Act 3 (想い出)

 3.



「あれ、あまり辛くない……」
 呟いた洵を、美海が睨み付けた。六郎は黙ってそれを口に運んでいるが、1口ごとにさり気なく水が減っていたりする。
 美海が祖父のコップにピッチャーで水を注いでやりながら、
「お兄ちゃんの好みに合わせてたら、たまんないわよ。自分のにだけ、一味でもかけたら?」
 と嫌味のつもりで言ったのだが、
「あ、それ良いな」
 本当に一味唐辛子を取りに行く兄に、美海はずっこけるしかなかった。六郎はひたすらカレーと水を口に運んでいる。サラダは、最後のお楽しみらしい。
 日頃からあまり食卓に会話のない彼らが、ひときわ閉口する洵の傑作を囲んで、その日、さらに異様な空気が流れていた。
 あるいは自分が人間でないと言う意識が、日常生活を営む邪魔をするのかも知れない、と美海は思った。
 ――今日、厚子を傷付けたことによって。
 これから、どんどん事態は引っ込みが付かなくなって行くのだろう。きっと。
 いつ実験台にされるか知れない思いを持ちながら、その危険のある所で、普通に暮らせなどしない。
 兄でさえ、千鶴たちの申し出を美海に勧めたのだ。多分、洵自身がそうであるがゆえに。
 美海は、スプーンを置いた。
 その音にふと2人が目を上げ、美海が膝の上に手を置いて改まるのを、六郎は不思議に思い、洵はギクリとした。
 洵の言葉は、間に合わなかった。
「お祖父ちゃん。お兄ちゃんて、試験管を出された時からもう体がおかしかったの?」
 六郎は、ぐっと詰まって咳をした。唐突な切り出しだったかと思い、美海は耳の後ろを掻いた。
「ごめんなさい」
「知ってたのか」
 こくりと頷く。
 六郎は洵を見て、洵は、バツが悪そうに美海を見た。
 美海は黙って臨海学校に行ってすまなかったと謝り、兄が共犯だとは言わなかった。あらましは、兄を問いつめて聞き出したのだ、と語った。
「お兄ちゃんも研究所の人だからね、何か知ってるはずだと思ったの。お兄ちゃん自身まで、そうだとは思わなかったけど」
 美海はうつむき、消え入るようにして言葉を切った。筋は通っているはずだ、と美海はドキドキしながら六郎を見た。兄と千鶴の言動を伏せた方が良い気がして、そうした。兄は困った顔を作っているようだったが、何も言わなかった。
 だが六郎は予想以上に打撃を受けたらしく、美海の言葉に疑問を持つ余裕もないほど声を出せず、目をさまよわせていた。
 しばらくして、弾ける様に彼は動き、手を振ったが、開いた口からは溜息が洩れただけだった。
「……そうだな。行くなと言われれば、行きたくなるものだ。……何にせよ、無事で良かった」
 美海をぶつために振り上げた手を下ろし、苦い顔でそれだけを言うと、彼はスプーンを握ったまま先に水を飲み、それからおもむろに残りのカレーを食べ始めた。かき込むように。
「実験体であるあたしは、検査とかされたりするんだよね」
「美海」
 咎める様に洵が声を上げ、美海は肩を震わせた。
 六郎は、サラダを残して立ち上がった。いたたまれなくなってのことである。
 目に力を込めて洵を睨み付けてから美海は、立ち去ろうとした六郎を呼び止めた。
「お祖父ちゃん」
 彼は振り向かない。洵が再び声を上げるが、美海は聞かなかった。
「美海」
「学会に発表したりとか、」
「せん」
 それだけをポツリと言い、また六郎は歩き出した。
 美海も立ち上がった。腕を掴まれた。追うな、と咎める洵の顔に、美海はふいに泣きたい衝動に駆られた。
「お祖父ちゃん!」
 六郎が食卓のノブに手をかけたまま、止まった。美海が腕を引っ張られる感覚にそっちを見ると、困った様な洵の顔があった。
 きっと自分は、あの晩洵が言った意味を全く理解していない。
 自分を卑下するように、言い訳するように美海はそう思った。厚子への言動が既に間違いだった自覚はある、今ここでこんな話をするのもきっと間違いなのだ。
 だが、今しかない気も、していた。
 美海は、口を開いて声を出す直前まで、その言葉を問いかけることを、迷っていた。
「教えて。あたしとお兄ちゃん、本当の兄妹なの?」
 美海の腕から、洵の手が離れた。
 奇妙な空間があった。
 六郎が顔を上げ、振り向いた。いかつい顔には驚きなどなく、また、今まで笑顔を見た事もなかったし今でも笑顔ではないのだが――六郎の顔が、優しく見えた。
 慈しむ目だった。
 同時に、悲しげでもあった。
 その彼の目はそのまま洵にも向いていたのだが、洵は六郎を見ていなかった。六郎は、もう1度美海に視線を戻した。
「そうだ」
 そう言うと食卓を出て、書斎に向けて廊下を出て行った。
 嘘だ。
 直感的に美海は思ったが、言葉に出せず、そのまま立ち尽くした。

      ◇

 ふいに、兄の声がした。
「思いっ切り飯をまずくしやがって」
 その声には怒りが含まれていて、美海は洵の顔を見る事が出来なかった。
「座れよ」
 少し声が柔らかくなった。美海は座った。
 洵が黙々と残りを食べ始めるので、美海もおもむろにフォークを掴んでレタスを突き刺した。それを口に入れた所で、洵が言った。
「今日、学校で何かあったのか?」
「……」
「臨海学校の時に、何かあったのか?」
 いちいち鋭い、と苦虫を噛みながら、美海は頷いた。頷いてから、ひょっとして洵も同じ経験があるのではと言うことに気付いた。
「変体した姿を、見られてたのか?」
「……ううん。ガラスを、割ったの。それを見られた」
「そうか」
 しばらく2人は黙々と皿を空ける作業に専念し、気まずい夕食を終えると、お互いに気を落ち着ける為に洵が煙草を、美海がコーヒーを手にした。
 1口飲んで、美海はその冷えたグラスを頬に当てた。洵を見る。彼は灰皿に煙草の灰を丁寧に落としていて、美海を見ていなかった。
「厚子には、さ」
「厚っちゃん?」
 洵は顔を上げ、煙草をくわえた。
「厚子には、もっと良い友達が一緒の方が良いよね。きっと。……あたしのいない方が、良い」
「厚ちゃんに“力”を見られたのか? 違うだろ?」
 洵がそう言う根拠はあった。夏休み中も2人が会うことがあったのだ。
「あたしが鏡割るのを見た子が……。ううん。……厚子が今日、誘ってくれたのを断ったの。用事があるって言って。でも、嘘だってばれた。どうして、って厚子が聞くから、」
 美海は言葉を探すたびに、ずきずきと体中が痛んだ。自分が、かなり眉間に皺を寄せているだろうことは分かっていたが、どうにも直らない。
「“厚子には、関係ない”って……言った」
 ドクン、と心臓が胸の内で響いた。
 洵にどう思われるか、どう言われるかを考えて心苦しいこともあったが、それだけ自分が厚子を傷付けることを言ったのだ、と言う自覚が、自分自身を責めていた。
 洵は最後の煙を吐くと、灰皿に煙草を押し付けた。それは完全には消えず、細い煙をゆるゆると立ち昇らせた。
「お前が落ち込んでる3倍は、厚ちゃんも落ち込んでるんだろうぜ、きっと」
 洵の口調が、逆に全く責めてなどいないように柔らかだったので、それが返って美海の心に突き刺さった。
「付けんでも良い傷を、お前も厚ちゃんも、2重につけることになるんだぜ。ひょっとしたら、驚きもせずに理解者になってくれたかも知れないだろ」
「そんなこと。ある訳ない」
「ないかどうかが、どうして分かる?」
「……」
 黙り込んでうつむく美海を見ながら、洵は2本目を取り出した。ライターの音に美海が顔を上げ、火の着いたばかりの煙草を洵の口からそっと取り上げた。
「お兄ちゃん。1日1本」
「厳しいね」
 洵は苦笑した。すぐに、真顔に戻る。
「何にせよ、言葉の選び方が悪かったな」
「……ん」
「この先、お前がどうして行くつもりか知らんが、そんなじゃ自分が辛いぜ」
「あたし、」
 美海は言いかけたが、言葉を飲み込み、うつむいて目を閉じた。
「何だ?」
 すぐ、目を開く。
「何でもない」
 美海は立ち上がり、皿を片付け始めた。スポンジに洗剤を含ませ、皿の汚れをぬぐう。それを水で流してくれる手があったので、美海はドキリとした。洵が皿を水切り籠に並べてくれるのを間近に見ながら、美海は、六郎に最後に訊ねた自分の台詞を思い出していた。
 洵は何も気にしていない風に、手際良く皿を片付けて行く。
「別れるにしても、仲直りするにしても、厚ちゃんには謝れよ」
「……うん」
 小さく頷き、美海は手を洗って布巾を手に取り、皿の水気を拭き取り始めた。水洗いの終わった洵が、今度はその食器を棚に片付け出す。いつになく親切な、その理由は言うまでもない。
 美海は、言いかけて途中で切った言葉の続きを、心の中で反復した。
 あたし、洵兄さんと暮らせたら、それで良い。


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