に棲み続けている異形と化した六郎の分身たちだった。
 人間は、変わらねばならんのだ。
 そう思う六郎の心の方が変わらなければいけないことには、すでに自分自身、気付いていた。だが、どうしようもないのだ。先程の男の言葉に、六郎は1つだけ賛同する。老いた。
 だから洵は出たのかも知れん、と六郎は思った。
 若い洵は、船出をしたのかも知れん。
 しかし、六郎の元を離れることは、イコール死である。そのことを誰より心得ていたのは、洵のはずだった。
「そこまで、憎かったか」
 ポツリと言い、六郎は開けた部屋に明かりを灯した。異世界が目前に広がった。
「お前たちも、わしが憎いのだろうな」
 生と言う牢に閉じこめた、わしを。
 六郎は、久しぶりに会う分身たちを、1体1体見て回った。
 その足が、奥に進みかけて、止まった。
 時折バチッと言う妙な電子音が聞こえる奥に、走った。そこにあるはずは、洵のための水槽である。
 立ち止まった六郎の目にはしかし、良く知ったその形が映らなかった。代わりにそこにあるものは、到底人間の技とは思えない、ねじくれ曲がったガラスと金属の、奇態なオブジェだった。






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