Act 4 (離別)
3.
喫茶コーナーから手を振ってくる博也を見た時。
それまで何ということもなく“写真家の人”と認識していた2人の意識は、「ゴンドワナ」を観た30分の間に、いきなり“凄い写真家の人”という尊敬の念に変わっていた。
しかも感化されやすい厚子などは、自分も写真をしてみようかななどと言い出す始末である。
「だってこの美海が、あんなに綺麗に風景と一体化しちゃってるんだもの、伊藤さんの腕は凄いですよぉ」
美海にとっては踏んだり蹴ったりな言われようである。だがあえて否定はしなかった。自分でもそう思うのだ。
当の博也は、謙遜して苦笑いした。
「いや、僕はただ少し性能の良いカメラを持ってただけだよ。逆に、美海ちゃんの笑った顔が草原とマッチして、僕にシャッターを押せと言ってくれたから」
「言ったの、美海?」
「言ってない、言ってない」
伊藤の比喩を真に受けた厚子の問いに、美海はぶんぶんと手を振った。伊藤が笑って、
「僕が自然から良いシーンを貰えるようになったのは、正直、あの写真からだったんだ。人間があんなにも風景と溶け合って存在出来るんだ、って感銘を受けた」
伊藤はコーヒーをはさんだ。
「それまでは壮大な自然を壮大なままに撮る事が出来なくて悩んでたんだけど、そうじゃないんだって気が付いてね。どうせ、たかが人間1人が撮る物なんか、知れている。だから、真っ直ぐ見た所だけを枠に収めよう、って。見回した全部なんて、僕の器に入らないって。思ったんだ」
本当に頼りない喋り方と、本当にそうなのだと思わせる伊藤の口振りに、2人は感銘を受け、溜め息をついた。口で言うのは簡単だが、実行は難しい。そして、それを現実に凄い写真に仕上げるのは、もっと難しい。2人は改めて尊敬の念を新たにした。
博也が今回展示した作品の半分ほどは風景で、半分ほどには人がいた。ポーズを取っている者はおらず、景色の中で、毎日の中で、生きている人々が写し出されていた。
美海は少しだけ、“ゴンドワナ”の意味が分かったような気がした。
「それにしても伊藤さん、ずっとギャラリーにみえたんですか?」
と、厚子が尋ねた。
「うん、なるだけいる様にしてるよ。客の振りしてれば、知らない人も入ってくれるかも知れないし」
「伊藤さん、桜ですか」
ひくっと笑いが引きつる。伊藤が、肩を竦めて笑った。
「見に来てくれた人達に、なるだけ挨拶したいからね。おかげで、君らに会えた」
「あ、いえいえ、どうも。そっか、ギャラリーで福山さんたちと、約束してた訳じゃなかったんですね」
さらりと厚子が言った。美海は、肩を震わせて振り返った。厚子は飄々と茶をすすり、博也を眺めている。血相を変えた美海が彼に話しかけようとしたが、
「それもあるよ。6時に待ち合わせなんだけどね」
これもまた、博也の口からさらりと言ってのけられたため、美海は言葉を失った。
「6時、ですか?」
「うん、夕食を一緒にね」
厚子は美海に良かったね、と言った。美海は困った顔になって、博也を見た。隠し事のない博也の顔が、余計罪悪感をかき立てた。
「それより、どうして“福山さんたち”って、わざわざ言ったの? 千鶴が誰か男といたって言いたかったのかな?」
にやにやする博也に、厚子はどもった。姑息で稚拙な言い回しは、すっかりばれている。厚子は顔の前で、両手を合わせた。
「ごめんなさい、変な言い方しました」
「お兄ちゃんと千鶴さんが、この近くで会ってるのを見かけたんです」
すかさず、美海が言った。博也は分かっているよと言いたげな顔付きで、笑って頷いた。美海は肩の力を抜いた。
再三の失敗をしないために、美海は“何の話だ”と聞きたい衝動を抑えて、言葉を選んだ。
「あたしたち、お兄ちゃんの後を付けたんです、気になって。千鶴さんだって分かってたら……。いえ。……で、お兄ちゃんに見付かって、怒られまして……当然だけど。だから、後で会うなら、もう1度謝っておいて頂けませんか?」
厚子が、美海の肩に手を置いた。美海は、自分の視界が揺れているのを感じて、泣かないために目を上げた。
博也は美海が話した以上の事情があるのだろうことを推測したが、ただ黙って頷いた。美海の表情が、少し明るくなった。
博也はコーヒーを1口含んでから、
「美海ちゃん、前に千鶴から聞いたと思うけど」
と、身を乗り出して、机に肘を突いた。ティーカップを口に運ぶ美海の手が止まった。
「僕らと暮らさないか?」
突然話を変えた博也の言葉に、美海の目がさまよった。
しばらく訪れた沈黙に驚いたのは、厚子だった。彼女もこの話は美海に聞いて知っていたのだが、美海が否と即答すると思っていたのだ。
「美海」
否定の返事を即す厚子に、美海は戸惑いの表情を見せた。何とも言いようのない、淀んだ不安が美海の心に積もっている。祖父を信じようと思ったが、千鶴の言葉は真実である、と何より洵が言った。
福山の姓になっても、厚子と友達でいることは出来る。洵と、兄妹じゃなくなることが、出来る。
「あたし。……すみません。……もう、少し。もうちょっとだけ、考えたいんです」
「そうだね」
博也はコーヒーを飲み干して、じゃあ、とギャラリーに戻るべく立ち上がった。2人は立ち上がってそれを見送り、再び腰を落ち着けた。厚子が、美海の向かいに回った。
その沈んだ顔を見て。
厚子は、美海の揺れる気持ちをおぼろげに察して、何も聞かなかった。
多分。
過去の自分を全て変えてしまいたいのだ、美海は。と厚子は考える。
草原の中で笑う、15歳の美海。
あのくったくのない自分にもう1度なれるかも知れない、などという幼稚な期待を、美海はそれでも切に望むのだ。そしてそれを与えてくれるのが“福山”の姓であるような錯覚を憶えるのである。
「美海」
「?」
心配をかけまいとしたのか、美海はなるだけ、きょとんとした表情を作って見せた。その仕草に、つい厚子は顔をほころばせるのだった。
「いつか、あのゴンドワナに行こう」
「ゴンドワナ?」
「うん」
厚子は、微笑んで頷いた。
「場所はどこでも良いのよ。公園だろうが外国だろうが、ここぞ“ゴンドワナ”! って思える所。そんな風景、見付けよう」
厚子が見せるカラリとした笑みに、美海の口の端がゆるんだ。彼女の気遣いが、嬉しかった。
「何年かかるかも、知れないよ」
「良いさぁ。それこそ探しがいがあるじゃん」
「そして2人、おばさんになっても旅行しまくったり」
「世界を渡るおばさん2人、って、何か凄いよね」
2人は笑い、40歳になってもなお、エジプト辺りをうろうろしている自分たちの姿を想像して、さらに大笑いした。
◇
だがその日から、洵は戻らなかった。
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