Act 3 (想い出)
4.
翌日土曜日だと思ったら気が抜けたのか、起きてみれば昼だった。窓からの日が高く射し込み、目が覚めたのは、汗ビッショリになったからだった。
祖父の方が家を出るのが早くて良かった、と思いながら、美海はシャワーを浴びるために1階に降りた。
時計は12時を過ぎていた。
「こら、馬鹿たれ」
ドキリとした。洵がリビングから声をかけて来たのである。テレビの音がしていた。食堂を通ると、インスタントの焼きそばの空箱と箸がテーブルにあった。罪悪感より先に美海は、相変わらずの洵の無頓着さに呆れて、謝罪の言葉を出し損なった。
「お前、さぼりおって、ちゃんと明後日は学校に行くんだろうな」
「行くよ」
額の汗を拭いながら、美海が言った。洵は、いかにも「昨日の今日、言ったばかりで」と言いたげな顔付きだった。
美海はふいと顔を逸らして焼きそばの箱を捨て、箸を流しに置くと、風呂場に入った。
裸になり、頭から冷水をかぶる。
美海は小さく悲鳴を上げ、シャワーの温度調整をした。湯になった所で、もう1度体を流した。
「やっぱり夏でも、冷たいわ」
1人ごちた。
長く伸びた髪が、真っ直ぐと腰まで降りている。
その髪。
多分揃えられるだけで、1度も短くしたことがないのでは、と美海は思った。感覚的にと言うよりも、生理的に切りたくないのだ。
美海は頭の中で、洵の髪の長さを測った。もしかすると洵の髪も、腰位まで伸びているのではなかろうか?
この髪も、あの変化と関係があるのだろうか?
「もう」
美海は首を振り髪を掻き上げ、荒っぽく顔を洗うと、勢い良く出ていたシャワーをぐいと止めた。水は未だに美海に、海での姿を思い出させるものだった。
シャワーの音が止んで初めて、美海に兄の声が届いた。
「なぁによ」
「なぁによ、じゃないよ。お客さん。厚ちゃん」
「厚子?」
自分でも、一気に怪訝な口調に変わったことが分かったが、兄は何も言わずにシャワールームの前から立ち去ったらしかった。リビングの扉の閉まる音が、方向から読みとれた。関与しないと言うことらしい。
美海は手早く体を拭き、下着を着け、カットソーとミニフレアのスカートを着込むと、玄関に走った。
「よ」
若干躊躇していたが、いつもと変わりのない笑顔で、大きなショルダーバックを抱えた私服の厚子が、立っていた。
「昔はよく、泊まりっこしたでしょ」
美海は、妙に懐かしいような気分を味わいながら厚子を見つめていた。
しかしつかつかと彼女に詰め寄った美海は、サンダルを履くとおもむろにドアを開け、厚子を玄関の外にゆるく押し出した。
「な。美海」
さすがに厚子も2度目で、多少の仕打ちには慣れたらしい。昨日ほどの驚きもなく厚子は美海を見ていたが、困惑した顔の彼女に、
「お願い。今日は、帰って」
と扉を閉められた日には、とうとう目が吊り上がってしまった。
が、2秒で厚子はフッと自分を取り戻してもう1度、笑顔でゆっくりとチャイムを押したのだった。
ピンポン。
10秒待って、2度目を鳴らす。
ピンポン。
ピンポン、ピンポン。
2分置いて、扉を叩いてみた。
ドンドンドン。ドンドン。
5分たって、彼女の名を呼ぶ。
「おーい! みうみぃ」
「呼んでるぜ」
洵がリビングで、撮りだめしてあった映画の1本を観ながら、その隣りに座る妹に言った。くわえ煙草のため、言葉が分かり難い。
美海は、返答しなかった。
厚子に本当のことが話せなければ、本当の意味での謝罪にならない。と美海は思う。しかし、それこそ昨日の今日で、まだその決心がつかなかった。
生半可に友達でいる気はないのだ。どうせ話すなら、全てを話したい。そこで出て来る結果は白か黒かの、どちらかである。美海は、まだ黒を見たくなかった。
膝に頬杖を突いている妹の横顔を見ていた洵は、
「まぁお前のする事だから、口は出さんつもりだったが。近所迷惑かも知れんとは思わんか?」
と、くいと親指で外を示した。
厚子の声が、住宅地にこだましている。
「みうみー! みうみってば! こら、開けろ! くそみうみーっ!!」
「くそみうみとは何ごとよ」
美海は、うっとおしげに立ち上がった。人の気も知らないで(この場合は、半魚人の気も知らないで、と書くべきか)と言いたげな彼女の顔には、しかし、怒った様な、困った様な、嬉しそうな顔が同居していた。
再度、玄関に向かう。
際限なく大きくなる厚子の声量を1度測ってやろうか、と思いながら、美海はドアを開けた。
あのねぇ近所迷惑でしょう、と言うつもりで。
「あ」
バシャッ!!
「……。バシャ?」
美海が放心し、正気に戻って見る正面には、大魔人さながらに怒った厚子が、バケツを右手に立っていた。あ、隅に置いてあったやつか、と思いながら美海は水浸しになった自分に目を落とし、それからまた、厚子を見た。
「あんたねぇ! あんた、昨日、人がどれだけ心配して、落ち込んで、悲しかったか、分かってんの?! え? あげく、今日は休むしさ。本当にもう、学校に来なくなっちまうのかと思うじゃないよ。今日、お昼、速攻で帰って2分でご飯食べて、これだけの荷物抱えてここまで来るのにねぇ、自転車で20分かかる所を、10分ちょいで着いたのよ! 10分ちょい! ちょっとは、この努力に報いてやっても良いじゃんか。超能力だか何だか知らないけど、1人で勝手にドラマ作って、八つ当たりしてんじゃないわよ、馬鹿! あたしがびびる訳ゃないでしょうが! この厚子さんを、舐めんじゃないよ!」
厚子は美海を睨み付けたまま、ガン、とバケツを地面に叩き付けた。あ、バケツ、と美海は一瞬思ったが、それ所ではない。
美海は眉をひそめ、呟いた。
「……何? 超能力って、厚子」
「前川から聞いたのよ」
口を開けたままの美海は、別の意味で放心し、厚子の言葉をゆっくりと理解した。
厚子は知っているのだ。
知った上で、来てくれている。
「――」
そう、と呟いたつもりの美海の声は、声になってなっていなかった。
その様子を見て厚子も、ようやく美海が持っていた悩みと困惑の大きさに気付き、奥歯を噛み締めた。
手から力が抜け、鞄が落ちた。
その音に、美海が顔を上げた。
厚子は美海に、しがみついた。
「濡れるよ」
「馬鹿」
2人の湿った髪に、残暑の風が気持ち良く吹き込んで来る。
奥では、洵がくわえ煙草のまま、3人前の紅茶を注ぐ所だった。
◇
パジャマ姿でひとしきり騒いだ後、美海は厚子に順を追って話し出した。観念と決心の入り混じった表情で、1つ1つを確かめるように、彼女は言葉にして行った。
臨海学校の事から始まって。
鏡に映った自分の姿。
超能力。
研究の内容。
地下の生物。
10歳の記憶。
兄の事は、伏せた。
厚子は、洵のファンだと自称しているほどである。2人のためを思い、美海は判断した。
全てを話し終えて厚子の表情を確かめた美海は、心が軽くなるのを感じた。厚子が美海に対して嫌悪感を抱いていないことが、分かるからだった。
「こんな話聞くより、洵さんの話で盛り上がってるだけにしといた方が、何ぼか気分が良かったわ」
と厚子は、不満げに麦茶を一口含むのだった。
「でも本当にお兄ちゃんに彼女がいたら、それも気分悪いでしょ、厚子は」
「ああ、パスパス」
大袈裟に手を振って一瞬笑顔を見せたが、テーブルに頬杖を突くと、厚子はまた不機嫌に戻った。
「本当に。爺さんの部屋に行って、殴ってやろうか」
「危ないこと言うんじゃないの。あたしのお祖父ちゃんなんだから。あたしがやるわ」
2人は弾かれた様に大声で笑ってから、その自分たちの音量に慌てて口を紡いだ。洵と六郎に聞かれるかも知れないし、もう眠ったかも知れない者を起こしてしまっても、バツが悪い。
お互いに顔を見合わせ、余韻でくすりと微笑むと、2人は同時に麦茶を飲んだ。
厚子が、肩で息をついた。
「でも本当に、信じられないね。美海が人魚なんて、下手な童話みたい」
美海もそれを聞くと、肩で息をついて苦笑した。
「言ったでしょ。そんな気持ち良いもんじゃないよ」
せめて目が青かったなら、少しは童話の人魚のように見えたのだろうか?
そう美海は思ったが、どう考えてもあの姿が人間に愛されるべき者になる可能性は極めて薄かった。
「あたしね。あの泳いだ時、魚たちが苦しがってる気がしたの。体で、海が汚れてるって感じたの。その時、水面の所で泳いでる人間たちが、あいつらが悪いんだって、思ったのよ……」
「あんたが東京湾泳いでたら、気が狂っただろうね」
どうしてこの子はすんなりと冗談が言えるのだろうと思いながら美海は、わざとずっこけて見せた。
これだけ現実離れした話に順応する厚子の神経の方が、よっぽど人間離れしているとしか考えざるを得ない。
「怪奇小説が趣味の友人を持って、こんなにありがたいと思ったことはなかったわ」
溜め息をつく美海に、
「馬鹿言ってんじゃないわよ、誰が怪奇小説よ」
厚子は抗議する。しかし自分でも、安易に美海の話を信じてしまったなと感じていることは、素直に認めていた。
厚子は麦茶を飲み干すと、ゆっくりテーブルに置いた。
「まぁ、ね。前川の話がなかったら、あたしも自分がどう思うか分からなかったけどね。でも、あいつったら凄く真剣な顔でさ、あたしにね、言うんだよ。“あいつ、あんな力を持った事、辛いんだよ”って。“きっと”って。……だからね、信じてるの」
「何を?」
尋ねた美海を一笑に伏して、
「全部に決まってんじゃない」
と言って、厚子は再び笑った。
彼女の笑みによって心が和んでいく自分を感じて、美海はこの友人を持てたことを誰にともなく感謝した。
満面に喜びを示す美海を見て、厚子は自分の言葉に照れたのか、
「もう、寝よう」
と言って、美海のベッドに飛び跳ねた。
美海も、麦茶をテーブルに残したままごそごそとベッドに這い上がり、その端に腰かけた。
「武田厚子さん」
「はい? 何よ」
「昨日は、申し訳ありませんでした」
厚子は肩を落として、力なく笑った。
「いきなり改まって、何言うかと思ったら。良いよ、そんなの」
「それから、」
美海はしかし、なおも言葉を続け、今度はちゃんとベッドの上に正座をして厚子に向かって一礼した。
「こんな私ですが、これからも宜しくお願いします」
そんな彼女を、厚子は妹でも眺める様な顔付きになり、寝ていた体を起こして正座したのだった。
「こちらこそ。お世話になります」
2人は顔を見合わせ、また笑った。
完全に寝る体勢を整えてから、美海は腕を伸ばして電気を消した。
「明日は、一緒に喫茶店に行こう」
厚子の声がした。
「うん。ありがとう」
「あいつが何を言うつもりか、大体分かったでしょ」
「うん。大体」
「……良い奴だよ。あいつ」
「……うん。そうみたいだね」
目が徐々に闇に慣れて来て、天井が白く浮き出てくるのを、2人は眺めた。美海が首を動かすと、もう厚子の顔が見えた。
「ねぇ。厚子」
彼女も首を動かし、目が合った。美海は天井を見た。枕の擦れる音が、耳の奥に響いた。
「あたし、人間だよね」
布団の擦れる音がして、美海の肩をポンポンと叩く手が、やけに暖かく感じられた。
それは、ブランコから飛び降りて近付いてきた彼女が自分の名を名乗って美海の肩を叩いた、あの時のままのものだった。
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