Act 4 (離別)

 1.



 歩道橋を渡り終える辺りで、厚子は、あれ? と呟いた。
「どうしたの?」
 厚子は口に手を当てて、目を凝らしていた。彼女が立ち止まったため、美海も足を止めて振り向いた。その髪を風が撫でた。空の雲は、羊の群れになりかけている。良い天気の休日になった。なのに美海の心中には、夏の時とは違った迷いが漂っていた。まだ、千鶴への返答をしていないのだ。
 厚子が言った。
「いや……今、洵さんが女の人と歩いてる様に見えて」
「え? どこ? 分かんないよ」
「確かに見えたわ」
 推測が、いきなり確定に変わっている。厚子がこう言い切る時、大抵美海は引っ張り回されることになる。
「行くわよ」
 ああ、やっぱり。
「行くぞ、ってそっちはギャラリーじゃないよ」
 と言いながらも、美海もやはり“女の人”が気になり、足はそちらに向いていた。
 自分が“福山美海”になろうとしていることと同様に、洵もまた、何かをしようとしているのだろうか? と思った。祖父とも兄とも、あれ以来、その件について話をしていない。祖父は美海らを実験台にしない、と言うことで話を終わらせたつもりでいる。兄も、後は美海が自分で決めることだ、としている。それ以上の会話を望むべくもない。俺はこうしてここに在る、と言った兄。しかしそれは、いつまでなのだろう?
「馬鹿ねぇ、あんた。写真展は逃げないけど、洵さんは逃げるのよ。気付かれないように近付いて、相手の女の顔見なきゃ」
 美海は苦笑した。だが顔とはうらはらに、美海の歩調も段々と厚子に合っていき、いつの間にか2人は競歩よろしく足並みを揃えていた。最初は冗談まじりの笑顔だったものが、血相が変わりつつある。前方にちらりと見えた男性の後ろ姿が、間違いなく洵であると確信出来たからだ。
 なのに肝心の相手の顔は、すっと喫茶店の扉に隠れ、見えなかったのだった。厚子が思わず舌打ちし、美海も眉をひそめた。2人の影が喫茶店に吸い込まれた。厚子と美海はサササと店に近付いた。
 何気ない素振りで通り過ぎざま中を覗いて、はっ、と物影に隠れる。探偵さながらであるが、下手な尾行だった。
 あ、何だ、千鶴さんか。と美海が思うのと、席に着きかけた中の洵がテーブルを離れるのは、ほぼ同時だった。
「トイレかな?」
 厚子が呑気に呟く。
 しかし、その方向は出入口だった。美海は、げ、と口をへの字に開けた。
「見付かってるよ……」
「やばいねぇ」
 あくまで呑気な厚子の声が、羨ましいようないらいらするような。美海は、肩を竦めた。
 せめて潔く、正々堂々と謝ろう、と美海は洵の出て来る玄関先に立って、彼を迎えた。厚子もその後ろに立った。
 洵が出て来た。
 2人は、うろたえた。
 洵の顔が、想像以上に怒っていたからだ。
「ごめん、お兄ちゃん。でも、」
「謝る位なら、最初からするな」
 2人共が、洵の声にびくりとなった。
 確かにそうである。やましいと思ったから、開口一番「ごめん」と出て来る。
「ごめんなさい、あたしが美海を引っ張って、洵さんの後を追いました」
 洵が厚子を見た。口をきゅっと紡いだ彼女の表情に、少し洵の声が和らいだ。
「今度から、こんな真似をしなけりゃ良い。もう、良いよ」
 美海は顔を上げた。
「千鶴さんと、何の話?」
「ああ。ちょっとな」
 奥で千鶴も、美海たちの様子を見て動揺しているようだった。美海は、2人の話が研究所の中では話せないことなのだ、と直感した。
「もう行けよ」
 苛立ちを見せて洵が、背を向けかけた。美海も兄の態度に、苛立ちを憶えた。
「何の話よ。あたしは部外者?」
 厚子は、美海の暴言を心配したが、引き止めようとはしなかった。夏の1件以来の美海の、今1つ浮かない原因が祖父にあるのは明確だが、洵とて全く何も知らない訳ではないだろう、とは厚子なりに考えたことである。それを知らぬ存ぜぬで済まされれば、美海でなくとも不安になろう。
 止まって、洵が振り向いた。
 表情に、感情はなかった。
「ああ。部外者だ」
 冷ややかさに、美海の胸が鳴った。
「へぇ。やましいことなんだ」
「み」
 美海、と言いかけたのだろうが、厚子も驚きで声が出なかった。
 洵が何をどうする気なのか、それを聞きたかった。でなければ選択出来ないと思う美海の気持ちを、美海は洵に解って欲しかった。
 しかし、美海は洵の行動ばかりを気にして、彼の気持ちを考えていなかった。理解しようとしていなかった。
 だから。
 美海は洵を、怒らせた。
 バシンッ
 と。
 耳の、すぐそばで。
 頭まで、その振動が響いた。
 破裂音。
 兄から返って来たのは、言葉でも表情でもなかった。
 美海は一瞬、目の前が真っ白になった気がした。
 その直後、彼女は自分がとんでもなく言葉を間違えたことを悟ったが、頬を腫らせてから気付いたのでは、もう遅い。
 洵は何も言わずに、喫茶店の中に戻って行った。千鶴は眉間に皺を寄せているようだったが、今の美海にはよく見えなかった。
「美海」
 厚子のいたわりの言葉と、肩を持ってくれる仕草が美海の涙腺をゆるめてしまい、彼女は左手の平を左頬に当てて、ギャラリーに向け、とぼとぼと歩き出した。
 ぶたれた頬など、痛くない。
 痛いのは、馬鹿な自分の心の方だ。
「失敗しちゃったよ、厚子」
「大丈夫さ」
 そう言ってくれる1つ1つの言葉が更に目をうるませ、涙はもうしばらく引きそうにない。





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