Act 5 (ある想い)
1.
少し風が冷たくなって来た、と美海は思い、ジャージの袖を手首まで引いた。ポニーテールが風に踊らされ、少しバランスを崩した。
グラウンドの空には、大きな体育祭の旗が揺れている。中継の放送が騒がしく鳴り、それに負けないほどの歓声が響いていた。
「大杉」
バンと背を叩かれる。慣れたはずだったが、睨んでしまうのはすでに癖になっていた。前川隆顕の方も、美海に睨まれることに慣れたらしく、平然としていた。
「お前、最近とみに元気ないな」
「あたしの周りが、元気すぎるからじゃない?」
「周りって」
美海の皮肉に隆顕は本気で気付いていないらしく、きょとんと頬を掻いた。唐突にポンと手を叩く。
「武田のことか! あいつは元気しかないからなー、お前の分も吸い取られてるんだぜ」
美海は何も言わなかった。背後に、その当人がいたからである。
厚子は、無言で彼にサソリ固めを決めた。
「痛ててててて! ギブアップ、ギブアップ!」
「あたしの半分位しか脳味噌ないくせに、でかい顔するんじゃないの。人聞き悪いこと、言わないでよね」
「いやぁ、態度のでかさは武田さんに負けますいててててて!」
1言多い、と2人は同時に思った。彼なりに、美海を笑わせようと努力しているらしいのだが、今彼女らにそれを笑ってやれる余裕はなかった。薄く雲がかかる今日の空模様は、美海の心そのままである。厚子も厚子で、隆顕の思惑に乗ったのだったが、場は明るくならず、計画はものの見事に失敗だったのだった。
「でも、本当に。どうしたんだよ」
例の1件から隆顕は友人宣言をして、美海の秘密を守り、陰に陽に世話を焼こうとしてくれている。厚子に言わせればただのお節介だし美海自身もそう思ったが、それが意外と助けになっていることに、最近気付いた。空元気も元気なのだ。
美海は、少しはにかんだ笑みを作った。何でもないと言うつもりだった言葉を、換えた。
「ちょっとね。兄貴が、家出しちゃって」
「おぉ、家出でててて」
おどけた隆顕を、厚子がつねった。
「ごめん」
「いつものことだから。そのうち帰って来ると思うんだけどね」
美海は、笑顔を作って肩を竦めた。隆顕は厚子につねられた腕をさすりながら、眉をひそめた。
「お前のお兄さんて、髪の毛が長くて痩せてるか?」
「肩幅があるから、そんなに痩せて見えないよ」
さり気なく厚子が、チェックを入れる。どうでも良いよと言う顔で隆顕は厚子を見てから、再度美海に向き直った。
「俺先週、俺んちの近所で見たぜ。多分あれはそうじゃないかなと思ったけど、その時はまだ家出してなかったのかな」
「ううん、してる。もう3週間にはなるから」
「あんた、美海のお兄さんの顔、知ってるの?」
胡散臭そうに厚子が聞いた。美海も、戸惑いがちに頷いた。
「1度、大杉が男と並んで歩く姿を春に見た。長髪が2人並んで異様だったぞ」
「でもねー」
と、厚子が目を細めた。隆顕は、ぶっとふくれた。
「そりゃまあ、」
厚子が言いかけて止まり、放送に耳を傾けた。その種目と時間を聞いて、ジャージのポケットからコピー用紙を取り出す。
「やばっ、次の100メートル、もう集合だよ」
「え、そう?」
自分の種目を憶えていないらしい美海の表情に鼻白みながら、厚子は彼女を引っ張って、
「じゃあね」
と集合位置に走っていった。
いつの間にか近付いていた彼の友人が、後に残された隆顕の元に肩を並べた。腕を組み、彼女たちの後ろ姿を眺める。
ピストルの音がした。
数人の女子が一斉に走り出す。
本物のピストルなのかな、などと隆顕は薄ぼんやり考えた。
「何考えてんだ、お前? 焦点が合ってねぇぞ」
「ああ? いや、あのスタート用のピストル、本物かなと思ってさ」
「嫌だよなぁ。あんな軽い音のくせに、殺傷力があったら」
「あるのかな?」
「知るか」
溜め息混じりの友人の声も気にせずに、隆顕が100メートルを走る数人を眺める。その1群には、長い髪をなびかせて走る、小柄な女子が混じっている。友人はそれを美海だと確認してから、横目で隆顕を見た。
「お前、大杉モノにしねぇの?」
「何だって?」
「好きなんだろうが」
「そんなんじゃねぇよ」
吐き捨てるように隆顕は言った。友人は醒めた目で、それを見ている。
「そんなんじゃねぇよ」
もう1度、言った。
6人中4位になった美海と群衆の中での隆顕とが溜め息をつく目前で、何組目かにスタートした厚子が、スパンとテープを切った。
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