Act 3 (想い出)
1.
10歳の時が、1番古い記憶のはずだ。
泣き叫んでいたような気がする。
“戻して”と。
ぽっかりと、体が所在をなくした感覚だった。もの凄く大事なものが、なくなった。そんな感覚を抱えて、泣いていた。
そんな自分を、洵が抱きしめてくれたのだ。大丈夫だから、と。俺がいるから、と。
「美海。これからは、わしがお前の親になる。洵が、お前の、兄だ。分かるか? お兄ちゃんだ」
「お兄、ちゃん」
「そうだよ」
洵が微笑む。
ああ、そうか、と美海は気付いたことがあった。
初めて会った時から、洵の笑みが全く変わっていないのだ。いつも、いつでも見守っていてくれた、慈愛の笑みなのだ。
あの日。
10歳のあの時泣き叫んでいたのを、美海はずっと両親が亡くなった悲しみからだと思っていた。
だが、気付いてしまったのだ、文脈がおかしいことに。思い出してしまったのだ、自分の状況を。
「洵が、お前の、兄だ」
そう言った祖父。育てられていた生き物。異形のキメラ。
あの時着ていたものは、喪服でも何でもなかった。バスタオルと、毛布だ。
そうか。
道理で、明確な記憶が10歳からしかないはずだ。
海に入ったことがある気がした訳だ。
美海は笑うに笑えず、泣くに泣けず、力を抜いて顔を歪めるしかなかった。
何てことはない。
自分は10歳まで、半魚人のまま育ったのだ。
「――っく」
美海は、自分がしゃくりあげる声で、目が覚めた。
◇
9月最初の朝の光は、少し色を変えていた。
もう少ししたら、大分過ごしやすくなるだろう、と考えながら美海は制服姿で坂道を降りて行く。その風の調子や街並みは、夏休みが始まる以前と全く同じに、そして金曜日独特の少し気だるい雰囲気をかもし出しながら、雑踏を運んでいた。
今こうして現実と言う秩序の世界に戻ると、夏の出来事が全て夢のような気さえした。昨日見た夢でさえ、ただの夢と思えて来るのだ。
半魚人、なんて話。
美海はくすと笑みを洩らしながら、角を曲がった。学校は、すぐそこに見えていた。
本当に夢なら。
すぐそこに見えているのに、学校はやけに遠く感じられた。半魚人などとは荒唐無稽でも、超能力の話なら信じる者もいるかも知れないのだ。信じ、恐怖するかも知れないのだ。そうしたら、もうここに来ることは出来ない。
美海の登校は、前川隆顕の言動を見定める意味での登校でもあった。彼が言いふらし皆が恐怖するなら、嫌悪するなら学校を去るつもりだった。
彼が黙っているようなら。もしくは受け入れてくれる人間が1人でもいれば……。
「おはよう、美海。何か久しぶりだねぇ」
ポンと肩を叩かれ、美海は“受け入れてくれる”であろう人物に振り返った。
「おはよう……そうだっけ?」
美海は夏休み中を振り返り、あまり誰とも会わなかったことを思い出した。会わないようにしていたのだ。
「ごめん」
おざなりに言う美海の言葉と、厚子の声が重なった。
「臨海学校からこっち、調子悪そうじゃん。溺れたから? やっぱ、あたしがちゃんと、」
「そうじゃないよ。むしろ、良かったのかも知れないし」
厚子の言葉を遮って洩らした美海の呟きは、校内の喧噪に紛れて、後半がかき消えた。厚子は、
「え?」
と聞き返したが、美海は首を振り、2度目を言わなかった。
「何でもない」
「変だよ、美海。何か、」
苦しんでる。
そう言おうとした所で、また邪魔が入った。今度はチャイムだった。皆がガタガタと自分の席に着きだし、仕方なく厚子も窓際のそこを離れた。
チャイムが鳴り終わると同時に、隆顕が走り込んできた。
美海の視線に気付いた隆顕は、思わず目を逸らしてしまった。それを見て、美海も目を伏せた。
やっぱり、と言う気持ちがあった。ショックは感じなかった。しかし、胸の奥にじわじわと暗いものが溜まるのを、取り除くことは出来なかった。
美海はそのままもう彼を見なかったから、隆顕が意を決して再び彼女を見たことを、知らないでいた。
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