Act 3 (想い出)

 2.



 初日は、すぐに放課となる。
 それまでの間ずっと、美海は考えていた。自分の身の振り方を。
 千鶴のもとに行くにしても、やはり六郎と何も話していないことが気にかかった。自分が動いた後、このまま地下の生物たちが静かに生き続けられるかどうかも気にかかった。
 もし、祖父に全てを話したらどうなるだろう。美海は帰り支度をしながら、考えた。
 六郎が自分を実験台にするつもりだ、と本人から聞いた訳ではない。千鶴を疑う訳ではないが、やはり美海はそのことについて直接祖父と話がしたい、と思った。それが、どういう結論を生もうと。
「美海」
 厚子が寄って来る。
 美海は、躊躇した。洵の言葉が浮かんだ。1度思い切り人間を拒絶してみれば良い。
 この場合、拒絶するのはどちらなのだろう? 誰もが真実を知ったら、拒絶されるのは自分の方だ。
「アイスクリームとお好み焼き、どっちが良い?」
 2つ指を立てて笑う厚子にはくったくがなく、それが返って美海の胸を締め付けた。
「ごめんね。……ちょっと、病院に行かなきゃならないの」
「あ」
 厚子の笑顔が、凍り付いた。
 目をさまよわせ、何とか口を開いて「そうか……」と呟く厚子。美海は、それが思ったより深く彼女を傷付ける嘘だったことに、言ってから気付いた。
 が。
「あたしも付いて行くわ」
「え」
「荷物持ち位にしかならないけど。行こう」
 厚子は美海の鞄を掴んで、歩き出すではないか。引っ込みの付かなくなった美海は、彼女と偽りの病院に行くべきか、引き留めるべきかで悩むはめに陥った。
 力強く教室を出る厚子に続いて、のたのたと出かかった所で、美海は肩を掴まれた。
「大杉」
 先に彼に振り返ったのは、厚子の方だった。
「明後日の日曜。2時に、駅前ビルの喫茶店で待ってる」
 厚子は美海の代わりに目を開き、声を上げた。
「付きまとうんじゃないわよ、前川ぁ! ずいぶん強引じゃんか、美海の用事も聞かないで」
「大杉、本当に病院か?」
 驚きも怒りも持たなかった美海の顔が、びくりとこわばった。隆顕の口調は、軽くなかった。
 厚子は、美海に対して目を開いた。
 この場合、そう言ってくれたことは、救いなのだろうか?
 美海はそんな事を考えながら、厚子を見た。能面のような表情の無さに、厚子は美海を疑った。
「美海……?」
 2人の目が合った。
「嘘よ。病院なんかじゃないわ。……どこに行く予定も、ない」
 クラスメートたちの帰る音が、ひときわ美海の耳に響いた。彼らは、彼女らは、いつもと変わらない家路に着く。ある日を境にして人間の悩み以上の悩み、苦しみを持つことはない。今の美海には、羨ましいことだった。
 隆顕や厚子にしたってそうなのだ、と思った。美海のことで悩んでいるかも知れないが、所詮他人のことである。
 あなたたちには、分からない。
 美海はそんな風に思いながら、厚子の、顔を歪めていく様を見ていた。
 美海の背中で、隆顕が言った。
「気にしてるのか?」
 美海の目が少し動き、厚子が隆顕を見た。
「何を?」
「厚子には関係ないわ」
 美海が、氷のように言い放った。
 手の力の抜けた厚子が美海の鞄を落とし、美海は、すかさずそれを拾い上げて歩き出した。放心する厚子の横をすり抜けたが、厚子は動けなかった。
「あたし、そんなに嫌われること、した訳?」
 震える声がやっと紡いだ言葉に、美海は少し止まりかけた。が、何も言わずに立ち去った。人波はすぐに厚子の前から、美海の姿を消した。
 騒ぐ他の者たちは、無関心に通り過ぎて行く。
「武田。お好み焼き、行くか?」
 厚子は、手の甲でぐいと目尻をぬぐい、睨むようにして隆顕を見上げた。

      ◇

 これは罰だな、と思った。
 最悪の嘘と最低の態度で彼女の信頼を裏切り、心を傷付けて、初めて美海は自分の愚かさに気付いた。そして、今さら気付いても遅いのだということを、思い知らされたのだ。取り返しのつかない罪。それを一生悔やむことほど、重い罰もあるまい。
 美海は、誰もいない小さな公園にポツンと取り残されたブランコに、腰をおろした。軽く揺らすと、錆びた乾いた音がした。夕暮れの鈍い光は建物に隠れ、ブランコに影を落とした。
 小学生の、5年の時だ。
 厚子はここで、笑っていた。
「ブランコから飛んだことある? 気持ち良いよ」
 そう言ってジーンズ姿の厚子が、美海の隣りのブランコに足をかけた時を、美海は今でも憶えている。
 昔、このブランコには赤々と夕日が落ちたものだったが、今ではアパートが建って、縮小もされた。
 そのうちひっそりと、なくなって行くのだろうか。そんなことを思いながら帰路に着き、ポストを開けるとカードが入っていた。
“伊藤博也個人展『ゴンドワナ』”
 多分、冬から春にかけて旅行をして来たと聞いた憶えがあったため、その時の写真を選んだのだろう。ギャラリーの開催は9月末。丁度実りの時期である、『ゴンドワナ』の名はなかなか気が利いているかな、少し笑った。ゴンドワナとは、古世代の豊穣の大陸だったとされている。個展にしては、スケールの大きすぎるタイトルかも知れない、と美海は再び笑ってしまった。
 ぜひ来て下さい、とメッセージが付いていた。博也も美海が「福山美海」になる事を望んで、そう書いたかのように、美海には見えた。そして彼女はふと、自分がまだ笑えていることに気付いた。
 溜め息と共にキーを回し、ドアノブを捻ろうとしたら、ガチリと引っかかって扉が開かなかった。
「おいおい」
 開いていたものを、また閉めてしまった訳だ。誰かが帰って来ていたらしい。考えてみれば、夏の夕暮れは7時近い、誰か帰っていてもおかしくない時間である。
 美海は、もう1度キーを回した。
「ただいま」
「お帰り。今日は爺さんも早いってさ。途中で会わなかったか?」
「ううん」
 洵だった。
 台所から声がした。と言うことは、炊事をしているらしい。美海はギクリとした。
 ガスの音がして、鼻をひくつかせると、カレーの臭いがした。つい彼女は、息を呑んだ。
 台所に入って鍋を覗き込むと、激辛にしか見えないカレーがゆっくりと煮立っていた。
「今回は、上手く出来たと思うんだ」
 得意満面でレタスをちぎる兄に、美海はおくらのへたなめこの空袋の本体の行方を尋ねたかったが、あえて聞かなかったのだった。
「お兄ちゃん。……後、あたしがするわ」
「いや、良いよ。たまには」
「眼鏡曇ってるよ」
「おお」
 鍋の世話をしかかった兄が、真っ白になった眼鏡をかけたまま、後ずさりした。美海は黙って蓋を持ち、疑惑のカレーを封印した。
 三角コーナーに山積みになったゴミをゴミ箱に移しかけて、美海はその中に、激辛と名高いルーの空箱を見付けた。
 美海は無言で、鍋に牛乳を足した。


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